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150円がくれた夏

作者: 山野美彦
掲載日:2026/04/20

何気なく過ごす日々のなかで大切なことに気付かせてくれる何かに出会える。そんなことを思いながら書きました。

     150円がくれた夏


1章  えっ

今年の夏もとんでもなく暑いな、まだまだずっとこんな日が続くようだな、そしてそれと歩調を合わせるように店もどんどん忙しくなるなぁ、爽太はそんなことを暑さでぼおっとしている頭でぼんやり思いながら、それにしても何だよこの暑さ、ほんとに暑いなと首にかけたタオルで頬を流れる汗を拭った。梅雨があけて数日、日毎に夏を満喫する若者、家族連れ、老若男女でビーチは連日ごった返していた。もちろん今日もご多分に漏れずである。昼時の一番忙しい時間帯も過ぎ、一日のうちで一番暑い時間帯も過ぎているものの夕暮れにはまだもう少し時間があった。海の家でバイトを始めて3年目、大学1年の時から毎年夏休みはここで働いている。友人の実家が毎年7月の初めから8月の終わりまで葉山の海水浴場で開いている海の家『夕日の窓』は食事が旨いと地元でも有名だった。メニューも豊富でインテリアも小洒落ていて夕方から閉店の8時までは波の音を聞きながら、グラスを揺らしながら食事をする客で賑わう店だった。店名の通り、ここからは夕暮れ時には水平線に沈む夕日が藍色に染まってゆく空と暗さが深みを増してゆく海に寂しさを滲ませたオレンジ色の光をゆるやかに漂わせるように広げていく、その息を止めてしまうような美しい自然のひとときのパフォーマンスを眺めることできた。今日もまた見ることができそうだな、爽太は目を細めながら空に目を向けた。

その時だった。アイスキャンデーを入れた氷を敷き詰めた大きなクーラーボックスに突然手を入れて、一本を手に取るとそのまま袋を開けて口に咥えると爽太を見て目を大きく広げて、嬉しそうに笑顔を向ける男の子がいた。いくつくらいだろうか、10才くらいかな、いや、もう少し小さいのかな、えっ、いやそれより代金もらったっけ、いや貰ってないよな、

「あっ、あのさ、お金、これ150円なんだ。お兄ちゃんにお金くれるかな。」、そう言ったけれどその男の子は「つぇーたい、おぃっしい」とアイスキャンデーを口に頬張ったまま笑顔を向けるばかりだった。参ったな、逃げるわけでもないし、万引きでもなさそうだし、親とかはいないのかなと男の子に微笑みかけながら辺りを見回していると、「そうちゃん、そうちゃん、」と女性が走り寄ってきた。

男の子は女性の顔をきょとんと見つめると、「おっしい、おかさん、つぇーたくておぃっしい」とまた屈託のない笑顔で言った。女性が「あの、ごめんなさい。息子がご迷惑をおかけしてしまって」と爽太に頭を下げた。

「いえ、迷惑なんて、そんなことないです。ちょっとビックリしましたけど」、爽太は笑みをうかべながらそう言うと女性を正面から見た。その瞬間爽太は息が止まってしまった。大げさではなく息が止まってしまった。えっ、なに、うそ。なんてきれいな人なんだ、爽太はあらためてその女性を見つめた、ほんの一瞬見つめた。けれど一瞬だったけれど爽太の目に、いや心にしっかりと焼き付いた。目の前の女性はノースリーブのブルーのサンドレスを軽やかにまとっていた。スッキリとした二重まぶたの涼しげな目、細く整った形のよい鼻筋、オレンジ色がかった口紅がきれいにぬられた小さめの唇、髪は肩に届くか届かないかくらいの黒髪でさらさらとして、それでいて陽のひかりを浴びてつやつやときらめいていた。

「あの、おいくらですか?」、その女性が小声でたずねた。

「あっ、はい、えっと、えーっと、はい、150円です。すいません。」と爽太は目をそらしながらこたえた。なんだか顔が赤くなっているように感じながら。

「まぁ、すいませんなんて、お詫びするのは私のほうです。ほんとに驚かせてしまって、すみません。」、そう言うと女性は代金を爽太に渡しながらとなりでアイスキャンデーを手に嬉しそうにしている男の子に

「そうちゃん、お兄さんにごめんなさいして。だまって取ったりしてはダメなのよ。」と腰を少し屈めながら、その顔をしっかり見ながら優しい声音で言った。

キョトンとした顔で女性の顔を見つめていた男の子は、一呼吸おいて、コクンと首を動かした。そして

「ごめ、ごめ・・なさい。」と爽太に向かって言うとペコリと頭を下げた。

「こちらこそ、ありがとう。アイスキャンデー買ってくれてありがとう。」、そう爽太が告げると、嬉しそうにもう一度その男の子は、「ごめなさい」と爽太の顔を見ながら言った。

