1-2 冷徹か激情かの選択
今作はフィクションです。
今作の舞台は架空のものであり、実在の人物、団体、その他固有名称で特定される全てのものとは、一切関係ありません。
「店長、もう一杯頼む」
「店長じゃない。マスターと呼びなさい」
汚れた木製カウンターの上に乗ったグラスを掲げたと同時に、店長――もといマスターである二〇代前後の女性は訂正の声を上げた。
身に付けているのはTシャツに似た衣服と、エプロンに似た衣服、そして三角巾に似た装飾品、一見すれば思わず店長と呼びたくなるラーメン店のおっさんみたいな格好だ。
対して俺の格好は黒を基調としたロングコート。別に好んで着ているわけではないが、目の前のラーメン店のおっさんみたいな格好をしている女性より奇抜ではない。
彼女は嘆息しながら、グラスに追加の液体を注ぎ「三杯目だよ」と言った。
「回復薬を飲んでいるだけで、そんな酔っ払いを対処するような顔で言わなくても……」
「大人の回復薬はお酒。つまりここで出しているのは回復薬でありお酒なんだよ。本当は十代そこらのガキに飲ませたくないんだけどね」
はいはい、と俺は適当に相槌を打ち店内を見渡した。
木製の丸テーブルとそこに添えられた同じく木製の椅子が数脚見られ、全体的な印象としては西部劇に出てくる酒場を彷彿とさせるが、店前に悠然と鎮座するマスコットキャラは緑色のカエルだ。
カエル様の働きは見事にマイナス方面に働き、店内には俺以外に人がいない。
あのカエルを見ると何か幼稚なイメージがして、男たちは入りずらいんだよなあ……。かといって女の人にはこの野郎共が集まる酒場みたいな雰囲気は近寄り難いだろうし……。
「なに『あ、この店もう潰れるだろうな。新しい酒場を探しとくか』みたいな顔してんだ」
「そこまで思ってないけどな……」
それに近いことは思考を巡っていたが。
「そもそもねえ、あんたがこの店に出入りする前までは……もうほんのちょっとだけ客の行き来があったんだよ」
「ほんのちょっとねえ」
「あんたがきてからは、他のお客が怯えちゃって全く近寄らないんだよ! ま、あんたが買ってくれるから売り上げ的には伸びてんだけどね!」
ほんのちょっと、がどれくらいを意味しているのかが窺い知れる。
「夢の世界でまで店の売り上げ心配するってのは疲れないか?」
俺が思わず訊ねてしまうと、マスターは鼻を鳴らし、
「夢の世界でまで化物と命の駆け引きしているあんたに言われたくないね」
「それもそうだな」
苦笑し、俺はグラスに注がれた回復薬を飲み干す。独特の苦味が口内に広がり、それを味わうことなく俺はカウンターに金を置き席を立った。
「忘れたのか? 一杯一〇〇〇ケロだよ。一杯分多い」
「いつも面倒になってる礼だよ。受け取ってくれ」
「毎度あり」
マスターの声を背に俺は店を出る。
入り組んだ路地を抜け石畳の通りに出ると、飛び交う野太いだみ声が耳に届いた。
現実世界で言うところの祭りのように露店が並んでおり、上は六〇代、下は十代まで老若男女の人々が声を張り上げていた。
この場面だけ切り取れば、多くの人が笑い栄えている夢の世界だと思い込むだろう。
事実、ここは人々が眠りに落ちた時に訪れることが可能な夢の世界なのだ。
眠ると同時にこの世界に目覚め暮らしてゆく俺たちは、人間という名を捨て夢想者として生きている。
インヴァギート。
誰が名付けたかは知らないが、この夢の世界はそう呼称されている。
この世界ではあらゆる現実の建物は廃墟と成り果て、一部のモノ――信号や標札など――は壊廃。それ以外のモノは全て消滅し、そして獏という化物が闊歩している。
しかし唯一ここだけが獏という名の化物に遭遇しない安全地帯なのだ。理由は現在究明中であるが、とにもかくにも獏はこの一帯に近寄ることはできず都市内の夢想者は襲われる心配もなく店を開いたりできる。
