第三章 黒の一族 【二】
さわさわと軽い音を立てる紅葉林の中、一際太い幹を持つ銀杏にもたれかかる影があった。まだ葉が落ちるまでには色付いていない木の下、橙色の光をぼんやりと見詰める影。
刹那は、緩慢な仕草で木の幹から身を起こす。すると、それに伴い緩やかな風が吹いた。もしも今、彼の傍に奏炎や息吹がいたら目を疑うだろう。人がいない事を良い事に、刹那は妖としての本当の姿を晒していた。
出来る限り妖力を抑え、威圧的な雰囲気を出さぬ様にするには、それなりの体力を使う。その抑えを外しているが故の解放感に、刹那はかなりの間、同じ場所に佇んでいる。
時々微睡みさえしながら、ただ時が流れるのを待っていた。
この国の人間は、まるで生き急ぐ様に毎日毎日の時間を惜しみながら暮らしているが、妖の、それも大妖である鬼の刹那にとって、時間は有り余る程にある。生きる事が苦痛になるくらいに。
だから望んでいたのだ。その長すぎる時が、穢れを段々と落として行く水の様に、この心から黒い感情を洗ってくれるのを。だが、それは過ぎた望だったらしい。
時を過ごせば過ごす程、黒い感情を凝り固まり、確かな形を成していってしまった。
吐き気さえする憎悪は、決して抱きたいものではない。そう思うと、どうしようもない嫌悪が身体全体を支配する。気持ち悪さに口許を抑えた時だった。
『また無意味にぼうっとしてるのね? 駄目よ、そんなんじゃ。人間よりもずっとずっと長い寿命があったって、死なない訳じゃないのよ』
柔らかく明るい声がした。
瞬時に辺りを見回した刹那の視界に、一人の女性の姿が入る。
「しゅ、り…」
信じられない光景に、彼は思わず目を擦っていた。もう一度女性を見るが、その姿はやはり消えない。
「生きて、いたのか?」
『何を馬鹿な事言ってるの? ああ、まだ寝惚けてるのね、あなた』
くすくすと鈴の笑い声が響く。真紅の髪の女性は、刹那と同じ真っ白な肌に映える黄色の瞳を和ませた。
何よりも愛しいその笑顔に、自分でも知らず知らず手を伸ばしていた。まるで色の無い、雪像の如く白い手が朱里に触れようとした瞬間、赤い光が散る。
細かい光となって消え失せた朱里の姿に、刹那は暫しの間身動きが出来なかった。だが、やがて現状を理解すると、乾いた笑いを零し始めた。
未だに過去も受け入れられない自分への、冷たい嗤笑。
「は…私はどこまで愚かなんだか…朱里はとうの昔に、死んだというのに」
十年も経ったのに、その姿を求めて幻覚まで見るなんて。
だが、忘れられない。
毎日、朱里が、その弟の千草が、父や母や弟妹達が微笑みかけてきてくれた、輝かしいあの日々を。人間を愛おしいと思えていられた(・・・・・・・・・・・・・・・)、十年前までの思い出を、捨て切れない。
『―――今ならまだ間に合う』
彼の言葉を聞いてから、もしかしたら、という希望じみた考えを持つようになってしまった。人を殺した自分に後戻りなんて出来ないし、何より殺された同胞を思えば、人を許そうなんて気にはなれない。
だが、面と向かって彼にそう言えなかった。
自分は人を憎んでいるから、恨んでいるから、そしてその気持ちを消す事は出来ないから、お前の提案を受け入れる事は出来ないと。きっぱり言い切る事が出来なかった。
何故かは解らない。もしかしたら、彼の行動の端々が朱里に似ていたからかも知れない。
(いや、違う…)
心の中で自分の考えを打ち消す。
たとえどんなに似ていても、朱里は女、彼は男だ。幾ら何でも重ね合わせるなんて事は出来ない。では、何が。
「妖と似た存在なのに、人を愛しているからか?」
朱里ではなく、かつての自分に重ね合わせているのだろうか。それとも、人を愛せる事に羨望でも感じているのか。
(羨望…? それを言うなら、憐憫だろう)
人を信じても、最後はどうせ裏切られる。それを自分は身を以て味わった。ならば、昔の自分の様に人を愛する妖に対して抱く感情は、憐れみの筈だ。
自分で自分が考えている事に矛盾を感じる。どんどん訳が解らなくなってくる。抜け出せない疑問と憎悪の世界は、まるで迷宮だ。先が見えず、何が正しいのかもあやふやになっていく。
そして、疲れた様に刹那が大きく息を吐いた時だった。
どんっ・・・
重苦しい音が一つ、地を伝わってきた。その振動と共に幾つかの人の悲鳴を見付け、刹那は振動の源を追った。そこで、身体を強張らせた。
「遠野の里か」
今は叨埜一族が支配する土地。そこは、かつて自分達が住んでいた里だ。
「内輪揉めでも起こったか?」
冷めた声で呟く。何しろ彼らは、身内を次々に殺されて疑心暗鬼になっている。
そう、「殺されて」いるのだ。
「あの光は、一体何者なんだ…」
奏炎ですらも知らない叨埜一族の死の正体。
恐らく真の殺人犯はあの「赤い光」だ。刹那の目の前で、いつもあの光は死体の傍から離れて行く。だが、刹那に危害は加えない。
二人の陰陽師には、あの光が自分に纏わりついていると言ったが、それは嘘だ。自分があの光を追っている。常に自分の邪魔をするあの光を。
何故かあの光は、自分が殺そうと考えていた叨埜一族の人間を、ほんの少し先に手にかける。それが、堪らなく頭に来た。
「…ふん。砥上息吹も、まぁまぁ使える様だな」
突然、刹那の背後で声がした。反射的に振り返った刹那は、一瞬眩しそうに目を瞑る。日没が近い今、声を発した人物の背後から差す陽の光は、最後の力を振り絞ってこれでもかと輝いていたからだ。
その紅の太陽に照らされた髪が、見た事もない美しい色に輝いていた。
「こんな所でお前は何をやっている? 仇である叨埜の連中を、全員他の奴に殺されても良いのか?」
「誰だ、貴様」
聞いた事がある気もする声音。明らかに自分の事情を知り尽くしていると言う態度に、刹那は警戒を露わにした。
「これはまた、随分と冷たいな。ついこの間話したばかりの仲だろうに」
全く悲しんでいない声が、大げさに哀しげな台詞を紡ぐ。その声の人物の容貌が、傾き始めた太陽によってはっきりと照らし出される。
「お前は…!」
驚愕した赤鬼に対して、相手はその血色の瞳を細め、そして笑んだ。