「そうちゃんて言うんだね。あのね、お兄ちゃんも同じなんだよ。お兄ちゃんもそうちゃんなんだ。一緒だね。」と微笑むと

「おなじ。そうちゃん、おなじ。」と男の子が繰り返した。

「まあ、そうなんですか。偶然ですね。」、

「いや、ほんとに偶然ですね。俺は、いや僕は爽太っていいます。颯爽の爽に太いで爽太です。」、

「爽やかの爽ですね。素敵なお名前。ぴったりですね。」、

「この子は想、空想の想、一文字の想です。」、

「そうなんですね。空想の想か、想いか、いいお名前ですね。」、

「想ちゃん、また来てね。また、お話しようね。」、爽太はそう言って想の肩にそっと手をのせた。想はアイスキャンデーを咥えたまま、爽太を見てニッコリした。

「ほんとにご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。さ、想ちゃん、行きましょう。」

女性はかるく会釈すると、想の手をそっと取り、そのまま砂浜を歩いていった。

爽太は離れていく二人の後ろ姿をぼんやり見つめていた。想の姿が小さくなって砂浜を行き交う人混みに紛れてしまいそうになったとき、想が立ち止まると、振り返って小さく手を振った、振ったようにするのが見えた。爽太は自然と顔がほころんだ。そして、大きく、想に見えるように大きく手を振った。

「きれいな人ね。」、バイト仲間の亜希が横に来て言った。

「おっ、おう、そうだな。」、爽太はちょっと焦りながら言った。

「あの男の子、とても素直そうな子だね。」、

「うん、純真って感じ。」 

「ダウン症の子ってすごくまっすぐって感じるよね。」と亜希が小さな声で言った。

「そうだね。」、アイスキャンデーを咥えていた想の顔を思い返しながらそうこたえた。「あの子、想って言うんだって。俺と同じそうちゃん」、

「へぇ、偶然だね。」、亜希がつぶやいた。

亜希は爽太と同い年でやはり大学の夏休みにここでバイトしている。昨年からなのでバイト歴でいうなら爽太が先輩だった。この店には大学生、高校生のバイトが10人ほどいて、朝9時半の開店から夜8時の閉店まで早番、遅番のシフトを組んで回していた。ただ爽太は3年目で仕事内容もよく熟知していて、手際もよかったのでほぼ毎日、昼の忙しい時間が始まる11時頃から閉店まで店にいることが多かった。亜希は土日を中心に週に4日くらい、遅番に入ることが多かった。サバサバした性格で年下のバイト仲間からも慕われていて、仕事も要領よくこなして、何より接客が上手だった。茶髪をいつもポニーテールにしていて、ほどよく日焼けした肌が健康的で、少し気の強そうなはっきりした顔立ちの海の家にピッタリの娘だった。爽太と亜希は昨年ここで初めて知り合って、すぐに仲良くなった。気軽に軽口をたたき合ったり、互いに一緒にいて疲れない相手だった。だから去年の夏が終わって店が閉じた後も、会って食事に行ったり、電話で話したり、メールのやりとりを続けていた。もちろん他のバイト仲間ともたまに会ったりしたりと付き合いはあるが、亜希とのそれは格段に多かった。

