おお勇者! 死んでしまうとは情けない
※ 随所に青いスライムで大人気のRPGゲームの用語が出てきます。ご注意ください。
「おいこのサンプル受け取ったの誰だ! 仕様書とくっつけとけあほんだら!」
「借りたかったの青いバインダーのやつだよ~! ぶっといやつ!」
「ナロライズの価格表最新の持ってるの誰だっけ」
「ねーこれから経理に行く人いなーい?」
大宮 葉月が出社して一番に思うこと。
パソコン、見えねーから。
ディスプレイを埋め尽くすように貼られた付箋と資料を眺める。画面に貼るのを禁止されている事実は、皆夜の魔法にかかって見えなくなるらしい。
ま、私も貼るんですけど……。
葉月の一日は、画面に貼られた大量の付箋を分類することから始まる。
向けられた愛のメッセージたちにごめんなさいが出来ない世の中があるなんて知らなかった純真無垢だったころの私は、家から通える距離にある求人だっていう理由だけで、この職場にジャンピング土下座で飛び込んだ。デスクワークだし、パソコン使えるし。そのぐらいの覚悟で飛び込むには、いささか早まりすぎたかもしれない。
深夜帰宅当たり前の環境に身を置いて早幾年。ひのきのぼうと布の服を身に付けた勇者たちは、街から飛び出しては教会へと送られていく。
コーヒーと煙草の匂いが充満しきった部屋の窓を開ける事すら億劫な勇者たちは、既にくさった死体になりかけている。昨日は早めに切り上げられた葉月と違い、この様子だと朝日を拝めなかったくさった死体もいるのだろう。
葉月はそっと窓を開けた。風は強くない。安心してそのまま開けると、天井に吊るされている換気扇の紐を引っ張る。ものすごい音を鳴らしながら、ファンが回り始めた。
――こんな風が強い日に窓開けるなんて、お前馬鹿なの? 書類全部拾って元の場所に戻してこい。
――ここは、学校じゃないんだよね。来たくないなら帰っていいよ。
――俺はお前の親じゃないんだから、そんなこた知らんよ。
「どうした大宮。紐握ったまま二度寝か?」
「いえ、今日もディスプレイと空が青いなーってはっはっはー」
くさった死体から過去に賜ったありがたいお言葉を思い出しては、たまにへこむ。
葉月は青い付箋をペリッと剥がす。くさった死体から取得した経験値があって、今日の私がいる。少しはレベルも上がっているはずだ。画面に貼られた付箋の数が、それを物語っている。
付箋は、誰からのものかが一目でわかるように、部内でカラーを決めている。総勢6人の小さな部署。覚えるのは簡単だった。
目も冴えるような青。これは主任のものだ。
青い付箋を、ノートの今日のページに張り付けていく。
いらなくなった付箋は基本的には捨てる。今日の付箋の中にも、そういったものがあった。
『資料借りた 机の上片づけろ』
葉月は内容を確認すると、一番上の鍵のかかる引き出しを開けた。既に厚みが出ている付箋の束を取り出すと、そこにぺたりと貼り付ける。
いらなくなった付箋は捨てる。けれど、青い付箋だけは必要がなくなったあとも纏め保管している。主任からの愛のメッセージが溜まっていくこの瞬間が、葉月の一日の中で一番幸せなとき。
ま、これが万札の方が嬉しいって思う時もあるんですけどね……。
束になった付箋は、最新のもの以外は持ち帰っている。
一番上は、いつもこれ。
『お疲れさん』
六文字のきったない殴り書き。貰った時は、なんて書かれているかもわからなかった。初めて、彼に認めてもらった仕事が出来た時のものだった。
「今日のリーダーの福安でーす、朝礼入りまーす」
「おはようございます、よろしくお願いしまーす」
同僚の声が聞こえて顔を上げる。その声に導かれた主任もデスクから立ち上がり、ストレッチをしながら朝礼場所へと向かっている。
彼の左手の薬指に鎮座した指輪が、今日も朝日に照らされてキラキラと輝いているだろう。
葉月は慌てて束を一番上の引き出しにしまった。自分の恋心と一緒に。
[ おお勇者! 死んでしまうとは情けない ]
販売店舗の裏側。お客さんからは見えない位置に、葉月の所属する部署はあった。主に商品に関係した事務的な仕事を行うそこは、社長の意向で最近では様々なことに手を広げ、多方面に展開していた。
