第四章 紫の守護者 【拾四】
「「……え」」
二人の陰陽師が同時に声を漏らす。真臣はそれを気にせず続けた。
「だけど今やっと解りました。そうですよね、『堕天』を陽都に置いておけば、玉依家の名に傷が付いてしまいますし」
「陰陽師より、呪術師の方が『そっち方面』には詳しいと思っていたが、まさかそこまで知ってるとはな」
頭上から聞こえた声に、三人が顔を上げる。月を背にした鵺が、傲岸不遜に笑んでいた。
「その通り。玉依の奴らは格式だの伝統だのと、古い事に囚われすぎる頭の固い人間共でな。幼い頃に俺と出逢った奏炎を『堕天』と呼んで、祓えを行おうとした」
堕天。それは、神道は勿論、陰陽道でも禁忌とされる存在である。
何をもって堕天と呼ぶかはあまり定かでないが、そう呼ばれる者の共通点は唯一つ。その身に妖を宿している事だ。
相反する存在ではあるものの、神道も陰陽道も、その目的は「妖を祓う事」。その真逆である行為を犯した者は、堕天の烙印を押され追放されるのが常だ。
「だがな、そもそも奏炎を堕天させたのは、他ならぬ玉依家の奴らだ」
憎々しげに事実を明かす調祇に、奏炎が蒼褪めた。
「調祇っ」
慌てて止めようとする様子に、誰よりも相手を尊重している調祇は口を閉ざす。しかし、それはもう遅い対応だった。
「玉依家は巫の家系。この世の中で唯一、男を軽んじ女を重んずる一族でしたね」
思い出した様に真臣が呟いたからだ。
「そうか、玉依って、あの神道二大名家の一つの玉依家か!」
「国一の巫女は全て玉依家が輩出しているとも言われる、あの(・・)玉依…」
真臣のお蔭で、玉依家についての全てを思い出してしまった響一朗と息吹。その二人を見て、奏炎と調祇が恨めしげに元凶を見た。
「だから、お前は姉妹と会った事がなかったんだな、奏炎」
「…ああ。そういう事だ」
頷かれた息吹が、奏炎の過去を想って表情を翳らせる。しかし、息吹の想像は現実に追いついていないだろうと、調祇は考えた。
玉依家での奏炎の待遇は、本当に酷いものだった。
神道の名家であり女を尊重する玉依家には、当然妾などいない。奏炎も、その姉妹も、皆母親は同じだった。だが、奏炎だけは本邸の中でも離れに移され、親の愛情を受けずに育てられた。
人の愛を教えなかったのは親だけでなく、親戚や玉依家に仕える者も同じ。巫の家系にとって男など必要のないものとされていたからだ。
そしてもう一つ。
奏炎は、母親の腹の中にいる時から、その絶大な霊力を感じさせる子供だった。だから、性別を知らぬ時の一族連中は皆、大きな力を持って生まれるだろう新たな命にこれ以上ない期待をかけた。
それ故、男であると解った時の失望のしようと言ったらなかったという。だがそれも、奏炎にしてみれば勝手に期待され勝手に絶望されただけで、何の罪もない事。自身には何の責も無いのに愛情をかけられず、幼心に自分を愛してくれる存在を求めるのは、当然の流れだった。
そして、禁忌でもある堕天をする・・・つまり、調祇と出逢う事は、奏炎の霊力を持ってすれば容易な事でもあった。
今でも脳裏に蘇る。黄泉と現実とを繋ぐ異形の道、六道。その六道の辻に突如現れた、自分の半身の存在。
鵺という生き物は、この世に存在する人間の数だけいる。人間が生まれるからこそ鵺は生まれられるのだ。だから鵺は本能的に半身である相手を愛し、想い続ける。半身が傷を負えば己も傷を負うし、半身が命を落とせば自らも絶命する。
まさに運命を共有する存在なのだ。
だが、殆どの鵺が半身と出逢わぬまま生涯を終える。鵺自身は、半身がどの様な人生を歩むのか、異界、つまりは黄泉から眺める事が出来る。しかし、自分の存在を半身に伝える事は出来ない。
自分はここにいる、ずっと、いつでも君を想っている。
そう伝えられず苦しむ同胞を、調祇は何人も見た事があった。そして自分も、そうやって生を終えるのだと思っていた。五年前までは。
