王弟の願い
「まぁまぁ、神子殿、少し落ち着いてください。」
見開いていた目を細め、再び笑みを浮かべた男が、激高する紅蓮の腕にそっと手を乗せた。
紅蓮はそれを勢いよく腕を振ることで払い、薄笑いを浮かべる長身の男を睨みつける。
確か先ほど、ローガンと名乗っていた男だ。
その笑みを見れば、殆どの人間が誠実な男という印象を受けるだろう。しかし、紅蓮の受けた印象は“食えない男”だった。
目を見れば判る。男は明らかに笑っていない。
笑顔の形に顔を動かしているだけだ。
紅蓮はこの手の人間に信を置くつもりは毛頭ないので、いくら笑みを向けられようと懐柔されるつもりはなかった。
男の方も、僅かほども警戒を緩めない紅蓮に、少々驚いたらしい。
おそらく完璧な笑顔を見破られたことなどなかったのだろう、僅かに目を見開いていた。
それも、本当に注意して見ていないと判らないものだったが、人の感情を読むことに長けた紅蓮にとって、呼吸と同じくらい簡単なことだ。
彼女は瞬時に、彼を要注意人物に据える。
睨み続ける紅蓮に、ローガンは苦笑を浮かべた。
「突然のことに混乱されているのでしょう。大丈夫、貴女様が我らの願いを聞き届けてくださったならば、無事貴女を元の世界にお返ししましょう。」
そう言ってにっこりと笑う男の顔を、胡散臭そうに睨みつけている紅蓮は、探るような目をローガンに向けたまま、ゆっくりとバルタザールから手を離した。
漸く開放された男は、紅蓮から僅かに距離をとりながら、締められかけていた首を大事そうにさする。その表情は、恐怖と屈辱の怒りを隠しきれずに、不自然な表情に変わっていた。
こちらはあまりに解り易すぎる反応である。
ならば、警戒すべきはこの男とばかりに、紅蓮はローガンに向き直った。
「今すぐでなければ意味がない。つべこべ言わず、さっさと戻せ。」
「ご心配なく。お帰りの折は、渡られた時と同じ軸にお返しします故。」
この世界で一年過ごそうが二年過ごそうが、戻ったときには彼女が世界を離れた時と変わらない時間に戻れるのだと、男は話す。
紅蓮は訝しげに目を細めながら、ローガンを見つめた。
「…信ずるに値しない。」
「ですが、貴女は信じるしかないのです。お一人で、どこにお戻りになる気ですか?」
神子と崇め、丁寧な言葉で接しながらも、ローガンの態度は慇懃無礼なものだった。紅蓮には効かないと判断し、隠すのを止めたようだ。
対する紅蓮は、男の言葉を聞き思わず舌打ちしたくなったが、それを目の前の狸に見せるわけにもいかない。ぐっと口を噛むと、そのまま小さく息を漏らして姿勢を正した。
「…一つ、断っておくが。」
「何でしょう?」
「私は神子などではないぞ。」
「いいえ、私たちは神子を望み、そして貴女が現れた。その英知に富んだ瞳、人とは思えぬ美貌、容姿。貴女は我らの神子様です。」
うっすらと笑みを浮かべながらも、冷え切った瞳で告げる男の言葉に、紅蓮が喉の奥で馬鹿にしたように笑う。
「残念ながら、私はそんな高尚な存在ではない。人を欺き、陥れ、生を刈り取ってきた浅ましい鬼だ。」
真っ赤な眼をすいと細め、唇を弧を描くように引き上げながら、真っ白な女が妖艶に笑う。
その美しさは、神の国の者というよりも、全ての情欲を支配する魔の国の者のようだった。
傍らでそれを目にしたバルタザールは、震え上がりながらもどこか崇拝するように紅蓮を見つめている。
しかし、ローガンの方は意外にも満足げな笑みを浮かべていた。
夜の宮殿はもっと暗く人気が無いかと思いきや、所々で焚かれている松明と見張りの兵で予想外に忍ぶには細心の注意が要った。
とはいっても、紅蓮は幼き頃より忍びの術を極めたくのいちとして、敵陣にもぐりこんだりしていたので、彼女にとっては然程難しいことではなかった。
しかも、この世界には一応間諜として動く者は存在しているものの、聞いた話しから推察するにそこまで高い技術を持っていない。
できて敵国に忍び込み情報を集めるくらいだろう。
くのいちとしての任務中、一番避けたいのは他国の忍と鉢合わせることなのだが、今回その心配はなさそうだった。
紅蓮は今、アウグスト国王宮内の宰相の住まう一角に忍び込んでいる。
彼女がアウグストという国に召喚され、首謀者と険悪な初対面を果たしてから一週間が過ぎた。
紅蓮はその一週間で、この国の衣食住の一般常識を学び、簡単な文字を覚え、宮殿を歩く上で必要な知識を手に入れた。
簡単に言うが、かなりの知識量である。それを彼女は一週間で身に着けたのだ。
これには教鞭をとっていたローガンも心底驚いた。
しかしそれもこれも全て、ローガンの願いを叶え、さっさと己の世界へ帰るため、である。
紅蓮の目には、主である蘇芳の下へ帰ることだけがはっきりと映っていた。
そのための条件であるローガンの願い、それは、今現在王国を動乱の渦に落としている継承権争いの終結である。
アウグスト王国には、王位継承権を持つ王族の男が二人存在し、一人が先王の弟であるローガン、もう一人が先王の息子である第一王子、名をローディンと言うのだそうだ。
ローガンの願いは、まだ幼い王子を無理矢理王位につけようとしている、宰相モーリスの暗殺。
そう、彼は人好きのする笑みを浮かべ、紅蓮を神子と崇めながら、彼女の本質を理解した途端人殺しを要求してきたのである。
しかし、顔を合わせたときから男の浮かべる笑みを信用していなかった紅蓮は、特に不思議に思うことなく、寧ろやはりな、と思った。
男が言うには、王子を傀儡にせしめんとする佞臣から、大事な甥を守りたいという意思を持って、苦渋の決断ではあるが仕方なく、ということらしいが、それこそ紅蓮は信じていない。
世界は違えど、同じ人間。
そこは紅蓮とて、伊達にくのいちをやってきたわけではないので、その人物の人となりくらい会話を交わせば見抜く力は持っていた。
その、己の今までの経験と勘が告げているのだ。
この男を信用してはいけない、と。
しかし、紅蓮はそれを解った上でローガンの要求を呑んだ。
彼女にとって、殺す相手がどのような立場か、またローガンがどのような意思を持って暗殺を要求してきたかなど、どうでもよかったのである。
紅蓮にとって重要なのは、元の世界に帰ることただ一つ。
今それを叶えられる一番大きな可能性は、今のところローガンの要求を呑み、彼の願いを叶えることだった。だから紅蓮は受けたのだ。
もしその上でローガンが紅蓮との約束を反故にするようなら、それはまたそのとき考えることにした。
兎に角今は、少しでも可能性のある方に進むしかないのである。
取り乱し、嘆くのは簡単だが、それで無駄に時間を費やすような愚かな真似は避けたかった。