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死に場所

作者: 大西啓太

オサムは今年で三十二歳。アパートを借りて一人暮らしをしていた。大学を中退した後にデパートで納品の仕事をしていたが、職になじめず二,三ヶ月で辞めてその後職を転々としながら生活を続けていた。

彼は人生に絶望を感じて毎日その日暮らしをすることにうんざりしていた。

「もうこんな生活から抜け出そう。今までのおれの人生に、なんか良いことが一つでもあったか?このボロアパートも引き払っていっそのこと自殺でもするか...」オサムはそう思ってとりあえず部屋から出て行った。

一歩表に出てみるとよく晴れた、暖かくて気持ちのいい日ではあった。ちょうど桜の花が開き始めて、死ぬには惜しい程だった。オサムは先ず郵便局へ行き、僅かながらの貯金を全額下ろすことにした。

「どうせ死ぬならパッとやらなきゃな」オサムはなけなしの貯金を財布の中へ詰めて、近くにあるパチンコの店に入って行った。店の中は平日で、まだ開店直後ということもあり、ガラガラの状態だった。オサムは早速、パチンコ台を物色しはじめた。そして当たりそうな台を見つけるとその前に腰かけた。

しかし、いくら打っても当たりがこない。

「クソッ、やっぱりツイてねえな。こりゃダメだ。諦めよう」オサムは結局何も出ないまま店を後にした。今のパチンコで三万円ほどスッてしまった。

ふと時計を見ると十一時を少しまわったぐらいだった。「しょうがない、電車にでも乗っtてどっかに行くか」

オサムは所持金を確認しながら駅のホー

ムへと向かった。行き先は決まっていた。学生の時によく一人でブラブラしていた渋谷まで行ってみようと考えていた。あの頃は特に楽しかった訳でもないが、気楽なもんだった。ま、人生最後の思い出の場所として、今行ってみるのも悪くないな。そう頭でつぶやきながら、電車を待つことにした。

駅のホームはラッシュアワーも過ぎて落ち着いていた。オサムが空に目をやると、そこには雲一つない燦々と輝く太陽があり、日光で目がクラクtラしそうだった。

「ああ、おれはこんな日に死のうと思っているのか」オサムは虚しさで胸が詰まりそうだった。

間もなくして、駅のアナウンスが電車が来ることを告げた。オサムはホームの前の方へと少しずつ歩き始めた。頭の中では電車に飛び込む姿が一瞬駆け巡る。電車が近づいて来ると、ホームと線路の間ギリギリのところまで行っていた。が、電車から発せられた警笛の音でハッと我に返り、そのまま立ち尽くしている頃には電車が到着した。オサムは何事もなかったかのように電車に乗り込んだ。

電車の中はそれほど混んではたなく、オサムは空いている席に座った。まぶしい日の光が車内に差し込んできて、オサムは思わずウトウトと目をつむった。頭の中では今まで自分の身に降りかかってきたさまざまな出来事が駆け巡っていた。

オサムは一人っ子で両親はとうの昔に離婚し、母親に引き取られて女手一つで育てられた。オサムが大学に入学して喜んだのも束の間、病気がちだった母親はオサムが大学に在学中にあっけなく他界してしまった。オサムは自分一人では学費が払えなくなり、やむ無く中退した。それ以来オサムは人と接するのが苦手になり、仕事に就いてからも職場の同僚や上司とささいなことでケンカをしては仕事を辞めて、それを延々と繰り返してきた。オサムは目をつむりながら、おれの人生って一体なんだったんだろうと考えて、目頭が熱くなるのを感じた。

やがて電車は終点の渋谷に着いた。オサムは電車から降りて改札を出ると、どこへ行こうものかと思案した。まあ、いいや、とりあえずそこらをブラブラ歩いていこう。オサムは駅の階段を降りて街中へと繰り出した。相変わらず雲一つない良い天気で、本来ならば気持ちが高揚してもおかしくないのに、オサムの心の中はどんよりしていた。

