第二章 紅の妖 【一】
第二章
奏炎が刹那と真臣と対峙してから三日が経っていた。
先日変死したのは叨埜家の分家の人間だったらしく、既に本家の人間が殺されてしまっていた叨埜家では、大した騒動は起こらなかったと言う。
「おい奏炎! いい加減に教えろ、何なんだ、桔梗島に住む妖ってのは!」
今朝もまた響いた副長の怒鳴り声に、息吹は溜息をついた。
かれこれ三日、あの問いは叫ばれている。
「それくらいの知識、陰陽師なら誰でも知っているでしょう」
「おまっ…要するに俺は陰陽師としての知識もままならない人間だと言いたいのかっ!」
「そこまでは言ってません。調べればすぐに解ると言っているんです」
「そんな事に時間をかけてられないから訊いているんだろうが」
「『そんな事』なら気にする必要ないじゃないですか」
こんな延々と続く掛け合いを耳にするのも、息吹はいい加減に飽きていた。
毎日毎日、よくもまあ、同じ口競り合いが出来るものだ。変わり映えのない内容を怒鳴れる副長もだが、それに毎回付き合っている奏炎も凄いと思う。
「とにかく! 俺はこれから巡察に行ってきますので。それまで少しは蔵書室にでも籠って調べて下さい」
「それが副長に対する口の利き方か?」
青筋を浮かべる響一朗に構わず、さっさと奏炎は狩衣を纏う。そのまま市中へ出て行こうとするので、慌てて息吹も後に続いた。
零番隊の存在を知られない為に、奏炎の隊士としての単独行動は基本許されていない。なるべくどこかの隊と共に巡察する様にと、総長から命令が下されていた。
今日は一番隊が巡察する日ではないが、周りに他の隊長がいない今、息吹一人でも付いて行った方が良いだろう。
「奏炎、何故そうも桔梗島の妖について語りたがらないんだ?」
出逢ってから数日、息吹は奏炎の事を名前で呼ぶ様になっていた。勿論、奏炎も。
「別に。師から授けられた知識を、簡単に他人に晒したくないだけだ。君も不満なのか? 息吹」
憮然として答える彼の様子から、本当に意地の悪い考えから情報を伏せているのでは無いと解る。それは響一朗も同じだろう。ただ、教えないのは自分達を信用していないからではないのかと、不安になってしまう副長の心情もまた、息吹には理解出来た。
「真田副長は、基本的にお優しい方だ。それを表に出したりはなさらないが。だから、部下に頼られない事を何よりも気にかけてしまわれる。解ってやってくれないか」
「…知ってる」
ぶっきらぼうに答える奏炎の表情に、少し照れた様な、嬉しそうな表情を見付け、息吹は微笑んだ。彼も、新しい環境に戸惑っているだけなのだと察せられるから。そしてそれを、彼は温かい気持ちで見守る事が出来た。
まるで、弟を見詰める気持ちみたいに、温かい気持ちで。
「奏炎には、兄はいたのか?」
「…いや。長男だし、弟もいない。姉妹はいたらしいが」
「いた『らしい』?」
不自然な言い方に、息吹は眉を顰めた。何かが引っかかったのだ。
「俺の家は、少し特殊で。姉には数回会った事があった。けど、妹には会った事がない。名前すら…知らない」
「名前も知らない? まさかお前の家は…」
かなりの家柄だったのかも知れない。そして、或いは奏炎は、正妻の子では無い。
そう考えると、姉妹と会った事が無いのも納得がいく。
(だが、長男…男兄弟がいないと言う事は、一人息子か?)
たとえ妾の子でも、たった一人の男児なら、それなりに扱われる筈だ。男尊女卑がこの国の常識なのだから、正妻の娘でも、家督を継ぐかも知れない長男と会わせられない謂れは見つからない。
(いや待て。第一この間は兄弟がいると…)
生じた矛盾に息吹は首を傾げた。こうなると、奏炎の言う「特殊」の意味が気にかかる。
そう、息吹が物思いに耽りかけた時だった。
「息吹っ!」
奏炎の怒鳴り声が響く。はっとして彼の方を向くと、焦った様にこちらを見る奏炎の顔が目に入った。それと同時に、背後に冷たい気配を感じる。
「妖か…っ!」
振り返りざま懐から呪符を取り出す。それを呪文の詠唱と共に相手に投げつけた。
「な、に?」
だが、背後には何の姿も無かった。自分が放った炎を纏う呪符は、ただ土に突き刺さる。
「帰命し奉る(ナウマクサマンダボダナン)…我が身に依りし神狐よ、そが纏いし炎を我に貸し給え!」
それでも諦めず、息吹は更に詠唱を続ける。
彼が得意とする炎の陰陽術で、自分の身の回りに炎の陣を描く。すると。
炎から逃れる様に、一つの赤い光が真っ直ぐに奏炎の方向へと駆けて行った。
「奏炎!」
息吹が叫ぶ。だが、奏炎は焦った様子もなく、ただ光を真正面から見詰めた。
「…〈凍れ〉」
ただ一言、彼が呟く。呪文の詠唱も何もない、ただの「言葉」。
しかし、赤い光の目の前に瞬時に氷の壁が築かれた。
「『言霊使い』だったのか…!」
茫然と息吹が言葉を漏らす。言葉そのものに霊力を乗せ、望んだ事を表す言葉だけで術を形成する陰陽師。それを「言霊使い」と言う。
だが、一つの言霊に大量の霊力を消費する為、莫大な力をその身に宿す者にしか、その能力は扱えない。
「これはまた、とんでもない切り札だったな…」
きっとこの事を報告すれば、響一朗は驚愕するだろう。言霊使いなど、この世で知られている陰陽師ではたった一人しかいない、伝説中の伝説とされる存在だ。
そんな存在を千聖軍が手に入れていたと知ったら。
「いや、解っていたから利匡公は推薦したのか」
将軍弟、本郷利匡。幕府のあらゆる重臣を押しのけ、自他共に認める国の「頭脳」となった名宰相。彼の「推薦」の意味を、もう少し重く取るべきだった。
そんな、余裕に溢れた気持ちになったのだが。
ぱりん。
綺麗な音を立てて、赤い光が氷を破った。粉々に砕け散った厚い氷の壁は、きらきらと輝きながら地に落ちる。
奏炎の顔に、焦燥が浮かんだ。
まずいと思った時にはもう遅かった。ここからでは、息吹の呪符は届かない。自身の術が破られた奏炎にも、もう一度「言霊」を使う程の時間がない。
「奏炎―――!」
名前を叫んだ相手が、真紅の炎に包まれた。