「女は負けていればいい」? では、公爵様とチェスで本気で遊びます~元婚約者の自慢話には、私の手加減が必要でした~
私のチェスの駒が、伯爵令息オズモンド様の王を詰める。
祖母の庭の茶会。春の風が盤を渡る。向かいの指は王に触れかけ、行き場をなくして宙をさまよった。私は盤から顔を上げ、笑みをこぼす。
「こ、このぉ! 女は負けていればいい。そんなこともできない君とは婚約破棄だ」
「あら……」
最後の一局くらい、本気で指したかっただけなのに。
「僕の顔を潰して楽しいか?」
「楽しいです。勝ったら嬉しいのは当たり前です!」
卓の下で両手をぎゅっと握る。指に力がこもる。
「女らしくない!」
「女だって勝つと嬉しいんです。嬉しい顔まで、いけませんか?」
オズモンド様が盤を押す。倒れた王が横向きに転がり、私の指の近くで止まる。
「少しは遠慮しろ!」
「遠慮なら、今までの分で十分でしょう? 駒を動かす前に、いつもあなたの顔を見ておりました」
王を起こすと、家の縁談を決める祖母が立ち、私の顔を見て、それからオズモンド様を見る。人前で破棄を言い出した側に非があるのが、この国の慣いだ。
祖母が、握ったままの私の手へ目を落とす。
「受けなさい。三年ぶりに、あなたの本気の顔を見たわ」
婚約破棄にうなずいて、私は隣の卓へ向き直った。
生垣の白い花の隣に、公爵オーガスト様がいる。盤を挟んで、こちらを見ている。私は卓の下から手を出し、その盤の前へ進む。
「公爵様。私と、本気で遊んでくださる?」
「喜んで」
空いている椅子に座る。駒に触れた指が、すべすべした木の丸みに馴染む。
「では、先手はお譲りします」
「要らん。本気の相手に譲るな」
「本気の相手。……はい。では、遠慮なく!」
公爵様の指が駒へ伸びる。私は盤を見たまま、次の駒に触れる。前にも隣の卓から、この視線を感じた気がする。公爵様は毎週祖母と指す常連だ。私は三年、婚約者以外とは指させてもらえずにいた。今日は、その公爵様が正面にいる。
「取れました! 公爵様の騎士です!」
「では、君の塔をもらう」
私の塔が盤を離れる。嬉しくて浮かせた手を、そのまま口元に押し当てる。
「塔を……あぁぁぁ、やられた! 今、喜んだところですのに!」
「俺にも喜ばせてくれ。ははっ」
「喜ばせて、ですって? では、私も取り返しますからね!」
「来い」
公爵様が口の端を上げる。私は駒へ手を伸ばし、握りかけた指を開く。
「面白くなってきましたね!」
駒を取る。取り返される。悔しくて唸る。そして――。
「これでどうかしら?」
「くあぁ……。俺の負けだ……」
「ふふっ。ありがとうございました」
すると、社交界では無愛想で通っている公爵様まで、声を上げて笑いだした。
「はははっ、君は最高だな。もう一局。今度こそ君に勝ちたい」
卓の上で握った両手を隠しかけ、そのままにする。公爵様は詰んだ王を眺め、まだ笑っている。
私はグウェンドリン、二十四歳の伯爵令嬢で、チェスは祖母譲り。三年の婚約の間は手加減した負け方しか許されず、女王を取らせろとの指定まであった。言われた駒に触れるたび、自分の指なのに、動かすのがひどく重い。来月の婚礼の支度で、祖母の茶会に出るのは今日が最後のはずだった。婚礼の後は盤に座らせない。そう決めたのもオズモンド様だ。
公爵様へ向く。再戦は日を改めて。その前に、盤の縁へ手を置く。
「手加減はもうしません。賭けませんし、負けた方を嘲りません。悔しいも嬉しいも隠さずに……」
「それでいい」
「では、悔しがっても叱らないでくださいね。顔にも声にも出ますよ!」
「俺も悔しがるぞ」
公爵様が取られた騎士をつまむ。その指の間で、木のつやが光る。
「公爵様も? ふふ、では遠慮なく。楽しみです!」
オズモンド様が客たちへ顎を上げる。
「僕はあの子には、いつも勝っていたけどな」
公爵様がオズモンド様へ向く。笑いの消えた顔は、噂どおりに無愛想だ。