新しい風を取り入れた部署は、まだまだ皆若い。四十路手前の部長に始まり、ほとんどが三十代のチームだ。その中で、ポツンと若い葉月はまだまだこの部署の中では下っ端中の下っ端だった。
当時はまだ主任ではなかった稲倉 修一は、葉月に対し誰よりも厳しかった。
使い物にならない葉月に鞭を打ち、鞭を打ち、鞭を打ち。誰よりも厳しく指導した。ひのきのぼうすら持っていない素手の勇者を、幾度となく草原へ送り出した。群れを成すスライムどころか、一匹のスライム相手に、勇者ハヅキは何度、返事がないただのしかばねになったかわからない。
けれど、棺桶に入った葉月を教会へ連れて行き、祈りを捧げてくれたのも、やはり稲倉であった。
しごかれた甲斐あって、今では稲倉の一の子分として皆に認められるようになり、大いにこき使われていた。
「しゅっにーん。今日の飲み、志穂さんも誘いましょうよー」
メールを確認していると、今日のリーダーを務めた福安の声が葉月の耳に届いた。この部署で葉月以外の唯一の女性社員だった。
今日は何かと理由をかこつけて月に一度行われる、部署全員での飲み会の日である。
志穂さんとは、葉月が入社する際に辞めた人物だ。と言うよりは、彼女が辞めるから求人が出た。
志穂がこなしていた仕事の大部分を、入れ代わりで入社した葉月が引き継いだ。志穂は退職までの時間を惜しみなく葉月のために使ってくれた。彼女の仕事は丁寧で、葉月がミスをすることはあっても、理解できないことはほとんどなかった。葉月は彼女の作った仕組みの上で仕事を覚えた。
だから葉月は、彼女に感謝をするべきなのである。
けれど、葉月は志穂が得意ではなかった。稲倉とお揃いの指輪を付けている彼女の前では、上手く笑うことが出来ないから。
「あーそりゃ無理だ」
「ありゃ。なんか用事でも?」
葉月はメールボックスを閉じると席を立つ。
「私、物撮り行ってきまーす」
「てらー」
恋人の予定を把握している主任の言葉を聞きたくなくて、葉月はカメラを手に取る。そのまま足早に、階段へと向かった。
店舗が休みの今日中に、物撮りをしてしまいたい。
今日の得物はチェストだ。この商品をスタジオスペースのある五階まで運び、写真を撮るのが今葉月に課せられている仕事である。
件の商品が葉月の胸ほどの高さしかないと事前情報で知っていたため、持ち上げて運ぼうと思っていた葉月は溜息を吐きだした。
重いのは覚悟していたため、何とか持ち上げられることは持ち上げられる。しかし、最近はやりの軽いスライドが売りのチェストは、葉月が少し傾けただけで凄まじい自己主張をもって引き出しが飛び出してくるのだった。
「どうしよ……台車持ってくればよかった……」
台車を取りに行くとなると、エレベーターで一階まで下りて搬入口まで行かなければならない。二階から来た身としては今更感が半端ない。
「だめだめ、これで無茶して商品傷つけるほうがまずいに決まってる……」
いつかの昔に、稲倉に棺桶に詰められたこともあった出来事を思い出し、葉月は首をぷるぷると振った。
少しの手間を惜めば取り返しのつかないことになる。効率は悪いが台車を取りに行こうと踵を返す。すると、丁度よく業務用エレベーターのドアが開いた。葉月は慌てて駆け寄る。
「すみません、乗りま――」
葉月が声を出した瞬間、のっそりと人が出てきた。いや、人と言っていいのか憚られる。エレベーターから出てきたのは、青い梱包材に包まれたまま大きな商品そのものだったからだ。
「おっと、悪い。前見えんくて」
「持ちます」
「すまんすまん」
エレベーターから出てきた人物は、足以外をその大型の商品で隠されていたが、この声を間違えるはずもない。葉月は空いたスペースに手を添えると、稲倉の歩に合わせて進み始める。
「何処までですか」
「社長の娯楽スペース」
「了解です」
また社長、売れそうにないの買ってきたんだな。葉月が大きさの割に大して重くない商品に呆れた視線を寄越した。
