埜比包囲網(4)
「稜花! よくやった!」
楊基の代わりに稜花の元へやって来たのは、兄の李進だった。
「お前には助けられたな。……よし、稜花。後は俺たちに任せて、お前はもう退くんだ」
しかし、思わぬ提案に稜花は顔をしかめる。ふと振り返ると、後ろで支えてくれている楊炎も頷いている。
「でも兄上、敵は退いたわ。武器さえあればまだ戦える」
「いや、十分だ。よくやった。だが、この後は退いた方がいい。今すぐだ。いいな」
「兄上、でもっ」
「くどい」
体に大事はない。なのに、一方的にこんな事を言われるのは納得出来ない。李進は稜花の頭に手を置き、ねぎらうように撫でたけれども、そんなことで気持ちは晴れない。
「この後は、制圧戦だ。正直、女のお前に見せるようなものでもない」
言われて、はっとする。
話には聞いたことがある。籠城戦の後、どれだけ悲惨な状況になるのかは。衝車によって北門はすでに打ち破られている。城壁を取り巻いていた兵たちが一気に城内へなだれ込み、鬨の声とともに悲鳴のようなものが混じり始めていた。
城内の様子を想像し、一瞬、体が硬直した。しかし、戦場に出る覚悟は、もうしているのだ。初陣も終わり、数多くの死にだって向き合ってきた。女だからといって、ここで退くことなど出来ない。
「楊炎、このままこいつを本隊の方まで連れて行ってくれ」
「御意。しかし、若君は」
「俺は大丈夫だ」
稜花の気持ちなど気にもとめていないのだろう。李進と楊炎、二人の間で勝手に話が進められている。
いつの間にか、日は完全に昇っていた。雪が日光に照らし出されて、淡く輝いていた。長時間戦場を駆けてきた。それをまさか、このような形で退場させられるとは思わなかった。
「姫、もう十分です。このままお連れ致します」
「でも」
「参りましょう」
問答無用に引き返す形で、稜花は戦場を後にすることになった。
本来ならば、全力で兄に反論したい。しかし、他の兵の手前、ずっと浮かない顔をしているわけにもいかない。後は任せたと毅然とした態度でいなければ、士気に関わるだろう。
「みんな! 後は頼んだわよ」
「お任せ下さい!」
「稜花様――っ!」
一言声をかけるだけで、面白いくらい周囲が沸き立つ。稜花が退却することに、誰も疑問を感じていないと言うことだろう。勝敗は決したのだ。後は自分たちに任せよということか。
稜花の退却後、無事に埜比は制圧。しかし、王威はあの包囲網をくぐり抜け、逃亡。楊基軍と紫夏軍の一部が後を追ったが、彼の痕跡は見つからなかったらしい。
あれだけの男だ。きっと、今からの波乱をも生き抜いていくのだろう。もしかしたら再び自分たちがやり合う日が来るかもしれない。
王威――そして、彼と対等にやり合った――楊基達とも。
***
「紫夏と陸由が王威を追ったか」
「ああ、見つけたという報告はついぞ上がってこなかったが」
王威さえ居なくなってしまえば、後の制圧は楽だったらしい。埜比の領主は、あっさりと降伏を申し入れた。埜比の城は開放され、領民達にもようやく自由が戻ったらしい。
今は城の一室で、上層部による酒宴が行われているけれども、稜花はなんとなしに気が乗らなくて一人部屋を抜ける。
冷たい風が頬をすり抜け、頭を冷やしてくれるようで落ちつく。この城までたどり着くまでの下町の様子を思い出すと、とても祝杯をあげる気分にはなれない。
制圧が終わり、城壁の内側へ入った瞬間、稜花は絶句した。死体の山を見るのは初めてではないし、戦場に出る以上、恐れるものでもない。覚悟もしていた。
しかし、女子供を交えた、ただの領民が山のように積み上げられている様。順番に火葬される様子とその臭い。そして何より、生きている領民達から投げかけられる明らかなる敵視。
