最終章 碧空は紅に染まる 【二】
「まさか、こんな事になるとはな」
「……」
自分の呟きにも、奏炎は反応しない。無視している訳ではないそれを見て、息吹はどうしたものかと悩んだ。
零番隊初の任務を終えてから、もう十日になる。あれ以来どこかへと消えた刹那と朱里を、千聖軍は放っておいた。元々彼らは妖だし、事情が事情なのでそっとしておくべきだと考えられたのだ。
それから三日後だった。先程の様な噂が流れ始めたのは。
あれを最初に聞いた時の、奏炎の茫然とした表情。信じたくないと首を何度も振っていた彼を思い出すと、あの茶屋に連れ込んだ自分を呪いたくなる。
あんなにも苦労して救った二人の魂。朱里は既に死んでいる身だから、近い内に命尽きてしまうのは仕方がないと思える。けれど、刹那は。
「俺は、間違っていたのか…?」
不意に、奏炎が小さな呟きを漏らす。
「何だって?」
「俺は間違っていたのか? 彼女に時を与えず、現実を見るべきだと刹那を説得するべきだったのか?」
立ち止まり、彼は己の掌を見詰める。その手で救いだしたつもりだったのに、結局は両方とも失ってしまった、妖の命が見えるのかも知れない。
「ふざけた事を言うな。お前は刹那の心を救った。もしあの場で朱里殿が消えていたら、刹那の心は壊れていたかも知れない」
「でも、生きてはいた」
「それで倖せか?」
打てば響く様に、奏炎の言葉を否定していく。それが息吹に出来る唯一の事だった。
奏炎がした事に、何の間違いもなかった。朱里の死までの時を長くする事で、刹那は心の整理をつける事が出来ただろう。朱里も、後悔を一切残さずあの世へ逝けた事だろう。
「もしもの話だ。もし、お前の目の前で調祇が死んでしまうとして、目の前で話す暇もなく消えてしまい、自分は生きなければならないのと、共に死を選ぶまでの時間があるのと…どちらが倖せだ?」
この例えは、何よりも奏炎に現実を見詰めさせた。彼の整った顔が一気に蒼褪める。再び黙り込んでしまった彼に、息吹は答えを求めた。
「どうなんだ? 二択なのだから簡単だろう」
どこか有無を言わせぬ問い方に、奏炎は震える唇で答えを言った。
「共に、死を選ぶ方が、良い…」
その答えを望んでいたにも関わらず、死を選ぶという奏炎にやり場のない怒りが湧く。それが今、奏炎の中に燻っている物なのだと漠然と考えつつ、息吹は「だろう」と頷いた。
「なら、お前は間違ってなんかいない」
「……解っている。そんな事、解って…でも、それでも俺は…」
「刹那に生きていてほしかったのは、俺も同じだ」
往来で立ち止まるのはどうかと思い、息吹は奏炎を支えて、とりあえず落ち着ける場所へと歩き出す。
「お前が悲しむのは解る。けれどな、刹那は倖せなまま死ねた。それを、喜んでやれ」
今でもまだ信じられない。あの鬼が死んだ、などと。
それでも現実を受け止めざるを得ない程に例の噂は世間を膾炙し、これまでに嫌と言う程、刹那と朱里の死は耳に入ってきた。
息吹にとっても、刹那の存在は大きなものとなりつつあった。初めて見た、人を想う妖。彼のお蔭で、息吹の妖に対する観点は変わったのだ。
「せめて、何か言い遺してくれれば良かったのにな…」
秋になり、日が沈むのが早くなった空を見上げる。雲一つない碧空に、段々と朱が差し始める。息吹が黙って空を見ているのに気付き、奏炎もただぼんやりと上空を見詰めた。
やがて朱が濃くなり、ついには太陽の断末魔の如き血色が輝く。
「黄昏の色。まるで刹那の髪と、調祇の瞳みたいだ」
何を考えるでもなく、そう奏炎が呟いた。それに頷こうとした息吹の前に。
「ならばお前の瞳は、黄昏に染まる前の碧空だな」
あまり抑揚のない、感情を感じ辛い声が、響いた。