第二章 紅の妖 【四】
「確かにお前は零番隊に相応しい野郎だ。ったく、ここまで自由行動をされるとは思わなかった。まさか息吹すら振り切るとはな」
屯所に戻るやいなや、奏炎を迎えたのは憤りを含んだ響一朗の言葉だった。
その後ろには当然、息吹が控えていて、怒り心頭な副長を不安気に見詰めている。
「刹那とかいう例の男と何を話していた?」
「…別に、特に報告するべき事は何も」
ふい、とそっぽを向こうとする奏炎の首襟を、響一朗が引いた。
「今日ばかりはきっちり吐いてもらうぞ、奏炎。お前が隠してる刹那の正体も、お前自身の正体も!」
「真田副長っ」
焦った様に叫び声を上げる部下を、副長は視線で黙らせた。
「初めてお前に会った時から、何かがおかしいと思っていた。その原因が息吹の話と、この間刹那に会った事でようやく解った。お前の霊力には、僅かに妖の気配が混じっているんだ」
確信を持って、青年は疑惑を吐いた。
静謐で涼やかな奏炎の霊力。言霊の術で氷の壁を築いたのだから、属性は水に近いのだろう。そんな清らかな気配の中に、一筋混じる炎の如き凄烈な力。
例えるなら、澄み渡る蒼の中に一本、血の赤が混じった様な気配。
「お前の個人的な事にまで口出しをするつもりは無い。だが、これは別だ。お前にだって解るだろう? ここは、陰陽師の組織なんだよ」
感情に任せて怒鳴る訳でもない。強い感情を含んだ声と瞳が、真っ直ぐに奏炎を射た。常よりも更に真摯な態度に、奏炎も負けを認めざるを得ない。かなりの間渋った後、仕方が無いとばかりに口を開いた。
「俺を信用出来ないと言うなら、それでも結構。ですが、真田さんが俺に抱いている疑問が単なる過ぎた懸念だという事だけは、証明出来ます」
「…ほぅ」
不愉快そうに反応する上司に、異質の少年はきっぱりと宣言した。
「あなたは俺が妖と通じているんじゃないかと思っているんでしょう? ですがそんな事、俺の師である土御門慶継が見逃す筈がないんです」
その途端。
響一朗の深緑色の瞳が限界まで見開かれ、彼の動きの全てが停止した。
「なん…だ、と。土御門、慶継? あの伝説の陰陽師が、お前の師だと、言うのか?」
震える声で何とか言葉を紡ぎ出す響一朗。その後ろの息吹もまた、呆けた様に口を開けて固まっていた。
土御門慶継。その名を知らぬ者は、この日帝国のどこにもいない。
陰陽師と言えばまず最初に彼の名が人々の口に上がる。千聖軍よりも何よりも先に。
何百年という昔から、有能な陰陽師を輩出してきた土御門家の子孫であり、現当主。稀代の大陰陽師として天皇の信頼篤く、千聖軍と名を連ねるもう一つの陰陽警察の長でもある。
そして、奏炎の使う「言霊」の術を完成させた張本人。
奏炎が少し前に「流派に属していると言えるか解らない」と己の師を称した理由を、二人はやっと理解した。
確かに「言霊」の術は、流派と言える程に多くの術者を持ってはいない。その術を扱う為の条件が多すぎるのだ。世の中は土御門慶継一人だと思っているし、実際問題でも弟子である奏炎を含め、たった二人しか「言霊」を武器とする事は出来ない。
だから、「言霊」は流派ではない。だが、土御門慶継ははぐれ陰陽師などではない。
「確かに、そうだな。もしお前の言う事が本当で、お前の師が土御門慶継だと言うのなら、お前は信用するに値する…な」
少し動揺が落ち着いた響一朗が、乾いた笑いを零しながら言った。
「朝廷にでも土御門一族にでも、確認してもらって結構ですよ」
平然と言ってのける少年の様子から、彼の言葉は疑うべくもないものだと、誰もが理解できた。
「だが、それならお前に纏わりつくその妖力の気配は何なんだ?」
しかしどんなに血の気が多く短気でも、響一朗は千聖軍という一つの軍隊を率いる副長だった。
戻された話に、奏炎はぐっと唇を引き結ぶ。
「それだけは言えません。申し訳ありません…」
