第三章 黒の一族 【一】
第三章
秋が近付き、風が乾いている季節でも、千聖軍の隊務は当然変わらない。
「ほら起きろお前達っ! いつまで寝てやがるつもりだ!」
ぱんっと小気味良い音と共に開け放たれた障子。そこから流れ込むひやりとした冷気に、布団にくるまっていた隊士達が悲鳴を上げた。
「さっ寒いっ」
「もう秋なんですから勘弁して下さい、副長ぉっ」
悲鳴を上げる隊士達に、彼らを強引に起こす為障子を開け放った響一朗が怒鳴る。
「ふざけるな! もうとっくに陽は昇ってるんだよ、いつまでも寝られると思うな」
部下を叱責しながら次々に障子を開け放っていく副長の姿を、奏炎は内心「母親みたいだ」などと思った。
当然、奏炎と息吹、そして息吹率いる一番隊の隊士達は、副長に起こされるなどという失態をおかしてはいない。きっちり自分で起きた。
「そうだ、奏炎。今日は確か叨埜家に行くんだったな?」
悲痛な叫びを上げる隊士達と、それを叱りつける響一朗をぼんやりと眺めながら息吹が問うた。
「ああ。叨埜真臣から正式に招かれたからな」
鷹揚に頷くと、奏炎はゆっくりと叨埜家があるだろう方向を見詰めた。
「息吹、君も一緒に来るか?」
「…どうしたんだいきなり」
不意に誘ってきた相手に、息吹は瞠目した。基本的に一匹狼で、息吹が巡察について来る事さえもあまり良しとはしていない奏炎が、まさか自分から同行を許すとは。
「特に理由は無いが」
あっさりと返された答えに、少々気落ちしなかった訳では無いが、それでも一番隊々長は嬉しげに頷いた。
「…解った。付いて行ってやる」
その言い方に、相手はすぐさま反論してきた。
「俺は付いて来てくれとは言っていないぞ。ただ、一緒に行くかと言っただけで―――」
「解った解った」
少し必死にも見える程に言い募ってきた奏炎に、両手を上げて「降参」を示す。そんな微笑ましい光景を見付けた響一朗の怒鳴り声が二人を襲った。
「お前達もそこで何、じゃれあってんだ? 隊長なんだからしっかりしろ、それと奏炎。 そろそろこの馬鹿共の意識がはっきりしてくる。さっさと叨埜家にでも何にでも行け!」
「…そうでした」
忘れていたとばかりに手を打ち、奏炎はそそくさとその場を離れて行く。
そう、奏炎の存在を知って良いのは隊長格以上の人間と、一番隊の隊士だけという取り決めなのだ。目を覚ました二番隊以降の隊士達に見付かったら、流石にまずい。
「しかしさっきの状況で俺に気付かないというのも凄いな」
しみじみと呟く奏炎に、息吹も同感だった。
「何故かうちの隊士達は、皆朝に弱いんだ。隊長格も同じでな。隊務通りに起きれるのは、真田副長と参謀役、俺と五番隊の隊長くらいだ」
総長ですらも、朝は響一朗に叩き起こされる始末なのである。
驚愕の事実に、奏炎は歩きながら頭を抱えた。歩いていなければその場で膝をついていたかも知れないな、と息吹は思った。
「そんな反応をするくらいだから、お前は朝に強いんだな」
「眠らないからな」
ごく普通に返された内容に、息吹は目を瞬いた。
「眠らない?」
「そうだ。夜は基本、眠らない」
「はぁっ?」
理解の出来ない発言に、思いっ切り顰め面をした相手に、奏炎はもう一度繰り返した。
「だから、眠らないんだ。俺は何故か、夜は眠れない性質でな」
「そんな事があるのか…? じゃあいつ寝てるんだ」
呆れ果てた様な表情で問うと、奏炎は一瞬考え込む。
「大抵は、昼、だな」
「まるで妖怪じゃないか」
思わず返してから、息吹はしまったと口を抑えた。この間あんな事があったばかりなのに、この文句は禁句だったかも知れない。だが、その懸念虚しく、奏炎は何も気にしていない様子だった。
「ん? 昼? 昼って事はお前…会議室で寝ているのか!」
