仮の側室
紅蓮が王太子の居城で暮らし始めて驚いたことがある。
それは、側室が己の住まう宮である奥宮だけでなく、城内であれば断り無く出回っても良いということだ。
しかも許可さえ下りれば、城下にも出ていいらしい。
まぁ、紅蓮の場合、経緯が経緯なので外出の許可はしばらく下りないと宣言されているし、一部立ち入り禁止の区域はあるものの、それでも奥方や妾が自由を許されていなかった元の世界に比べれば大きな違いだろう。
実のところ、側室という立ち位置を聞いて殆どの行動を絞られるだろうと予想していた紅蓮の心配は杞憂に終わった。
「これはレン殿、如何なされた?」
身の回りの地の利くらいは把握しておこうと気の向くままに歩き回っていた紅蓮に、慇懃な言葉にも関わらずどこか笑いを含んだ声が届いた。
「……上将軍…閣下。」
「あぁ、そんな無粋な呼び方…どうかクロードとお呼びください。」
「…私のような下賤の者がそのような無礼な振る舞いなど、恐れ多いことでございます。」
無表情のまま淡々と言ってのける紅蓮に、声をかけた張本人――アッシル=クロード・オーバンは苦笑を浮かべた。
「はは、悪ふざけが過ぎたようだな。」
「何のことでございましょう?」
「まぁまぁ、そう警戒すんなって。あんたのことは、俺も納得した上で受け入れたんだ。」
「……。」
納得はした、が信頼はしていない。
探るような紅蓮の視線に、彼女をはるかに凌ぐ体躯を持つ男は僅かに目を細めた。
「今は手を組むだけって感じだな。ま、いちいち感情でぐらつかれるより、合理的で信用はできるか。」
しかし、と男は笑みを消し去り言葉を続けた。
「お前が殿下を裏切ることがあれば、即座に俺が切り捨てる。」
目の前の男が先ほどの軽口からは想像もできないほどの殺気を放つ。
それは並みの人間がまともに受ければ、軽く意識を飛ばしてしまえるほどのもので。
しかし、どこからどうみても細身の美女である紅蓮は、肩どころか眉すらピクリとも動かさなかった。
クロードは内心感嘆の声を上げる。
紅蓮の紅い眼が刃物のようにすらりと細められた。
「私にとって、クロード様の主は仮とはいえ契約者。そちらが裏切らない限り、私も交わした約定は守ります。それ以上でもそれ以下でもありません。」
告げられた言葉は、どこか氷のように冷たく機械的だ。
しばらく互いを探るように見つめていた二人だが、先に動いたのはクロードだった。
「ま、取り敢えずは及第点かな。」
一瞬にして場の空気を壊した男は、先ほどまでの殺気はどこへやら、へらりと笑うと小さく息を吐いた。
「ところで、レン殿はこんなところに来て、何か用でもあったのか?」
何事もなかったかのように話題を変えた男に、紅蓮は特に気にしたふうでもなく目線を進行方向へと向けた。
ここは城内の訓練場、この地を守る兵士たちが戦いに備えて日々鍛錬に励んでいる広場の入り口である。
どうやらクロードも身体を動かしに来たようで、式服とは違う軽装で手には鍛錬用だろう、錘のついた刀剣が握られていた。
「いや、特に用は…。」
「宰相殿の揃えた教師陣とのお勉強会は?」
「今日の分は終わりました。」
「ふうん…じゃあ時間は空いてるわけだな。」
「…まぁ。」
どこか食えない笑みを浮かべてクロードが笑う。
紅蓮は僅かに眉を顰めた。
「折角こんなトコまで来たんだ。姫さんもちょっと身体動かしていかねぇか?」
ふざけた呼び名でふざけたことを言う男に紅蓮の眉が更に寄った。
「…こんな格好で?」
側室である紅蓮の衣装は、袖も裾も長くひらひらと手足に纏わりつくので運動には適していない。
「着替えりゃいいだろ?上将軍様専用の着替え場があるからな。そこを使え。」
この男、引く気はないらしい。
しばらくの間クロードの茶眼を睨みつけていた紅蓮は諦めたように大きく溜め息を吐くと、心底嫌そうに小さく頷いた。
案内された訓練場は、城内の兵が一挙に整列しても余裕があるほど広く、入り口側から広場の三分の一ほどのところまで屋根がかかっていた。
入り口の左側には小さな個室が四つと右側に少し大きめの個室、更にその奥に一番大きな個室が設置されている。
訓練場の入り口をくぐったクロードは、迷わず右側の少し大きめの個室に進んだ。
紅蓮も無言で彼の後に続いた。
「ここは俺専用だからな、勝手に入ってくる奴は余程の馬鹿か刺客だけだ。」
そう軽く告げた男は、入り口の布を少々乱暴に掻き分けると、部屋の奥へと進んでそのまま隅に置いてある大き目の箱をあさり始めた。
「えーと、ここら辺にいらねぇ服が…」
ぶつぶつと呟きながら箱をあさる男の背後で、紅蓮は物珍しげに周囲を見回す。
城のどこを見ても見知らぬものばかりだが、ここは少しばかり違った。
作りこそ違えど、使い込まれた武具はそれでも丁寧に磨かれ大事に保管されている。
幼い頃から武具に囲まれ育ってきた紅蓮にとって、それは少しだけ懐かしさを感じさせた。
「ほれ、こいつなら着れるだろ?」
ひょいと投げて寄越された服を広げてみれば、現在身につけているものとは真逆の代物で。
つまりは、見た目よりも機能性重視、腕も胴回りも無駄な布の無い長袖と動きを制限しない程度に余裕のある履物だった。
大きさも目の前の大男には絶対着れないような、どちらかというと紅蓮の身体の大きさに近い。
これなら、裾や袖を軽く縛れば問題ないだろう。
それよりも。
「何でこんなものを置いている?」
上将軍の私室に、こんなものがある意味が判らない。
それとも、ここは兵士の普段着まで上将軍が管理しているのだろうか?
