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1-1 インヴァギート

今作はフィクションです。

今作の舞台は架空のものであり、実在の人物、団体、その他固有名称で特定される全てのものとは、一切関係ありません。



 夢の世界。

 ただ眠るだけで行ける世界。誰もが望んだその世界に一部の人々は足を踏み入れ、そして絶望に打ち拉がれた。

 視界に広がるのは人類が絶滅した後のような情景。

 都市には森林が入り混じり、英知の産物である建物は雑草や蔦に覆われ廃墟同然と化していた。アスファルトの地面には亀裂が走り一部の地面が露出している。

 その荒廃とした都市の住人は人間ではない。

 全長五メートルを優に超える『人間を主食とする』化物が我が物顔で闊歩し、夢の世界に足を踏み入れた餌を捕食する。

 それがこの世界の有様。人間が望んで行き着いた先。

 人々はこの世界をこう呼んだ。

 ――『インヴァギート』と。 


                    1


 ――ここは夢。

 ――死に至る夢の世界。

 亀裂が入ったアスファルトの大地をブーツの靴底が叩く。黒のロングコートをなびかせる少女は、息絶え絶えに喘ぎつつも走り続けていた。 

 正真正銘の恐怖をもって、肌に纏わり付く汗を拭う暇すらなく。

 幾度目かの言葉が思考が巡る。

 うるさい。

 自分の心音がうるさい。自分の呼吸音がうるさい。自分の足音がうるさい。

 それほどまでの静寂がこの地にはあった。

 荒廃した雰囲気が逗留する地。

 周囲には半ばほど地に埋もれ傾斜したビルや、原型の予想もつかぬ瓦礫が点在しており、賑わい以前に自分以外の人間すら皆無であった。

 空は陰鬱とした雲が埋め尽くしており、その隙間から差し込むささやかな陽光の柱が、前方に見える城壁に囲まれた都市を照らしている。

 それが唯一の希望。 

 あそこまで辿り着けば助かる。少女を殺す魔の手から逃れられる。

 ゆえに少女は走る。肉体はとうに限界を超え、精神は磨耗し、呼吸を整える余裕すらなく、しかし生きるために走り続ける。

 この夢の世界、とても残酷な夢の世界で生き延びるために。

 そんな少女の渇望を嘲笑うかのように、不意に背後から悪寒に襲われた。

 彼女の肉体は意志を離れ、自動的に『振り返る』という行為を実行してしまう。

 視線の先に化物が佇んでいた。

 その全長は七メートルほど。

 シルエットは人に酷似している。頭部があり顔があり頭髪があり四肢があり五本の指がある。だが、それは決して人と認めたくない雰囲気を纏っていた。

 顔には眼球二つと鋭く伸びた鼻梁、口もあり乱杭歯を覗かせている。だがそれで人を同じ外見とはいえず生理的に受け付けない。

 唯一、それが人間と違う部分と言えば、肌の表面を覆う鱗と生えた巨大な尻尾。まるで人間が伝説上の生物であるドラゴンを目指した成れの果てといった具合だ。

 化物はその爬虫類めいた眼球で少女を捉えると、雄叫びを上げた。

 大気を震え上がらせる雄叫び。その震えは肉体に伝播し肉体を震え上がらせ、意志に伝播し意志を震え上がらせる。

「ぁ、ぁ――――――――――」

 何もかも震えていた。

 屈服するしかなかった。

 気付けば足は止まり、

 ただ目を瞠って、

 理解した。

 ああ、

 私、


 死ぬんだ。


 喰うモノは歓喜の咆吼を上げ、

 喰われる者は死を受け入れる。

 天敵。

 目の前にいるのは間違いなく少女らの天敵である。

 夢に住まう者たちを喰らうもの。

 少女はその名を記憶に刻んでいた。

 獏。

 化物――獏は地を蹴りだし俺に向かって走り出してきた。

 地が震動する。

 硬直していた身体が跳ね上がり、少女の危機意識が蘇る。

(最後まで……抗えっ!)

