見限られ十四年の甕を取り上げられたので柄杓を伏せました。お宅の藍、ひと月で沈みます
「おや、紗那。手が凍えて灰汁桶を落とされてはかなわん」
笑いを含んだ声と一緒に、桶の取っ手が紗那の指からするりと抜けた。勘右衛門は客が三人もいる土間で、なみなみと灰汁を張った桶を弥平へ渡す。こぼせば一杯四文、濃さを誤れば反物一反八百文。四文を惜しむ算術は、ずいぶん景気がよろしいこと。
「今日から灰汁は弥平に任せる。藍は若い者でも建てられる」
「へえ。若い手のほうが、そりゃ勢いもありましょう」
客の一人が膝を叩き、残りも釣られて笑った。弥平は得意げに桶を持ち上げたが、縁から灰汁がひと筋こぼれ、土間へ濃い染みを作る。はい、まず四文。朝一番から銭が歩いて逃げていく。
「任せてくださいよ。姉さんが毎朝やってる通り、きっちりやりますから」
「左様でございますか」
紗那は空いた手で北の二番に巻いた藁を押した。昨夜より湿りが早い。風は戸口から入り、若い三番の肌だけ冷やしている。五番は昨日の灰汁を半杓ほど欲しがっていたが、弥平の桶は勘右衛門の指図で均等に七つへ配られ始めていた。
同じように見える甕を、同じように扱う。なんと公平。七人の子に同じ寸法の草履を履かせて、足が痛いと言うほうを叱る式である。
「紗那、もうよい。女手で重い桶を運ぶこともあるまい」
「お気遣い、痛み入ります」
紗那が礼をすると、客たちはまた笑った。丁寧に頭を下げれば、相手は勝手に勝利の形を整えてくれる。世の中、畳と見栄は新しいほどよく滑る。
戸口に灰の俵を下ろした角兵衛だけは笑わなかった。三十年も灰を売ってきた老人は、紗那が俵の口からひとつまみ取り、親指の腹で揉むのをじっと見た。
「今度のは樫が多うございますね、角兵衛さん。北の二番へは、ひと晩置いてから使います」
「そうか」
「手順は俺が決める」
勘右衛門が割り込むと、角兵衛は俵の縄を結び直した。
「灰は売った。使い道まで売った覚えはねえ」
それだけ言って、老人は背を向けた。勘右衛門は客の前だから笑って流し、弥平にもっと胸を張れと顎で示す。胸を張れば藍が建つなら、鶏はみな名人である。
紗那は甕のそばへ置いてあった握り飯を取った。朝から冷え切り、端が固い。噛めば奥歯が寒さに抗議したが、藍の具合を見る者に朝餉の温度を尋ねる者はいなかった。
北の二番では、薄い泡が一つ、恨みがましく割れた。
* * *
「賃銀のことだがな」
その日の夕刻、勘右衛門は算盤を弾きながら紗那を呼んだ。珠を三つ戻す指は実に軽い。人の十四年とは、算盤の上ではこんなにも身軽になるらしい。
「これまで建て手として上乗せしていた分を外す。来月から弥平らと同じだ」
「左様でございますね」
「仕事が同じなら、賃銀も同じでなければ不公平だろう」
「まことに」
紗那は土間の隅で、五番に入れるはずだった灰汁の値を数えた。半杓で二文。二文を惜しんで賃銀を削り、八百文の反物を危うくする。勘右衛門の算術は、珠が盤から飛び出して踊っている。
翌朝には、七つの甕を見下ろす壁へ大きな紙が貼られた。灰汁は朝夕に同量、攪拌は右へ二十、左へ十、温度は掌で測ること。勘右衛門の太い字が、土間の湿気を吸って早くも端から丸まっている。
「どうだ。お前のしていたことを、俺がすべて書き出した」
書かれていないことのほうが、ずいぶん元気に土間を走り回っていた。朝の風向き、前日の染め数、灰の木、甕の腹に残る熱。手順を壁へ貼れば腕まで貼りつくのでしたら、職人は毎朝寝ていられますわね。ぜひ成功なさって。
「これで誰がやっても同じだ」
「さすが番頭さんだ」
弥平が短く囃し、若い衆が紙の前へ集まった。勘右衛門は客の前で言ったことを、賃銀で一度、紙で一度、こうして皆の前でもう一度、きれいに仕上げたのである。三度塗り。藍なら濃くなるが、見栄は重ねるほど下地が透けた。
「紗那も楽になる。そうだろう」
「左様でございますね」
紗那は文机を借り、三枚の紙へ筆を走らせた。北町の呉服屋には二日、橋詰めの仕立屋には三日、寺裏の反物問屋には五日。染め上がりが遅れるかもしれぬと、先に詫びの遣いを出す。
「何を大げさな。手順はもうあるんだぞ」
「ですから、先方には番頭さんのご差配でございますと申し添えておきました」
「それならいい」
