第一章 蒼の陰陽師 【三】
「何だ、これは…」
目の前の光景に、響一朗は茫然とした声を漏らした。彼と息吹、そして奏炎の前には、大勢の人々に囲まれた、一人の男の身体がある。まだ温もりを持った身体。しかし、最早生きる為の動きは一切していなかった。
「何故だ。何故、解った? 奏炎…」
泰京中に潜む千聖軍の監察から、こんな報告は上がっていない。何より、まだ温かい遺体が、この命がつい先程まで生きていた事を示している。そんな事に、どうしてたかが一人の陰陽師が気付けたのか。
使える、とか使えないという問題ではない。これは異常だ。どう考えても、常人の成せる技ではない。
「さ、真田副長。あれを」
かなり動揺した様子で、息吹が響一朗の視線を遺体からある一点へ移させた。
「どうした、いぶ―――っ!」
息吹の指差した方向を辿った副長は、息を呑んで硬直した。そこに、男がいたからだ。
茶色に赤をほんの少し混ぜた様な、錆色の髪は短く切られている。切り揃えられた前髪の下にあるのは、いくらか赤味が強くなった錆色の双眸。纏うのは普通の葡萄色の着物で、ただ見ただけでは普通の一般人にしか見えない。
だが、陰陽師である彼らには判った。男は、何かが「違う」と。
「あれか、奏炎。お前の言っていた男とやらは」
問いながら、響一朗は答えなど求めていなかった。それを知っていたから、奏炎も無言のままその問いを受け流す。
暫く三人は男を見詰め続けていた。しかしそのままどうしたら良いか解らず、誰も動かない。すると、男は突然に踵を返してしまう。
すぐ目の前に人の死を見ながら、男は終始無表情だったのが奏炎にはひどく気にかかった。それ故、二人の同行者に無断で男を追い始めた。
「おい、奏炎っ?」
突然の部下の行動に、副長が驚きながらも止める期を逸してしまう。その間にも、奏炎と男の姿は人並みに呑まれてしまった。
「追いますか、真田副長」
「いや、良い。あいつは俺達が心配する様な柄じゃないだろうからな。それよりも俺達がすべき事は、この男の身元調査と…」
そこで言葉を切り、彼は鬱陶しげに人並みを見た。傷も何もない身体に、幸いまだ誰も死体だとは気付いていない。だが、それも時間の問題だろう。
「この場をどう切り抜けるか、ですね」
察した様に、有能な一番隊々長は言を継いだ。
そんな彼らを背後に、奏炎は必死で男を追っていた。
長身であるものの、細身で女じみた面影のある青年は、その見かけに反してとんでもない速さで小路を歩いて行く。それを見せつけるかの様に、青年の着物の裾が空を裂いている。
「待て!」
とうとう追いかけるのに飽き、奏炎は声を張り上げた。幸い、辺りに人は殆どいない。
そして更に、青年は大人しく奏炎の要求に従ってくれた。
ゆるやかな風の吹く中、髪を靡かせながら男が振り返る。無表情のままの貌は病的に白く、その美しさは奏炎に通じるものがある。
つまり、異形じみた美しさが。
「驚いたな…そこまで完璧に人型を取れる妖は、初めて見た」
いきなり核心を突いた発言をした奏炎に、青年は少し目を瞠った。それから暫く黙り込んだ後、その薄い唇に笑みを刷く。
「私が妖だと気付くお前もまた、私と『同じ』だと、自ら言っているのを理解しているのか?」
柔らかく、どこにも感情が見られない声が問う。
「お前は、何だ。何故いつも、殺された叨埜家の者の傍にいる」
問われた内容に答えず、奏炎は詰問した。しかしその碧色の瞳は、ほんの少し不安気に揺れている。それに気付かぬふりをして、青年は再び口を開いた。
「私の名は刹那。殺された叨埜一族の傍に何故いるのか? それは私の方が知りたい」
「つまり、お前が殺したのではないと?」
陰陽師の疑り深い様子に、刹那と名乗った青年は微笑した。
「そうだ。私が殺したのではない」
「それをどう証明する?」
「証明? そんな事をする義理がない」
ふ、と嘲笑う様に息を吐く刹那に、奏炎は歩み寄った。
「人が幾人も殺されているというのにか」
「何か間違えていないか? もし私がお前の言う者達を殺していたとして、妖である私にそれを償う謂れはない」
初歩的な事だろう、と表情で訴えてきた青年。その身から発せられる、凄絶な雰囲気。
それは、妖が持つ妖力が具現化したものだ。大きな妖力を持つ妖ほど、身に纏う空気は絶大な力を秘めていく。
古くから陰陽師達が暮らし、幾重にも結界が張り巡らされた泰京に入れる妖は、大抵は雑鬼と呼ばれる低級な妖か、その結界さえ破る事の出来る強大な妖のどちらか。
刹那は、紛れも無い後者だった。
「なら質問を変えよう。お前ほどの妖が、泰京に一体何の用だ」
「それもまた、答える謂れが無いものだ」
即刻拒否してきた刹那に、奏炎は眉根を寄せた。
「唯一つ教えてやろう。叨埜一族は、殺されてもおかしくない大罪を犯した一族だ」
「何っ?」
意味深げな台詞を残すと、刹那はさっさと踵を返してしまう。そしてそのまま、まるで煙の様に陰陽師の視界から逃れてしまった。