陰陽師が必要とされるのは、妖怪が出没し易い夜中だ。つまり夜に激務が集中している訳で、その代わり昼の幹部の仕事は、会議室で延々と行われる作戦会議だけだ。
そしてその会議は限りなくゆっくりと進む。進むが。
「会議で寝てるなんて真田副長に知られたら、呪い殺されるぞ」
「やれるものなら、やってもらいたいね」
苦笑まじりの忠告をされても、奏炎に懲りた様子は無い。むしろ不敵に笑んでみせた。
「まったく、言っても無駄とい……」
息吹の諦めの言葉が、途中で不自然に途切れる。違和感を感じた奏炎も、その一瞬後には驚愕に目を見開いた。
「奏炎、ここが叨埜家の邸で、間違いないんだな…?」
「当たり前だ。間違える訳がないだろう」
叨埜家の周りには、一切の民家がない。山の麓とは言え、そこまでの土地を買い占められるものが、叨埜一族以外にいる筈がなかった。
だが。
「いくら呪術師一族の本邸だからと言って、これは、これはないだろう…」
二人の目の前にある屋敷には、目に見えるまでに具現化した、黒い妖力が渦巻いていた。そこで二人が取った行動は、実に情けないものだった。
「それで引き返して来る奴があるか!」
「「ここにいますが」」
二人で声を揃えた優秀な部下達に、響一朗の額に青筋が立った。
そう、叨埜家の屋敷に何か得体の知れないものの気配を感じた二人は、そのまま一も二もなく屯所へ帰還したのだ。
そして見て来た全てを副長の話した途端、怒鳴られたのである。
「あのなぁ…せめて原因を探るとか、やばそうな状況でも屋敷に足を踏み入れる位の事は出来なかったのか? お前ら一応陰陽師だろうが」
「陰陽師だと出来なければならない問題ではないかと」
「ならばご自身で行かれてはどうです?」
またしても速攻で返答をする二人。いつの間にこんなにも息が合う様になってしまったのか、と響一朗は嘆息した。
「もう良い。とりあえず、監察を何人か向かわせる。お前らなんかよりはずっと、ずっっと、まともな状況報告をしてくれるだろうよ」
厭味じみた、というより最早厭味としか受け取れない言い方をすると、響一朗は奏炎に向き直った。
「おい、お前本当に何も解らなかったのか? 何も解らないから引き返してきたのか?」
「何故そんな事を訊かれるんですか」
念を押す様な質問に、部屋から出て行こうとしていた奏炎は、怪訝そうな表情で応える。
「お前が解らない事を、そのまま放っておく様な野郎には見えないからだ」
「俺はあなたの中でどれだけふてぶてしい印象なんでしょうね」
はぁ、と嘆かわしげに吐息をつく奏炎に、当然響一朗の怒りは頂点に達しつつある。それを見た目だけで見抜いた息吹は、そっと奏炎の背中を小突いた。
「解りましたよ。言えば良いんでしょう、言えば」
「って事はやっぱり何かしら掴んでたんだな?」
舌打ちしつつ、響一朗が身を乗り出す。何だかんだ言って、奏炎の話には興味があるらしい。
「叨埜家に今入り込むのは非常に危険ですよ。あそこまで妖気に包まれて、それに誰も対応していないとなれば、俺を招いたのも叨埜真臣かどうか怪しいところです。まあ、彼の事ですから異常な状況に怯えて俺を呼んだのかも知れませんが。もしかしたら、何者かに占拠されているのかも知れない」
「誰だ、それは」
座り直した部下の言葉に、響一朗が食い付く。しかし、それが解っていれば奏炎が屯所に戻る筈が無いのも、周知の事実だった。
「知りませんよ。俺は陰陽師であって予言者じゃないんです。どうせなら、占術の得意な隊士に頼んで…そう言えば息吹、君の属性は炎だったな」
唐突に話を振られた事に驚きながらも息吹が頷くと、奏炎はぱっと顔を輝かせた。
「なら話は簡単だ。君の占術を使えば良い!」
その言葉に、占術など行った事のない炎の陰陽師は、きょとんとして首を傾けた。彼はこの時知らなかった。「協力してくれるな?」と可愛らしく首を傾げる奏炎に頷く事が、どれ程愚かな行為であるのか。