一晩明けて
結局エリザベータの結界と宰相の言葉で大臣達を丸め込むのに二時間も掛かってしまった。
騒ぎ出したところで音を遮り、静かになった者から結界を解く。すかさず宰相の説明が始まり、再び騒ぎ出した大臣を結界に押し込める。
内容としては、勇者が遠征先で離反した事、その際デニル副将軍に斬りかかり再起不能の大怪我を負わせた事、勇者の将軍位を剥奪し反逆者として公表する事。この三つくらいしかなかったので、本来なら五分で終わる話である。
仮にも大臣という要職についていながらのこの落ち着きの無さ。
エリザベータは笑顔を浮かべていながらも、最後には半眼に窄まる眼差しを隠さなかった。
ともあれ、彼等への説明はその日の内、昨日の時点で終わっている。
そして口止めはしていない。
ラクセルが情報を隠さなかったことで今、城内は上へ下への大騒ぎになっていた。前述したとおり今代勇者ジオリスは、その能力の高さからかなりの有名人である。庶民故の飾らない人柄も手伝って、城内で活動する人間の九割が彼と親しい、少なくとも顔見知りの間柄だ。
その社交性を羨ましく思った事はある。あるけれど、今は正直恨めしいばかりだ。
エリザベータは現実から目を逸らす様に、廊下に並ぶ美しい白磁の壺へと視線をずらす。
「姫様! 本当なんですかっ、ジオリス様が裏切ったなんて!」
「何かの間違いですよね!? そうです、誰かが勇者様を妬んで陥れたに違いありませんわ!」
「そうよ、だって私のジオリス様がどうして!」
城仕えのメイドである。本来ならば一国の姫を捕まえてこうも詰問したりはしない。そしていつもなら口論の引き金となる“私の”ジオリス様という台詞も気が付かずにスルーしている。
彼の起こす騒動はいつだって迷惑極まりないものだった。
「噂は事実です、ジオリス・ミシェットは彼の副官を傷付け戦地より逃亡しております」
「そんな! 嘘よ!」
エリザベータは眉をハの字に、頼りなく笑った。
「落ち着きなさい。貴女方の気持ちは分かるつもりですけれど、あまり過ぎれば見逃せません」
穏やかな口調とは裏腹の内容に、三人のメイドは顔色を青くする。
不敬罪をチラつかせた静かな脅し。
「も、申し訳御座いません」
慌てて深くお辞儀をした三人は肩を震わせ手を握り締める。
「構いませんわ、皆さん混乱していらっしゃるのも仕方のない事ですものね。けれどそろそろ、貴女方も仕事に戻りなさい」
こくこくと一斉に頷くと、彼女達は走る様なスピードで歩き去っていった。
――あと何回このやり取りをするのかしら。
エリザベータは思わず内心で呟く。
「姫様!」
間もなく今度は兵士の襲撃を受ける。
見覚えの無い男である。つまり、部下ではない。
「ジオリス将軍が離反したというのは、本当でしょうか!」
――あと、何回このやり取りをするのかしら。
エリザベータは笑みを引き攣らせ、苦笑いを浮かべた。
***
エリザベータはジオリスと同じ年に学院を卒業した同窓生である。
お互いに筆記と実技の主席で、入隊も同時。エリザベータは身分故の就任ではあるが、どちらも将軍の地位につき学生時代からの顔見知り。二人が友人関係なのは当然とも言える。
「だからと言って、ジオの事を私に聞くのは止めて欲しいものです」
エリザベータは障害物達をどうにか退け執務室へと辿り着くも、今度は来訪者の余りの多さに辟易し、書類を持って自室へと逃げ帰っていた。今は椅子に腰掛け書類を選り分けながら、叶う事が無いと知りつつぼやいている最中だ。
幸いこの事態を見越した宰相により昨日の内に、自室での執務許可が下りている。仮にも王族なので自室のある棟には原則住人以外の出入りが許されていない。
所々に立っている衛兵も、何かもの言いたげな目線は向けるものの話しかけてくる事は無かった。
「仕方ないですよ~、姫様ってばジオリス様と恋人同士だって思われてますもん」
話しかけてくるのは気心知れた侍女一人。
「サレア、違うというのを分かっていてその台詞ですか」
