第二章 紅の妖 【三】
『ちょっと刹那! あなたはどうして毎回、私を置いて人の島へ行くの? 私だって人間の暮らしを見てみたいわ』
少し怒った、鈴を転がす様な声。刹那にとってそれは、目を閉じればいつでも脳裏に蘇る、何よりも大切な思い出だ。
『人の国が危ない? 大丈夫よ、いざとなれば私達の妖力でどうとでもなるわ』
渋る自分が、今ではどうしようもなく憎い。
彼女の言う通り、多少の危険を憚らずに連れて行けば。彼女だけでも、救えたのに。
「私の所為だ。私が人という生き物を甘く見過ぎた故に、彼女達は殺された」
静かに声を絞り出す相手を、奏炎は痛ましげに見た。
「大切な存在、だったんだな」
「ああ。何よりも。この世で何よりも大切な存在だった…」
そう答えてから、刹那はふと黙り込んだ。まじまじと奏炎を見詰める。
何度か考え込む素振りをした後、その瞳が懐かしげに細められた。
「お前は、少し朱里に似ている」
言って、刹那の指が奏炎の前髪に触れた。少し長めに伸ばされた蒼い髪。触れられた奏炎は、擽ったそうに目を伏せる。
「朱里も、髪に触れるとお前の様な反応をしていた」
ふ、と笑う妖の手を間近に見て、奏炎は不思議な感覚になった。
人のそれより白濁した爪、陶器の様に白く冷たい指。人ではないと物語るそれが、『彼』のものに酷似して見えた。
「朱里というのが誰か知らないが。俺にとってもお前は、『彼』に似ているかも知れないな」
何を意図して呟いた訳でもない内容。漠然と思ったから漏れ出た言葉だ。
「その者の名を、言うつもりはないか」
「…ああ。『彼』を、他人に会わせる気も無いからな」
「倖せだろうな」
「しあ、わせ?」
「他人に会わせる気がない。それはつまり、利用する気がないという事だろう? 唯一人、その者の力を利用出来る立場にありながら。それは、倖せな事だ。それだけ愛されているという証だからな」
そこまで言うと、刹那は寂しけな、愛おしげな目を奏炎に向けた。
「すべての人間が、お前の様なら良かったな…」
彼の表情は、とても切ないもので。
「そうすれば私は、人を憎まずにすんだだろうに」
「―――今からでも遅くない」
何の事情も知らないというのに、奏炎はそう口走っていた。
ただ、やめて欲しかった。先程までの、淡い微笑に戻って欲しかったのだ。
目の前の、人を愛そうとし、結局憎まずにはいられない…憎んでしまう自分を嫌悪している妖を、救ってやりたかった。
「お前が人を憎むのは仕方が無い。同胞を殺されたんだ。当たり前だろう…! それでも憎んだ事を後悔しているのなら、今からでも―――」
「いいや。もう遅い」
だが、奏炎の説得に刹那は是とは言わなかった。
完全な拒絶の回答に、奏炎の口も動きを止めざるを得ない。
「何故だ。どうして始めから諦める…?」
こんな事になるつもりではなかった。元はと言えば、『彼』の事について安易に探ろうとする彼を叱責する為に、「彼」の正体を息吹に知られない為に、連れ出した筈なのに。
気付けば、彼をどうにか励まそうと必死になっている。そんな自分が滑稽に思えるのに、それでも刹那の事が気になってたまらない。
「私の故郷が燃えたのは、十年前の秋になる一歩手前だった」
突然、妖が昔語りをし始めた。脈絡のない切り出しに戸惑いながらも、奏炎はただ黙って続きを促した。
「その日、私は丁度この国への旅を終え、島へ帰ってきた。だがそれは夕刻の事…里に火がつけられたのは、少なくとも昼頃だったのだろう。既に、里の殆どが焼け焦げていた」
