戦場
日が中天に差し掛かった頃。
既に味方の大半は破れ、共に戦ってきた精鋭たちも物言わぬ躯となって地に伏していた。
乾いた大地には、なお焼けるような日が降り注ぎ、屍を狙って黒い烏が不吉に空を舞っている。
蘇芳は流れる汗をそのままに、ぎらりと怪しく煌く愛刀を振り払った。
抜き身に纏わりついていたどす黒い血が、ぺしゃりと音を立てて飛んだ。
「戦は終わりだ。」
ぽつり、と呟かれた主の声に、傍らで短刀を振り回していた紅蓮が残る一人を切り捨て蘇芳へと駆け寄った。
彼女の黒衣は所々が裂け赤い血が滲んでいたが、紅蓮の白い面に苦痛の色は無く、あるのは目の前の主を想う強い意志のみだ。
「これより先は、我が戦。狙うは瑠璃の首のみよ。」
血糊で頬を染め、にやりと笑う主の顔は、未だ出会ったときと同様生気に満ち溢れていた。
これから死にに行こうとする男の顔ではない。
「お館様、私もお供いたします。」
「…ならぬ。」
「お館様!?」
予想外の答えに紅蓮が目を見開いた。
「そなたは殿の下へ行け。」
「なっ!?嫌でございます!!」
「猩々緋様をお守りしろ。」
にべもなく言い放たれた言葉に、紅蓮の顔がくしゃりと歪む。
それはまるで、初めて彼女が涙を見せたときのようだった。
「蘇芳様、あんまりでございます!何故にそのようなことを仰るのです!?」
「殿をお守りするのは家臣の務め。俺の代わりを務めてほしいのだ。」
「嫌です!!私もお連れください!!何卒、何卒っ!!」
「ならぬ!!そなたは戻れ、命令だ!!」
「嫌っ嫌ですっ!!蘇芳様!!嫌でございます!!…ぐっ!!」
必死にしがみつく紅蓮を、蘇芳は力いっぱい薙ぎ払った。
その衝撃に尻餅をついた紅蓮を一瞬苦しげに見つめた蘇芳は、それでも素早く踵を返す。
そのままどこからか逸れたのだろう、二の足を踏んでいた月毛の馬を捕らえて手綱を握り、ひらりと飛び乗ると再び紅蓮を見下ろした。
尻餅をついたままの紅蓮は、まるで恐ろしいものを見上げるように蘇芳を見つめていた。
どうか行かないで、そんな言葉が聞こえてきそうなほど顔を歪めて、ゆるゆると首を左右に振る。
「…蘇芳さま…すおう、さま…どうか…。」
「…許せ、紅蓮。」
「…いや…嫌ぁ。」
逆光でよく見えない主の顔を必死に見つめ、何故か動いてくれない腰を必死に支えながら蘇芳に手を伸ばしたが、無常にもあと少しが届かない。
「生きよ。そなたは、死んではならぬ。」
戦場に似つかわしくない、温かな声だった。
しっとりと、心に染み込むような言葉に、紅蓮が真っ赤な目を見開く。
蘇芳の漆黒の瞳と、紅蓮の紅玉の瞳。
交わったのはほんの一瞬、しかし二人にはまるで時が止まったかのように思えた、が。
次の瞬間、大きく動いた蘇芳の足が馬の腹を蹴ると、無情にも時は動き始める。
僅かに見えた主の顔は、柔らかく微笑んでいた。
茫然と、ただ茫然と己の両の手を見つめる。
過ぎ去った赤は既に遠く、蹄の音も消えていた。
(私は何のためにここにいる?)
先ほどから頭を巡るのは自問の声。
(あんな卑怯者を守るために技を磨いたわけではない!!)
ぐっと両手を握り締め、見据えた先は彼の人が向かう敵本陣。
心が決まった瞬間、先ほどまで動かなかった両の足が嘘のように力を取り戻した。
「蘇芳様。申し訳ございません。初めて貴方に背きます。」
決意を込めた呟きを零し、紅蓮は血と砂の舞う戦場に消えた。
(いない…お館様!)