オサムは交差点で信号待ちをして、目の前を走って行く自動車を眺めていた。今ここでおれが車に轢かれたら、とオサムは考える。しかし道路は混雑しているし、たとえ轢かれても助かる確率の方が大きいな、とオサムは思い直している内に、信号が赤から青に変わったオサムはトボトボと歩き始めた。

オサムが歩いているといやがおうでも人の目が気になった。それほど通りに人がいる訳でもないからなおさらだった。どっかの本屋にでも入ろうかな、そう思って近くのビルにある本屋へと足を運んだ。中に入ってそこを見渡すと、オサムは思わず目を見張った。都会の本屋にあまり慣れて無かったせいか、そこは広々として本の数も豊富に取り揃っているように感じたからだ。オサムは小さい頃から本を読むのが大好きで、口数もその分あまり多い方ではなく、そのため学校の同級生たちからはいつも敬遠されていた 。オサムの唯一の親友は本である、と言ってもおかしくなかった。

オサムが本を物色していると、一冊の本が目に止まった。表紙にはメガネをかけた背広姿の男の写真が写っておr、タイトルを見ると、「夢の書、わが教育」と書かれていた。オサムはこれでも買って行くか、と思って本を手に取るとレジへ向った。そこで支払いを済ませると、そのまま店を後にした。

いい天気だし、公園にでも行ってベンチに腰掛けよう、オサムは思って再びトボトボ歩き始めた。オサムはNHKのスタジオがすぐ近くにある公園でベンチを見つけてそこの座った。そこは休日になると若者たちがたむろして、バンドの練習をしたりラジカセをかけながら躍ったりして賑やかになるのだが、今日は平日だということもあり、穏やかなものだった。その辺を歩いているのは爺さん婆さんか、小さな子供を連れた若い母親の姿が目立った。

オサムは座りながらたった今買ったばかりの本に目をやった。それから表紙を開いて読んでみることにした。その本の内容は作者であるバロウズという老作家がこれまで見てきた夢について延々と述べているもので、非常に内省的なものだった。今死のうと考えているおれにとってはふさわしいものだな、オサムは思って読み続けた。

しばらくそのまま座っていると、近くに小さな女の子がやって来て、その女の子がオサムが座っているベンチのすぐ隣にいきなりチョコンと座った。その女の子はどう見ても小学校に入学する前ぐらいのまだ幼く可愛らしい子供だった。オサムは訝しげに辺りを見回してもその子の母親らしい姿がうかがえない。オサムはしばらくその場で本を読んでいるフリをしていたが、いつまで経っても女の子は座ったまま動こうとはしなかった。

オサムはそのままジッとしている女の子の姿に耐え切れなくなり、話しかけた。

「ねえ、お母さんはどうしたの?」

「お母さんいないの・・・」女の子は小さな声でボソッと言った。

「いないの?お嬢ちゃんいくつ?」

「五歳・・・」

「じゃあ、幼稚園だね。来年は小学校に行くんでしょ?」

「ううん、いかない」女の子は今にも泣き出すのではないかというぐらい悲しげな声だった。オサムは心配になってきた。

「なあ、おじちゃんは別に怒っているんじゃないからさ、本当にお母さんはいないのかい。じゃあ、お父さんは?」

「お父さん死んじゃった」

オサムはもう訳が分からなくなってきた。こんな小さな女の子が一人でいること自体おかしなことなのに、この女の子と話しているとますますおかしな気分になってきた。オサムは辺りを見渡しながら途方にくれた。すると突然、ベンチの後ろから若い女の声がした。

「ああ、やっぱりここだったんだ。この子ったらしょうがないわねえ」

オサムが振り向くとそこには髪の毛が長く、目がぱっちりとしたきれいな女が立っていた。

「この子のお母さんですか?」オサムが尋ねると、女は笑いながら答えた。

「ごめんなさい、この子何かご迷惑かけたかしら」

「いや、迷惑ってほどのもんじゃないですけど、お父さんもお母さんもいないって言うもんだから変だなって思って・・・」

「あらまあ、そんなこと言っていたんですか?どうもすみません。さあ、行くわよ」女が子供の手を取って行こうとした。女の子はオサムの方を見て手を振った。オサムはそのまま見送ったが、突然ある想いが脳裏をかけめぐり、二人の後を追って声をかけた。

