暗転
いつかと同じ城壁の上で、エリザベータは一人風を受け佇んでいた。
偶然や仕事で顔を合わせる以外の、時間を合わせてジオリスと会う定番の場所である。廊下を行き交う多くの人目に触れるが声は聞こえない、不穏な事を相談している訳ではないのだと主張しながらも気楽な雑談が出来る、とっておきの休憩所。暖かな町の灯りと、きらびやかな空の灯をのぞめるそこはエリザベータ達のお気に入りだった。いつも二人だったその場所で、彼女は一人、遠くを見つめる。
そして、ぽつりと呟いた。
「考えてみれば、おかしいのは最初からでした」
周囲に誰一人居ない、完全な独り言である。
後方の出入り口付近にサレアが控えては居るがエリザベータが背を向けている今、遠い距離と風の音に阻まれて彼女が声を出しているかどうかさえ判別は不可能だ。
気分転換だと言って出てきたが、こんな場所で一人になれば思考が向かう先は一点だけである。
エリザベータは頭の中を整理する様に、また一人唇を動かした。
「何故裏切りは、あの襲撃時になされたのでしょう。何故、部下を斬りつける必要があったのでしょう」
外で事を起こした方が逃げやすいから、裏切りを印象づけるパフォーマンスだったから。エリザベータは口に出した疑問に自分自身で答えをあてがう。けれど立てた仮説には、やはり違和感があった。
「考えたくはありませんけれど、ジオがパフォーマンスをするというのならば……ラクセル兄様に、刃を向ける気が致します」
やるならばとことん上だと、笑う姿がエリザベータの脳裏に浮かぶ。
「そもそも、回りくどく裏切りの理由を隠す事だって」
最初にエリザベータが聞いたのは、楽しそうだから裏切ったという言葉。彼女と戦いたいからだという台詞は、離反したジオリスと初めて会った時に告げられた。そして本当にそれだけの理由なのかと疑いを口にすれば、彼は更に何かがあるのだと含みを持つ返答をする。
楽しそうだからという理由しか無かったと、そう言われた方が実はしっくり来ていたのだ。そんな馬鹿な事で裏切ったのかと、エリザベータが呆れと怒りに身を任せ当て擦る度に次がでるなど、彼女はまるで予測していない。必然、エリザベータの胸には密かな困惑が芽吹き息を潜めていた。
――ああ、でも。こんなに“らしくない”とばかり思うのは、私があの方を理解していないというだけなのでしょうか。
思うと同時、エリザベータは後ろ向きな思考を拭い去る様に首を振る。ジオリスの事が分からないと認めてしまえば、友人だと、友人だったという事実も、偽りになる気がしたのである。
エリザベータは深呼吸を一つ挟んで、ジオリスがいつも居た定位置へと視線を向けた。
『なぁ、本当に俺の方が強いと思うか』
頭に浮かぶのはいつかのやりとり。エリザベータはあの時も、ジオリスの態度を不思議に思った。
ジオリスの言葉にどう返事をしただろうかと顔の向きは変えず、けれど目を閉じて視界を閉ざす。暗闇の中、エリザベータは手探りで記憶を引き寄せ囁いた。
「少なくとも、戦って勝てるとは思いませんわ」
この、ある意味で負けを認めたエリザベータの言葉に、ジオリスは酷く満足げな声で返事をする。
『そっか、エリィはそう思うのか』
頭の中でジオリスの台詞を響かせると、ゆっくりとエリザベータは瞼を押し上げた。揺れる深緑の眼、震える艶やかな唇。
「そう。喜んだ、のですよね」
エリザベータの目前を強い風が通り抜け、どこかから舞落ちた木の葉が再び空へと巻き上げられた。嵐が遠く近く、にじり寄る。黄昏に染まる太陽が、鼠色の雨雲に絡めとられて行く。
「戦いたいと思うなら、あれもおかしくはないかしら」
エリザベータは確かめるように空気を震わせ、けれど直ぐに首を振った。
