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紅蓮の華  作者: 穂積
第二章
12/14

深淵を垣間見る



「王太子殿下がお渡りです。」


ゆるくかけられた入り口の布の向こうから、耳慣れたジジの声が聞こえた。

紅蓮は何も応えぬまま、小さく眉を顰める。


「入るぞ。」


無言を気にすることなく布をかき分け入ってきたのは、久しく見ていない仮の主だった。

ずかずかとこちらに近づくローディンの手には、透明の壷――先日ビンというものだと教えてもらった――があり、逆の手には大きめの杯が二つ握られている。

紅蓮は切り抜き窓の大き目の縁に座ったまま、静かな瞳で彼の動きを追っていた。


「ちょっと付き合え。」


そう言いながら、ずりと行儀悪くも足で備え付けの小さな台を押したローディンが、その上にビンと杯を置く。

ポン、と間抜けな音を立てて開け杯へと傾けたビンからは、紅蓮の瞳よりも少し深い色の赤い液体が零れ出てきた。

途端、立ち上る独特の香りに目の前のこれが酒であることを知る。


「何の真似だ?」

「意味は無い。ただの気まぐれだ。」


皮肉げに笑えば、意外にもローディンは苦笑を浮かべた。

その表情が存外彼の人に似ていることに気付いた紅蓮が、何となくばつが悪そうに目を逸らす。


皮肉交じりの返事を予想していたローディンは、予想が外れて僅かに目を見開いた。

改めて彼女を見れば、いつもの無表情で窓の外を見るともなしに見ている。

空は既に暗く、幾千幾万の星が輝きその中心には淡く輝く白い月。

その柔らかな光に照らされ闇夜の中ぼんやりと、まるで月の化身のように輝く紅蓮はローディンがこれまで見てきた誰よりも、何よりも美しかった。


「…まるで一枚の絵画のようだな。」


溜め息交じりのその言葉に、一対の赤い宝石がゆっくりと彼を見据えた。

その瞳に、どこか自嘲するような色が見えたのは気のせいだろうか。

薄く色づいた唇が、皮肉げに弧を描いた。


「さしずめ月下鬼人図と言ったところか。」

「また随分と自虐的な言葉だな。」


また苦笑。


「…その顔を止めろ。」

「無茶を言うな。俺は生まれたときからこの顔だ。」


とうとう声を出して笑い始めた男に、違うと叫ばなかったことを褒めてほしいと思う。

苦虫を噛み潰したような顔でローディンを見れば、彼は杯を二つとも手に取りゆったりとこちらへ近づいてきた。

そのまま紅蓮の隣に立ったローディンは、両手に持った杯の片方をずいと彼女に押し付ける。


「いらん。」


にべもなく断った紅蓮に、彼は構うことなく更に杯を押し付けた。


「酒は苦手なのか?」

「ほしくないだけだ。」

「頭もよく器量もいい上、武術にも長けたそなたに弱点があったとはな。」

「…飲めないわけではない。」


事実、紅蓮は下戸ではない。上戸というわけではないけれども。

つまりは普通に飲めるのだ。


何だか納得のいかない気分になりながらも、渋々ローディンの杯を手に取ると、彼は満足そうに頷いて紅蓮の腰掛けているふちの反対側に腰掛けた。

意外と大きなこの窓は、成人二人が腰を下ろしたところで肌が触れ合うことはなく、適当に杯を置く分の余裕まである。


まぁ、庶民ならともかく、貴族や王族の姫がこんな敷布も無いところに座り込むことなど無いのだけれども。

そこら辺、市井に混じって放浪するのが大好きなローディンとしては特に気にすることもないらしく、寧ろ礼儀作法の塊である貴族の姫君などよりも紅蓮の態度はずっと気が抜けて好感を持てた。