そもそも、王威さえここに来なければ、戦になるような領地ではなかったのだ。彼らは王威についていたわけでもない。
しかし、他領から見ると、この地の民は王威の味方として認識されてしまった。その結果がこの城攻めだ。あり得ないほどの士気の低さは稜花も知っていたが、もともと戦うつもりの無かった民をこれほどまでに犠牲にした事実を知り、戸惑うしかなかった。
戦う意思のない城を攻めた。その事実がのしかかり、王威を退けた手柄など、胸の内からこぼれ落ちてしまった。
あてがわれた部屋に向かったところで、今夜は眠れそうにない。一人、風の当たれる場所はないものかと少し城の中を歩く。
ぼんやりと、松明の炎が揺れている。数名の兵士が見張りをしているようだ。近くの者が稜花の姿を確認し、一礼した。それに返すように、稜花は片手を上げ、抜けていく。
「あ――」
視界の先に見知った姿を発見し、稜花は声をもらした。その男は、真っ直ぐ、回廊を抜け中庭の方へと向かってゆくようだ。松明の炎が照らしているとはいえ、そんなに視界はよろしくない。だから、鈍色の鎧姿はすぐに闇に紛れてしまった。
見逃さぬよう、稜花は彼を追った。彼はそれに気がついているのかもしれない。黙々と歩いて、中庭まで差し掛かり、足を止める。そしてそのまま振り返った。
「どうなされた」
男――楊炎は熱のこもってない声で訊ねた。稜花は返事を返さずに、真っ直ぐ彼を見やる。
「もう夜はふけてしまいました。早くお休みなさらないと、明日に響きましょう」
「そうだけど」
稜花は戸惑った。思わず追ってきてしまったが、特にこれといった用があるわけでもないのだ。
ただ、同じ空間に彼がいるのならば、その隣に自分がいないのはどうも落ち着かない。この戦の中でもずっと一緒に居たのだ。今更別行動しようといっても妙にしっくりこない。
「……今日、色々考えちゃって。眠れそうにないから」
稜花の戸惑いについては、楊炎も知っているはずだ。
城門の内に入ってから、稜花は明らかに気落ちしている。城内の異様な光景に飲み込まれ、領民の責めるような瞳に晒された。李進や李永の声かけにも生返事だったし、表情も晴れない。
今だって返事に言い淀んでしまって、こんなにも心が弱かったものかと苦笑いを浮かべる。
「姫、申し上げておきますが」
「何かしら?」
楊炎の表情が険しくなったような気がする。またお小言かと苦笑しながら、稜花は言葉を待った。
「考えがなさ過ぎでしょう。少なくとも、今は夜。供もつけずに、皆から離れるべきではない。万一と言うこともありましょう」
「でも、楊炎は私に気がついてたようだけど?」
稜花は楊炎の鋭い視線をしっかり見返して、述べた。その言葉に、楊炎は眉を動かしたが、それも一瞬のこと。そのまま頷いて、言葉を続ける。
「確かに。姫が私の後をつけはじめてすぐ、私は貴女のことに気がついた」
「じゃあ、どうしてその時に声をかけてくれなかったの」
さらなる問い掛けに、楊炎は黙り込んだ。長い間。稜花と楊炎はお互いに見つめ合った。
凜とした空気の人影のない中庭。何を考えているか分からない楊炎の片眸。
――だが、稜花は気がついた。
ぞく、と、全身が震えるように心が波打って、瞬時、稜花は後方に飛んだ。
びゅんっ! と、閃光が走り、月明かりが反射する。それをすんででかわし、顔を上げる。
「何を――」
どっと、額に汗が浮かぶ。動揺を隠しきれず、稜花は楊炎を見た。
楊炎はと言うと、他者が持つものよりひとまわり長い刀を一閃に薙いでいた。抜刀してから刀を振ったままの状態で、静止している。
刀が月明かりによって、闇に浮かび上がったように白い。その一本の白線を見、稜花は再び楊炎を見やった。