「えー? やだなぁ、つりあってて良いじゃないですか。継承権を捨てた嫌われ者の第一王女と成り上がりの騎士様なんて、陳腐なロマンス小説みたいですよ」
サレアとの付き合いは産まれた時まで遡る。侯爵令嬢の乳兄弟、とってつけたような敬語に遠慮の無い物言い。侍女と主である前に友人でありたいエリザベータには望むところではあるのだが。
「ロマンス小説はともかくとして、改めて言われると落ち込みますので止めて下さいな」
「嫌われ者ってところ?」
この性格の悪い毒のある返しばかりはどうにかならないものなのか。
「まあ、仕方がないんじゃない? 人間誰しも欲しくて堪らないものを目の前で投げ捨てられたら、飛びつくと同時に酷く怒るものでしょう?」
慰めるようなタイミングで目の前に置かれたティーカップ。
「でもさぁ、そういう方向へ持ってった張本人がさっさと一抜けするなんて、あたしは何様のつもりだって言ってやりたい気分ですよぅ」
冗談めかして、けれど真剣な目をした天邪鬼な友人に、ほわりと胸を暖かくする。
「良いのですよ。私はラクセル兄様に位を御譲りした事を、後悔していませんから」
ジオリスの様に生きられたら、と願ったあの日。
エリザベータが産まれた事で突如継承権の順位を下げられた従兄を従えるのではなく、彼に仕えることを決めた運命の日。
この状況を寂しくは思っても、その日をやり直したいと思った事は一度も無い。
エリザベータは透き通る様な白さを持つ指先で、カップの持ち手を掴むと一口、口を湿らせた。
「それにジオはいつかこういう事をやると思っておりましたもの。寧ろ良く今まで将軍職に納まっていたものです。流石にこんなに突然裏切るだなんて考えてはいませんでしたから驚きましたけど、何かするだろう事は陛下にも御報告申し上げておりましたし」
「え、陛下ご存知だったの?」
「勿論です。最近のジオの口癖は“何か面白い事ねえかな”ですよ。あれが面白そう、ではなく。これがつまらない、でもなく。間違いなく今までに無い規模の騒動を起こそうとしていました」
「ええー、何ですか、その理解」
「突飛な事をするようでいて、案外分かりやすい方ですから。ジオが動く理由はいつだってシンプルなものですよ」
「そういう事言うから恋人疑惑なんか出るんですってばー」
頬を膨らませたサレアは仁王立ちでエリザベータを見下ろす。
「もう何でもいいですけど、ジオリス様の不祥事に巻き込まれないで下さいね。あいつもう兵士を一人殺っちゃったんでしょう?」
「いえ、殺めてはおりません」
見下ろしたまま、サレアは器用に片眉を上げた。
「あれ、でも管理職二人が居なくなるから軍の再編に忙しいって聞ーてますけど」
エリザベータは上目遣いに頷くと、零す様に話し出す。
「デニル副将軍は腕の神経を傷付けられたためにその地位を降りることになりましたので」
「んん、成程。死んではいない訳ですか」
顔ぐらいしかエリザベータは知らないが、デニルというのはとても勤勉で真面目な壮年の男性だったらしい。
誰が代わりになるというのかと嘆く、役人の言葉を思い出す。
「でも不意打ちとはいえ、あっさり片腕差し出すなんて。正直程度が知れてると思いません?」
嘲う様なサレアの台詞。片腕を失った彼に追い討ちを掛けたくは無いけれど、今は二人だけの内緒話だ。
「そうですね、仮にも副将軍です。国を守る者としては不甲斐無い限りでした」
バッサリと斬って捨て残っていた紅茶を一息に仰ぐ。
「ちょ、姫様ぁ、ちゃんと味わって下さいよ」
唇を尖らせ中身の無いカップを覗き込んだサレアは銀盤を抱き締め不満を口にする。
「美味しかったですよ、いつも感謝しております」
けれどエリザベータは笑顔で一言返しただけで、眼前の書類へと意識を向けた。
サレアはそんな彼女を見やり、頬を膨らませると何も言わずに茶器を片付け始める。不満げな様子を隠すことなく、それでいて主の邪魔をしない様に密やかに。
書類塗れの机の上、呼び鈴だけを残しサレアは室外へと出て行った。
「仕事の鬼め」
そんな彼女の呟きを聞いたのは、エリザベータの自室を守る衛兵二人だけである。