が、杯を受け取ったもののなかなか口をつけようとしない彼女に、またもや苦笑したローディンが先に口をつける。


紅蓮自身、意識していた訳ではないのだが、最低限他人から進められたものは相手よりも後に口に入れるという習慣は抜けそうになかった。

最も、口に入れること自体が紅蓮にとってはありえないことなのだが。

どうにも目の前の男のちらりと見せる表情に調子を狂わされているようだ。


ローディンが口に含むのを確認した紅蓮が、しばし手の中の杯を見つめたあと溜め息をついて杯に口をつける。

真っ赤な液体は紅蓮が知る酒とは風味が異なり少し酸味の強い味だったが、意外と好ましい味だった。


「これはここよりずっと東の地、海に面した国から仕入れたものでな。何でも、果物を使って作られた酒だそうだ。」


どうやらローディン自身がこの酒を好んでいるらしく、彼のペースはなかなか早い。

それにつられたわけではないが、紅蓮も無意識に酒を求めた。

最近は心を乱す夢も多く、不意に浮かぶ思い出も所構わず紅蓮を揺さぶる。

信用できる者のいない世界で酒に頼ることなど愚の骨頂であるとは解っているものの、それでも今日だけはと思ってしまうくらい紅蓮の心は疲弊していた。

先程から無意識に零れる自嘲の笑みも、普段の紅蓮であればありえないことだろう。


耳に届くのは風の音。

彼の人と生きたあの土地よりもずっと乾燥した風は、酒で火照り始めた肌に心地いい。

杯が空になれば気付いたローディンがすぐに満たす。

本当ならば仮とはいえ仕える側である己の役割だろうにと、歯牙にもかけずに甲斐甲斐しくビンを傾ける男を見つめ紅蓮は思わず笑ってしまった。


思えば、彼の人もそういう人だった。




「そんな表情かおもできるのだな。」


僅かに息を呑んだローディンが驚いたような表情でこちらを見ている。

あぁ、この台詞もどこかで聞いたな、と紅蓮は切なさを浮かべた眼を細めた。

おそらく考え方や所作が似ているのだろう。


「…顔の作りも、声さえも似ていないというのに。」


初めて聞く切なく弱弱しい声が、ローディンの胸に強く刺さる。

淡く朱に染まった頬が、彼女が少し酒に酔っていることを示していた。


「もとの世界に残してきた者か?」


答えてくれるだろうか。

しかし聞かずにはいられなかった。

しばし口を閉ざした紅蓮に、やはり駄目かと諦めかけた時、かすかな呼吸音と共に紅蓮が口を開いた。


「…わたしの、主だ。」

「主…。」


そういえば、ローディンは紅蓮がどのような世界で生き、誰と親しくしていたのかを知らない。

家族構成や、どんなことをやっていたのかすら知らなかった。

ただ、叔父に召喚された神子としか知らないのだ。


「そなたの故郷くにのことを聞いてもよいか?」


その問いに、紅蓮が俯き暗く笑う。

しかし、ローディンは何となく今なら答えてくれる気がした。










「私の生まれは忍の隠れ里。」

「しのび?」

「…間者としての技術を磨いた者だ。」


なるほど、とローディンが頷く。

紅蓮の身体能力の高さの理由が解った。


「私は幼い頃里を離れ、偶然出会った主の下で生きていた。」


彼女の想う故郷は、生まれた里ではなく部下として生きた主の国。

ここよりもずっと水に溢れ緑に覆われたその国は、一見豊かそうに見えてやはり戦の影が常に付きまとっていた。

海に囲まれた広大な土地を大小様々な国が分断し、同盟を結び国交を持つ国もあれば常に戦を仕掛けて隣国を吸収する国もあった。


「私の主君は、緋臙ひえんという国の一領主だった。」


国境に位置するその領は絶えず他国との戦の影に晒されていたが、何よりも民を思う蘇芳によって守られ、廃れることなく寧ろ活気に溢れた良い土地だった。

それら全てを背に負い少しも苦を見せることなく誰よりも輝いていた主に、紅蓮は全幅の信頼を寄せていたのだ。


「しかし、それでも戦の魔の手は払えなかった。」


隣国の情勢、乱れる世、何より緋臙を治める国主が愚かだった。

蘇芳の治める領も、次第に戦乱へと飲み込まれていったのだ。


「戦を避けようと、誰もが必死に動いていた。その甲斐虚しく戦が始まってしまったが、それでもできるだけ被害を抑えようと皆死に物狂いで動いた。」


たとえ己の手が血で染まろうと。

そう言ってかざした手は白くすべらかで。

白い肌など見慣れていないローディンには、神々しいほど美しく清らかに見えたが、紅蓮にははっきりと爪の中まで赤黒く染まった己の手が見えている。


「綺麗な手だ。」

「赤子すら殺めた手だぞ。」


くっ、と馬鹿にするような声で紅蓮が嗤った。

それは目の前の男ではなく、彼女自身に向けられたものだった。

ローディンはどこか痛ましげに紅蓮を見つめる。

それに気付いた紅蓮が、少し居心地悪そうに目を逸らした。




「確かに、許されることではないだろうが…そなたはそれを覚えている。」


ローディンとて人を殺めたことはある。

今の状態を見れば判ることだが、この国にだって争いはあるのだ。

父王の治めた平穏の世ですら隣国との戦があった。


「どこの世にも、争いはあるのだな。」


重い息とともに吐き出された言葉に、紅蓮は何を思ったのだろう。

眩しげに細めた目でローディンを見ていた。



――忘れるな、殺めた命を胸に抱き、その生を全うしろ。

――その瞳に映したものを、しっかりと覚えていろ。


力強い主の声が、聞こえた気がした。








ローディンの言葉に何か思うところがあったのか、はたまた酔いに思考を止めたのか、目の前に座る白い女はぼんやりとこちらに視線を向けた状態でうんともすんとも言わなくなった。