「なるほど」
楊炎は稜花の言葉を気にする様子もなく、納得するかのように頷いて、静かに刀を鞘に収めた。
突然の攻撃に、戸惑いが隠せない。事実、稜花は彼の主である李公季の妹で、さらに護衛対象だ。冗談だとしても、刃を向けて良い相手ではない。
ただ、楊炎に敵意が無いことだけは分かる。殺気を感じたのは刃を抜いたあの一瞬のみ。今はもう、いつもと変わらぬ無表情を浮かべており、それがなおさら怖かった。
二十日間以上、彼と時間を共にした。王威という恐怖にともに立ち向かった。
彼と接する中で、少しは近づけたかと思っていたのに、それはただの幻想だったのかと打ちのめされる思いがした。
「いきなり、何を」
稜花の質問に返ってくるのは、静かで冷たい視線。そして楊炎は低い声で答えた。
「本当は、少しばかり貴女を傷つけるつもりでいましたが、さすがに鋭い」
「貴方、何を考えてるの?」
稜花の問いかけに、楊炎の瞳が僅かに揺れた。
珍しく表に出てくる戸惑いのような感情を感じ取って、稜花は瞬きをする。突然刃を向けてくるなど、血迷ったのかと思ったのだが、彼なりの葛藤でもあるのだろうか。
楊炎は沈黙とともに、僅かに俯いた。そして絞り出すようにして、言葉を発する。
「……迷いながら戦に向かわれるくらいなら、今のうちに戦えなくなった方が良い。戦場で命を落とされてからだと、もう遅いのです」
「それは……」
そうかもしれないが。
反論したいが、言葉に詰まる。命を落とすよりも、怪我をさせた方が良いとでも言うのだろうか。
しかし、万一そのように考えたとしても、実際に行動に移してしまう楊炎の狂気に戸惑う。
「李公季様がどれほど貴女のことを心配なさっているのか、ご存じか」
「貴方こそ。それを言うなら、こんな馬鹿なこと止めて。これ以上攻撃すれば、立派な反逆罪よ」
「私が咎められるのであればかまわない。元来そういう身です。だが姫、戦場に出るのはこれを最後になされよ」
「それを言って聞くとでも?」
「聞かぬと思ったから行動に出ました」
呆れるようにため息をついて、楊炎は顔を背ける。
「帰らぬ人になるくらいなら、戦場に出られぬ身になった方が良い」
楊炎は瞳を閉じる。ぎゅっと拳を握りしめ、眉間に皺を寄せたまま黙り込んだ。
「正直、本日は肝が冷えました――」
初めて見る楊炎の仕草に、稜花はこれ以上、何も言えなくなってしまった。ただ、彼の不安や後悔のようなものが胸に伝わってきて、稜花も感じ入るように目を閉じる。
――彼なりに、心配してくれたらしい。
その感情を表現するのが、とんでもなく不器用すぎるだけのようだ。
稜花は、どれだけ忠告しようが、咎めようが、目の前に成さねばならないことがあるなら飛び出していってしまう。王威と交えたあの一戦のように。楊炎は昼間の光景を思い出しているのだろうか。
李進から稜花へ。そして稜花から楊基と陸由へ。それだけの武将が繋いでようやく、王威に一矢報いた。李進も稜花も、一歩間違えれば命を失っていた。
結果的に楊基達や楊炎に助けられたが、楊炎の立場としては助けたうちに入らないのかもしれない。稜花が飛び出したのすら止められず、歯がゆい思いをしたであろうことに、ようやく気がついた。
「心配かけたのね。……ごめんなさい」
ようやく楊炎の気持ちが分かった気がして、稜花は頭を下げた。しかし、楊炎は視線を逸らしたままだ。
「前回もそうだった。私は、本当に至りません」
「?」
一瞬、何のことを言っているのか分からなくて、きょとんとした。
前回。すなわち、北方民族の掃討戦のことか。確か、あの後の祝宴にて、彼は李公季に頭を下げていた気がする。約束を守れなかったと、そう告げていた。
