第四章 紫の守護者 【拾三】
それと同時に、彼女を形作る光が崩れ始める。
「…え…?」
手の届きそうな距離で薄れてゆく、最愛の鬼の姿。目の前の出来事に、刹那は凍えるかの様な錯覚に陥った。
『そんな表情をしないで。ほら、あなたも笑って?』
取り残される幼子の様な、寂しげな顔をする彼に、朱里はもう一度笑いかけた。
仕方の無い事だ。汪唎の様に滅せられなくとも、この世に執着した理由が消えれば、必然的に彼女の存在は消える。そして朱里の心残りは唯一つ、刹那の心の行く末だった。
憎悪を覚えてしまった彼が、このまま茨の道を歩むのは耐えられない。そう思い、彼の未来を見届けようと強く願った末、こうして世に留まったのだ。
けれど、人にあんな優しい態度を取れるのだから、もう心配はない。
『もう二度と、人を憎んでは駄目。心穏やかに、私の大好きなあなたのまま生きて頂戴。お願いよ、ね?』
段々と、けれど着実に消えてゆく身体を前に、朱里は急く事なく最後の言葉を紡いでいく。それが何よりも現実を知らしめて、刹那は固く目を瞑った。その肩に、いつかの如く一つの手が乗せられる。
『あの時は、訳もなく襲ったりしてごめんなさい。刹那を尾けているんだと誤解してしまったの。許して?』
「そんな事、わざわざ言われなくても解ってる」
謝罪された奏炎が、痛みを堪える為に唇を引き結ぶ。
『ありがとう。刹那の事、解ってくれて。私の痛みを、聞いてくれて……さようなら』
別れの言葉と共に、朱里の姿が急速に消えてゆこうとした。二度目の彼女の死に際に、刹那はただ茫然とするだけ。
しかし別の手が、彼女へと伸ばされた。
「あんたが死ぬまでに、少しだけ余裕を作ってやった。それまでは―――特別処置だ」
艶やかな声が、不遜に言い放った。
「俺は鵺。鵺は、黄泉の門を守護する妖だ。この事…閻魔の爺には黙っておけよ」
そう告げて、奏炎の姿の異形が朱里から手を放す。そのまま、立ち尽くす刹那の方向へと彼女を突き飛ばした。
「朱里!」
名前を叫んで、彼女を支えようと刹那の腕が伸ばされる。本来なら触れられない筈の二人の身体は、微かな温もりを伴ってぶつかった。
「どうして…」
確かに触れ合える相手に、二人の鬼は目を瞬いた。また、完全に蚊帳の外の陰陽師達も、目前で起こった奇跡に硬直するばかり。
そんな彼らの前で、鵺が奏炎の身体から「抜け」出た。
「一体何をした、奏炎!」
蒼の髪に戻った部下に、すかさず響一朗が問い詰める。
「黄泉から、彼女の肉体を持ってきてもらったんです。そこにいる―――調祇に」
自分とそっくりの顔立ちの妖怪・・・調祇を示し、状況を説明する奏炎。その発言の意味をゆっくりと把握し、響一朗は顎が外れんばかりに驚いた。
「はああっ?」
怒鳴り慣れた声が上げる大音声に、息吹が顔を顰め、耳に手を当てる。
「黄泉って、おま、持って来たっ? な、第一それは死体って事に…いやでも動いてるし、
ああああっ!」
混乱が限界値に達し、冷静沈着な筈の副長は、文脈のなっていない発言と、意味不明な叫び声を上げた。しかしそれを、隊士達は素直に笑えなかった。
「…真田副長、とにかく落ち着いて下さい」
「何でお前はそんなに冷静なんだよ!」
「俺はあなたよりは、奏炎の常識外れさに免疫があります」
「あれは常識外れなんてもんじゃないだろ」
わなわなと震えながら、響一朗が瓜二つな陰陽師と妖を指差す。ちょっとした恐慌状態に陥りつつある上司を、息吹はこれ以上なく憐れに思った。
尊敬する冷徹な副長や何処に、と本気で叫びたい気分である。
「その鵺…ああ、やっぱり。あなたはその妖が理由で、泰京にいるのですね」
しかし冷静に現実を見る人物もいた。叨埜真臣である。
「やっぱり? 貴様何か知っているのか」
ぎろりと睨んできた陰陽師に、当然ながら震えあがる真臣。しかし助けてもらった恩があるからなのか、恐る恐る質問に答えた。
「あの人の名前は玉依奏炎でしたよね?」
「あ? ああ、そうだが」
基本的な事から始まった発言に、響一朗は眉根を寄せる。
「初めて会った時から不思議に思っていたんです。どうして神道の名家である玉依の人が、泰京に、しかも陰陽師として居るんだろうって。玉依家は陽都に本邸を構える、将軍家とも裏で繋がりがあるとされる家柄なのに」