「なに、いつまでもぼんやりしてるのよ。さ、仕事、仕事!」と爽太の尻をポンと叩くと、

「いらっしゃいませぇ、お席あいてます。」といつもの明るい、少しよそ行きの声で言いながら亜希は接客に戻っていった。爽太も

「アイスキャンデー、いかがですかぁ」と店の前を歩く人並みに向けて大きな声をあげた。夏だよなぁと思いながら。


2章  そうそうあるもんじゃない

それから二日経って、爽太がキッチンで調理をしていると、高校生のバイトが

「爽太さん、お客さん」と呼びにきた。「えっ、俺に?お客さん?」、

「はい、爽太さん、いらっしゃいますかって」、

「誰だろう。って、今見ての通り料理中だから行けないよ。」と爽太が言うと、

「いいよ、行ってこい。あとは俺がやるから」とそばにいた店長がフライパンの柄に手を伸ばしながら代わってくれた。

誰だろうなと思いながら店先に行くと、

先日のあの男の子、想とあの女性、想の母親がいた。

爽太が、

「あっ、想ちゃんか。こんにちは。このあいだはありがとね」と声をかけると

女性は爽太に

「まあ、想のこと覚えてくれていたんですね。ありがとうございます。お仕事中、ごめんなさい。」と申し訳なさそうに頭を下げた。

「あっ、いえ、大丈夫です。全然大丈夫です。」、

「あの、想が爽太さんに会いたいって。お話するって言うもので」ともう一度申し訳なさそうに頭を下げた。

「あっ、はい、そうなんだ。そっか、想ちゃん、ありがとう。」と想に目を向けると、恥ずかしいのか、うつむきながら、

「そうちゃん、おなじ。お話、する。」と小さな声で言いながら顔を少しあげた。

その時、後ろから

「よろしかったらこちらのお席にどうぞ。」とあの明るい声が聞こえた。振り向くと亜希が女性に微笑みかけていた。

席につくと亜希が

「そうちゃんだよね。こんにちは。」と声をかけた。想はモジモジしながら小さくうなずいた。

想の母親が、

「ありがとうございます。あの、それじゃアイスコーヒーと、想ちゃんは何がいい?」と想の手に自分の手を添えながら優しくたずねた。

「そうちゃん、これ、食べる、これ。」とテーブルの上にあるかき氷のメニューからメロンのかき氷のイラストを指さした。爽太は想のとなりに腰掛けると

「お兄ちゃんのこと覚えてくれていてありがとう。会いにきてくれて嬉しいな。」と想に笑いかけた。想は嬉しそうに顔を何度も上下に動かすと、

「ジョジ・ワシントン、ジョ、ジョン・アダーズ、トッマス・ジェファソン、ジムズ・マースン、ジームズ・モロー、~~~~~エブラム・リカーン~~~~」と一気に話し始めたと言うか唱えるように声を発した。少し恥ずかしそうにしながら。でも時々爽太の顔を見ながら。爽太がちょっと戸惑ったように想を見つめていると、

「想は興味を持った、というより好きになったものに対してはとても熱心に集中してしまうんです。そういうことに関しての記憶力、私たちも驚くくらいなんです。・・・ダウン症の特徴のひとつでもあるらしいんです。」、

「あの、想はダウン症なんです。ダウン症、ご存知かしら?」、

「あ、はい。いやぁ、それにしてもすごいですね。これ、もしかしてアメリカの歴代大統領ですよね。」、

「そうなんです。全部覚えていて言えるんです。それで、それを見せたかったようです、爽太さんに、あっ、ごめんなさい、気安くお名前で呼んでしまって。」、

「いえいえ、そんなの全然構いません。気軽に呼んで下さい。」と言いながら爽太が女性に視線を向けると、

「ありがとうございます。それじゃ、これからもそう呼ばさせていただきますね、爽太さん。」と女性が微笑み、

「遅くなりましたが、私は水沢香織、と言います。」と言いながら軽く頭を下げた。

「えっと、俺、いや僕は瀬戸、瀬戸爽太です。」と告げると、

「はい。ありがとうございます。」と爽太の目を見ながら頷いた。

想が爽太の腕を軽く叩いた。ちゃんと聞いていてと言うことなのだろう。爽太は

ごめん、ごめんよと言いながら想に視線を戻した。顔が少しほてって、鼓動が少し早くなっているのがわかった。

想が「バアク・オハマ」と現役大統領の名を言い終えて、嬉しそうに

「だいとりょう、アメリカ」と得意げに手を叩きながら母親、香織の顔を満面の笑顔で見た。

「すごい、すごい、想ちゃん、すごいね。お兄ちゃん、びっくりだよ。」と爽太も思わず拍手していた。

氷メロンが運ばれてきて、想はひと仕事終えたような、そんな充足感を漂わせながら大事そうにきれいな緑色の氷をその小さな口に運んだ。何度も香織と爽太の顔を眺めながら。それから、ひとしきり想達は想の父方の祖父の葉山の別荘で夏の間過ごすことや、想が先月9才になったことや、爽太が葉山が地元で、今大学3年で一昨年から毎年夏休みはこの店でアルバイトしていることなどを話した。どういうわけか、途中から亜希が会話に入ってきて、

「そうちゃん、お姉ちゃんはあきっていうんだ。よろしくね」と笑いかけ、それから香織に

「爽太君と同じくアルバイトの亜希です。白川亜希って言います。いつでもいらして下さい。お待ちしてます。」、そして、

「あっ、これ営業じゃないですよ。」と明るく言うと、香織の顔をチラッと見ながら小さく頭を下げると仕事に戻っていった。

想が氷メロンを食べ終えると二人は手を振りながら帰っていった。


その日、家に帰ると爽太はリビングのソファに寝そべって、ぼんやりとテレビを見ていた。

「お兄ちゃん、なにだらしない顔してんの。カッコわるー」と言いながら風呂上がりの妹のさくらがとなりに強引に座った。

「何だよ、暑っ苦しいな。お前にカッコわるいって思われたって構いやしないよ。」と体を起こしながら言うと、

「なんかさぁ、ちょっと切ないなって顔してたよ。もしかして、誰か女の人のこと考えてた。」とバスタオルで頭を拭きながら冷やかすように笑った。

「そんなんじゃないよ。バイトで疲れたの。夏休みでのんびり遊んでるお前とは違うんだよ。」、

「えっ、何言ってんの。私だって部活と受験勉強で忙しいんだからね。」、

「ああ、そうでしたね。はい。はい、毎日お疲れさまです。」、そう言うと

「やな感じ。そんなんじゃモテないよ。亜希ちゃんにだって嫌われるよ。」と憎まれ口を叩いた。

「なんで亜希が出てくるんだよ。亜希は友達。変なこと言うな。そんなこと言ってる暇あったら頭乾かしてサッサと寝ろ。俺は一人でいたいの。」とソファテーブルに置いていた麦茶を手に取ると一気に飲みながらさくらにシッシッと手を振った。