よいのか。よいらしい。紗那は三人の小僧へ駄賃を一文ずつ渡した。三文で店の面目を先に拾えるなら安い。もっとも、拾った面目を誰が持って帰るかまでは請け負わない。
勘右衛門は壁の紙を見上げた。藍など、記された通りに灰汁を足し、決まっただけ混ぜれば建つ。紗那は長く勤めたぶん、自分の仕事を難しく見せる癖がついたのだ——そう思うと、削った賃銀の分だけ勘定が賢くなったように見えた。
「明日から、お前は糸の下洗いへ回れ」
「承知いたしました」
紗那は筆を洗った。墨の水だけが、紙に書けなかったものを知っているように黒かった。
* * *
翌朝、紗那は甕の前で袖に両手を入れた。
弥平が壁の紙を読み上げ、若い衆が柄杓を構える。北の二番は夜の冷えを腹に残し、五番の匂いにはわずかな酸が混じり、若い三番の泡は落ち着かず縁へ寄っていた。指を出せば、まだ間に合う。けれど、その指はもう賃銀からも役目からも丁寧に外された。
「姉さん、北の二番からでいいんだよな」
「手順書には、なんと?」
「端から順に、と」
「では、その通りになさいませ」
紗那は七つを一巡した。いつもなら泡の厚さを見て、灰汁何文、種藍何文、染め直しなら何百文と頭の中の算盤が鳴る。今日は鳴らなかった。
北の二番の縁には、紗那が冬ごと巻き直した藁がある。五番の口には、柄杓を当て続けてできた浅い傷がある。若い三番は入った年から気難しく、褒めても叱っても泡ばかり大きくした。
七つの前で、値が消えた。
紗那は袖から手を出さないまま、一番から七番までをもう一度見た。甕は店のものだ。種藍も、灰も、柄杓も、紗那のものではない。
「紗那、下洗い場が待ってるぞ」
「はい」
昨日まで使っていた柄杓を井戸端へ運び、残った藍を水で落とした。灰汁桶も縁まで洗い、布で水気を拭う。それから二つを土間の隅へ、口を下にして伏せた。
「そこまでせんでも、明日また誰かが使う」
「左様でございますね」
紗那は伏せた柄杓から手を離した。水の雫が一つだけ、土へ吸われた。
「わたくしはこの七つを、十四年、わたくしの甕だと思うて温めておりました」
誰も囃さなかった。勘右衛門の口元だけが、笑う形の途中で止まる。
「ですが、番頭さんのおっしゃる通りでございます。どなたがなさっても同じ仕事に、わたくしが居座っては若い方々の邪魔になりますもの」
「何を——下洗いへ回るだけだ。店を辞めろとは言っていない」
「建て手でないわたくしを、この店へ置いていただく理由もございません」
紗那は土間へ頭を下げた。十四年分にしては短い礼だった。
「本日限りで、お暇を頂戴いたします」
「待て。勝手な——」
「賃銀は若い方と同じ、手順は壁にあり、腕も同じ。何ひとつ、お困りにはなりませんでしょう?」
勘右衛門は客に向ける声より一段大きく息を吸ったが、返す言葉は出なかった。自分で並べた理屈が、行儀よく出口を指している。
紗那は冷えた握り飯を包み直し、風呂敷へ入れた。七つから持っていくものは、ひとつもない。
袖に戻した手だけが、十四年ぶりに紗那のものだった。
* * *
「北の二番、泡が出ません」
ひと月目の朝、弥平は柄杓を差し入れたまま言った。掬い上げた液は重く、鈍い色をしている。壁の手順書には朝夕同量とある。弥平は一度も量を違えず、右へ二十、左へ十も欠かさなかった。
「昨日までは立っていただろう」
「薄かったけど、紙の通りでした」
「なら、もう一日待て。余計なことをするな」
勘右衛門はそう命じ、若い衆にも手順を守らせた。二日後には五番の匂いが死に、続いて一番、四番、七番の泡が消えた。七つのうち五つが沈み、土間には混ぜても返事をしない藍が並んだ。
「どこが違った?」
勘右衛門が紙を指で叩く。
「量は?」
「書いてある通りです」
「日数は?」
「書いてある通りです」
「温度は測ったか」
「毎朝、掌で」
「なら、なぜ沈む!」
弥平は柄杓を持ったまま黙った。答えを知る指は、もうその土間にない。壁の紙だけが湿気を吸い、上の釘からだらしなく垂れていた。
そこへ、得意先の手代が反物を抱えて入ってきた。紺に染めたはずの一反は、川水で洗われたところから情けない鼠色へ褪せ、畳まれた中ほどにだけ濃い筋を残している。
「お客さまが一度お召しになっただけです。袖口を洗ったら、この通りで」