「ほう? では、次は君と」
「今日は、その……!」
オズモンド様の手が、詰まれたままの盤を隠しかける。公爵様がその手を見る。
「その、何だ?」
「今日は調子が出ない! 僕の腕を見たければ、次の定例だ!」
「分かった。待とう」
オズモンド様は開いた口を閉じる。
週に一度の茶会は、誰と指してもよいのが祖母の決まり。負けた者が茶を淹れるのは、婚約して自分が初めて勝った日にオズモンド様が言い出した決まりで、私は三年、淹れる側だった。今日のオズモンド様は茶を淹れず、離れた席へ移る。
公爵様は負けた茶を自分で淹れ、私の前へ置く。湯気で盤の縁がぼやける。公爵様が私の顔を見る。
「いい顔で勝つんだな」
お礼が出てこない。笑いすぎた口元を結びかけて、そのままにする。また握っていた両手を、茶碗の温かさへそっと開く。
◇
数日後、広間の四つの盤のそばに茶器が並ぶ。開いた窓から風が入り、菓子の甘い匂いがふわりと近づく。集まった女性の客たちの指が、私の示した駒へ伸びる。
祖母の古い茶友であるオズモンド様の母も、破棄を知って詫びに来ている。茶会ではいつも、茶碗だけを手にしている人だ。夫人が私に頭を下げる。
「あの子が婚約を破棄などして、申し訳ありません」
祖母が、詫びは要らない、代わりに盤を覚えなさいと、夫人を席へ促す。夫人は背筋を伸ばし、駒を恐る恐る持ち上げる。私も盤のそばへ手を添える。
夫人が、盤を覗いたまま言う。
「あの子は家で、誰にも負けないと毎晩言うのです。盤はあの子の物と思っておりました。……私も指してみたいのです」
私が示した駒を、夫人の指が取る。私の兵が盤を出ると、夫人の頬が緩む。取った兵を手のひらに載せ、顔を近づけて眺めている。私はその手が盤へ戻るのを待つ。
隣の卓では、祖母がいつものように公爵様を招いて指している。祖母が女性の客たちへ向き、公爵様の駒を指して手を伸ばす。
「そこは取れるでしょう?」
「口を出すな。俺の駒だ」
公爵様が駒を指で押さえる。私も祖母へ顔を向ける。
「お祖母様、こちらも教えている最中です! 駒より先に、お祖母様の手が来てしまいます!」
祖母が手を引き、女性の客たちへ胸を張る。
「私の孫が教えたのよ」
公爵様が、祖母の指した駒を見る。
「なら俺が取る」
祖母の駒が盤を出る。祖母の手が宙で止まり、公爵様の指にある駒を追う。
「取られましたわね! お祖母様、こちらへ教えにいらしている場合ではありませんよ!」
「次は君の駒を取る」
公爵様の視線がこちらへ移る。私は自分を指さす。
「取る。でしたら、私も取り返します! 今から楽しみですわ」
「取れるものなら」
「まあ、言いましたね? 取られてから惜しんでも、返しませんよ!」
「返せとは言わん。取り返す」
女性の客たちが声を立てずに笑う。私も笑いながら盤へ向き直ると、夫人は取った兵を脇へ置き、次の駒に手を伸ばすところだった。
女性の客たちが、次も一緒にと私を誘う。目を合わせてうなずくたび、盤のそばへ椅子が寄る。
祖母との対局を終えた公爵様と約束の再戦――――勝利。
私は両手を握り、伸び上がる。
「勝ちました! 公爵様、私の勝ちです!」
「見れば分かる」
「ごめんなさい。でも嬉しいんです! ふふっ」
公爵様が盤の前で笑う。駒に窓の光が当たる。
「君は教えるのも上手いしな」
駒を置きそびれる。勝ったと言うのはあんなに簡単だったのに。木の底を指でなぞり、返事を探す。
夫人が盤を抱え、私へ向き直る。
「帰ったら、あの子に指してもらいます。夕食で自慢を聞くだけでしたから」
借りた盤を大切そうに抱えて帰る夫人を、門まで見送る。茶碗を持つだけだった手は、帰り際まで盤から離れない。
◇
翌週、オズモンド様が門から真っ直ぐ私へ来る。夫人も一緒だ。抱えた盤には春の光が当たり、オズモンド様の顔には深いしわが寄っている。
「母に何を吹き込んだ?」