ならば都市内で不自由なく暮らしていけるかというと答えは否だ。
現実世界と違い汚れても時間が経てば自然と清潔な状態へと戻り、睡魔も襲ってくることはない。しかし耐え難い空腹は訪れるため、この世界の住人は自然と苦しまなくて済む金を必要とする。
俺がここに訪れたのは三年前。中学一年生になって一週間も経たぬ春だった。訳も判らず彷徨っていた俺は現実の知人と出会い、夢の世界――インヴァギートの説明を受けここでの生き方を学んだ。
商人として他人と戦い稼ぐか、戦士として化物と戦い稼ぐか、何者にもならず乞食として耐え忍ぶか、その三択しかこの世界で生きる方法は存在しない。
他人との接し方も特別上手くなく、かと言って卑しく誰かに乞うことを良しとしない俺が選んだのは、戦士として化物と戦う道だ。
今でもそれは過ちだとは思っていない。そう、俺は獏どもを必ず――
「おーい、そこの兄ちゃん。良い剣が入ったんだぜ、見てけよ」
露店が並ぶ道をぼーっと歩み進んでいた俺は、不意にそう呼び止められ視線を向ける。
ショーケースなんて存在しない。祭りの露店がマシに見えるみすぼらしい店に、現実では銃刀法違反間違いなしの銅剣が吊るされていた。……値段は二万と三〇〇〇ケロ。
この世界での通貨はケロだ。感覚的には単位が円からケロに変わった程度だが、こういった武具の類の相場はすぐに変動する。
俺は半目で店主である三〇代半ばと思われる親父を見た。
「ボッタクリか?」
「かっー兄ちゃん良い目してるねえ!」
俺の様子からボッタクリだと確信しているのを悟ったのか、親父は愛想良い笑みを浮かべる。
「そうだ、親父。これを買い取ってくれないか」
俺は背中に吊るしていた細身の剣を店主に手渡した。店主はしばらく刀身を見詰め、次に鍔、柄と移ってゆき、もう一度刀身を――今度はルーペのようなモノを使いじっと見定める。
「兄ちゃん、いくらがお望みだ?」
「あんたならあの銅剣、いくらで買い取る?」
質問を質問で返すと親父は渋い顔をして、
「本当のところを言うと、一万と少しかねえ」
「じゃ、ちゃんと表札を取り替えろよ。それとその剣の買い取りは銅剣と同じでいい」
「マジかよ兄ちゃん! 太っ腹だねえ。三万でも惜しくなかったよこりゃあ」
そりゃ良かった。そう言い、俺は金銭を受け取って店を離れた。
丁度剣が荷物になって邪魔だったし。手ぶらのほうが身軽で良い。と俺が首をゴキゴキと鳴らしながら背を伸ばした瞬間、
「妙なところで太っ腹だよね。ヒデオ」
横合いから放たれた呆れ声に、ヒデオこと俺は振り向いた。
そこに佇むのは女――に見えるほど線の細い、中性的どころか女性的な顔立ちの『少年』であるリュウだった。彼は俺と似たデザインの白を基調としたロングコートを身に纏い、肩で切り揃えた髪を微かになびかせながら、手に持った書類を突きつけてきた。
「ヒデオ、集会サボっただろ。また僕が代わりに謝ったんだぞ」
「その文字いっぱいの紙は?」
「今日の集会で出た議論をまとめておいたんだ」
律儀だなお前も。と俺が嘆息混じりに言うと、リュウは目尻を吊り上げ「だいたい……」と説教を始めた。どうやらリュウさんはお冠のようだ。俺は頭を掻きながら、
「あー……悪い。ああいう堅苦しいのはどうも苦手でさ」
「言い訳はいい!」
「……そのギャグ、結構いけるぞ。でも言い訳はいいわのほうがもっと――」
「僕のこの顔がギャグ言ってるような顔に見えるなら眼科行ってこい!!」
全くもう、と腰に手をあて怒りと呆れをない交ぜにさせた溜息を吐くリュウ。
「僕とヒデオに任務がきてるんだけど。明日行う予定だから、いつもの店に行こう」