「あぁ、そりゃあ元々殿下のもんでな。まだ十かそこらのときお忍び用のものをここに隠しておいたんだ。もう使うことも無いし、処分しようと思って忘れてたからちょうど良かった。」
そういって声を上げて笑う男を、紅蓮はどこか複雑な思いで見つめる。
そういえば、紅蓮の大事なあの人も、身分を偽り町民の服を着てお忍びで町を徘徊するのが好きだった。
供も連れずに城を抜け出すため、紅蓮たち周囲の者にしてみれば何度寿命が縮まる思いをしたか知れない。
方々探してやっと見つけたときの、あの悪びれない笑顔が不意に頭を過ぎった。
「どうした?」
いつも氷のように全てを閉ざした赤い瞳が、その一瞬少しだけやわらいだ気がして、クロードはじっと紅蓮を見つめ返す。
珍しく、はっと肩を揺らした紅蓮は、ばつの悪さを吐き出す息で誤魔化しながら、再び瞳を凍らせて一度は受け取った王太子の服をぐいとクロードへ押し返した。
「申し訳ないが、やはり今日は止めておく。」
伏せられた瞳に少しの寂しさを垣間見たクロードは、踵を返して立ち去る紅蓮に何も言うことができなかった。
――神子様のご様子がおかしい。
そう報告してきたのは、神子、改め先日王太子の側室となったレン付きの侍女だ。
レンの侍女として彼女の身の回りの世話をするとともに、彼女を監視し定期的に報告するよう命じている。
侍女であるジジが来たのは、昼を少し過ぎローディンが山ほど積み上げられた書類を淡々と片付けていたときだった。
ローディンはぽつぽつと明かりの灯った廊下を歩きながらそのときの様子を思い出す。
彼女の言葉を聞いたとき、はじめは神子が何か企んでいるのだろうかと少し身構えた、が。
――感情の起伏をお見せにならないことは聞いておりました。夜お眠りになることも少ないとも聞いておりました。
これは全て叔父の下へ送り込んでいたカーラの報告である。
驚くことに、彼女が言うには召喚されてから神殿で過ごした七日の間、神子がまともに眠ったのは最初の二日間、それも眠るというよりも怪我で意識を失っていたときだけだというのだ。
それ以外は全て、寝台に横になることなく枕元で壁に背を預けたまま目を瞑っているだけという感じだったそうだ。
おそらく少しは眠っていたのだろうが、自分や他の人間が少しでも彼女の部屋に足を踏み入れれば、すぐに目を開いてこちらを伺い再び目を閉ざすということを繰り返していたそうなのである。
五日、その生活を続けてのあの動き。
ローディンは初めてレンと会った夜を思い出し、大きく溜め息をつく。
その彼女も、自分と契約を交わしたことで少しは変わったのだろうか、ジジが言うには眠りは浅いものの、この城ではきちんと寝台に横になり食事もしっかり取っているらしい。
相変わらず、他人が部屋へ入ると起きるそうなのだが。
――夜はなるべく入室を控えております。ですが、何かあったときのために隣の部屋に控えてはいるのです。その時に、あの…。
どこか戸惑うような目で、それでも心からの心配を滲ませた侍女が話す。
曰く、浅い眠りの中で、彼女はうなされているようなのだ、と。
大きく助けを求める声を上げるでもなく、寝台を乱すような動きも無い、それでも耳の良いジジには深夜隣の部屋で苦しげに震えるレンの呼吸が聞こえるのだそうだ。
そして、どうしても気になり部屋を伺えば、気配に気付き静かに目を開く彼女の顔は白さを通り越して青くなっていた。
額にびっしりと玉の汗を浮かべたレンは、それでも安否を確かめるために伸ばしたジジの手を無表情で拒む。
日が昇れば普段と変わらず生活するレンだが、ジジはいつ倒れてもおかしくない状態なのではと心配しているのだ。
名目だけの側室とはいえ、彼にとっては一応身の内に入れた人間である。
その報告を聞いてじっとしていられるローディンではなかった。