妹のさくらは高校3年生。大学の付属校に通っていて成績も良いので、そのまま大学に進めるのは間違いなかった。だから夏休みも勉強、勉強と言うこともなく、現役を引退したバトン部の練習に連日顔を出していた。昔からお兄ちゃん、お兄ちゃんと爽太にじゃれるのが好きで、爽太もそれはそれで嬉しかった。最近はすっかり今どきの女子高生になったが、可愛い顔立ちで、性格も明るいのできっとそれなりにモテる、人気があるんだろうなと爽太は思っている。

「わぁ、失礼な奴。お兄ちゃんなんか絶対に女の子から嫌われるよ。私なら絶対に彼氏にしない。」と爽太の足を蹴飛ばすと、

「それじゃ、おやすみ。恋バナならいつでも聞いてあげるよ。」とリビングを出て行った。

俺、切なさそうな顔してたのか。そうか、そうなのか。香織の顔を思い出しながら爽太はフッと息を吐いた。そして、亜希と俺は友達、だよな、そうだよなととつぶやきながら天井を見上げた。


翌日、夕方から雨が降ってきて、その日は早めに店を閉めることになった。爽太は亜希とその日通しで出ていた高校生のバイト二人を誘ってファミレスに行った。

「工藤ちゃん、優志、好きなもの頼んでな。今日は俺が奢るからさ。」、爽太が言うと

「えっ、ほんとすか。いいんすか。そんじゃ、遠慮なく」と言いながら優志がメニューをめくった。

「それじゃ、わたしも遠慮なくごちそうになります。ラッキー」と工藤恵理もメニューに目を走らせた。亜希が

「爽太くん、私は奢ってくれないの。なんか、不公平、差別ー」と頬を膨らませながら笑った。

「はいよ、わかったよ。亜希もどうぞご自由に」、

「はい、ありがとう。爽太くんは優しいね。」と言いながら、

「取りあえずビール、生ビール」とウェイトレスに声をかけていた。

料理が運ばれてきて、テーブルにのりきらないくらいの料理が運ばれてきて、爽太は財布の中身のことを考えて一瞬ひるんだが、優志の食べっぷりを見ていると無性に嬉しくなった。

お腹も膨らんで、飲み物を飲みながら高校生二人の学校でのおもしろ話なんかを聞いて、みんなで笑いながら過ごしていると時間はアッという間に過ぎて、そろそろ帰ろうかと言う頃、恵理が

「あっ、そう言えば今日も来たんですよ。あの親子」と爽太を見て言った。「あの親子って、もしかして想ちゃん?」、

「名前は知りませんけど、あのきれいなお母さんと男の子、あのダウン症の男の子」、

「爽太さんが来る前だから、お店あけてすぐの頃かな。」

その日は爽太は店に入ったのが11時を少し回った頃で、亜希はその日も遅番だった。

「そうか。想ちゃん、あの子、想ちゃんて言うんだけど今日も元気だった?」、「はい。ふつうでした。お母さんがちょっとお店の中を見回すようにして、それで男の子に何か言って、アイス買って帰って行きました。」、

亜希が

「爽太くんに会いたくてきたんじゃない?」と言うと、優志が

「えっ、あのきれいなお母さん、俺もチラッと見ましたよ。きれいッスよねぇ。で、あの人爽太さんに会いに来たんすか。爽太さん、やりますねぇ。」と身を乗り出すようにして爽太を見た。亜希がやれやれという感じで