「面白い遊び方を。お母様が、指してみたいとおっしゃったので」
オズモンド様が夫人の盤を指す。夫人が盤を少し抱え直す。
「僕に勝つ方法だろう!」
「勝つ方法? お母様は、ご自分で駒を選んでいらっしゃいましたよ」
「僕が考えている間も、嬉しそうな顔をしているんだぞ!」
「ええ。こちらでも、嬉しそうでした」
夫人がうなずいて笑うと、オズモンド様の声が跳ねる。
「笑うな!」
「お母様に言ってください。私に言われても困ります」
夫人が盤を撫でる。取った兵を眺めていたときと同じように、指が木の縁をなぞる。
「三度勝ちました。嬉しくて、夕食でも毎晩その話をしてしまいますわ。おほほほ」
笑いを止め、オズモンド様を見上げる。夫人の手元には、祖母から借りた盤がある。
「お母様にまで負けているのは、どういうことですか?」
「知らん! お前が何か仕組んだんだろう。夕食のたびに言われるんだぞ!」
「嬉しいことは、話したくなりますもの。ねぇ」
オズモンド様が私へ身を寄せる。夫人は盤を卓に置き、その角を丁寧に揃える。
「僕は嬉しくないんだが?」
「ええ。お母様の、嬉しい話です」
「ふんっ!」
客たちが私の卓へ、次の一局を約束しに来る。私はオズモンド様から少し離れ、空いている盤を寄せる。
一方、私にいつも勝っていたと自慢した元婚約者には、次々と対局の申し込みが届く。
定例に遅れて来た公爵様も、オズモンド様の前へ――。
「約束の一局だ。受けてもらおう」
「母上には負けた! だが本来の僕の腕は……!」
公爵様が空いた椅子を示す。
「では、盤で見せてくれ」
「公爵、僕が勝っても、後で文句は言わないな?」
「盤に爵位はない」
オズモンド様が公爵様の顔を見て、私を見る。私は自分の席の駒を揃え、公爵様は椅子に腰を下ろす。
「……負けた後のことは、承知しているだろうな!」
「茶なら淹れるぞ」
公爵様の返事に、オズモンド様は背を伸ばす。客たちへ向けて胸を反らし、よく通る声を出す。
「負けた者が茶を淹れる。それが盤の決まりだ」
祖母が卓を寄せる。
「組を変えて、一局ずつね」
「望むところだ! 今度こそ、僕の腕を見せてやる!」
オズモンド様の顔を見て、茶碗へ目を移す。三年、あの顔を見て茶を淹れてきた。王より先に茶器へ伸びかけた手を膝に戻し、公爵様が引いてくれた椅子に座る。
◇
公爵様と再戦――――。
初めて、公爵様に負ける。取られた女王と、詰んだ王。盤の縁へ寄せられた駒を見つめ、私は口を尖らせる。そのまま茶を淹れると、湯気の向こうで公爵様の肩が小さく揺れる。
「悔しいです! 女王まで取られて、くぅぅぅ……」
「ははっ、負けると悔しいんだよ」
「……では今は、公爵様が嬉しい番ですね?」
「とてもな。はっはっは」
公爵様の笑い声に、私まで口元が緩む。尖らせ直すのも忘れて、駒を並べ直す手が早まる。
「もう一局!」
「茶が冷める」
茶を公爵様へ寄せる。取り戻した女王が、私の手のそばで待っている。
「では飲んでください、急いで!」
「熱い」
「では冷ましてください、急いで!」
「茶にも考える時間をくれ」
思わず吹き出しかけ、茶碗を置く。公爵様は盤の前で笑っている。私も茶を少し飲むと、舌が熱くなる。
「負けたのに楽しいのが、いちばん悔しいです。もっと悔しがっていたいのに、笑ってしまいます!」
「なら、また負けてみるか?」
「嫌です。勝ちます!」
「俺もだ」
茶碗を置いた公爵様の手が、盤の脇に戻る。私も女王をそっと置く。取られた木の表面は、握っているうちに温かくなっていた。
茶会も終盤、オズモンド様は公爵様にも私にも負けていた。私は両手を握り、公爵様のほうを見て笑う。オズモンド様が椅子を引くと、茶器がかすかに触れ合う音がする。
茶を運ぶ手が、私の前と公爵様の前を行き来する。茶碗が卓に着くまで、私は手を引いて待つ。
「ありがとうございます」
「……礼を言うな」
「では、ごちそうさまです」