「すいません、あの・・・、もうそろそろお昼だし、良かったら一緒にどこかでなんか食べませんか?」オサムはそう言った後に、しまった、何を考えているんだよおれは、と考えて頭の中が真っ白になった。オサムは顔が赤くなるのを感じた。

女は一瞬ビックリしたようだったが、やがて女の子の方に目をやってこう言った。

「そうねえ、ちょうどこの子にも何か食べさせようと思っていたし、この子も一緒について行ってもいいのなら」

オサムは女からの意外な返事に戸惑いながらも女の子に話しかけた。

「どうだい、おじちゃんとお母さんと一緒にハンバーガーでも食べようか」女の子は無表情のままコックリと頷いた。三人は歩いて近くにあるファーストフードの店に入って行った。オサムはハンバーガーのセットを三人前に、コーヒーを2つにオレンジジュースを1つ注文した。店員からお席でお待ちください、と言われたので、三人一緒に席に着いた。

女の子は相変わらず無表情でおとなしくしていたが、母親は娘のことが可愛くて仕方がないように、娘の頭を愛撫してやった。オサムはとりあえず話をしてみることにした。

「この子の名前は何て言うんですか?」

「ミサトです。来年には小学生になるんですけど・・・」

「さっきこの子から聞いたらあまり学校には行きたがっていなかったみたいで何だか・・・」

「ええ、いろいろと事情がありましてね」

「お待たせいたしました」店員がトレーに載ったハンバーガーを運んできた。

「さあ、ミサトちゃん食べようか。おじちゃんに構わないでどんどん食べてね」オサムは言った。女の子は何も言わず、ポテトから口にした。

「どうもすみません。さあ、それじゃあいただきましょうか」女が言った。

三人はしばらく黙々と食べていたが、オサムが再び女に尋ねた。

「さっき何か事情があるって言ってたけど、この子のお父さんって本当に死んでしまったの?」

女は思わず吹き出しそうになった。

「この子ったらそんなこと言ってたんですか?ホントしょうのない子ねえ」

「死んではいない?」

「あの、実はあたしこの子と二人きりで住んでいて・・・、つまりバツイチなの」

「前のダンナさんはどうしたの?」

「知らないわ。前のダンナからこの子も一緒にすごい暴力振るわれて、そのままあたしが離婚届をダンナに突きつけて、それっきり別れたの」

「それで養育費とかは?ちゃんと支払ってもらっているんでしょう?」

「もうそれどころじゃないぐらい暴力が酷くって。あの人から逃げ出すことしか考えられなかったから何も貰ってないし、今はあの人がどこで何をやっているのかも分からない状態なの」