「洗い方が悪かったんじゃないのか」
「うちでは先代の頃から同じ洗い方です」
勘右衛門の声が太くなると、手代は反物を広げた。太陽の下へ持ち出され、色の抜けた布が通りの目へさらされる。店先を歩いていた女が足を止め、向かいの小僧が首を伸ばした。
奥から出てきた菖蒲が、勘右衛門の前へ手を差し入れた。
「お預かりします」
「ですが、女将。これは先方の扱いも——」
「染め賃はお返しします。反物も、こちらで弁償いたします」
菖蒲は褪せた一反を端から畳み直した。ずれた角を合わせ、色の薄い面を隠さず一番上へ置く。
「申し訳ございませんでした」
言い訳は一枚も挟まなかった。
その日の午後にも一反、翌朝には二反が戻った。先に詫びを受け取っていた三軒だけは怒鳴り込まず、予定を延ばして別の紺屋へ品を回した。紗那が投じた三文は、本人のいないところで最後まで働き、そこで役目を終えた。
「手順のどこが違うんだ」
勘右衛門は七つを見回した。甕は何も答えず、沈んだ面へ男の顔だけを映した。
* * *
菖蒲は返された反物を抱え、得意先を一軒ずつ回った。染め直せるものは他所へ頼み、戻らぬ色には代金を添えた。勘右衛門が用意した「近ごろの灰は質が悪い」という言い分は、一度も口にしなかった。
翌月から注文は目に見えて減った。町内では「色の褪せる店」より先に、「建て手が抜けた店」と呼ばれるようになった。看板より人の不在が名になる。実に正確で、商いには少々遅い評判だった。
「角兵衛さん、灰を頼む。前より強いものを選んでくれ」
勘右衛門が言うと、角兵衛は荷車の梶棒から手を離さなかった。
「今まで通りの付き合いだろう。三十年、この店へ納めてきたじゃないか」
「おれたちはあの店に売ってたんじゃない。あんたの指に売ってたんだ」
角兵衛は、そこにいない紗那へ言うように続けた。
「灰を見て、水を見て、使えると言う指にな」
「灰屋が客を選ぶのか」
「銭を払うなら誰でも客だ。灰を駄目にする奴へ、良い灰は売らねえ」
勘右衛門の語尾が細くなったところで、菖蒲が奥から出てきた。手には染め賃の綴りがある。
「勘右衛門。今日から、甕と納めの差配を離れてください」
「女将、今ここで俺を外せば、店は——」
「任せきりにしたのは、わたしです。ですから、残った始末もわたしがいたします」
菖蒲は綴りを閉じた。勘右衛門へ弁明の頁は渡さなかった。
半年後、元の紺屋は染め賃を融通し合う講から外れた。七つの甕は二つだけが辛うじて動き、暖簾の下を通る反物は以前の半分にも届かない。紗那を呼び戻せという声だけが店の奥で大きくなったが、その声を届ける役を引き受ける者はいなかった。
* * *
「川向こうに、甕を寝かせたままの土間がある」
角兵衛はそれだけ言って紗那を連れ出した。灰の売り先と水の筋は道すがらに教えたが、元の店の噂は口にしない。短い話はありがたい。長話は腹が減るし、腹が減ると人は大抵、要らぬ義理まで食べてしまう。
川向こうの紺屋では、講の女衆が袖をまくって待っていた。甕の内側を洗う者、灰を篩う者、薪を割る者。誰も紗那の荷を取ろうとはせず、代わりに土間の真ん中を空けていた。
「見ていただけますか、紗那姐さん」
「まず、水を一桶。それから戸を半分だけ開けてくださいませ」
「寒いのに?」
「甕も人も、息を塞げば機嫌を損ねます。もっとも人のほうは、飯でだいぶ誤魔化せますけれど」
「粥なら任せときな!」
奥から威勢のよい返事が飛んだ。紗那の腹も即座に賛成する。腕より先に胃袋が雇われかけた。危ない危ない、粥一杯で十四年分を安売りしてはならない。二杯なら考える。
水は元の土間よりやわらかく、川から上がる風は夕刻に冷えた。甕の腹にはそれぞれ違う焼きむらがあり、七つとは違う癖がある。紗那は灰汁を口へ近づけ、匂いを確かめ、指先でぬめりを見た。
「角兵衛さん、この灰、樫だけではございませんね」
「椿を少し混ぜた」
「よい灰です。値は——」
「講と話はついてる。あんたの賃銀もな」
提示された額を聞き、紗那の頭の算盤が久しぶりに派手な音を立てた。元の賃銀より三割増し。しかも朝餉つき。粥を月二十六杯として換算すると——いや待て、具による。芋なら上々、菜だけでも熱ければ強い。
「何か足りませんか」