オズモンド様が何か言いかけ、茶碗へ目を落とす。祖母がオズモンド様の茶碗を見る。
「三年、この子が淹れたのよ。今度はあなたの番ね」
「……分かっている」
茶の香りが盤を越えてくる。公爵様が私の盤を見て、指を止める。
「次も俺と指してくれ」
公爵様に詰まれた王の上で、私の指が止まる。返事が出ていかないまま、公爵様の空の茶碗を見る。
◇
次の週、祖母の知人の孫が習いに来る。隣の卓では公爵様が駒を並べて待つ。祖母に教わった盤を私も覗くと、腕を見せに来たオズモンド様の影が差す。
子供がオズモンド様を見上げる。
「おじ様、ぼくと指してくれる?」
「僕は子供に教える側だぞ!」
胸を張ったオズモンド様が椅子に座る。向かいの小さな手が兵を取ると、上げていた顎が盤へ近づく。子供は取った兵を自分のそばへ置き、オズモンド様の指を見ている。
オズモンド様の声が小さくなる。
「少しは手加減しろ」
子供が首を傾げる。
「大人なのに?」
オズモンド様が口を開き、子供の顔と盤を見比べる。私は盤に添えていた手を膝へ下ろす。
「子供は遠慮を知らない!」
私は顔を上げる。
「遠慮。駒を取るのを待てと?」
「少しくらい譲れと言っている! 教わるときくらい、おとなしくできないのか!」
オズモンド様が盤から指を離す。子供の手が駒の上で止まる。
「嬉しい顔まで譲らせるのですか? 取れた駒を見て、喜んでいるだけでしょう?」
「僕の顔はどうなる!」
「あなたも、勝ったら嬉しいでしょう?」
私は子供の手の先を見る。駒は指の下にあり、まだ動かない。指し手には口も手も出さず、置かれる場所を待つ。
「僕を責めるな!」
「では、その子を責めないでください」
木が触れ合う音がする。駒が取られ、詰み。子供は自分の駒を見て跳ねる。オズモンド様は口を開けたまま、その手元を見ている。
祖母が子供の頭に手を置く。
「稽古の盤に茶は要らないわ」
公爵様が私へ向く。
「よく待ったな」
返す言葉を探す間に、公爵様が黙って隣へ座る。私は盤を寄せ、木の縁に手を揃える。次の一局は夕方まで決着が付かず、茶も出ない。取られた駒の影が、盤の外へ長く伸びていく。
◇
東屋で、木洩れ日が傾く。茶会が終わり、公爵様と片付けに残る。片付けた盤のそばに、まだ駒がある。譲れと頼む昼の声に、私まで子供の手を止めなくてよかった。私は兵をそっと拾う。
「負けたとき、駒を撫でていた」
「……そこまで見ていらしたの?」
「見ていた」
駒を置く。木の音が、静かな庭に落ちる。公爵様の手は止まっている。
「以前の茶会で。勝ち筋を捨てた後だ」
「以前の……あれは。そうしないと、また、機嫌を悪くなさるから」
言いかけて、兵を持ち直す。丸みを撫でていた指を開くと、手のひらに薄く跡がついている。公爵様は盤の前から動かず、私の言葉を待つ。
「勝ちたいと口に出す代わりに、触っていたんです。駒を見ていれば、笑わなくても済みましたから」
「俺には見えた」
「見えたのですね。……隣の卓から、そんなところまで」
兵を盤の脇へ置く。公爵様の指がその隣へ騎士を並べる。並んで片付ける指を、しばらく見つめる。
「本気で考える目だった。相手の好手にも喜ぶ」
「だって、思いつかなかったことを見せられると、嬉しいんです。でも、負ければ悔しいんですよね」
「知っている」
公爵様が盤の前で私を見る。その口元に笑みが浮かぶ。
「俺もだ」
「悔しいのに、誘ってくださるのですね。私が勝っても、盤を片付けてしまわずに」
「次は勝ちたいからな」
「次は。ふふ、私もです。負けたままで茶だけ飲むのは、落ち着きません」
風が止む。公爵様の手元にある駒の影が、私の指へ重なる。
「君の悔しそうな顔も好きだ。もちろん嬉しそうな顔の方がもっと好きだが」
返事の代わりに、指が駒の跡をなぞる。勝った顔を見られないように伏せ、負けた顔を急いで笑顔に戻す。三年、盤の向こうへ差し出してきた顔が、今はどれも作れない。口元が緩んだまま、公爵様を見る。