「それで生活していけるんですか?女手一つで育てるって大変でしょう」

オサムがそう言うと女の目つきが少し変わったことにオサムは気がついた。

「ええ、もちろんよ。だけどあのダンナと一緒にいるよりはずっと気が楽に感じるの」

「だけどなあ、こんなに可愛い子供がいるのに・・・」可哀そうだと言おうとしたがオサムは何も言えなかった。

すると女は突然パッと表情が明るくなって、今度はオサムの方にまくしたてるように話しかけた。

「ねえ、さっきからあたしたちのことばかり聞いているけど、あたしもあなたのこと聞いてもいい?」

オサムは女からあなたと呼ばれて胸が高鳴った。

「ああ、別に構わないけど・・・」

女が口を開こうとすると、ミサトが女の手を引っ張った。

「母ちゃん、オシッコ」

女は笑いながらオサムの方に言った。

「ごめんなさい、すぐに戻ってくるからしばらく待っていただけます?」

女はミサトの手を握ってトイレの方に向かった。用を済ませると二人とも席に着いた。オサムはミサトに話しかけた。

「ミサトちゃん、ごめんね。もう少し疲れてきたかな。そろそろ出ようか?」

女はそれを聞くと、寂しそうな顔をした。が、すぐに気を取り戻したかのように明るい声で言った。

「そうね、ご馳走になったし、そろそろ出ましょうか」

三人は席を立って外へ出た。オサムは女と娘に別れを告げようとしたが、女の口からまたしても意外な言葉が飛び出した。

「あの、これからこの子と買い物をしていこうと思ったんですけど、良かったらあなたも一緒に来てくれませんか」

オサムは驚いて何と答えればいいか戸惑った。しかしこの二人だけより男が一緒の方が安全かもしれないと思い、「いいですよ」と、知らず知らずの内に答えていた。

三人はデパートにある食料品売り場へと足を運んだ。女はミサトの手をひいて買い物なれした様子でどんどん買っていった。しかし、オサムがよく観察していると女は他の品物より少しでも安いものを選びながら買い物をしているのがよく分かった。オサムは何も言わなかったが、女の方がオサムが感じたことに気がついたかのように言った。

「少しでも安くていい物を買うことにしているの。この子のためにもその方がいいしね」

オサムは黙っていたが、次第にこの女にも娘に対しても何とも言えない情のようなものを感じてきた。女は買い物を終えて荷物を抱えながらオサムに言った。

「ねえ、良かったらウチまで来ない?おごってくれたお礼もしたいし」

オサムはそう言われても、もう驚かなくなっていた。むしろこの女とズルズル行くところまで行きたいと思い始めていた。オサムは女と歩いて娘と一緒に生活しているというマンションまで行った。オサムが思い描いていたほど汚いようなところではなく、立派なマンションだった。三人は並んでエレベーターに乗り込んで、女の部屋までたどりついた。部屋の表札にはフジワラミユキと書いてあって。ははあ、この女はフジワラミユキというのか、オサムは心の中でつぶやいた。

部屋の中に入ると小綺麗な感じで、親子二人で生活するには決して狭くなく広々としたところだった。ミユキが買い物袋を台所にあるテ―ブルの上に置くと、眠たそうにしているミサトを寝かしてやることにした。その間、オサムは窓から外を眺めてどうしてこうなったのか考えた。おれはもう死ぬつもりじゃなかったのか?それがどこでどう間違ったのか、おれは若くて美人な母親とその娘と一緒の部屋にいる。これは夢なのか?それとも・・・。

「ごめんなさい。やっとあの子寝付いてくれたわ。座って、お茶でもいれるから」

オサムは居間にある座布団の上にあぐらをかいて座った。しばらくしてミユキが湯呑みを二つに急須を持ってオサムの目の前に座り、お茶をいれてくれた。オサムは礼を言うとお茶をすすった。

「あの、さっきあなたのこと聞こうとして何も聞けなかったじゃない。だから・・・、今よかったらあなたのこと、聞かせてくれない?」

「いいけど、得するようなことは何もないよ」

「いいの、聞かせて」

オサムは自分がこれまで経験してきたことをミユキにすべて話して聞かせた。そして今日、なぜ自分があの公園のベンチに座っていた訳も、帰るべき場所がないこともすべて白状した。それからすべて。ミユキに話し終えた時、オサムはなぜか清々した気分になった。これまで誰にも打ち明けることができなかったことが、今この美しい女の目の前で話せたことが誇らしい程に感じられた。これでもう思いのこすことは何もない・・・。

ミユキは聞き終えるとオサムに言った。

「じゃあ、今は本当に何もない状態なのね」

「ああ、恥ずかしいけどそういう訳だよ。おれが死んでも誰も悲しまないし、これからはホ―ムレスにでもなってノタレ死ぬかも知れないな。ごめん、こんな所までズルズルとついて来て。おれもそろそろ失礼しなくちゃ」オサムが立ち上がろうとした瞬間、ミユキの手が伸びてきた。