いつもの店とは、つい先ほど俺が出て行った緑色カエルがマスコットキャラの酒場のことだ。一度出た店に行き直すのは少し気が引け、
「ここで良いだろ。どうせ俺たちの話になんか誰も聞き耳なんか立てないさ」
生真面目なリュウは思案顔を浮かべるが、「時間も時間だからね」と了解の意を示した。
時間。不意に俺はこの都市で最も高く聳えている時計塔を見やると、時針と秒針は午前四時一〇分を示していた。普通の若者が起きているわけもない時間帯だ。
今現実の俺たちは眠っている。この世界は意識が途絶したさいにのみ行くことが可能で、現実の俺たちが覚醒すれば俺たちはこの世界から去らねばならない。
俺とリュウは高校生という身分なため、起床時間は必然的に決まってくる。俺は七時起床なためあと俺がこの世界にいられるのは三時間のみということだ。
「あ、僕は今日用事があって五時半に起きるから。よろしくね」
俺が時計を見ていたことに気付いたのか、不意にリュウが言ってくる。
「俺と眠った時間は一時間も変わらないはずなのに、起床時間は一時間半も違うとはこれいかに」
「ヒデオがギリギリなだけだろ…………って、とにかく時間がないんだからさっさと説明させてよ」
リュウの言葉に頷くが、さすがに道のど真ん中で話し込むわけにもいかず、俺たちは店と店の合間に生まれた路地へ入る。
一瞬だけ周囲の気配を探ったリュウが口を開いた。
「人型の獏が現れたらしいんだ……」
獏。の一言が出た時点で冗談でないことは理解できたが、その言葉の真意を測りかねた。
「どういう意味だ?」
人型の獏。
そんなもの『外』には腐るほどいる。
この夢都市は安全地帯だからこそ獏に襲われずに済んでいるが、ひとたび境界線を越えればあの人のシルエットをもった化物に遭遇する確率は生まれる。
「ああ、違うんだ。人型っていうより、人そのもの。全長が一メートル半程度の、女の子の外見をした獏が現れたらしい」
より意味がわからなくなった。
「それは獏じゃなくて、普通の女の子だろ。お前、大丈夫か?」
「うあーだから違うんだって」
リュウは煩わしそうに言葉を選びながら、丁寧に説明してくれた。
最初の発見者――いや理解者はその少女に付き纏っていたストーカーの男性。
男はインヴァギートにいる間、ずっとくだんの少女に付き纏い監視していたらしい。しかしある日、恐ろしくなって俺らが所属する義勇夢解析兵団に助けを乞いにきたのだ。
『あの女は人の姿をした獏だ! だって――』
「ずっとインヴァギートに居続けているから」
リュウが男性の言葉を再現し、俺は思案した。
インヴァギートは夢の世界。
この世界に居続けられるのはあくまで『意識が途絶している間だけ』だ。意識の途絶には睡眠以外にも気絶が含まれるが、どちらも時間制限があるため永遠にインヴァギートに居続けるわけではない。
「何かしらの例外はあるかもしれない。けど……」
リュウは強張った表情で言った。
「獏なら……あいつらなら、あり得る。十二分に」
俺はそれに頷いた。
あの人型のシルエット。小型化すれば猿やゴリラよりも人間の姿に近い生物へとなるだろう。小型化し人間の姿をとる可能性は想定して当然。奴らはそれほどまでに、奇怪な行動や謎の生態を披露しているのだ。
そして最悪の事態を想定するのが俺たち義勇夢解析兵団の――いや夢想者の常識だ。
獏に喰われれば死ぬ。
これは既に証明されたことなのだ。
獏に喰われ目覚めた者は二度と眠ることができず、八時間以内に何らかの理由により死亡する。例えば事故で。例えば急病で。例えば通り魔にあって。
千差万別な理由により――しかしインヴァギートで死亡したという共通点をもって、インヴァギートで死んだ夢想者は現実においても死亡する。