「……嬉しい。困るくらい、嬉しいです」
光が、盤の縁で薄くなっていく。公爵様の指のそばにある兵へ、私は手を伸ばす。
「また前のように負けろと言われるのが、怖かったんです。誘っていただくたび、今度は何を隠せばいいのかと。……でも、隠したくありません」
「そのまま指してくれ」
返事が、すぐには出てこない。盤の向こうの公爵様を見て、駒を一つ握る。
私はもう、好きな人の前で小さくならない。
握った駒を盤の脇へ置く。並んで片付ける手の間を、風が通る。
◇
さらに翌週、卓の向こうに公爵様。そこへオズモンド様が盤を抱えて庭へ来る。並びかけた駒のそばに、抱えてきた盤の影が重なる。
「君に負けてもいい。だから戻ってくれ」
「負けてもいい、ですって?」
「僕が負ける。それでいいだろう!」
差し出された盤に手を出さず、オズモンド様を見る。卓を離れかけた指を、私の駒のそばへ戻す。
「盤の外の勝負に、あなたの席はありませんわ」
「なぜだ? 君は勝ちたかったんだろう!」
「勝ちたかったです。今も勝ちたいです。だからといって、負ければ元に戻れると、お思いですか?」
オズモンド様が盤を抱え直す。縁を掴む指が白くなり、声が高まる。
「君が隣にいた頃は、僕が勝つ側だった! このままじゃ格好がつかない。一局譲れば戻れるだろう!」
「格好のために、私が隣へ座るのですか? 私は、嬉しい顔で座っていたいんです」
祖母がオズモンド様を見上げる。
「相手選びは、この子が指すのよ。あなたは駒でもないわ」
「……僕は、選び直してもらえないのか?」
オズモンド様の盤が少し下がる。私は正面を向き、自分の卓へ手を置く。
「私は、勝っても負けても私と楽しく指せる人を選びます」
「くっ……そうか……」
オズモンド様が盤を抱えて帰る。私は卓の向こうの公爵様へ向く。
「俺の番か?」
「はい。公爵様の番です」
公爵様の手が王のそばで止まる。
「早いな」
「待ちきれませんもの。さあ、始めましょう!」
私が駒に触れると、公爵様も盤へ目を落とす。白い花を揺らした風が、卓の間を抜けていく。
◇
祖母が茶器だけを置いて下がる。
夕方の光が、並べ直した盤に差す。公爵様と指しながら言葉を交わすうち、取られた駒が盤の脇に並ぶ。婚礼の後は盤に座らせない。そう言われた日の、膝の上で重ねた手を思い出す。今は、公爵様の指と同じ光の中にある。
「私は結婚しても負けませんよ。遠慮してばかりの妻には、なれませんからね!」
「俺も勝つつもりだ」
私は顔を上げる。公爵様も盤から目を上げ、短くうなずく。
「勝つつもり。まあ、私、悔しいときは黙っていませんよ!」
「仲直りも君としたい」
私は照れて笑う。駒に触れたまま、公爵様の顔から目が離せない。
「……それは、ずるいです。言い返そうとしたことが、どこかへ行ってしまいました」
「嫌か?」
「ずるいだけです。嫌とは言っていません。仲直りは、私もしたいです」
駒を持ち上げる。木の底に夕方の光が触れ、盤に戻すと影に沈む。
「王手ですわ」
「逃げる」
「逃がしません。嬉しいことを言われても、この勝ちは譲りませんよ!」
公爵様の指が、盤の上で止まる。私は口元を緩めたまま、その顔を見る。
「盤の外では勝たせてくれるか?」
私が駒を置くと、詰み。両手をぎゅっと握り、卓の上で弾ませる。
「勝ちました! 公爵様、嬉しいです!」
公爵様が笑って、負けた茶を私に淹れる。湯気の向こうでも、公爵様の目は私を見ている。
ただし、この公爵様。盤の外では、ちょっと強すぎません?
公爵様が茶碗を置き、姿勢を正す。
「勝っても負けても、君が好きだ。……一生、もう一局を続けてくれるか?」
差し出された手へ、私から手を伸ばす。勝って握りしめていた手を開き、盤ではなく公爵様を見て、その手を取る。
「はい、一生。でも、勝った私も、好きになってくださいね?」