「いえ、本気で戦いたいと仰るジオの言葉に嘘は無かった様に思いますけれど。ですがそれだけだというのなら、自分の方が強いと言われて喜ぶ事はないはずです」
エリザベータの認識上、ジオリスは戦闘狂である。自身が優位な立場で相手を痛めつけることを、面白いとは思わない。少なくとも以前はそうだった。
寧ろ強者を打ち負かす事こそを好む質だというのが、エリザベータが思うジオリスの姿だ。そのはずだ、と彼女は励ます様に拳を握る。
だとしたならば。
「情けない話ではありますけれど、魔族を相手とした方が余程戦いがいのある相手が得られるでしょうに」
シュルイドで顔を合わせたとき、共に居た大将軍の存在は特に意識されなかった。リューンとガレンの両将軍の前にも、ジオリスは姿を見せていない。
戦いたいというのがもしエリザベータ一人ならば、ジオリスが裏切る利点は酷く低いものではないだろうか。エリザベータは眉間に皺を寄せ、罵る口調で吐き捨てる。
「何故、裏切ったのです」
結局は、そこに戻るのだ。堂々巡りの迷い路。
「他にも理由があることを匂わせながら、はっきりさせないあの態度。貴方、構ってほしがりみたいですよ」
この場に居ないジオリスへ語りかけるエリザベータの声は、どこか頼りない。
エリザベータは小さく吐息を漏らすと、自分自身にさえ聞かせないという様な、掠れる小声で呟いた。
「いつまで、音沙汰無しでいらっしゃるつもりですか」
きっとまた直ぐに目の前へと現れるだろうと、エリザベータは戦場へ出る度彼の姿を探していた。けれど、ジオリスはもう一月以上行方をくらませたままである。
エリザベータ達にとって勇者という強敵が出てこない事は喜ぶべきだが、何故いつまでも襲撃に来ないのか理由が見つからず戸惑うばかりだ。仲間割れでもして殺されてしまったのでは、とサレアが投げやりに言う位に情報は皆無である。
エリザベータもこの一週間程は、ジオリスがすでに死んでしまったのでは無いかという憶測が頭から離れない。そしてそれを思いついてからの不安定な自分自身を、彼女は自覚していた。
ジオリスを裏切り者として処分する未来は、彼の相手を名乗り出た時から決まっていたことである。エリザベータに迷いは無い。けれど理由も分からず、彼女の知らない間に知らない場所で死ぬことは許せなかった。
考えると同時、鈍く軋んだ胸の奥に蓋をしてエリザベータは城下を見下ろす。
ジオリスを征伐出来ても出来なくても、エリザベータを待つのは地獄だ。友人を殺して生きているか、国民を絶望に落として死んでいるか。彼女にとって、未だジオリスは友人である。裏切ったからと、突然感情が切り替わる訳ではない。だからといって彼から逃げる事は、将軍としても王族としても選べなかった。
――どちらに転んでも酷い未来しか無いのなら、せめて納得して進みたい。
だからこそ。
「生きているのなら、早く姿を見せなさい」
呟きは、祈りをはらんで小さく震える。
誰にも聞かせる気のない独り言。一人きりだと分かっていたからこそ漸くこぼされた、夜空に溶けるはずだったそれを拾うのは。
エリザベータの視界が強い光に侵される。彼女の耳飾りが放った閃光は、危機を知らせる警告である。
けれどエリザベータがそれを理解する前に、彼女の四肢から力が抜けた。
「待たなくてもサァ、君が会いに行けばいいんだヨォ?」
「姫様!」
弾んだ声色、独特な語調。あらがえず落ちる瞼の隙間から覗く、くすんだ色を宿した一対の眼。
――来ては駄目。
エリザベータはサレアが居るだろう方向へ顔を向け、唇を動かす。動かそうと、した。
けれど言葉になっただろうかと思考する間もなく、顔の向きを変えられたかどうかさえ分からないままにエリザベータの意識は沈む。
深い深い闇が、エリザベータの身体をくるむように抱きしめた。