社長の娯楽スペースと呼ばれる売れない高級品を集めた場所に商品を置く。しかしショールームでもある店舗には、箔をつかせるためにもこういうスペースが大事なことはよくわかっていた。葉月はお金を貰ったってほしくないような珍妙なディスプレイだって、年にひとつふたつは売れていくのだから不思議だ。
あ。剃り残し。
見上げた稲倉の顎の裏に見つけた、そんなもの。きっと志穂さんは毎日だって見てるんだろう。仕事も恋愛も、まだまだ追いつけない。稲倉の剃り残しを、指摘できる人。
葉月はほの暗い感情に蓋をした。
考えちゃだめだ。気取られてしまう。報われないとわかりきっている社内恋愛なんて、誰だって見たくない。皆に気まずい思いをさせるだけだ。葉月は自分を叱責した。
くさった死体だらけの深夜帰宅上等社だけど。この環境が好きだから。
「大宮は何しようとしてたんだ?」
「あ、台車を――」
取りに行こうと、と続けようとした瞬間、稲倉が大きな声を出した。
「あっ!」
「え?」
「やべっエレベーターに荷物忘れてきた! 台車まだ二つあるんだわ……」
「ええええ」
葉月と稲倉は慌ててエレベーターを振り返った。業務用のエレベーターの口は既に閉まっている。上のランプを見る限り、もうこの階にもいないだろう。今頃、意味不明なオブジェに占領された箱が、人の押すボタンに導かれるまま上下に忙しなく運動していることだろう。
「……大宮ー」
荷の積まれた台車を二つ一度に運び出すのは一人じゃ難しい。特に社長の娯楽品だ。壁にぶつけることは、一度だって許されない。
「高くつきますよ」
「ラーメンじゃだめ?」
可愛らしく小首を傾げる主任に葉月は両手でばってんを作りながら歩き始める。
「この辺りに好きなところないんですーぅ」
「じゃあ今日の帰りにでもちょっと遠出して、お前の好きなところまで行くか」
そういうことを、さぁ。
貴方の指輪を剥ぎ取ってスライムに食べさせたくて堪んない女に、軽々しく言わないで下さいよ。本当。
「――あはは、何言ってるんですか。二次会大好きマンが。冗談ですよ。不肖大宮、メラぐらいは使えるようになったんです。もうスライムぐらいお手の物ですよ。それにその台車、私がもらいますね。丁度必要だったんで」
たかだか、ラーメンごとき。主任には何の意味もない時間かもしれませんけど。
私はきっと、幸せすぎて。麺が固い内に食べきれない。
不毛な片思い相手とのランチと、伸びたラーメン――その心は。
どちらもご遠慮、願いたい。
月一恒例の飲み会は、いつも通り盛大に始まった。今日のこのビールのためにくさった死体になっていた同僚たちが、一気に勇者へと生き返る。トリアエズナマ! の呪文をかけられた店員が、引っ切り無しに厨房と座敷を往復していた。
最後の最後に経理から仕事を頼まれ、出遅れてしまった葉月は走っていつもの居酒屋にやってきた。勝手知ったる店主が、「いつもの席ねー」と葉月を見て声をかけた。
会釈をして襖を開けると、葉月は目敏く視線を動かす。既にビールを煽っている稲本の隣に志穂さんの姿はない。知らず強張っていた葉月の肩の力がすっと抜けた。
「大宮ー! こっち!」
「はーい」
「若いんだからお酌して! 酌!」
「福安さん、もうそんなに顔赤くしちゃって……」
「酔っぱらっちゃった」
「あら可愛い。お持ち帰りされたいんです? ……それとも、もう葉月を可愛がってくれるんです?」
「おーおー! 来い! シーマならいっぱいあるぞ!」
「せめてツナ缶にして!!」
パワハラセクハラと言われそうな行為も、葉月は喜んで受け入れた。
この職場がやっぱり好きだ。
ビールを注ぎながらそう思った葉月の耳に、汚い濁声が届く。
「あれ、今日、稲の愛しの彼女はおらんの?」
やっぱりこの職場嫌い。
葉月はにっこりと微笑んだ。
「あー……がみさん、がみさん」
濁声の坂神の肩を、同僚が叩いた。坂神の肩に手を置いたまま、プルプルと首を横に振る。
酌をするために福安の傍にいた葉月は、体を強張らせた。ビール瓶を持つ手が震える。
え。
えっ?
葉月はそろりと首を動かした。
壁に背を凭れさせた稲倉が、呆れ顔でジョッキをテーブルに置いた。
「好きだよなーそう言う話題」
そういう。
そういう、って――どういう?
