第四章 紫の守護者 【拾二】
「終わった、な」
ほぅ、と奏炎が空を見上げながら息を吐いた。
「ああ。そうだな…」
刹那もまた、どこか気の抜けた様な声で頷いた。その横に、朱里が恐る恐る近付く。
「奏炎、息吹、無事か!」
かなり近くから聞こえた声に、陰陽師二人が反応する。
「ここです、真田副長」
息吹が呼応する事で、大勢の隊士達が、どかどかと足音を立てて屋根の突き破られた部屋に侵入してきた。
「おう、無事だったか…って、お前あの妖か?」
信じられない程の変貌を遂げている刹那に、響一朗はぎょっとしたものの、次いで視線を遣った息吹の腕の中に真臣の姿を見て、表情を真剣なそれへと変えた。
「おい息吹、そいつ大丈夫なのか?」
胡乱気な目付きで問われ、息吹は何事かと真臣を見た。そこで、蒼褪める。
「な、何でこんなに出血して…っ」
息吹の墨染の狩衣さえ、多すぎる血の量で変色している様に見えた。
自分の陰陽術で、多少なりとはいえ傷口を封じた筈の身体に、彼は茫然とする。自分の霊力と刹那の妖力とでは、そんなにも差があったのか。
「おいおい、これは俺でもどうにもなりそうにないぞ」
響一朗は乱暴な手付きて頭を掻き毟るが、その額には冷や汗が浮かんでいた。
「心配いらん」
慌てふためく陰陽師達の間に、刹那が割り込んだ。白濁した爪を持つ手が、ゆっくりと傷口に添えられる。すると、僅かに鬼の手が輝いたかの様に見えた。
「私が付けてしまった傷だ。私が治す」
はっきりと言い切り、刹那は瞑目し、自身の妖力を掌に集める為に黙り込んだ。
そんな彼の様子を見て、奏炎の口元が綻ぶ。
今の刹那こそが、彼の本来の姿だ。仲間を想い、人を想い、人の為に妖としての能力を振るう・・・それこそが、彼の求めた自身の姿だったと思う。
その証拠に、少し離れたところで刹那を見守る朱里の顔にも、これ以上ない嬉しそうな表情が浮かべられている。
これで良かったのだ、と、奏炎は心の内で考えた。
刹那の憎悪が消えたなんて、とても思えない。それでも、真臣の傷を癒す彼の横顔は、見た事もい程に穏やかだ。
やがて息吹に支えられていた青年の顔に、血の気が戻っていく。もう大丈夫だと言わんばかりに刹那が手を放すと、真臣が瞼を震わせた。
「う…」
呻きながら身を起こした彼は、目の前に膝を付く鬼の姿に茫然とした。
「…すまなかった」
悲鳴をあげそうになった真臣は、突然の謝罪に目を点にした。
「え?」
「その傷。それと、乱暴な真似をした事」
本気ですまなそうに言う相手に、真臣は勢いよく首を振った。
「い、いいえっ!」
叫んでしまい、腹部の痛みに声を詰まらせる。それでも必死に口を開いた。
「あなたの怒りは、当然の事です。祖父はそれだけの罪を犯した。そんなあの人の孫である僕もまた…」
「肉親だからと言って、その罪咎はお前が背負うべきものではない」
恥じ入る様に俯いた人間に、刹那は優しく言い聞かせた。微笑しながら。
慈悲深く柔らかな微笑。奏炎の笑顔を見た息吹すらも見惚れさせる表情に、朱里の瞳から涙が零れ落ちた。
『良かった…本当に、良かった…!』
泣き崩れる彼女に、刹那が歩み寄る。
「泣くな、朱里」
溢れる雫をすくおうと手を伸ばして、彼は切なげに苦笑した。
どんなに触れたいと願っても、それは無理な話。だから少しでも虚しさを味わわない為に、寸前で手を引く。
「笑っていてくれ、お前にはそれが一番だ」
憂いを秘めた琥珀の双眸の中で、朱里は笑った。哀しげでも、無理矢理にでもない、心からの笑みだった。