「待って。あなたどうせ帰る所ないんでしょ。だったらあたしたちのこの部屋に泊まっていきなさいよ。もうすぐ夕食の準備もする時間だし、あの子もその方が喜ぶわ」

オサムはこの女に誘惑されているのではないか、と我を忘れそうになった。しかしミユキの言うことはもっともだとも感じたので、その申し出を受けることにした。



ミユキが台所で夕食の支度をして、その傍らにはミサトが甘えながら手伝いをしている姿を見て、オサムはこれじゃまるでテレビドラマの中ね出てくるごく普通の家庭の場面と一緒じゃないか、と思った。結婚している訳でもないのにまるで実の夫婦とその娘に変わりなかった。

やがて準備が整うと三人そろって食べ始めた。オサムは長いこと独り身だったため、女の手料理なんて食べるのは久しぶりだった。何よりミユキが作った料理はみんな美味しく思えて、食べているうちに両目から涙が溢れ出ずにいられなかった。ミユキはそれを見ても何も言わずにどんどんオサムに料理を勧めた。

すべて食べ終わると、ミユキはお風呂を沸かして、先にオサムに入るように言った。オサムは言われるままに洗面所へ行き、顏を洗った。それから着ているものを脱いでから浴室に入った。オサムは先ず汚れたところを軽く石鹸をつけて洗い、それから湯船に浸かった。

湯船に浸かっている間、オサムは彼女が入ってきやしないかと、期待と不安で体が震えそうだった。しかし、なんとか体と頭を洗い終わると浴室から出た。タオルもすでに洗面所に掛かっていたので体を拭いた。オサムはこのタオルで彼女が毎日体を拭いているのか、と思うと次第に興奮してきてどうしょうもなくなった。体の濡れたところはもうとっくに拭き終えたのに、顏だけは何度も何度もタオルに押し付けていた。それから服を着て、なに食わぬ顏で居間に出た。

しかし、ミユキもミサトもそこにはおらず、どこを探しても二人の姿がなかった。

ふと、台所のテ―ブルの上に目をやると、そこには書き置きのようなメモがあるのに気づいた。そこにはミユキが書いたのであろうと思われる字でこんなことが書いてあった。

「ちょっと用事を思い出したので行ってきます。すぐに戻りますから待っていて下さい」

オサムは訝しく思いながらも、タバコが吸いたくなったのでベランダに出て一服しながら待つことにした。やがてカギを開ける音がして二人が帰ってきた。

「ごめんなさい。今夜泊まっていくんだったらその格好じゃ寝るには窮屈だと思ってこれを急いで車に乗って買ってきたの。ハイッ」ミユキは持っていた紙袋をオサムに手渡した。中を開けるとそこには男物のパジャマが入っていた。

「サイズは大体の見当で買ってきたけど、小さすぎなければ我慢して」

オサムは早速着替えてみた。少し大きめだったが、小さすぎるよりはマシだったので、「ありがとう、ここまでしてくれて」と言うと、二人にお風呂を済ましてくるように言った。

「そうね、じゃあミサトもお風呂に入りましょうか」ミユキがそう言うと、二人とも洗面所の中へと消えた。

二人が入浴している間、オサムの気持ちは次第に落ち着いてきた。

「おれが思い描いていたのはこんな家庭じゃなかったのでは・・・」オサムはなんとも言えない気分だった。「おれは今朝までは死にたい気持ちだったのに、今のおれは別人になっている」