 拳を握り締め己を叱咤した少女は、真っ白になっていた思考を無理に再稼働させ考える。獏の走る速度からして目的地である都市まで逃げ切るのは――無理だろう。ならば決断すべきは一つ。

(仲間がいるの。私には一緒に笑い合いたい仲間がいる――!)

 脳裏に浮かんだ仲間の笑顔が少女に武器を握らせた。

 腰に添えられた柄。そこから少女の腕程度の長さがある剣を引き抜き、子供のような拙さで走り迫る獏へ煌く刀身を向けた。

 何度も戦ってきた。

 この天敵と。楽園に住まう絶望と。

 少女は獏の目線まで跳躍すると、その恐怖を煽る人間と恐竜を混合したような顔に、剣戟を撃ち込む。

 刃が鱗を切断し肉を抉る感触が柄から掌に伝わり、黒い液体が少女の頬に付着した。痛覚は人間よりも鈍感な獏だが、顔面を斬りつけられれば数瞬程度は呻き動きを止める。

 無理な追撃は禁物だ。少女は着地すると同時に手近な瓦礫へ身を潜めた。

 獏は特別嗅覚が強いわけじゃない。獲物の追跡はその視覚に頼りきりで、生物としての基本性能はそこらの野犬などよりも遥かに劣る。ただその巨躯と身体能力を除いては。

 いやそもそも生物として見ていいかさえ分からない。生殖器すら見当たらず繁殖行為も判然としない化物が、果たして生物の枠組みに収まるのだろうか――

 恐怖を押しやるように、そんな現実逃避気味な思考を巡らせていると地が揺れた。獏が動き出したのだ。あの一撃を受けて足止めできたのは精々数秒というのが少女の僅かな闘志すらも打ち砕く。

(全く厄介な奴……!)

 心中で虚勢全開の言葉を呟くが、指から伝達した震えは全身にまで達し、カツカツと奥歯が鳴り響く。

 その音で気付かれないか、呼吸の音で獏に気付かれないか、心音で獏に気付かれないか、と思考回路はぐちゃぐちゃに掻き乱れ、再び精神を圧迫する恐怖が奥底から這い寄ってくる。

(いけ、どっかいけっ…………!)

 一歩。また一歩。獏が地を踏み締める度震動が少女を襲う。その度に心臓が跳ね上がり、全身が震え上がった。

 不意に周期的な震動が訪れなくなった。

 突然、空が暗くなる。

 荒廃したこの世界は全体的に薄暗い場所が多いが、ここはこんなにも暗かっただろうか。少女は恐怖に突き動かされ頭上を見上げた。


 瞬間、こちらを見下ろす獏と目が合った。


 呼吸が止まり、真っ直ぐ伸びてくる巨大な手を少女は見詰めていた。

 獏の掌は少女の身体を軽々と掴んで、顔の間近までもってくる。

「……えっ?」

 現象は理解できたが、何が起きたのかわからなかった。 

 獏の巨大な鱗の覆う手が人形でも掴むように少女の身体を握り締めている。万力にでも締め付けられるような激痛が襲い掛かり、肉体の端々からミシミシと奇怪音を上げ始めた。

 現状を把握したのは、

 口内が見えるほど獏の口が接近したのを見てから。

「そっ、か」

 色々な感情が一斉に湧き起こり、少女は何とも言えない苦笑を浮かべた。

 涙が頬を伝う。

 ふと希望が満ちていた都市のほうへ目をやると、物凄い形相で何かを叫びながら駆けてくる人達の姿が見えた。

「あれさ、私の仲間なんだ」

 少女の肌に落ちる巨大な影は徐々に近づいてきていたが、彼女は震える声で言い続ける。

「良い奴らなんだよ。だからお前には喰わせてあげない」

 以前宴会中に決めた合図。少女は必死に自分を助けようと走る仲間たちへ向け素早く瞬きを三回した。これの意味は――

(逃げて)

 少女は笑顔を浮かべ、その笑顔は一秒も経たずして喰われた。   

 ――ここは夢。

 ――とても残酷な……夢の世界。


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