心を決めて敵陣へ近づき、単騎駆けた主を探すも、紅蓮は未だ彼の人にたどり着けずに居た。
忍の術を駆使し、俊足で戦場を駆け抜け、鷹の眼で荒れ果てた大地を見渡す。
受けた傷が開くのも構わず力の限り走った。
しかし、燃えるような赤毛はどこにも見つからない。
敵兵をすり抜け、とうとうあと一歩で敵本陣というところまで近づいた紅蓮は、一際高い木に登り瑠璃の指揮する陣営を見渡した。
(………っ!いた!!)
目にしたのは単騎で駆ける赤に群がる青の鎧。
その塊は、まるで菓子に群がる蟻のようで、紅蓮は眉を顰める。
が、その軍勢をものともせず、赤の単騎は確実に瑠璃の本陣へと突き進んでいた。
すぐにでも傍に向かおうと足に力を入れた紅蓮の目の端に、不意にキラリと光がちらつく。
訝しげにそれを確認した紅蓮の瞳が、次の瞬間大きく見開かれた。
「させるか!!」
白い面に浮かんだのは激しい怒り。
そのまま渾身の力を込めて足場を蹴ると、紅蓮の身体が矢のように空中を飛翔した。
向かう先は蘇芳の前方。
掌に意識を集中させれば、禁忌と疎まれた能力である炎が渦巻く。石を投げられ、罵られ続けたこの力も、主のために使えるのなら、授かったことに感謝した。
風の抵抗をなくすために、背後へ伸ばした両腕へ、真っ赤な炎が生き物のように巻き付く。
頭上に迫るものに漸く気付いた青い蟻たちから、ざわりと怪訝の声が上がった。
彼らから見ればそれは、まるで炎を纏った不死鳥のように見えたかもしれない。
「お館様!!お館様!!…蘇芳様ーっ!!」
「…っ!!紅蓮!?」
黒と赤が交わった。
蘇芳の漆黒の瞳が驚愕に見開かれる。
それを確認した紅蓮が、勢いを殺さぬまま、蘇芳の前に飛び出した。
と、次の瞬間。
――パーンッ
破裂音と共に放たれたのは、一発の鉛玉。
それは真っ直ぐに蘇芳へと向けられていたものの、受けたのは飛び込んできた紅蓮の背だった。
渦巻く炎に焼かれ、勢いを殺しながらも、鈍色の鉛玉が細い背中を貫く。
「紅蓮-っ!!!」
鎖骨の上辺りから破裂したように飛び散る赤に、蘇芳が悲痛な叫びを上げた。
「どけっ!どけーっ!!」
そのまま叫びを上げながら、物凄い勢いで刀を振り回す。
その猛攻に怯んだ軍勢が、僅かに包囲を開いた。
できた隙間を掻き分けるように、既に血糊で切れ味の落ちた愛刀で敵を薙ぎ払いながら蘇芳が進む。が、怒りのあまり我を忘れた所為か、背後に隙ができた。
青い鎧の一つがニヤリと笑い、大きく刀を振り上げる。
――ギィイィィィィン
しかし、振り下ろされた刀は蘇芳の肉を断つことはなく、彼の脇から飛び出た短刀に受け止められた。
「蘇芳様!ご油断召されるな!!」
「紅蓮!!…このっ愚か者めっ!!」
ぐしゃりと歪んだ蘇芳の顔を、満足げな紅蓮の笑顔が見つめる。
ここまで来たからには、もう後には引けなかった。
「命を破り、申し訳、ありませんっ!」
「愚か者っ!わざわざ死にに来おって!!」
ザシュッザシュッと肉を断つ音が至るところから聞こえる。まるで剣舞を踊るように赤と白の髪が戦場を舞っていた。
「最期まで、お供すると、決めていました!」
お叱りは冥府の先でお受けします、そう叫ぶ紅蓮に、蘇芳が苦笑を浮かべる。
「では、ついてこい!瑠璃の首を手土産に、冥府の王に、会いに行くぞ!」
吹っ切れたような主の叫びに、紅蓮は心からの笑みを浮かべた。