「優志くんはいつも楽しそうでいいね。うらやましくなる。」とため息交じりに言うと、

「そうすか。そんな褒めないで下さいよ。」と頭をかいたのでみんなで笑ってしまった。

「お母さんじゃなくて、男の子、そうちゃんが爽太のこと好きなのよ。」と亜希がパフェを口に運びながら恵理と優志に、何日か前の想と爽太の出会いからのことを話した。

「わぁ、なんかそのそうちゃんて子、かわいいですね。」と恵理が胸の前で手を合わせた。

「そっか。じゃ、明日も会いに来てくれるのかな。少し早めに店に行くか」と爽太がつぶやくように言うと、

「じゃ、わたしもちょっと早めに行こうかな」と亜希が爽太をチラッと見ながら言った。


翌日は昨夜の雨がうそのように朝からよく晴れていた。爽太がいつもより早起きしてリビングダイニングに降りると、母がキッチンで洗い物をしていた。

「あら、おはよう、早いわね。今日はどっか行くの?」、

「おはよう。ううん、今日もバイトだよ。ちょっと早く行くだけ。」、

「じゃ。いま朝ご飯のしたくするわね。トーストと目玉焼きでいいわよね。」と手際よく朝食を作ってくれた。

「さくらは?もう部活に行ったの?」、

「まだ寝てるわよ。今日は友達と遊びに行くって言ってたわ。」、

「さくらは気楽でいいもんだ。」と言うと

「何言ってるのよ。母さんから言わせてもらえば爽太だって十分気楽よ。」と笑って、

「でも、いいわよね。若いんだから。」と爽太の前に腰を下ろした。

「な、母さん。もし、もしさ、俺が例えば生まれつき障害、ハンディキャップをもってたとして、そうだとしたら母さん、どんな気持ち?」、

「あら、どうしたの。突然。」、

「いや、ちょっとこの間そんなことをテーマにした新聞記事読んだからさ。」、「そうねぇ。実際に経験してないから、何とも言えないけど。でも、やっぱりそうと知ったとき、わかったときはショックだし、なんでうちの子がって、悲嘆にくれると思うわね。でも、母親は、女は強いのよね。その悲嘆をすぐに打ち消して、打ち消すって言うより、そんなもんどっかにすっ飛ばしちゃって、すぐに思うんじゃないかしら。それが何かってて、どうかしたって。」、

「それが何か?ってどういうこと?」、

「そのままよ。障害をもってるから何なのってことよ。あろうがなかろうが母さんの子供なんだから。あるがまま、大切で大事で愛おしい存在。母親はみんなそうじゃないかしら。でも、最近は子供を虐待する親も多いか。それこそ、考えられないわ。」、

「実際の生活面ではいろいろと困難なこともたくさんあるだろうから、きれい事だけじゃすまないと思うけれど、きっと将来のことを考えたりすると心配や不安も多くて絶えないだろうし、大変さは数知れずあるわよね。経験しなければわからない理不尽な扱いを受けたり、普通に暮らしていくうえでのいろんな差別とか制約もたくさんあると思うわ。だから、軽率に言うことはできないし、わかったようなことも言えないわね。でもね、それでも生まれてきてくれたこと、それだけで母親は、父親もね、十分なんじゃないかしらね。母さんが思うのはそんなとこかな。」、母親は少ししんみりとした様子でお茶をひとくちすすった。

「母親ってすごいね。」、爽太は母を見ながら言った。それだけしか言葉が思い浮かばなかった。

「父親もって言わないと、また父さんがひがむわよ」と母が笑った。


10時過ぎに店にいくと、店長が、なんだか今日はベテラン組が早いな、早く来たってバイト代は変わんないぞとランチメニューの仕込みをしながら草野球で日に焼けた顔を向けた。40代そこそこの店長は夏場はこの店のチーフをしているが、その期間以外はこの店のオーナーが市内でやっているこの辺りでは名の通ったイタリアンレストランで副料理長を任されている。さっぱりした性格で面倒見も良い、優しい人柄を見込んで若いバイトを多く使う店の責任者にはピッタリだと見込んでの人選なんだろうなと爽太は思っている。

「おはよう。遅いよ。」とエプロン姿の亜希が店長の横で店の前に出すボードにランチメニューを書きながらぶっきらぼうに言った。

「あれ、亜希、もう来てるんだ。おはよう。あんま、珍しいことすんなよ。また雨が降っちゃうよ。」、そう言うと

「おあいにく様。今日は一日よーく晴れるって。」と口の端を少し上げて不敵な笑みを浮かべた。店長が、「朝からイチャイチャからんでんじゃないよ。」と二人に視線をはわせて白い歯を見せた。他にも早番、通しのバイトが3人、ホールで接客やテーブルを拭いたりしていた。今日も通しで入っている工藤恵理と優志が爽太に気付くと、昨日はごちそうになりましたと礼を言いに来て、そして優志が、あのきれいな人、今日も来まっすかねぇ。あんなきれいな人が担任だったら俺もっと成績上がっちゃいますよと無邪気なことを言って、そして、抜け目なく、また、奢ってくださいねと言い添えた。

爽太が来て30分もすると、店は混んできて、店内のテーブル席はほぼ満席になり、それから昼時の一番忙しい時間帯が終わる2時くらいまで入れ替わり立ち替わりの客で店内は賑わい、爽太も店長と一緒に厨房でフライパンを降り続けた。ときおり店先に視線を走らせながら。亜希は店先でアイスや飲み物を売ったり、お客を店内に案内したり、他のバイトに指示をしたりとテキパキと動き回っていた。そして、忙しさも一段階した頃、野菜の買い出しに行っていた恵理が小走りに戻ってくると亜希に

「来ます、来ます、多分いらっしゃいます。あの子、そうちゃん、ですよね、もうすぐ来ると思います。手前で見かけました。」と息を弾ませながら伝えた。

亜希は厨房に行くと、爽太くん、こっちに来てと爽太の腕を引っ張った。

そして、ほんの数分後、想と香織が店にやってきた。爽太と亜希、そして、その後ろにはなぜか恵理と優志もちゃっかり並ぶようにいて、爽太が

「想ちゃん、こんにちは。いらっしゃいませ。」と声をかけると三人がお待ちしていましたと元気に声を合わせた。香織と想は、ちょっと驚いたふう、特に想は一瞬緊張したようだったが、すぐに笑顔になり、香織が