悪夢では終わらない。だから常に最悪の事態を想定し、自分の命を守らねば生き延びることはできない。それがこのインヴァギートの仕組みなのだから。
「それの調査に行け、と。我らが義勇夢解析兵団の団長殿は仰ったわけか」
「その皮肉っぽい言い方、誰かに聞かれたらどうすんだよ」
情けない声で言うリュウを無視して、俺は独り路地から出た。
「ちょ、ちょっと待ってよヒデオ! どこに行くんだよ!」
「その人型獏とやらを偵察しにな」
「この任務は明日で良いって最初に言わなかったっけ!?」
「これ、借りるぜ」
俺はリュウの胸元から拝借したくだんの人型獏の顔写真を見せ、制止の声を無視して跳躍した。
現実の世界では到底叶わぬ二〇メートル近い跳躍。背の低い建物ばかりしかないことから、視界を遮るものがなく眺めは最高だ。
だが外の世界を拝むにはこの程度では足りない。なぜならこの小規模な都市を五〇メートルに及ぶ無骨な壁が囲んでいるからだ。
あの城壁は獏の侵入を阻むものではない。獏がその気になればあの程度は破壊できるはずで、だから南側と北側に用意された門は常に開いているのだ。
あくまであの壁は目安であり最後の判断をさせるモノ。
この境界線を踏み越えれば死ぬ可能性があるぞ、と。
都市外へ出る者の覚悟を問う壁なのだ。
「……と」
刹那の滞空時間で流暢に見入っているわけにもいかず、俺は姿勢を正しながら手近な建物の屋根に着地。屋根上を歩いたりする行為は本来ならマナー違反で見つかったらお説教が飛んでくるが、今はこの夢都市の中心にある唯一高い尖塔――時計塔へ素早く行きたいので致し方ない。
幾つかの屋根を飛び移り、ようやく時計塔を見上げられる位置まで辿り着くと、俺はその灰色を基調とした年季の入った時計塔を仰ぎ、最後の跳躍をした。
時計塔の頂点まで無事到着し一息吐くと、俺は目を凝らして眼下に広がる街並み、そこに行き交う人々の顔を見定めてゆく。
この安全地帯――夢都市に滞在する人数は二〇〇〇人ぐらいだろう。大して規模が広い夢都市ではなく、目を瞠るものと言えば優秀な武具店があることと義勇夢解析兵団の本部があることぐらいなのだが、
「そのわりに人は多いんだよな……」
インヴァギートは全国を網羅しておりその気になればこの世界で日本一周も可能ではある。安全地帯もここ一つというわけじゃなく、より規模の広い夢都市もあればより規模の狭い夢都市も存在する。
比べてしまえばここの夢都市は小規模のほうに部類されるが、安全地帯の面積にしては住人が多く活気に満ちていた。
「悪いことじゃないけど……うん、いないか」
ぼやきつつも屋外を歩く夢想者の顔を全員チェックした俺は、リュウが持っていた人型獏疑惑の少女の写真を一瞥し、一致する顔いないことに肩を落とした。
そういやこの方法じゃ宿に泊まられてたら見つけられないなーと己の作戦ミスに気付きつつも、希望的観測で都市外のほうへ目をやる。
視力は現実とは桁違いで、目を凝らせば数十キロ先に描かれている米粒みたいな絵の評価だって出来る自信がある。もちろんそんな馬鹿なことを試したことはないが――
そこで俺の思考を中断する戦慄が駆け巡った。
都市外南の方角。廃市街地の傾斜するビルを遮蔽物とし身を隠す人影が二つ。
それを探すように付近をうろつく全長一三メートル級の獏。
「――――――――っ!!」
気付けば俺は時計塔から跳躍し、宙へと身を投げ出していた。
ゴォォォォという風の低い唸りが鼓膜を震わし、俺は手近な屋根に猫の如く四肢で着地した。付近の路地をうろついていた男が、「おい何やってんだ!」と咎める口調で言ってきたが、
「悪い、それ貸してくれ」
路地に下り駆けると、男の背中に吊るされていた戦斧をすれ違いざまに奪い取り、俺は男の罵倒を背に走る。