焦点の定まらない錆色の瞳が、そう遠くない忌まわしい過去を辿る。目の前でそれを見守る陰陽師は、己でも知らず知らず、相手の肩に手を置いていた。
「生きている者などほんの一握りしかいなかった。だがその者達も、既に死は免れない状態だった。私は真っ先に、まだ息のある者の傍に駆け寄った…そして、目を疑った。最後の生き残りが…彼女だった」
ぎり、と音を立てて刹那が歯を食いしばる。奏炎の触れている肩が、怒りでなのか悲しみでなのか、小刻みに震え始めた。奏炎はただ、手に力を籠める。
「朱里。私が生まれた時から共にいた、気の遠くなる時を共に過ごした相手だ。彼女が、島で最後まで生きていた者だった。彼女は、私の姿を認めてすぐに、立つ事も出来なくなった」
語る彼の腕に、あの時倒れ込んで来た朱里の重さが蘇る。それと同時に、腕に纏わりついた暖かな感触も。
目には見えなくても、あの血の跡は、まだこの腕に在る様な気がしてならない。
「私の腕の中で、彼女はこう言った。『どうか憎しみなど覚えないで』と。だが私はその直後、数多の人間を殺した。仇共と、解ったから…」
「!」
奏炎は目を瞠った。
言い遺された言葉と正反対を行っている刹那にではなく、そんな残酷な言葉を遺した朱里に。
もし『彼』が人に殺されて、自分にそんな言葉を遺したとしたら。想像するだけでもぞっとする。とても、耐えられない。
たとえ『彼』の最後の望みだとしても、叶えてなんかやれない。自分の命を投げ打ってでも、仇を殺そうとするだろう。
だがそれも、所詮は想像だ。実際に言われた刹那の痛みを、自分が理解してやれる訳がない。だから、それ以上を語れない刹那の肩を、ただ強く掴んだ。
どうかその心に刻まれた深すぎる傷が、少しでも癒える様にと、願いながら。
「お前の傷を癒せるのは、その朱里という人だけなんだろうな。せめてお前が、桔梗島の妖じゃなければ、まだ…」
これ程、自分の無力さを味わうのは初めてだった。
「せめてお前自身が、赤鬼じゃなければ!」
そしてとうとう、奏炎はその名を叫んだ。刹那はそれを、瞑目して聞いた。
人と妖の狭間に立つ『鬼』。、色を名に戴く鬼達の中、「赤鬼」は他のどの鬼よりも人に友好的な事で有名だ。人の間で語り継がれるくらいに。
「赤鬼」はどの妖よりも人を愛し、庇護した一族。それと同時に、「治癒」を司る珍しい妖でもあった。
「どうして、赤鬼は赤鬼を癒せないんだろうな?」
やり切れなさを漂わせる奏炎の言葉に、刹那は僅かに微笑んだ。
「不死身の存在など、この世には要らないからだろう」
「なら! ならせめて、心の傷を癒す術くらい…!」
「充分だ」
納得がいかないとばかりに言い募ろうとした少年の頭に、鬼は手を乗せた。そのまま、幼子をあやす様に柔らかく撫でる。辛い過去を語っていた所為か、少年の掌の熱が肩から伝わる事に、ひどく安心感を覚えた。
「刹那…?」
「お前がそう言ってくれるだけで、充分だ」
そう告げると。橙と紅を織り交ぜた様な色彩の光を残し、刹那は陽炎の如く消え去った。まるで幻覚だったかの様な去り方に、奏炎は思わず自らの髪に触れた。
そこに、僅かながら刹那の温もりを見付けた気がして、彼はゆっくりと瞼を閉じた。
最後の言葉は、人への復讐を止めるという意味なのかは解らない。だが、違う気がした。それよりももっと、決意の色を秘めていて、嫌な予感がしたのだ。
「お前を救う事は、出来ないのか? 俺には…」
呟きながら、目を開ける。丁度、最後の光が地に触れ消えるところだった。
橙の混ざった赤い光。それはまるで、秋に散る紅葉の様だと、何故か考えた。