「こんなお出迎えしていただいて、ありがとうございます。」と丁寧に頭を下げた。亜希が、お時間があれば中で少しゆっくりして下さいとテーブル席を指さした。テーブルに着くと優志がすぐさま、これうちの店長からですと言って、二人にアイスと冷えた麦茶を持ってきた。香織が、えっと顔を上げると、厨房の中で店長が笑顔を向けながら会釈した。香織が立ち上がってお辞儀をすると、いえいえと言うように照れたように手を振った。そして、

「爽太と亜希、休憩でいいぞ。恵理と優志は仕事、仕事」と張りのある声で言った。その日、想は絵を持ってきていて、それを爽太に見せたいのだと香織が申し訳なさそうに言って、想の手提げ袋の中から丸めて筒状にした画用紙を取り出してテーブルの上に広げた。そこには三人の、いや四人が海の前で、笑顔で手をつないで立っている絵がクレヨンで描かれていた。空は真っ青で大きな真っ赤な太陽がそのまん中で陽射しを放っていて、そしてその下で四人が手を繋いでいる楽しそうな絵だった。画用紙の一番左端に描かれているのは香織らしい、笑顔でとなりの小さな男の子、多分想なのだろう、と手を繋いでいる、そしてそのとなりには爽太と思われる男性が、そしてそのとなりには少し小さく、男の子と同じくらいの大きさで、多分亜希と思われる女の子が描かれていた。みんな手を繋ぎ合って、そしてみんな目が三日月形で口元を上げて笑っている。隅のほうに、‘そうちゃん、ふたり、そうちゃん’、と黒のクレヨンで書かれている、そんな見る者誰もが自然と笑みをこぼすような絵だった。

「わぁ、想ちゃん、上手だなあ。みんなで海にいるんだね。」、

「これがお兄ちゃんだよね。ありがとう。カッコよく描いてくれて。」と爽太が想の頭に手を添えると、想は嬉しそうに足をぶらぶらと振りながら、ウンウンと言うように笑顔で顔を動かした。それから、一番端の小さな女の子を指さして、「あちゃん、これ、あちゃん」と亜希の顔を見た。

「うん、お姉ちゃんも描いてくれてありがとう。すごーくかわいく描いてくれたんだね。嬉しい、ありがとう。」と想に笑いかけた。そして

「なんか、嬉しくなっちゃって、涙出ちゃいます。」と香織に顔を向けながら、指先でそっと目じりを拭いた。

想はその絵は爽太に渡すために描いたのだと香織は言った。嬉しいこと、楽しいことがあるとそれを絵に描くというのも想にとってとても大事な、自分の気持ちを相手に伝える大事なコミュニケーションツールなんですとおしえてくれた。爽太がその絵を受け取って、

「宝もの、この絵はお兄ちゃんの宝ものだよ。ずーっと、ずーっと大切にするね。ありがとう、ありがとう」と想の手を握ると、想は嬉しそうに笑いながら顔を左右に振った。

二人が帰って行くと、優志が

「俺、なんか感動って言うか、すっげえいいなって。やっぱこれ、感動すよね。」とポツリとつぶやいた。恵理も

「素直に正直にいられるってすごいな、いいなって、」と穏やかな顔で言って微笑んだ。

爽太が店長に

「いろいろとありがとうございます。」と礼を言うと、

「今朝、爽太が来る前に亜希からあの子とお前との出会いというか、そのなんだ、繋がりと言うかそんなこと聞いててな。」、

「ほら、出会いって大切だろ。人生でいい出会いなんてそうそうあるもんじゃない、少ないじゃないか。あの子とお前の出会いは大切な出会いのように思えてさ。ま、俺らしくないか、こんなこと言うのは」とヘッと照れ笑いした。‘それに、爽太と亜希、お前たち二人の出会いだってそうなんじゃないのかって、そう思ってるよ、俺は’、でも店長はそれは言わなかった。


その日、家に帰ると爽太はベッドからよく見える壁に張ってあったサッカー日本代表のポスターを剥がして、少し横に張り直すと、そこに想から貰った絵を飾った。横になって頭の下で手を組んで、その絵をじっと見つめた。とても幸せな気持ちになる自分を感じた。

爽太は今まで身近に障害、障害という表現が正しいのかどうか、適切なのかどうか、疑問があるなと思いながら、ハンディキャップを持った人、うーん、それも正しい表現なのかどうかと頭の中で逡巡しながら、ようはそういう人たちとかかわったことがなかったな、なかったんだ俺。とぼんやり思った。いや、もしかしてかかわろうとしてこなかった、かかわろうとしなかったのかな。中学のとき、