通りを出て人込みの間隙を縫うように走り、屹立する南側の門前まで辿り着く。
圧倒的威圧感に一瞬俺は足を止め、
「…………いくぞ」
己の言葉に俺は頷き、観音開きの扉を潜り通った。
空気を切り替わる。
荒廃した胸の詰まる空気。都市内とは打って変わって周囲には殺風景が広がり、所々見える錆びた標札や折れた信号機、一枚の葉すらない枯れ木などは映画や漫画などのフィクションで見る『死んだ風景』のようだった。
身を竦ませる雰囲気を振り払い、俺は亀裂の入ったアスファルトを蹴り出し疾駆する。
俺の脚力は現実のそれを遥かに上回っている。今の速度なら名馬と競争したって負ける気がしない程だ。あの程度の距離ならば――
一分も経たずして辿り着いた。
いや遭遇したと言ったほうが適切だろう。
半ばで折れた廃マンションに手をかけぬっと姿を現したのは、先ほど目にした全長一三メートル程度の獏だ。
嫌に生物だということを強調するピンク色の歯肉と乱杭歯を覗かせ、唾液らしき粘液を口の端から垂れ流す化物。爬虫類のそれに酷似した眼球はギョロリと俺を捉え、嘲笑うように口角を吊り上げた。
そのかつて見たような表情に、血液が沸騰するような『怒り』が俺の底から湧きあがる反面、肉体を離れ先鋭化した意識は冷静に獏の動きを捉え続ける。
獏は子供が人形を乱暴に引っ掴もうとするように、屈みながらその巨大な掌で俺を捕らえようとした。しかし俺は横っ飛びにそれを躱し、見ず知らずの男が『貸してくれた』戦斧で獏の手首に一閃を放つ。
膨大な赤黒い鮮血が地を染め、獏は大気を震わす絶叫を上げると膝から崩れ落ちる。
獏の急所は人間と同じ箇所が多数存在する。はなはだ不本意ではあるが獏と人間は似通っていることを認め、崩れ落ち膝立ちの姿勢でいる獏の肩に乗り、人間でいう頚動脈の部分に戦斧の煌く刃を走らせる。
ホースから噴射される水のように黒い液体が噴き出る。これが獏の血液、黒血である。
獏は絶叫を放ちながらも、一撃で人間の肉体を拉げさせる巨木のような腕を無茶苦茶に振るい、肩に乗る俺を追い払ってきた。
俺は肩から地に着地すると同時に膝を屈め、屈伸の要領で獏の目線まで跳躍する。
獏と目があった。一瞬だけ恐怖の色がその爬虫類染みた眼球に走ったような気がして、
今度は俺が口角を吊り上げながら戦斧を構え、その眉間に全力の一撃を叩き込む。
黒色の鮮血が薄暗い宙に煌く。
俺が右足で着地した直後、獏が仰向けに倒れ伏す震動と轟音が大気を震わした。
俺が更なる追撃を加えようと柄を握り直すと、獏は気化するように朽ち消滅を始める。
俺は首を捻った。獏がこの程度で死ぬはずがない、既に手負いだったのか……?
思い浮かぶのはあのとき見えた二つの人影。おそらく善戦はしたが殺すまでに至らず逃走を決意した、というあたりだろう。
「さてと」
呟き、骨も残らず死滅した後に残ったもの――硬貨と細身の剣を拾った。他にも防具や衣服が落ちていたが、それは使いものになりそうにないので放置しておく。
インヴァギートはまるでRPGの世界のようだ。とかつて共に戦った友人は言っていた。
人々が栄える都市に化物は出現せず、魔法的異能の力も存在する。化物を倒せば金や道具が手に入り、そこらを歩けば金が落ちていることで当然のようにあるくらいだ。
だがそれは決してプログラムじゃない。
獏は人間以外を消化する器官がないのか、はたまた消化する器官自体ないのか、夢想者たちを捕食したはいいがその捕食した夢想者たちが装備していたものは内部に残るらしく、一定以上溜まるとそれを吐き出す。
獏が死滅した後に残った装備品らは喰われた夢想者のものであり、そこらに落ちている装備品や金も獏が喰って残留したものを嘔吐したに過ぎない。
