第二章 紅の妖 【二】
全力で彼の許へと走り寄った息吹。そのすぐ鼻先を、赤い光が駆け抜けた。それを目で追おうとして、彼は必死に奏炎の方向へ視線を戻した。そして、目を瞠った。目の前に二つの人影が見えたからである。
「…刹那」
自分のすぐ脇に立ち、赤い光に赤い炎で以て対抗した相手の名を、奏炎が呟いた。
「何を、しているんだ」
茫然とする奏炎へと、刹那がゆっくりと視線を向ける。緩慢な動きが、余計に彼を異質に見せる。
「それは私の台詞だ。どうしてこうも、お前は私の近くに現れる?」
「別に、お前を尾行していた訳じゃない。只の巡察だ」
「だろうな。意図して私の近くにいたのなら、こんな失態をおかす筈がない」
冷静で無感情な声は、相変わらず乾いた響きを紡ぎ出していた。
「お前、炎を司る妖なのか?」
黙り込んだ奏炎の代わりに、今度は息吹が刹那に問いかけた。
「それがどうかしたのか?」
「何故、今、奏炎を助ける様な真似をした?」
一言ずつ、噛んで含める様な言い方で尋ねる相手に、妖は実に簡単に答えを出す。
「助けた訳ではない。何故かあの光は、いつも俺に纏わりつくからな」
「奏炎を助けたのではなく、あの光に攻撃を加えただけだ、と」
「そうだ。第一、私に陰陽師を助ける謂れなどない」
伏しがちな錆色の瞳が、真っ直ぐに息吹を見据えた。それだけで、言い表しようのない圧力が、息吹の霊力に加えられる。
その感覚に、息吹は全く免疫が無かった。
「何だこの妖力は…お前は、一体何なんだ!」
強大過ぎる相手に向かって、悲鳴じみた叫びを上げる人間に、刹那は冷めた表情を浮かべる。そして、息吹と違って自分の正体に気付いている奏炎に話を振った。
「私が何者か、仲間に教えてやらないのか?」
「自分から正体を晒せと言う妖は、お前が初めてだ」
にべもなく言い切った奏炎の様子から、息吹も刹那も、彼が刹那の正体を語る気が無いのを悟った。
「風変わりな人間だな、お前は。いや、人間『もどき』だ」
言い直され、瞬時に奏炎の気配が冷たくなる。その反応に、殺気を向けられた張本人は面白そうに笑んだ。だが、息吹は状況に全くついていけない。
「待て、待ってくれ奏炎。一体何の話をしているんだ? 人間もどきとは、どういう…」
仲間からの問いに、奏炎はひどく寂しげな微笑を浮かべた。何故か、見た者を哀しくさせる様な微笑み。
「君は気にしなくて良い、息吹」
「奏炎…?」
相手の反応で、少なくとも彼が自分の質問に傷付いた事が理解出来た。だが、その理由が解らない。
「刹那。話がある。来い」
戸惑う息吹の前で、奏炎は刹那の袂を掴むと強引に引っ張り、どこぞへと歩を強めた。反射的に付いて行こうとした息吹に、ただ首を振るだけで意志を伝える。
付いて来るなと身振りだけで言われた息吹は、それに従わざるを得なかった。そうしなければならない気がしたのだ。
そのまま、すぐ近くの角を曲がり消えてしまった二人の背中に、息吹は一言呟いた。
刹那という名の妖に向けてではなく、出逢ったばかりの仲間に向けて。
「お前は何者なんだ…」
「失うのが、恐ろしいんだな」
息吹と離れた直後、美貌の妖はそう言った。
「仲間に畏怖されるのが恐ろしい。蔑視されるのが怖い。お前の心の中は、そんな感情で一杯だ」
強引に腕を引いている奏炎は、そんな言葉を浴びせられながらも、立ち止まったりはしなかった。だが。
「しかしそれよりも強いのが…『彼』を手放したくない、という想いか」
「黙れ!」
ぴしゃりと叫ぶ相手に、刹那はただ片眉を上げた。
「何故隠す? 私に知られる事が、そんなにも不快か? 心配しなくとも、お前の仲間にわざわざお前の秘密を暴露する気など無い」
「そんな事は知っている! お前は、そういう類の妖じゃないからな」
自分よりも少し背の高い相手を、陰陽師は睨み上げる。
「勝手に俺の心を読むな。例え誰であろうと、『彼』の事を語る事は許さん」
「大切な兄弟だからか? いいや違うな。第一あれ(・・)は、兄弟と呼べる存在では無い筈だ」
「いい加減にしろっ!」
ざわりと空気が揺れ、一気に冷気が二人を取り囲んだ。奏炎の霊力が、彼の怒りに反応した結果である。
「怒りに身を任せ、力を振るうか。嫌いじゃない、そういう力の使い方」
そこで初めて、妖は微笑を浮かべた。笑っているかもわからない程度だが、初めて見せる表情らしい表情。
「悪鬼の発言だぞ、それは」
それにつられてなのか、奏炎も思わず語調が柔らかくなった。それ故、場の空気が一瞬和むが、すぐに優しい雰囲気は消え失せた。
「叨埜家の人間に聞いた。お前の一族は、彼らによって殺されたらしいな」
突如切り替えられた話。言われた内容に、刹那はただ瞑目した。