2年のときクラスに軽度の自閉症の男子生徒がいた。学校では誰とも口をきかず、一人で好きなF1、カーレースのF1の本をずっと見ていた。俺、あいつに話しかけたことあったかな、いや、おはようくらいしか言ったことなかったなと思い返した。どのチームを応援してるんだよとか、どのドライバーのファンなんだよとか、あの頃俺もF1を結構見てたから、そんなことを気軽に話しかけていれば楽しかったかもしれないよな。あのとき、もしそんなふうにしていたら、あいつと友達になっていたかもしれないんだな、そう思うと、後悔のような、残念なような気がした。俺が勝手にあいつとの間に壁をつくってしまってたんだろうな。何の理由もなく無意識で。なんだよ、俺、かっこ悪い奴だな、そう思った。爽太はゆっくりと息を吐いて目を閉じた。想の笑顔がうかんだ、そして香織の優しい、静やかな笑顔がうかんだ。そして、亜希の屈託のない笑顔がチラッとうかんだような気がした。


3章  朝日、こんなに

想と香織はそれからも二日に一度くらいの割合で店に来た。想は新しく書けるようになった漢字や覚え始めたアルファベットの文字を書いてみせたり、好きな野球のこと、もっぱらヤクルトスワローズのことだけど、を話したりして、爽太や亜希がそれに一生懸命に耳をかたむけると嬉しそうに得意そうに満面の笑みでそれに応えた。想は何度目かに来たときから、爽太のことを、‘そおにちゃん’、亜希のことを‘あちゃん’と呼ぶようになっていた。亜希が話しかけると想は決まって恥ずかしそうにうつむいて、ちょっともじもじしながら小さな声でチラチラと亜希の顔を見ながら話して、そして香織に顔を向けると、うんうんと言うふうに首を動かしながら照れたような笑顔を向けた。そんな様子を何度か見かけた頃、香織が、

「想は亜希さんのファンなんですよ。あちゃん、かわいい、すきって。そう言ってました。」と小さな声でおしえてくれた。それを聞いた亜希が、

「想ちゃん、嬉しいな。お姉ちゃん、すっごく嬉しい。」と想の頬を人差し指でチョンとつつくと、想が弾かれたように大きく手を叩いて素直に喜びを表した。そんなとき香織はほんとうに愛おしそうに目を細めて想を見つめていた。そして、そんな香織のことを爽太はみんなに気付かれないように見ていた。

そんなある日、爽太は明け方近くに目が覚めると、なかなか寝付けなくなってしまった。眠ろうと目を瞑ってもどうにも眠れそうにない。香織の顔が、仕草が、声が頭の中に押し寄せてきて、それは眠ろうとすればするほどより鮮明に爽太の頭の中に居座ってしまう。おい、おい、何してんだ、こりゃ、いかん、いかんと自分に言い聞かせるるように呟いて、時計を見た。4時を少し回ったところ。上半身を起こすと、よし、眠れそうにないし、たまには日の出でも見に行ってみるか、早起きは三文の得って言うしなとベッドから降りるとハーフパンツとティーシャツに着替えて、静かに階段を下りて玄関に行くと、後ろから、こんなに早くなにしてるのと声をかけられて、ビクッとして振り向くと眠そうな顔の母親が爽太を見ていた。

「いや、なんかたまに日の出が見たいと思ってさ。ちょっと浜まで行ってこようと。それより母さんこそこんなに早く何してんだよ。」、

「そう、朝からお疲れさま。母さんは階段の音がしたから見に来たのよ。もう、早くから起こさないでちょうだいよ。鍵、締めてってね」、そう言うと母親は寝室に戻っていった。

自転車に跨がって15分ほどいつもの道を進むと、『夕日の窓』のある浜に着いた。日の出まではまだ15分くらいありそうで薄暗く、でもぼんやりと辺りが見えるくらいにはなってきていて、けれども砂浜に寄せる波の音が小さく聞こえるだけで浜は静かだった。犬を連れて朝の散歩をしている人やゆっくりと歩くようにジョギングをしている人が何人かいるだけの浜は昼間とは全く違う場所のようだった。爽太は、伸びをすると、波打ち際をゆっくりと歩き始めた。朝はやはり空気がきれいで、凌ぎやすさもあっていいなと、ただそんなことだけを思いながら数分歩くと、向こうから歩いてくる人影が目に入った。ゆっくり、ゆっくり、こちらに向かって歩いてくる人影、やがてそれが女性らしいことがわかった。やっぱり日の出を見に来ているのかな、そう思いながらその女性をもう一度見た。えっ、なに、あれ香織さん、爽太は今度は目を凝らしてその女性を見た。香織だった。爽太は心臓の鼓動が早まるのを感じた。どうしよう、焦る、こんな偶然あるのか、これ、ことわざ通りだ、早起きは三文の得なのか、とドキドキしながら、でも立ち止まらずに香織に向かって歩いた。香織も爽太に気付いたようで、一瞬歩くのを止めるようにして、それからまた爽太に向かって歩いてきた。二人の間が10メートルくらいになったとき、どちらからともなく軽く手を上げると、爽太は今度は早足で香織のもとに向かって歩いた。

「おはようございます。」、爽太が言うと、

「おはようございます。朝のお散歩かしら」と香織がちょっと小首を傾げるようにして爽太を見た。

「あ、はい。なんか目が覚めちゃって。で、たまには日の出を見ようかなって。かぉ、あ、いや、み、水沢さんは?散歩ですか?」、爽太は一瞬なんて呼べはいいんだろ、香織さんはまずいだろうとか考えてしまって、ちょっとつかえて、水沢さんと言った。