「あ! ほんとだ! 指輪外れてる!」
「えっ本当だ。何々みんな知ってたの?」
知らない、知らない。葉月は福安に大慌てで首を振った。
「志穂さん美人だったのにねー」
「主任いくつだっけ」
31ですよ。葉月が心の中で答える。もうお酌どころではない。皆の会話に、入らなければ不自然だとわかっているのに葉月はただビール瓶を持ったまま固まっていた。
「何浮気されたの?」
「仕事ばっかやってっからー」
「これを教訓に新たな犠牲者が出ないよう、もうちょっと早く帰れるようにしましょうぜ」
「お前らなー……ほら、大宮。お前も注いでばっかじゃないで飲め」
「え、あっはい」
体を起こした稲倉がテーブルに置いてあった瓶を取り、葉月のために腕を伸ばす。葉月はテーブルの上にあった空のグラスを慌てて掴むと、酌を受けた。
なんでそこで、私に振った。
葉月は震える手でグラスを持っている。
ビールの泡が、シュワシュワと弾けた。
そりゃ、主任の一の子分ですから? フォロー期待したんですよね。けど、したいけど、そんなうまく、できませんよ。
だってそんな、こんなの初耳で。皆と同じかそれ以上驚いてるのに。
だって、別れるだなんて。そんな。
だってそれじゃ、私が貴方に告白しなくてすむ理由が、無くなっちゃうじゃないですか。
グラスを持つ葉月の手が震えた。悲壮感漂う葉月の表情を見て、周りが慌ててフォローをする。
「あー稲が大宮ちゃん泣かしたー」
「こらこら。あんたの大好きな先輩は、彼女と別れたぐらいじゃ仕事も人生もやめないって。大丈夫大丈夫、泣かないの」
「稲、めげんな」
「寂しくなったら呼べよ。一晩ぐらい相手してやるから……」
「あのなぁ……」
同僚たちの優しい言葉に、自分も続かなければと、グラスを握ったまま葉月は前のめりになって口を開いた。
「しゅ、主任! きっとあの、いいことがありますよ! 主任もてそうだし! ……や、あの。気の利いた事言えなくて、本当……すみません……」
しょげかえる葉月に気を使ったのか、稲倉は「さんきゅ」と言って笑った。
くしゃりと笑ったその顔が、やけに哀愁を帯びていて。葉月は堪らなくなった。
その後男性陣の「稲ちゃんを慰めるために、俺、脱ぎます!」音頭によって明るさを取り戻した場は、二次会、三次会と場所を変えても再び盛り下がることは無かった。主任はいつも通り三次会まで参加して、赤ら顔で帰っていった。
ほんの少しだけ期待していたラーメンは、夢のまた夢でしかなかった。
葉月は翌日の昼休み。社のトイレでシャコシャコと歯磨きをしながら、目の下にくまが出来た自分の顔を見つめていた。
毎朝戦場に身を置く勇者は、多くの経験値と引き換えに、化粧の向上心と手間をどんどんと失っていた。1分で塗りたくったファンデ―ションに、遊び心すらない茶色のアイシャドー。春だから、なんて理由で黄緑のパレットを使っていた志穂さんとは、雲泥の差だ。
志穂さんは美人でスマートで、仕事だってよくできた。葉月に託された資料や定型を見ているとよくわかる。彼女の作ったレールの上でする仕事は、とてもやりやすかった。
主任だって、不健康三十路組にしては若々しく見えるしお腹だって出ていない。仕事もできるし、厳しさの裏に思いやりが必ずある優しい人だ。
とてもお似合いだったのに。
昨日の主任のくしゃり顔を思い出す。全然吹っ切れていないような、切ない顔。
大人の恋愛はわかんないなぁ。
口の端に着いた泡を、葉月が舌で舐めとった。
「大宮ーナロライズの訂正表FAX来てただろ、どこにある?」
トイレの外から聞こえた稲倉の声に、葉月は慌てすぎて歯磨き粉を飲み込みそうになる。
「すみませっ! お昼だったんで引き出しに突っ込んじゃいました! 勝手にどうぞ~!」
「おー」
稲倉の返事に安心した葉月は、考え事をしていたせいでよく磨けていなかった歯を丁寧に磨き始めた。
口をゆすごうとして泡を吐く。その時、あれ、と葉月の思考が止まった。
一番上の引き出し、鍵締めたっけ?
