王太子
細かな細工が縁取る大きく切り取られた入り口に、二人の兵が立っている。
ゆらゆらと両脇に設置された松明に照らされた二人の兵は、どれほど鍛えればそんな筋肉がつくのかというほど屈強で、紅蓮が見たこともないような煤色の肌をしていた。
どうやら、太陽と砂の王国であるアウグストでは、濃い色の肌が普通らしく、寧ろ紅蓮のぬけるような白い肌は、異国にでも行かない限り滅多にお目にかかれないのだそうだ。
明らかに自身よりも一回り以上大きな男二人に、しかし紅蓮は怯むことなく息を潜め、柱の影から静かに踏み出した。
明かりに照らされた彼女は、ローガンが用意した貴族の娘の衣装を身に着けている。
頭には髪をすっぽり覆うようなベールを被り、俯き加減で目を伏せ入り口へと向かった。
しずしずと、流れるような動作で二人の目の前まで足を進めると、彼らは訝しげに眉を顰めて手にしていた素槍を斜めに傾ぐ。
紅蓮の目の前で二本の槍が、彼女の道を阻むように交差した。
「女、何者だ。」
「どうやってここに入り込んだ。」
抑揚のない声で厳しく吐き捨てた兵は、言葉こそ問うてはいるが、聞く気はないのだろう。
二人はすぐにでも取り押さえられるよう、身構えているようだった。
と、突然風のない空間で、ふわりと柔らかく女のベールの端が宙に浮き上がる。
すると次の瞬間、不思議なことに兵二人が目を見開き、次いで意識を失うようにぐるりと白目をむいて崩れ落ちた。
常人には見えぬ速さで、紅蓮の拳が男たちの顎へ叩き込まれたのだ。
紅蓮は二人の巨体が床に落ちきる前に、両手で彼らを壁に押し付け、そのままゆっくりと壁伝いに男たちを床に落ち着かせる。
支えを失った槍二本は、絶妙なバランスで彼女の片足が受け止めていた。
無音のままに見張り二人と得物を片付けた紅蓮は、何事も無かったかのように入り口の布を潜った。
第一王子、ローディン・アウグストは今年16になったばかりの、ローガン曰く“少年”だそうだ。
紅蓮の生まれ育った国では、14で元服――所謂、成人の儀――を迎えるので、一体何処が幼いのか全く理解できなかったが、この国では成人が20を超えた年らしいので、それも致し方ないのかもしれない。
そして、彼が幼き頃より傍に侍っていた先王の乳兄弟である宰相モーリス・アッシュ。
先王亡き今、彼は王子にとって父のような存在なのだそうだ。
王子を傀儡にする侫臣、ローガンからはそう聞いている。
彼の老臣が死ねば、身内を討たれた子供のようにローディン王子は悲しむのかもしれない。
しかし、今まで女子供関係なく屠ってきた己が、今更考えることでもないので、紅蓮には特に気に留めることでもなかった。
まぁ、主である蘇芳は常々気にしていたようだが。
その手の命を出すたびに、苦い顔をして謝っていた主を思い出し、小さく口元に笑みを浮かべた。
紅蓮は事前にローガンより、宰相が使うの室の見取り図を見せてもらっていた。
重臣の私室らしく、一人で使うには広い造りになっていて、入り口を潜ればまずはモーリスの執務室がある。その奥の通路を通ればそこからは彼の私的な空間で、中庭つきの居間があり、そのまた奥に寝室と専用の湯殿があるらしい。
今この時分は、既に湯浴みを済ませ、寝台で夢の中といったところか。
頭の中に記憶した見取り図を辿りながら、紅蓮は迷うことなく息を潜めて室を進んだ。
モーリスの寝室にたどり着いた紅蓮はすぐに室に入ることはせず、入り口の脇に背を預けて中の様子を伺うと、規則正しい寝息が聞こえた。
しばらくの間、その呼吸の感覚を聞き、獲物が深い眠りの中にいることを確認する。
室の周りにも中にも、彼以外の気配はなく、紅蓮は真っ赤な眼を細めると、音も無く寝室の入り口を潜った。
広い室内は意外と殺風景で、壁側に申し訳程度の木の台や大きめの飾り布があるものの、大きな家具は中央の寝台くらいで、どこか潔癖な印象を受けた。
紅蓮は中央の寝台で、真っ白な掛け布に包まって眠る人物に目を向けたまま、するすると近づく。