うなだれる部下の様子に、響一朗は怯んだ。この生意気な少年が、欠片でもこんな反応をするとは思わなかったからである。
「…解った。もう、訊かないでおく」
意外にも簡単に口から出てきた言葉に、響一朗自身が驚いていた。
「ありがとうございます」
一言礼を言うと、奏炎はそのまま零番隊の隊室へと去って行く。その後ろ姿に、陽炎の様な影が付いて行った気がして、響一朗は目を擦った。しかし擦った後、何かが見えた訳ではなかった。
ひやりとした風が自分の髪を撫でて行くのを、奏炎は静かに感じた。そのまま、聞こえる筈の声がするのを待つ。
『ふん。勘だけは良い様だな、あの男』
耳に心地よい声が、随分と苛立った様子で奏炎の頭に直接流れ込む。
「あの男って、真田副長の事か?」
『そうだ。あと少しでも俺の事を探ろうものなら、それ相応の挨拶をしてやろうと思ったんだが。すんでの所で留まりやがって』
奏炎の周りには、誰の姿も無い。もし誰かいたとしても、奏炎が独り言を呟いている様にしか見えない状況。つまり、奏炎と話している声の主は、どこにも見当たらない。
「物騒な事はしないでくれ。ここは一応、これからの僕らの居場所になるんだ」
響一朗や息吹に向けたものとは違う一人称を用いつつ、奏炎は苦笑した。
『解ってるさ。お前が望むなら、何もしない。第一、何かすると言ってもせいぜい死なない程度に毒を盛る程度だ』
「それは物騒な事に充分入るんだけど」
眉を顰めながら奏炎が言うと、声の主は一瞬答えに詰まった。
『じゃあ本当に何もするなと?』
不満そうな回答が返される。
「真田副長がした事は、あの人の立場上当然の事だ。僕らがあの人に隠し事をしている以上、余程の事が無い限り、君は手を出しちゃ駄目だ。あの人は、悪い人じゃない。解ってるんだろう?」
優しく奏炎が問うと、声は溜息とともにこんな返答をする。
『どうだか。お前は冷静な様でいて、すぐに騙されるからな』
「酷いな。僕は結構、人を信じない類の人間だと自負していたんだけど?」
『そう思っているのはお前だけだ。慶継も、お前は見かけによらず単純だと言っていた』
いつの間に師とそんな話をしていたのか。と言うより、かなり酷い話を交わしているのだな、と奏炎は内心しみじみと思った。
「師もそんな事を仰っていたのか? 二人揃って冷たいじゃないか」
『反対だ。俺も慶継も、お前の為を想って言っているんだ』
奏炎の冗談めかした言葉に、憮然として声が反論する。その性急な反応に、思わず奏炎が笑い声を漏らした。
『…笑える様なら、良かった』
すると、そんな奏炎の様子に、声が安堵の息を吐く。そこで奏炎は、声が自分を心配してくれていたのだと気付いた。
「もしかして、僕が刹那の事を引き摺っているとでも思ったの?」
『…悪いか』
率直な疑問に、声の返答が一瞬遅れた。それだけで、見えない相手が赤面しているだろう事が容易に窺え、奏炎は更に表情を緩める。
「ありがとう、僕は大丈夫だよ。だって君は、朱里という鬼と違って、ちゃんと僕の傍にいるじゃないか」
『だがお前は、泣きそうだった。あの時』
「!」
自分の全てを見透かし、理解し、共感してくれる声の主。彼には本当に何もかも筒抜けなのだな、と奏炎は苦笑いを浮かべる。だが、刹那に心を読まれた時の様な不快感は一切起こらない。
当然だ。何せ『彼』は、自分にとって唯一無二の―――
「心配いらない。僕は刹那の事でどうこう悩むつもりも、彼に感情移入するつもりもないよ。調祇」
ふわりと笑ってみせる。その表情を相手が見ているかは解らないが、その微笑は一種の自分への暗示でもあった。自分の発言を、自分自身に言い聞かせる為の。
『…過ぎる』
声の主が、とてつもなく小さな音で、何事かを呟いた。
「なに?」
聞き返した奏炎に、しかし声は質問の答えを言わなかった。
『何でも無い』
それを最後に、その日、声が奏炎に応える事は二度と無かった。