前夜
紅蓮は焦っていた。
普段、氷のような無表情を貫くその面は歪み、白い頬には幾筋もの汗が流れていた。
我武者羅に脚を動かし形振り構わず走っているので、所々赤黒い血の滲んだ傷口が開き、新たな血が流れ始めていたが、そんなことはどうでもよかった。
彼女は痛みすら忘れたように、ただひたすら戦場を走り抜けていく。
(お館様っ…どうか早まらないでっ!!!)
浮かぶのは彼の人の燃えるような赤毛と、太陽のような笑顔。
微笑み一つ浮かべぬ己の、不気味なほどに白い髪を撫でてくれた唯一人の人。
(どうか、どうか…)
真っ赤に煌く一対の瞳にじわりと涙が滲んだ。
(間に合って…蘇芳様っ!!!)
「お館様。」
夕闇の中、ゆらゆらと揺らめく湖面の月を見つめる男が一人。
静かに佇んでいた彼の人の傍らに、まるで物の怪のように気配なく表れたのは、黒装束の細身の女だった。
小さく、しかしはっきりとした声で男を呼んだ女は、それ以上口を開くことなく静かにその傍らに跪いている。
「紅蓮か。」
男は、微動だにせぬままぽつりと呟くと、揺れる月を見つめながら小さく息を吐いた。
「申せ。」
放たれる言葉は短く、聞く人間によっては意味が解らないだろう。
しかし、跪く女――紅蓮にとっては、それだけで充分に彼の意思を読み取ることが出来た。
「深縹と瑠璃の軍勢は、鈍の丘東南の墨川沿いに布陣しております。その数、十万と五千。更に明後日には柳と緑青の軍勢五万二千も加わるとのこと。」
「合わせて十五万七千か。」
くっと喉奥で笑う男の漆黒の瞳には、未だ消えることのない光がギラギラと輝いている。
跪き、頭を垂れている紅蓮が見ることは叶わなかったが、彼女にはその様子が手に取るように判った。
「我が軍は先の戦で二万を失い、今動かせるのは三万程度。銀朱殿が二万、深緋殿のところが三万五千。合わせて八万五千か。」
「恐れながら、深緋殿の軍勢は半数が掻き集めの農民でございます。戦力にはなりますまい。」
「…民まで、巻き込むか。」
「強制ではありませぬ。志願したものばかりでございます。」
「ふうむ。」
男が苦虫を噛み潰したような顔で黙り込む。
彼は常々、民の土地を戦場にすることや、民を戦場に引きずり出すことを良しとしなかったので、自軍の者ではないとはいえ納得がいかないのだろう。
しかし、今回の戦は、民すら駆り出さねばならぬほどの苦境に陥っていた。
否、十五万強に対して八万七千、しかも農民交じりの軍勢とあっては勝てる見込みすらないだろう。
まさに、死地。
「蘇芳様。」
「何だ?」
低い声で男の名を呼んだ紅蓮が、漸く面を上げた。
真っ白な面はどこか湖面の月に似て美しく、そこに納まる宝石のような紅玉の瞳に射貫かれれば誰もが息を呑んだ。
さらりと肩を滑る絹のような髪は、まるで粉雪のように真っ白で触れれば消えそうなほど繊細だ。
「此度の戦。やはり出られるので?」
「当たり前だろう。」
「討ち死には、覚悟の上でございますか?」
「愚問だな。」
「…猩々緋様は、お出になられぬようですが。」
「それがどうした。先の戦で殿の意向は理解しておるわ。俺はもはや憎き瑠璃に一矢報いるだけでよい。」
「…ですがっ。」
「黙れ、紅蓮。今朝も話したであろう?此度の戦は負け戦。死にたくない者は早々に城を去れ、と。」
「私は…貴方様にこそ、生きて欲しいのです。」
まるで搾り出すような女の声に、蘇芳の顔が僅かに歪む。
次いで苦笑を浮かべた男は小さく息を吐くと、漸く湖面の月から視線を外して白い女に目を向けた。
彼を見つめる紅い瞳には、己の無力を呪う怒りと男の未来を嘆く悲しみで満ちている。
「紅蓮、俺の小さな蓮の花。解ってくれ。俺は武士として死にたいのだ。」
ぐっと女の顔が泣きそうに歪んだ。
蘇芳は静かに屈みこみ、紅蓮の頬に手を添えるとそのまま彼女を引き上げるように立たせた。
赤く揺らめく瞳が男を射抜く。
「この戦が終われば、深縹殿が天下を平定し、長きに渡る戦乱の世も終わりを告げるだろう。瑠璃はいけ好かんが…深縹殿は才知に溢れ慈愛に満ちた賢将と聞く。敗れた我が土地の民にも慈悲を与えてくれるだろう。」
「ならばっ…」
深縹殿の下へ降られるのも道、思わずそう言いかけた紅蓮がぐっと唇を噛み締めた。
武士としての死を求める彼女の主は、そんな道など求めてはいないだろう。
紅蓮の呑み込んだ言葉を読み取った蘇芳が僅かに苦笑を浮かべた。
「俺を支えてくれていた民の未来は保障された。あとは己の志を貫くのみだ。」
紅蓮の顔から視線を外し、闇夜に浮かぶ本物の月を見上げた蘇芳の顔は、既に決意を固め静かに凪いでいた。
そんな主の姿に、どう説得しても未来が変わらないことを悟った紅蓮は悔しげに唇を噛んで俯く。
彼女とて、大事な主である蘇芳の意思を尊重したかった。
しかし、どうしても納得がいかないことは、蘇芳の仕える主である猩々緋の態度だ。
己の意地と矜持のために、何度となく無謀な戦で戦力を削り続け、漸く自軍の不利を認識した途端篭城に転じ、自らは城に篭ったまま配下の将である蘇芳や銀朱達を盾にした。
その君主としての才どころか、武士としての志も持たぬ卑怯な男のために、大事な主が命を散らすことが悔しくて仕方がない。
ぎり、と、紅蓮の口元から歯のすれる音が漏れた。
(蘇芳様…民の未来より、私は貴方の未来を望みたいっ!!)
紅蓮は赤の国主、猩々緋が家臣、蘇芳の忍である。
彼女は忍の隠れ里“紫黒の谷”の抜け忍で、物心ついて間もない頃里に捨てられ、帰る場所を失い彷徨っていたところを鹿狩りに出ていた蘇芳に拾われた。
特殊な生まれの紅蓮は、容姿も人とかけ離れており、真っ白な髪に血のような瞳を持つ少女は、生まれてからずっと疎まれ続け、化け物と石を投げられてきたのだ。
そんな彼女に初めて手を差し伸べたのは、四十になったばかりの蘇芳だった。
里の陰気な大人たちばかりを見ていた紅蓮は、燃えるような赤毛を靡かせながら男の盛りも直中の生気溢れる蘇芳の姿に、これは何の生き物だと一気に目を引き付けられたことを覚えている。
紅蓮という名も蘇芳にもらった。
里の大人たちが呼んでいた名前など、既に記憶の彼方に消えている。
彼の人に仕えて十四年。
蘇芳は紅蓮の全てになっていた。
「明日は最期までお供いたします。」
(貴方が瑠璃を討ち取るその瞬間まで、私がこの命に変えても守り通してみせる。)
固い決意を胸に、紅蓮は月を見上げる主を脳裏に焼き付けるように見つめていた。