剣と魔法の世界とは、誰もが一度は望んだ夢の世界はこんなにも残酷だった。
「それを拾って生活の足しにする俺も残酷なんだろうな……」
そう呟いて自嘲気味に俺は笑い、意識を切り替え右斜め前方にある瓦礫に感じる気配二つに声をかけた。
「変に逃げずに息を潜めていたのは正解だったな」
俺の言葉に応えるように、瓦礫の影から姿を現したのは一人の少女。俺はその姿を見て反射的に剣の柄を強く握り締めた。
印象的なのは長い睫毛に縁取られた気丈そうな――そのわりにくりくりっとしている――瞳と、肩甲骨辺りまで伸びる色素のない半透明な髪。そして装飾品の少ないこの世界では珍しい帽子だ。
服装は典型的な女性軽装備であるジャケットとミニスカート(当然下にはスパッツみたいなものを着用している)で、そこから伸びる四肢は細く肌は冗談のように白い。
年齢的に俺と大差ないだろう。もちろん彼女が同じ人間、夢想者であればの話だが。
その外見はリュウから拝借した写真に写るくだんの人型獏そのままだった。ストーカーができたことも頷ける美麗な容姿だ、見間違いということもない。
「助けてくれてありがとう、『無剣の剣師』」
俺の警戒心を察したのか、交友的とは言い難い棘のある口調で彼女は言ってきた。
彼女は視線を俺から瓦礫のほうへ移す。
確かもう一人いたはずだ。まだ怯えて出てこれないのだろう。俺はそちらへ歩み寄り、瓦礫のほうに回り込んだ。
見れば蹲り震える女性。こちらは俺よりも年上っぽいジャケットに鎧を纏った女性だ。彼女は完全に戦意を喪失し、垣間見えた瞳は虚ろだった。
そしてぽつりと、
「返してよ」
「……」
その言葉が聞こえなかったはずはないだろう。よせばいいのに、人型獏疑惑の少女は震えるもう一人の女性の肩に手を置き「もう大丈夫」と言いかけ――
パシッ、と軽い音とともに弾かれた。
「知ってるんだから! あんたも獏なんでしょっ、返してよ……彼を……!」
俺は我が耳を疑った。
「おい。こいつが獏だって、何で思うんだ」
怒りに顔を歪めた少女は俺のほうへ振り向き、
「彼から聞いたのよ。人型の獏がいるって、都市内も安全じゃないって。私を連れて逃げ出そうとしてくれたのに……」
都市外へ無防備に出て獏に襲われ、そこを何らかの理由により獏疑惑少女が助けたということか。俺は獏疑惑少女のほうへチラリと視線をやるが、彼女はきつく口を結び拳を握り締め己の侮辱に文句一つ返さず耐え忍んでいる。
その『彼』とやら義勇夢解析兵団の未確認情報をどこで入手したのかは知らないが、どうやら流暢に詰問している暇はないようだ。
獏が遠くから歩いてくる微震動を感じた俺は、泣きじゃくる女性の腕を掴み強引に立ち上がらせた。
「話しは都市で聞く。いくぞ」
俺は身を翻し一歩を歩み出した瞬間、女性が腕に縋り付いてきた。
「その服、義勇夢解析兵団なんでしょ。ならこの化物を殺してよ! さっきみたいに殺してってば! こいつはあいつらの仲間なのよ!」
ヒステリックな金切り声を放つ彼女を一瞥して、
「話しは都市に着いてから聞くと言っただろ。移動中に無駄口一つ叩いたら、お前はそこで置き去りにする。『彼』と同じ目に遭いたくないなら黙っていることだな」
彼女の言う彼がどんな目に遭ったのかは想像がつく。俺だって何度も目にしてきた。獏の巨大な手に握られながら、その乱杭歯で噛み千切られ租借されるその瞬間を。
この世界は残酷だ。
誰もが笑っていられる夢の世界じゃない。
だから非情じゃなきゃ、残酷じゃなきゃ、生き延びることはできない。
嫌気が差すぐらいに冷徹な思考を巡らしている俺は、更に嫌悪感に陥ることも厭わず涙を流す彼女へ言った。
「死にたくないなら冷徹でいろ。生きる道だけを見据えるんだ」
俺は沈黙で応える二人を引き連れ、都市へと引き返した。