二人が入浴を済ましてオサムのいる居間に戻ってきた。ミサトはもうすでに眠たそうな目をしていた。すかさずミユキが娘に声をかけた。

「今日はもう疲れたでしょ。先におやすみなさい」

ミサトはコックリ頷いて寝室へ入った。

そして、オサムはミユキと二人きりになった。

「ミサトちゃんはおとなしい子だね」オサムが話しかけた。

「そうでしょう?おとなしくしてくれるのはいいんだけど、普通の人が見たらおとなしすぎておかしく見えるぐらいで・・・」

「なにかわけでもあるの?あんなにおとなしくしているわけでも・・・」

「さっきも話したけど、前のダンナがあたしだけじゃなくてあの子にも酷い暴力を振るったもんだから、あの子それ以来人の前ではいい子にしていなくちゃって思い込んでいるみたいなの。だからあの子の側にいてあげて、あたしが守ってあげなくちゃって思ったの。普段はこの近くの実家の両親にあの子の面倒をみてもらっているんだけど、それでも今日みたいに平日でも休みをなるべく取れるようにして、あの子の側で一緒にいられる時間を少しでもとれるようにしているのよ。あの子あなたと会ったとき、あのベンチに座っていたでしょう」

「ああ」

「あの子ときどきあそこのベンチに行っては一人でジッとしていることが多いのよ。ダンナと別れてここに来てからずっとあそこへ行ってはボ―ッとしているのよ」

「何かあそこに座るわけは?」

「それが分かれば苦労しないわよ。一度だけあたしとあそこでハトにエサをあげたことはあるけど、それからあそこが気に入ったらしくて友達とも遊ばずに一人で行くのよ。一人でよ!あたしそれを見ていると辛くなっちゃって」

ミユキはそこまで言うとガックリうなだれてしまった。オサムは胸が締め付けられそうになった。

「いいよ、おれがついている。おれがあの子を一緒に守ってもいい」

オサムは自分の言った言葉が信じられなかった。言ってからすぐに、そんなことができるはずがない、と思った。オサムはしばらく心配そうにミユキの側で彼女を見ていた。やがてミユキは顏を上げたかと思うと、彼女の唇を思いっきりオサムの唇に押し付けてきた。オサムびっくりして思わずミユキを押し退けようとしたが、ミユキは決してオサムから離れようとしなかった。

二人はその後、一晩中愛し合った。



その日を境にオサムとミユキとミサトは一緒に暮らすようになった。オサムはそれでもすぐに籍を入れるようなことはしなかった。せめて仕事を見つけて、それからでもいいだろうと思っていたからだ。それにミサトがオサムに本当になついてくれるかどうかも不安だった。

ミユキの両親にも、オサムは会う機会に恵まれた。二人ともオサムの飾らない性格をいたく気に入り、話し合いにも快く応じてくれて。それからミユキの知人の紹介で病院の事務の仕事に就くように勧められた。比較的長続きできそうな職場環境だったので、オサムもやってみることにした。

ミサトは初めのうちは相変わらずおとなしかったが、オサムやミユキの仕事が休みの日になると必ず親子三人で外に出かけた。オサムはミサトの前では決して声を荒立てたり、手を挙げてひっぱたいたりするよおなマネはしなかった。その為ミサトは次第にオサムになついてくるようになり、表情も豊かになって時おり笑顔も見せるようになった。



それから一年後、オサムの仕事も板につくようになり、ミサトも小学生になった頃にはオサムとミユキは正式に籍を入れた。結婚式は二人で話し合った結果、挙げないことにした。

オサムは当初、ミユキとの間に新たに子供を設ける気はしなかった。なぜならミサトことを実の娘のように可愛がっていたため、自分の子供ができるとミサトの面倒がおろそかになりそうだ、と思っていたからだ。しかし、ミユキはオサムの優しい性格を見抜いて信じきっていた。たとえオサムとの間に子供ができても、分け隔てなく可愛がってくれるだろうと思っていた。そのため、毎晩のよおにオサムを求めているおちに、数年後にはミユキは妊娠してしまった。その後、無事にミサトによく似た女の子を出産した。ミサトは自分がお姉さんになったことを無邪気に大喜びして、その妹の面倒も進んで買って出た。それから親子四人で仲良く暮らすことができた。



やがて月日は流れて、オサムとミユキが初めて出会ってから三十五年以上が経過した。ミサトもその妹もすでに嫁ぎ、オサムとミユキは二人きりの悠々自適の生活をしていた。オサムはミユキと出会った頃を思い出しては、おう考えるのであった。

「おれにとっての死に場所は、結局ここだったんだな」


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