「いえ。たいへん結構でございます」
顔には出さなかった。たぶん。口元が一分ほど上がった気もするが、一分は誤差である。
種藍を入れ、灰汁を加え、夜ごとの冷えを見て藁を巻いた。女衆は紗那が止めれば止まり、尋ねれば自分たちの見た泡を答えた。手順を盗もうと覗くのではなく、仕事を渡すために手元を見ている。その視線は、妙に温かかった。
幾日目かの明け方、甕の面へ青紫の泡が盛り上がった。厚く、細かく、朝の薄明かりの中でふっくらと咲いている。
「花だ!」
「藍の花が咲いたよ!」
女衆が寄ってきたが、甕の縁より一歩手前でそろって止まった。紗那が頷くのを待ち、それから土間じゅうへ声を弾ませる。
「建て手の紗那姐さん、朝餉にしましょう!」
土間の端には、湯気を立てる椀が一つ空けてあった。芋と大根の葉、それに刻んだ油揚げ。二杯どころか、これは三杯いける布陣である。
「先に召し上がれ。建て手が冷えちゃ、甕が困る」
「では、甕のために頂戴いたしますわ」
「よく言うよ。さっきから粥ばっかり見てたくせに」
見られていた。職人の指だけでなく、食い意地まで正当に査定する職場とは恐ろしい。
紗那は笑いながら椀を受け取った。掌へ移った熱が、指の節までゆっくり満ちた。
* * *
「紗那」
その声が新しい土間へ入ってきたとき、紗那は咲いた花を柄杓でそっと分けていた。勘右衛門は敷居の外に立ち、以前より薄くなった羽織の前を両手で押さえている。
女衆の笑い声が止まった。誰も間へ入らず、けれど粥の椀を片づけもしなかった。
「少し、話がある」
「何でございましょう、番頭さん」
「店へ戻ってくれ」
勘右衛門は土間へ上がり、紗那の前で頭を下げた。客に見せていた広い肩が丸まり、髷の根元がよく見える。あれほど高かった頭も、下げれば甕の縁より低い。
「七つのうち、まともに使えるのは二つだけだ。弥平たちでは戻せん。得意先も減った。女将も……お前に詫びると言っている」
「菖蒲さまが?」
「ああ。賃銀も前より出す。建て手として戻ってくれれば、差配も任せる。十四年も一緒にやってきたんだ。お前だって、あの甕を捨てたいわけじゃないだろう」
付き合いの長さが、今ごろ勘定へ戻されてきた。値を削るときには軽く、取り戻すときだけ重い。まことに都合のよい分銅である。
紗那は返事をせず、新しい甕を見た。青紫の花が、朝の光を受けて細かく震えている。その向こうでは女衆が待っていた。腕を組む者、杓文字を握る者、もう紗那の椀へ粥をよそい始めている者までいる。あの人は話が長引いて粥が冷える事態だけは、断固として許さぬ構えだ。
紗那は柄杓を洗い、甕のそばへ伏せた。それから勘右衛門へ向き直る。
「藍は若い者でも建てられる」
勘右衛門の頭が、わずかに上がった。
「それは、俺が間違って——」
「でしたら、わたくしがお戻りする必要はございませんでしょう?」
紗那は丁寧に頭を下げた。今度の礼は、出口を譲るためのものだった。
「わたくしは、こちらの建て手でございます」
勘右衛門は何か言いかけ、甕の花と、女衆と、伏せられた柄杓を順に見た。最後に紗那を見る。だが、そこに以前のように袖へ隠された手はない。紗那の両手は甕の縁へ置かれ、新しい藍の温度を受け取っていた。
「……そうか」
「はい」
勘右衛門は敷居をまたぎ、来た道を一人で戻った。紗那は呼び止めない。旧い七つも、減った注文も、細った暖簾も、あの背中が持ち帰るべき荷である。こちらの手は塞がっている。藍と、粥で。
「紗那姐さん、冷めちまうよ」
「まあ、それはいけませんわ」
椀を受け取ると、湯気が頬へ当たった。芋はほくりと崩れ、油揚げには出汁が染みている。
「これですわ。藍も粥も温度が命。冷えた握り飯を十四年も食べれば、そりゃあ人も店を替えますとも」
「おかわりは?」
「建て手の務めとして、ぜひ」
女衆が笑い、花の咲いた甕も朝の光の中でふくらんだ。粥一杯の値、灰汁一桶の値、染め上がった反物の値。紗那の頭の算盤は忙しく珠を弾き、最後に、この朝だけを勘定から外した。
値のつけられないものは、売らずに自分でいただく。
それがいちばん景気のよい算術だった。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




