第四章 紫の守護者 【二】
「刹那、少しは待ってくれ」
すたすたと性急な足取りで屋敷へと向かっていく鬼に、奏炎は不安気に声をかけた。
「何故?」
簡潔に問いながら、刹那は屋敷の中へと、容易に足を踏み入れた。
「え……?」
奏炎と息吹、二人の目が限界まで瞠られる。
息吹の占術の中で、叨埜家の人間と思われる者達は、皆屋敷の外へ出ようとしても出られずにいた。それが、外からは簡単に人を入れる。
それはつまり、入れば外に出るのは困難という事だ。
「刹那―――っ」
思わず叫んで、奏炎は彼の手を掴み外に引き戻そうとした。その奏炎を、息吹が連れ戻そうとする。それが間違いだった。
「うわっ…」
短い悲鳴と共に、奏炎の身体が屋敷の中に引きずり込まれる。それにつられて、息吹もまた、まんまと屋敷の中に閉じ込められてしまった。
当然、外に出られぬものかと、二人は扉の外へ歩み出そうと試みた。だが、外に出たかと思えば、広がる景色は真っ暗な屋敷の中だけ。先程までの月明かりや星の光は、どこにも見えない。
二人同時に、己の情けなさと不甲斐なさを呪って膝をついた。
「やられた…」
その状態のまま憎々しげに、奏炎が呻いた。
「だから、刹那を連れてきて良いのかと訊いたんだ」
息吹もまた、今更言ってもどうにもならない事を呟く。
「そうだ、刹那はっ?」
もう一人の同行者の存在を思い出し、彼は辺りを見渡す。真っ暗闇の中でも、妖気を辿れば見付けられると思ったのだ。だが、どこにも妖の姿は見つからない。
「何処に行ったんだ?」
そう言葉を零した奏炎の背後で、息吹がふらりと立ち上がった。
「息吹、刹那がどこにもいないん―――」
現状を伝えようと振り返った奏炎を、橙色の炎が襲った。
混濁する意識の中で、叨埜真臣は新たな屋敷への侵入者の存在に息を呑んだ。
もう、この屋敷に住む一族の者は全て帰還した筈なのに、どうして更に人が入ってくるのだろう。
(やめてくれ…)
心の中で、彼は悲鳴を上げた。
今自分の身体は、真臣の意志に関係無く屋敷を徘徊している。逃げ隠れしている一族の者を探す為だ。己の意志で動かしている訳ではないのに、自分の身に纏わりつく血の生暖かさと、それが熱を失い代わりに持つ冷たさは、鮮明に伝わってきた。
恐らくこの身体は、一族全員を殺すまで止まりはしないだろう。だから祖父は不死を望んだのにそれを叶えられなかった、己の一族をも恨んでいる。せめて、一族以外の犠牲者を出したくはなかったのに。
そう考えてから、覚えのある霊力に戸惑った。
(この、霊気…まさか、あの陰陽師?)
自分より年下なのに、千聖軍の非公式部隊の指揮を任されていた美貌の少年。
確か名前は、玉依奏炎。
(彼がどうしてここに)
茫然とすると共に、希望にも似た感情が心に芽生えた。そうだ。数日前に祖父の目を盗んで、彼に助けを求める手紙を送ったのだ。きっとそれが届いたのだろう。
「随分と、嬉しそうだな。真臣?」
冷やかな自分の声が、何もかもを見透かした様に語りかけてきた。
「お前が期待しているのは…ああ、この霊力の持ち主か」
ふん、とせせら笑う声がしたかと思えば、突如、真臣の身体が自由を取り戻した。不意の出来事に、身体を支える意志を持たずにいた真臣が膝を崩す。
「何で急に…」
現実が信じられず、自分の言う事をきく両手を握っては開いてを繰り返した。しかし自由な時間はすぐに終わりを告げる。
「叨埜汪唎…!」
膝をついて茫然とする真臣の視界に、白衣の裾が閃いた。そして一瞬後。
だんっ・・・
凄まじい音を立てた己の背中と、そこに当たる壁。息苦しいのは、尋常ではない力で喉を掴まれ壁に押し付けられているからだ。
片手だけで人一人を掴み上げた相手を見て、真臣の瞳が驚愕に見開かれた。
「あな、たは…」
咳き込みながら、憎悪で瞳を輝かせた青年を見遣る。少し前に、この屋敷の前で見た相手に、間違い無かった。
あの時も、恐れるべき相手だとすぐに解った。『赤鬼』だと判る証・・・真紅の髪と、琥珀色の瞳。そして、紅色の間から顔を覗かせる黒い角。
その身に纏うのは、白を基調とした異装だった。見た事も無い型だが、その恰好が何よりも妖らしさを示している。
「十年…この時を、ずっと待っていた…っ!」
怒りで燃える瞳に、自分は叨埜汪唎ではないと伝える事さえ、出来なくなった。