つかの間の休息
エリザベータが法術で自身の傷を塞いでいると、大将軍が近くの茂みへ歩いていく。もう町へ行くのだろうかと慌てた彼女に小さな袋が放り投げられた。
咄嗟に受け取ったエリザベータが手にしたそれに視線を向けると、既視感を覚えるベージュの布地が視界に飛び込む。
「貴女の副官は気が利くのか、過保護なのか」
くつくつと笑う大将軍に促されエリザベータが袋の口を開くと、今度は目の前が紫色に染まった。
手にとって広げれば、見覚えがあるのも当たり前。
「私の持参した上着、ですね」
兵士達が立ち去る間際、エリザベータの副官であるカリス副将軍がこっそり置いていった物だった。大将軍に宜しく頼むと目配せまでして立ち去ったと聞いて彼女は喜ぶべきか呆れるべきか少しばかり迷ってしまう。
けれど、穴の開いたローブを着ているこの状況で有難いのは確かだと、エリザベータは傷の治った白い肌を隠す様に上着を羽織る。
大将軍は穏やかに言った。
「慕われている様で何よりだ」
動きを確かめる為に腕を曲げ伸ばししながらエリザベータは頷く。
「何とか上官として認めて頂いている様でとても嬉しく思っておりますわ」
エリザベータはそこで徐に顔を上げると、閑話休題、ジオリスの様子について話し出す。
「それはさておき、ジオリス・ミシェットは魔族の力で何か身体を改造でもされたのでは無いでしょうか。動きに少し違和感を覚えましたし、雷撃に表面だけとはいえ無傷だった事も、不審なものを感じました」
「動きの違和感は分からんが、最後のあれは確かにな……ミシェットの意思だろうか」
最後の台詞はとても小さな声で、エリザベータに問いかけたものではなかったのだろう。けれど大将軍のその呟きを拾い、彼女は力強く返す。
「彼の意思です。まず、間違い無く」
ちらりとエリザベータを見た大将軍は地面に残った焦げ跡に視線をやる。
「そうか」
一言だけを残して二人はゆっくりと町の入り口へと足を向けた。
***
町に入って直ぐの場所に兵士達は待機していた。円形の広場に犇く彼らは皆どこか不安そうである。
先に兵士を先導していた将軍二人が大将軍の姿を視界に捉え、その内一人が声を張り上げた。
「ふらふらするな! 静まれ!」
表情を引き締め姿勢を正した兵士達の隙間を縫って、大将軍とエリザベータは彼らの前へと進み出る。
将軍達の側まで来ると、二人に小声で何かを告げ大将軍は兵士達を振り返った。
「諸君、まずは六日の強行軍ご苦労だった。到着した側からジオリス・ミシェット元将軍に襲われたのは不運だが、エリザベータ将軍の手により奴はかなりの手傷を負った。恐らく今回の襲撃に参加する事はないだろう」
大将軍の言葉にどよめきが生まれる寸前、それぞれの将軍達に睨まれ兵士達は口を閉じる。
「念の為、誰かが入り込めば分かるよう探知の結界も張る」
エリザベータが一歩踏み出した。
「鳴り響け」
呪文と同時にシャンシャンと、鈴の様な高い音が響き渡る。
「探知の結界は私が張らせて頂きます。侵入者があれば此の音が結界内の人間全てに知らせます。此れは侵入者が近くに居れば居る程音量が上がりますので御気を付け下さい」
台詞に被さって鳴っているのにどちらの音も透き通る様に明らかに聞こえた。
「解除せよ」
ぴたりと止んだ音と共にエリザベータも一歩下がる。
大将軍は兵士達を一人一人見渡すと正面に視線を戻し、重々しく言い渡した。
「今日の襲撃には知っての通り魔軍の幹部が二人出て来る。だが、諸君等が相手にするべきはそれ等以外の魔族と配下の魔物共だ。幹部相手には大将軍と将軍達が臨む。もし諸君等が対峙する事があったとしても、奴等の相手はしなくて良い、全力で逃げろ。無駄死には許さんからな。以上、解散だ」
勢い良く言い終えた大将軍に兵士達は胸に拳を当てる敬礼で返す。するといつの間に現れたのか、兵士達には及ばぬまでも体躯の良い男等に囲まれた身なりの良い眼鏡の男が、背の高い女性を傍らに引き連れ将軍達へと近付いていた。
「では彼らがご案内させて頂きますので」
男の言葉に将軍達は頷くと兵士達を幾つかの部隊に分けていく。エリザベータもそれに倣って自分の部下達を振り分けた。
今他所から来た兵士五百人を一度に収められる施設はこの町には無い。町の外にテントを張るとしても、襲撃を予告された町の周囲には魔軍によって魔物が放たれるのが通例である。町から離れる様に移動しなければ基本的には襲ってこないが、これに関してだけはあくまで基本的にの注意書きがつく。万が一があって被害が出れば町も兵士達も全滅は必至の為、魔軍討伐に訪れた兵士達は必ず街中で宿を取るのである。
「皆様、御願い致します」
元々居た小隊長の中から幾人か部隊長を定めると、軽く休憩後の確認をしたエリザベータは案内係の男達に声をかける。彼らは硬い表情で頷くと兵士達を連れ、広場を去っていった。
辺りを見回せば軍人でこの場に残っているのはエリザベータを含めた将軍三人と大将軍、それぞれの副官達の計八人。
その内の一人であるカリスが静かにエリザベータへと近付いてくる。
「部屋が用意してあります、姫様も移動しましょう」
「そうですね、案内を御願い出来ますか?」
「勿論です」