しばらくその状態が続くも、その宝石のような赤い瞳に見つめられると何となく心がざわめき落ち着かない。

王太子という立場上、見られることに慣れているローディンですら、背けたくなる顔を留めるのに苦労した。


誤魔化すように酒で口を湿らせながらちらりと彼女を見れば、うるんだ瞳がどこか切なげに細められている。

たったそれだけで、ローディンは己の鼓動が大きく脈打つのが判った。

太陽に焼かれた黒い肌ばかりのこの国で、あまりにも異質すぎる彼女は目立つし人を惹きつける。

側室として未だ公式な披露目をしていないからか、彼女の姿を見た者から次々と誰何の声が上がるのを聞いた。


ローガン側は、今のところ何も言ってきていない。

色々と画策はしているだろうが、表面上は動きを見せていなかった。

近々、探りに出していた侍女のカーラも呼び戻す予定だ。

ローディンの巡る思考を中断させたのは、ぎりりと何かが軋む音だった。




「……ぇ…」


ぽつりと零れた紅蓮の声は、風に浚われローディンの耳まで届かない。

尋ねようと口を開いたローディンは、しかし言葉をかけることができなかった。


「…何故、わたしは、こんなところにいるの…?」


白くなるまで握りこまれた紅蓮の手が小刻みに震え、吐息のような掠れた声が届く。

朱に染まった目元を覆うように空いている手で顔を覆った彼女は、狭い窓のふちに器用に両足を上げ、杯を持ったままの腕で膝を抱え込むように身を縮めていた。


「蘇芳様の影すら見えぬ場所で…あの方をたった一人にして…どうして…っ…」


零れる声は見る見るうちに掠れていき、ついには押し殺したような嗚咽が混じる。

手先の震えは全身に移り、小さな方がぶるぶると震えていた。

ぎゅう、と紅蓮が更に身を縮める。

ローディンは無意識に手を伸ばしていた。


「…レン…」


白い肘にそっと手を添わせれば、細い腕がびくりと震えた。


「……な…。」

「レン。」

「…よぶな。」

「レン、辛かっ…」

「その名で呼ぶなっ!!」


それは私の名ではない。

叫びと共にばしっと肌を打つ音が響く。

紅蓮の手から離れた杯がガシャンと高い音を立てて割れた。


粉々に散らばる破片がきらきらと月の光を弾き、顔を上げた紅蓮の燃えるような瞳を映す。

ぎらりと怒りを湛えた紅い瞳が真っ直ぐにローディンを捉えていた。


突然、荒々しく動いた紅蓮が彼の手を弾いたその勢いのまま、ぐんと身を起こしてローディンの胸倉を掴む。

その場に彼の護衛、特に上将軍であるクロードなどが居合わせれば、彼女は不敬罪で取り押さえられていただろう。

しかし、胸倉を掴まれ揺さぶるように力を込められても、ローディンが抵抗することはおろか表情を変えることは無かった。

それにすら苛立ちを覚えた紅蓮が、ぎゅっと眉を寄せて更に怒りを燃やす。


「何故っ…何故私なのだ!!何故あの瞬間だったのだ!!」


まるで血を吐くような、そんな声だった。


「せめてっ…せめて、あと数刻遅ければ…」


私はあの方と共に逝けたのに。

胸倉を掴んだままローディンの肩口に額を寄せ、吐き出された言葉は紅蓮の心の叫び。


あの瞬間のために、紅蓮は蘇芳と出会い。

あの瞬間のために、紅蓮は蘇芳と駆けた。


あのとき、確かにそう思ったのだ。


悔いは無かった。

寧ろ幸せだった。

できることなら、生きてほしかったけれど。

それでも、共に戦い、共に散ることができれば。


ただそれだけで、幸せだったのだ。

幸せだった、はずなのに。




ローディンは応える言葉がなかった。

目の前で、激しい怒りと悲しみに打ち震える背中に、まるで己に縋りつくような細い腕に、感情の全てをぶつけてくる彼女にローディンの意識が惹きつけられる。

いつもは白い身体が怒りで発熱しているのか薄く桃色に染まり、密着した肌からは確かな熱を彼に伝えていた。


無意識に、ローディンの腕が彼女の背に回る。

全ての悲しみ、苦しみから彼女を守りたい。

いつの間にか、その思いだけがローディンの心を占めていた。

きつく、きつく、自身が震えるほどの力を籠めて彼女を抱きしめる。


紅蓮は痛いとは言わなかった。

ただ、心の内から怒りと共に溢れ出した己の熱よりも熱く大きな腕の力だけを感じていた。


「……すお、うさま…すおうさま…。」


小さな小さな呟きは数度繰り返されたものの、彼女の意識が途切れるとともに大きな腕の中で消えた。







紅蓮は知らない。

彼女を見下ろすローディンの目が、何かを射殺すようにぎらりと輝いていたことを。

その輝きの中に、確かな嫉妬の炎が揺らめいていたことを。


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