第四章 紫の守護者 【十】
「刹那!」
炎に囲まれた部屋を覗きざま叫ばれた名に、部屋の中にいた一人の青年が、振り返った。
だがその容姿に、息吹は目を疑わざるを得なかった。
あの落ち着いた錆色とは違う、鮮血の色にも似た真紅色の髪。琥珀色の瞳。そこだけで、いくら顔立ちが同じでも別人に見えるのに、その額からは黒い角が一本、生えている。更にその身に纏うのは葡萄色の着物ではなく、白を基調とした、見た事もない装束。
胸のあたりで煌めく紅玉が、彼の正体を、「鬼」について良く知らない息吹にも悟らせた。
「『赤鬼』だったのか」
茫然とした呟きに、奏炎が軽く頷く。肯定されてしまった自身の予想に、息吹は俯く。
赤鬼。どの妖よりも人を愛し、人に安住の地を与え、今もどこからか見守っていると伝えられる、穏やかな気性の友好的な大妖。姿こそ見られた事がないものの、彼らが己の住処を人に明け渡したというのは、陰陽師の間では有名な話だった。
「待て、確か赤鬼達が人に譲った土地は…」
昔に聞いた話を思い出し、彼は蒼褪めた。その心中を察した様に瞑目すると、奏炎がその言葉を継ぐ。
「遠野の里。他ならぬ、ここ…叨埜一族の里だ」
刹那が受けた裏切りは、何よりも罪深く、そして何よりも赤鬼の心を抉るものだったのだと、息吹は初めて知った。
一方刹那としては、突然乱入してきたかと思えば仲間と話し込んでいる奏炎に、どう対応して良いか解らず立ち尽くしていた。
「…そこにいるのは、叨埜真臣っ?」
突如、息吹が血溜まりに倒れる青年の姿に気付く。ひゅんひゅんと飛び回る焔には目もくれず、彼は重傷の真臣を抱き起こした。
「おい、しっかりしろ!」
そう言いながら陰陽術で応急処置を施して行く仲間を目端に、奏炎は刹那と向かい合った。
「彼のあの傷。やったのは君か?」
「…ああ」
「叨埜真臣自身に、罪が無いと知らなかったのではないだろう」
非難めいた発言に、鬼はただ黙り込む。
そんな中、焔が急に旋回するのをやめた。黒い影は段々と膨らみ、やがて人の形となる。
『…そなた、どうやってあの結界から出た?』
確かに閉じ込めた筈の少年の姿に、汪唎としても驚きを隠せなかった様だ。
「生憎俺には、あんな結界をものともしない、最強の相棒がいるんでね」
残念だったな、とばかりに不敵に笑った少年に、人の形をした焔が酢を飲んだ様な表情を浮かべる。
「奏炎、どけ。俺はその男を殺すまで、死んでも死にきれない」
焔を睨めつけながら、刹那が奏炎を退かせようとする。だが奏炎は応じず、むしろ必死に刹那を汪唎から遠ざけようとしていた。
「何故邪魔をする、奏炎!」
とうとう我慢ならなくなった鬼が、苛立ちを露わに叫ぶ。すると、奏炎も刹那に向かって怒鳴った。
「お前が人を殺そうとすれば、彼女は余計に傷付く!」
「彼女、とは?」
「お前が愛した。朱里殿だ」
琥珀色の双眸が、限界まで瞠られた。妖の視界で少年の顔が波紋の様に歪み、やがてかつての彼女のそれに代わった。