他二人の将軍も副官を連れてそうそうに立ち去って行く。彼等を追う様に二人もその場を後にした。
けれど消えない四つの人影。
「この度はこの様に遠い地へ来て頂きシュルイドの町長として深く御礼申し上げます、大将軍閣下」
頭を下げたのは眼鏡の男である。隣の女性も同じ様に黙礼した。
「避難の状況はどうなっている」
けれど大将軍はそれには触れず、質問で返す。
町長は唾を飲み込み顔を上げて口を開いた。
「住民の三割が中央にある教会へ、五割が東西南北四箇所の避難所におります。一割は各々自宅の地下や、個々で用意してある隠れ家を使っている様です。最後の一割は教会関係者と役所勤めの人間で、皆ばらけて避難場所の防衛と避難住民の誘導に当たる手筈になっております。自警団に所属する者に関しては先程軍の皆様のご案内に向かった彼等を除いて、住民として避難を」
「それで構わん。自警団というのは魔軍ではなく人間を相手にするものだ。教会の法術士達も、今回は結界が役に立たない可能性がある事を言い含めておけ。魔物や小物の魔族相手なら充分だが幹部相手には結界など紙切れ同然。もし張るにしても出来るだけ狭い範囲で強度を上げろと伝えておくと良い」
「既に伝えてあります。それ以外の住民達には魔軍の幹部が来る事は伏せておりますが」
俯く町長の肩を大将軍は軽く叩く。
「それで良い。どうせ彼らは幹部連中を見てもそれとは分からんのだ。無用な混乱の元を態々知らせる必要は無い」
ついでとばかりに隣で俯く女性の肩も叩くと大将軍は豪快に笑った。
「町は守ろう」
大将軍の背後に控える補佐官は、彼の微妙な言い回しに苦い思いを察してしまう。
住民を守る、と言えない自分を歯痒く思った。
***
エリザベータに与えられたのはシュルイドでも裕福な家の客室だった。部屋に入り室内を見渡したところで開け放しだった扉からカリスが荷物を持って入ってくる。
「姫様、着替えをお持ち致しました」
右手の鞄を床へ下ろすとカリスは抱えていたローブをテーブルの上に乗せた。
「有難う御座います……こちらも、有難う御座いました」
目だけで着替えを確認すると、エリザベータは上着を脱ぎ少し掲げる様にして微笑む。今着ているローブは右肩から袖口にかけて大きな切り口と赤黒くほつれた布地が痛々しい。その下には傷の無い肌しかないと分かっていても、カリスは顔を顰める。
「いいえ、こんなことぐらいでお礼なんて勿体無いです。それより、そのお身体で町に結界を張られるのですか?」
唇を噛み締めるカリスにエリザベータは飄々と返した。
「もう怪我は治っておりますもの」
嘘を付いていないのは分かっている。分かっていたがカリスは納得できずに言い募る。
「ですが、疲労が溜まっておられる筈。お疲れですよね?」
法術に必要なのは呪文と精霊と自然力の三つである。けれど法術を使うと何故か眠くなったり空腹になったりした。理由は分からない。ただその程度や限界値に個人差がある為、自然力以外の特別な力を人間は使っているのではないか、というのが学者達の間で有力な説である。が、観測できないものを証明するのは難しく、解明はされていない。
確かなのは、人間は法術を使うと疲れるという事実だけだ。
「此処で休んでジオリス・ミシェットが再び奇襲をかけてくるよりは、此方の方が疲労致しません」
そして疲れたからといって後回しにしていいものでもない。
「今結界を張ってしまいましょう、あまり時間を置いては意味がありません。少し下がって頂けますか」
依頼の形をとった命令に、カリスは渋々後ろへ下がる。
エリザベータは上着をベッドに畳んで置くと、大将軍の演説中に町長が持ってきたこの町の結界石を取り出した。
結界石とは町など特定の範囲に結界を張る際の目印となり、八つで一組となる特殊な石の事である。最初に四つを結界を張りたい範囲の四隅に置く事で、残りの四つの石を通して見た事がない場所、把握しきれない広範囲にも結界が張れる為どの町にも必ず一組は置いてあるものだった。
「境界を越えし望まざる来訪者、指し示し鳴り響け。対なる輝石を標とし、我が意を汲み取りて結びの四方を顕現せよ」
通常複数人で張る町を囲う様な広大な結界をいとも簡単に作って見せたエリザベータをカリスは何か言いたげに見詰める。
エリザベータは苦笑いを浮かべた。
「核に此方の結界石を使いましたので私が眠っても効果が切れることはありません。ですから大丈夫ですわ、心配して下さって有難う御座います」
「直ぐにお休みになりますか」
糾弾する様な剣幕に目を丸くしたエリザベータは、けれど悪戯っぽくのたまう。
「ええ、着替えたら直ぐにでも。御覧になるおつもりですか?」
同じ様にきょとんとしていたカリスは突如顔を真っ赤に染めて、右へ左へと首を動かした。
「い、いえ! 失礼致しました! どうぞしっかりお休み下さい!」
カリスは叫ぶと同時に部屋を飛び出すと、力いっぱい閉められた扉越しにも賑やかな足音を響かせる。
エリザベータはくすくすと笑いながら汚れたローブに手をかけようとし。
――しっかり休めよ。
何処かから聞き馴染みのある声が聞こえた気がして動きを止める。
窓の外を見ても、そこには始まったばかりの朝があるだけだった。