昨日は付箋を追加している時に朝礼が始まり、慌てて閉めたため鍵を確認していない。
今朝はディスプレイに付箋を貼られていなかった。昨夜、部署を最後に出たのが葉月だったからだ。付箋がなければ、束への追加も必要ない。今日葉月は、一番上の引き出しを扱っていなかった。
葉月の血の気が、さーっと音を立てて引いていった。
「しゅ、しゅにっ!!」
口に歯磨き粉の泡を付けたまま、葉月は走った。部署の扉を乱暴に開くと、稲倉の姿を見つけた。
葉月の一番上の引き出しを開けて、固まっている姿だった。
「んみみみみみ」
見た、見ました、見たんですか?! どれも言葉にならずに、葉月は走った。ダッシュで駆け寄り、一番上の引き出しをスパーッンと閉める。二番目の引き出しをこれまた乱暴にこじ開けると、FAX用紙を掴んで稲倉に突き出す。
「……おー、さんきゅ」
何の感想も、何の感慨もなく返事をする稲倉は、葉月から書類を受け取って自分の席に戻った。その様子を、葉月はぽかんと見つめることしか出来ない。
「大宮ちゃんどったの。口元、泡だらけよ」
目をパチクリしながら声をかけてきた福安を、葉月は潤んだ瞳で見つめた。
「おお?? 本当にどったの」
うわーん! と泣きつけたら。どんなに楽か。
あのね、私の恋心はね。あんな簡単にスルーされちゃうぐらいのものなんですよ。
言えない言葉を飲み込んだ。歯磨き粉を飛ばさないように気を付けて、葉月は必死に笑った。
「なんでもないです、口ゆすいできます~」
「おお、いってら」
恥ずかしい。死にたい。
葉月は蛇口を捻って水を掬った。
あんなくしゃくしゃになった青い付箋。黒のボールペンは、完全に色が褪せていた。いつ書いたものかなんて、きっと主任は覚えていない。そんななんでもないような昔の付箋を後生大事に束にして、鍵付きの引き出しにしまってるなんて。なんて、なんて。
「ああああああああ……」
歯磨き粉の泡のように、排水溝に逃げてしまいたかった。もしくは、ひのきのぼうさえ装備せず、くさった死体に飛び込みたい。葉月はもう一度水を掬って口に含んだ。
―― おー、さんきゅ
平坦な彼の声。その意図ぐらい、彼にメラを教わった私だもん。わかってる。
彼にとって、何事もなかった事にしたほうがよかったのだ。社内恋愛、面倒でしょうし? 恋人がいなくなったから望みがあるんじゃないかなんて、そんな甘い幻想抱きませんよ! 見て見ぬふりが一番ですよね、わかってる。わかってるよこんちくしょー!!
葉月は泣きたいのをぐっと堪えた。
一分でも、泣いちゃ駄目。それが彼に教えてもらった最初の魔法。会社は私の一分に、お金を払ってくれている。
わかってる、わかってるけど。
三分だけ、ここにいさせてぇ。
主任はもう私を棺桶に詰めることもなければ、教会へ連れて行ってくれることもない。ふっかつのじゅもんは、自分で唱えなければならない。
まだ冒険をつづけられるおつもりか?
心の中の司祭様に返事をする。
選択肢は、ハイとイエスの二つだけだった。くさった死体どころか、へんじのないただの屍にだって、現実と言う名の戦場は容赦がない。
席に戻って深呼吸。よし、気持ちを切り替えてやりますぞ。とノートを開こうとした葉月が固まる。
ノートの表紙に、青い付箋。
『夜、ラーメン行くぞ』
え。
え?
葉月はノートを抱え込むと、稲倉の席を振り返った。しかしそこに、稲倉の姿はない。
「稲さんに用事? さっき社長が連れてったよ。支店の方行ってくるって」
夜には帰すって社長言ってたけど、急ぎ?
自分のデスクからそう教えてたのは福安だった。先ほどの葉月の挙動不審を心配して声をかけてくれたのかもしれない。
葉月はノートを抱えた間抜けな格好のまま、ふるふるふると首を横に振った。
急ぎじゃない。できればまだまだ、帰ってこないでほしい。
勘違いでかまわない。冷めたら辛い現実が待っていてもいい。教会にだって行ってやる。お気の毒ですが冒険の書は消えてしまいましたと言われても耐える。
主任が帰ってくるまでの数時間だけでも、この夢のような時間に浸っていたかった。
葉月は腕まくりをした。自分の勘違いに力を与えるために、今日は誰にも文句を言わせないように仕事を終わらせなければいけない。葉月は青い付箋をくちぶえに、よしっと気合を込めてマウスを動かした。
――その夜。
葉月は泣きながら、のびたラーメンを食べた。
おわり