表に出さないだけで、彼なりに多くの葛藤を抱えているのだろう。先ほどの一閃の恐怖。それが彼の抱える深い闇からきているとすれば少しは合点がいく。将来の漠然とした恐怖を回避するために、今のうちに傷ついておこうとでも言うのか。
でも、あまりに極端。稜花にとって、そんなのは理解できようもない。ただの、馬鹿の考えだ。
「……あなたは、とんだ臆病者だったのね」
言葉にすると、 胸にすとんと落ちてくる。
何を考えているか一向に分からない、感情の揺さぶりすらないかと思っていた楊炎が。ただ、人が傷つくことを恐れるが故、人を傷つけてしまう不器用な精神を持っている。
随分と人間らしくて、少し、ほっとする。
にこりと笑って、稜花は告げた。
「大丈夫、楊炎。私、大丈夫だから」
おそらく、信用はしてもらえないだろうけれど。この臆病な護衛に、少しでも安心してもらいたい。
自分の気持ちも、言葉も、何度も口にしなければまったく伝わらない護衛だ。一度言ったところで、彼には響かないことくらい知っている。
だからこそ、言わずにはいられない。そして、これから先も何度も伝えようと、稜花は強く思った。
***
「……なんだ。こんなところで、逢い引きか?」
二人して向き合っていたときだった。中庭へと降りる中階段の上から、よく通る声が聞こえた。
「楊基殿」
突然の登場に、思考回路がついて行かない。ぽつりと名前を呼ぶと、楊基は破顔してこちらに歩み寄る。そして面白いものを見るような目つきで楊炎を見据えた。一方で楊炎は、いつぞやのようにぴりと気を張り詰める。
「……ご冗談を」
「そうか。違ったのか」
憮然とした様子で楊炎が否定するも、楊基はさも予定通りと言わんばかりの余裕の笑顔を見せた。そしてそのまま歩み寄り、稜花の手をとる。
一瞬何が起きたのか分からなくて、稜花は目を見開いた。
「ちょっ」
「稜花姫、其方が宴に顔を出さないでどうする」
近寄られると、楊基は強い酒気を帯びていた。どうやら相当酔っているらしい。
「貴方こそ、みんなのところにいないといけないでしょう?」
「その通りだ。だから、姫を連れてはやく戻らねばならぬのだが」
強引に手を引かれ、稜花は焦った。もともと宴に気が乗らなさすぎて逃げてきた身だ。今更戻りたくもないし、このまま酔っ払いの相手をするなど全力で御免被りたい。
先ほどまでの静かな時間が嘘のように、周囲がざわざわとしはじめる。楊基についてきた取り巻き達が楽しげに視線を向けてきて、どうも落ち着かない。
「私は遠慮するわ」
「ふむ。では、私も戻ることが叶わなくなったか。これは皆を困らせることになるな……」
「変な脅しはやめてくれない?」
困惑し、楊炎に視線を投げかける。相変わらずの不機嫌そうな瞳がそこにはあって、二人の間に割って入るように楊炎が身を乗り出した。……稜花の気持ちは、どうやら届いたらしい。
「お戯れはおよし下さい、楊基殿。姫はまだ年若い。あまり酒宴の場には慣れていらっしゃらないのです」
もちろん、大嘘ではあるのだが、年若いのだけは本当だ。普段であれば自ら進んで酒を注ぎに行くところだが、このまま勘違いして貰った方が都合が良さそうだ。
「楊炎の言う通りよ。だから今日はもう失礼しようかと思ってて」
「かまわぬではないか。其方の父の許可は得た」
――父上っ!!!
心の奥で大説教をしておく。
確かに、剛胆な父のことだ。酒が入っているときに、楊基に声をかけられたらほいほいと了承しそうだ。どうやら楊基と交流を持つため、便利な道具として利用されたらしい。心の奥底で絶望する。
「……少しだけだから」
こうして稜花は、楊基に連れられるまま、宴の会場へと戻ることになったのである。父、李永。許すまじ。