いつもずっと遠くに感じる奏炎の気配が、すぐそこまで近付いている。それに気付いたら、六道の辻へ駆け出すのに意志は必要なかった。
全速力で、背の翼を使って駆け付けた先に、奏炎の姿を認めた時の言い様の無い嬉しさ。
自分と同じ貌をしているのに、髪も瞳も、ずっと清らかで美しい色だった。身に纏うのも禍々しい妖力ではなく、清純な霊力。
彼が自分の半身である事に、誇りすら感じた。だからこそ、その表情がひどく気になった。碧玉の瞳が虚ろなのが、どうしようもなく残念に思えた。
だから、こう言った。
「お前の望みを言え。何でも叶えてやる。お前は俺なのだから。俺の半身」
本当は、もっと優しく問いかけたかった。でも、最愛の存在を前に柄にもなく緊張していて、出てきたのはこんな口調だった。
「僕の願いは…」
突然の問いに、奏炎は長い間無言だった。それでも待ちに待って暫く。ようやく彼は、そう切り出した。
「傍に、いてくれ」
たった一言。
「僕の傍にいてくれ。何もしなくて良い、ただ傍に。僕が呼べば答えてくれ…それ以外は、何も望みはしないから」
奏炎にとっては、いくら考えてもそれしか出てこなかった、という答え。調祇にとっては意外過ぎる、そして欲の無さすぎる答え。
「それがお前の望みなのか? それが」
だから、思わずそう訊き返してしまった。
「そうだ。叶えてくれるのか、『僕の半身』」
奏炎が自分を半身だと言ってくれた瞬間、調祇に生きる道は決まった。
彼が望めばいつでも答え、彼が傍にと望むのなら、世の理を破ってでも傍に行こう。出逢う事など許されない、手を取り合う事など許されない人と鵺。
この関係を誰が罵倒しても、自分は絶対に奏炎の手を放さない。彼がそれを望まない限り。
すぐに障害はやって来た。長男の異常に気付いた玉依家が、いつの間にか堕天してしまった息子をどうにかしようと、祓えの儀式をしようとしたのだ。
それをされてしまえば、折角結ばれた二人の縁は切られる。それ故、奏炎は家を出た。そうして土御門慶継と出逢い、今ここにいるのだ。
思えばあれから、随分と時が過ぎたものだと考えてから、調祇は寄り添う二人の鬼に視線を移した。
「言っておくが、お前に残された時間は永遠じゃない。と言うか、そう長く保つものじゃない…」
語尾が、少し歯切れの悪いものとなる。明らかに言い難い、と言った様子の鵺に、朱里は微笑した。
「充分よ。ちゃんと、別れを言えるのだから」
彼女は明るくそう言うが、朱里の言を聞いた刹那は表情を暗くした。こういう時、本当に女は強い、と調祇はしみじみ思った。だが、そんな余裕も、一瞬後には消えてしまう。
(…ちっ)
内心舌打ちする彼は、自分のかかる重圧に耐え切れず崩れ落ちた。
それを目の端に捕らえた奏炎が、慌てた様子でこちらへ駆け寄って来る。
「調祇! 無理をし過ぎだ、そろそろ戻らないと…!」
鵺とその半身は、お互いに同じ空間に存在する事を許されない。それが世の理だからだ。そんな条理を破る事は、絶大な妖力を持つ調祇にも不可能な事で、今二人が同時に存在しているのは、調祇が妖力だけを人間の世界に移しているからだ。
つまり奏炎達の目の前にいる調祇は、調祇本人というより、彼の魂を伴った妖力の塊とも言える。それでも、世の中はそう甘くない。
理を破っている側である調祇に、代償が求められる。いつもはこの代償を最小限に留める為にと、奏炎が身体を貸してくれる。だが、霊力を持つ奏炎の身体にとって、妖力を伴追う調祇の魂は毒にも等しい。
千聖軍の面々に奏炎と自分を正体を知らしめる為にも、今日はあえて彼の身体を借りなかった。
「だい、じょうぶだ。これくらい」
心配させまいと笑ってみせるが、奏炎もそこまで馬鹿ではない。
「駄目だ、早く戻って! だから僕の身体を使えば良いと…!」
悲鳴をあげる奏炎を前に、調祇は静かに目を閉じた。