無音のままベールをなびかせ、室を進む女の姿は、まさに人ならざる者の雰囲気をかもし出していた。
ふわり、と薄い布を揺らして老人が眠る寝台の脇に立つ彼女は、彼の人を幸福な夢へと誘う女神にも見えるが、年老いた命を死へと突き落とす死神にも見える。
紅蓮の赤い瞳が煌き、その白くすべらかな手が老人へと伸びた。
が、その時。
「そこまでだ。」
人の気配の無かった室内に、低い男の声が響いた。
チャキ、と金属が鳴る音が、静まり返った空間に助長され、一際大きく耳に届いた。
音も無く王子の寝室に入ってきた女――王弟ローガンの召喚した神子の首筋に剣を沿えたのは、アウグスト王国の軍事を統べる若き上将軍アッシル=クロード・オーバンである。
日に焼けた煤色の肌を持つその男は、入り口に立っていた男たちよりも更に大きく、神子の身体など彼の陰に隠れてしまえば、服の端すら見えないほどだった。
アッシル=クロードは茶色い眼を険しく細め、細い神子の首筋に剣先を当て微動だにせぬまま女を睨みつける。
「…まさか人がいるとは。」
私としたことが全く気付かなかった、そう呟く女からは、焦りの色が感じられない。
一国の軍を纏め上げる上将軍の殺気に当てられれば、歴戦の兵士とて震え上がるものを、目の前の小さな女はピクリとも動かず溜息すら吐いていた。
「そこにもいるな。」
しかも、己の向かいに隠れていた人物の気配も呼んでいる。
「ばれてますよ、ローディン様。気を抜きましたね。」
仕方無しに呟けば、寝台を隔てた先の飾り布の中から、また違う男が姿を現した。
ローディン、という名に紅蓮がピクリと片眉を上げる。
彼が姿を見せた途端、女を牽制するように殺気が増した。
「なるほど、王子まで…やってくれる。」
くっく、とさも面白そうに笑う女に、男二人が目を細めた。
この場を満たす殺気に、女は少しも怯んでいない。
余程己の力に自信があるのか、それとも、ただの命知らずか。
「そなたが叔父上の召喚した神子か。」
「神子、ね。」
なおも笑い、まるで吐き捨てるように呟いた女に、ローディンが眉を顰める。
「ふてぇ女だ。この状況で笑うか普通。」
女の背後でアッシル=クロードが呆れたように呟いた。
「兎に角、王太子の御前だ。大人しく顔見せて跪け。」
言葉と同時に、女の首筋に当てられた刃先が僅かにずれると、摩擦の少ないすべらかな布はその少しの動きで女の頭から滑り落ちた。
その瞬間、男二人が小さく息を呑む。
特に正面で女と向かい合っていたローディンは、琥珀色の瞳を大きく見開いていた。
それは女にとって絶好の機会。
一瞬の隙を突いて、彼女はぐっと身を沈め、脚に力を入れて目の前の王子へと踏み出した。しかし、彼女の爪先が床を離れる寸前、流石は上将軍、咄嗟に伸ばしたアッシル=クロードの大きな手が、女の細い首を掴み動きを阻む。
男はそのまま躊躇なく、掴んだ首を床に叩きつけた。
「……っ…ぐっ!」
辛うじて受身を取った女は、しかし、大男の四肢に押さえつけられ身動きが取れなくなっていた。
拘束から逃れようともがく女の力の強さに、アッシル=クロードは眉を顰める。
「まったく…油断も隙もない。」
しばらくもがいていた女が、敵わないと察したのか細い身体から力を抜いた。
それと同時に、拘束している男が深い溜息を吐く。
勿論、押さえつける身体には力を入れたまま、だ。
そうこうしているうちに、ローディンがこちら側に回って来たらしい。
アッシル=クロードが顔を上げると、直ぐ目の前に王子が未だ驚きの表情を浮かべたまま佇んでいた。
「…何だ、この色は…。」
茫然と呟くローディンが見つめる先。
男の巨躯に押しつぶされながら、だらりと力なく伸びている腕は見たこともないくらい白く、まるで象牙のようだった。床に散らばる髪も、紡ぎたての絹糸のように真っ白だ。
そしてその淡い色合いの中で、唯一強い色を放ちながら輝く赤い瞳は、高価な紅玉をそのまま埋め込んだかのように煌いていた。
まさに人外の美しさ。
ローディンの喉が、無意識に小さくこくりと鳴った。