香織がクスッと笑って、

「ええ、ほぼ毎朝かな。ここに来てからほぼ毎朝。」、

「いつも、こんなに早くですか?」、

「ええ、こちらに来て何日か経った頃、朝日がきれいだろうなって思って来てみたら、すごくきれいな日の出が見れて。それからほとんど毎日です。」、

「そうなんですね。えっと、もうすぐですね、今日も」、

「はい、もうすぐ、・・ですね」

二人は海に目を向けた。水平線の彼方向こうから、ゆっくりと揺れるようにしながらオレンジの光が海面に滲むように、溶けるように広がってきた。最初は少しづつじらすように、そしてだんだんと早さをまして、やがて大きなオレンジ色の顔を誇らしげに水平線の上に現した。

「きれい、今日も」、香織が呟いて、

「はい、きれいです。やっぱ、すごいきれいです」と爽太も呟いた。こんなにきれいだったんだ、もうしばらく見てなかったな、見たかったら、見たくなったらいつでも見られるのに、そんなことすっかり忘れてたな、と思いながら。

それから二人は砂浜を並んでゆっく歩きながら話しをした。香織は想が起きるまでの時間を見計らってこの散歩に来ていること、想は毎朝きっちり、それはほんとにきっちり7時に目を覚ますこと、別荘には夫の両親もいること、夫は仕事、医者で東京の大学病院に勤めているので金曜の夜に来て日曜の夜には帰らなければならないこと、そんなことをいつもと変わらない穏やかな優しい声音で話した。爽太は小学生、その2年生になるときに東京、練馬からここに引っ越してきて、だからほぼここで育ったこと、今は大学3年で英文学を専攻していて、あの海の家では大学1年のときからバイトしていること、妹は高3でバトンをやっていること、そして、なぜか亜希のこと、亜希とは同じ年で、去年から亜希があの店でバイトを始めて知り合ったこと、そんなことを話した。香織はときおり、頷いたり、微笑んだりしながら耳を傾けてくれた。そんなことを静かに寄せる波の音を聞きながら、ポツリポツリと30分ほど話して、どちらかともなく歩くのをやめて立ち止まった。

「そろそろ、戻りますね。」、香織が海を見ながら言った。爽太が

「あっ、はい。そうですね。」、そしてそれから、

「あ、あの、明日も、明日も、俺、いや僕、いや俺、俺もまた日の出見に来ようかな・・って、あの、いいですか・・」と告げると、

「明日もきっときれいな朝日が見れますよね。」と香織が爽太に視線をうつして、まっすぐに爽太の目を見るようにして言った。

「それから、‘俺’のほうが似合うと思います。それじゃ、帰って朝ごはんの支度しますね。」と微笑みながら会釈して、海沿いの道路に向かって歩き始めた。数歩いくと、振り返って、

「お話、楽しかったです。」ともう一度微笑んだ。

うすいネイビーのくるぶし丈のパンツに、真っ白なポロシャツ、その後ろ姿を少しのあいだ見つめてから、爽太もきたほうに向きをかえると歩き始めた。ときおり海からふわっと流れてくる風がほてっている頬に気持ちよかった。

「早起きっていいな」、そんなどうでもいいようなことを思って、俺、今、どうしようもなく、まいあがってんだ、そう実感していた。


それから何度も、いろいろなことを話しながら朝の砂浜をゆっくりと香織と歩いた。何回目かのとき、確か4~5回目のときだったか、爽太が「水沢さん」と呼びかけると、香織が少し遠慮したふうに、

「名前でいいですよ。かたくるしいんじゃありません?」と言って、それでそれからは、香織さんと、最初はすごく遠慮しながら、そう呼ぶようになった。少しすると遠慮みたいな感じは薄れたけれど、それでもいつもやはり少し意識してしまうような、恥ずかしがっているような感覚が全くなくなることはなかった。想と香織と知り合って20日くらい経ち、朝の散歩も何度か一緒にして、もうすぐお盆が明ける頃、その日も爽太は朝の浜に向かった。浜のはずれのほうに、近くの海の家が前の晩に片付け忘れたのか木の縁台のようなのが置かれていて、そこに香織は浅く腰掛けて海を眺めていた。

おはようございます、と少し離れたところから声をかけると、爽太のほうに顔を向けて、おはようございますと香織がいつものように笑顔を見せた。

これ、いいですね、と隣に腰を下ろして爽太が言うと

「ええ、ほんとに。いいベンチになりますね。」と海を見ながら少し嬉しそうな声で言って、

「今日はほんの少し波が高いのかしら」と独り言のように続けた。

「あ、ほんとですね。まだ遠くにですけど台風がいるのでその影響かな」と爽太も薄明かりの中にぼんやり見える波頭に目を向けた。

「海を見ていると、ときどき不安になることがあるんです。なぜなんだか、わからないんですけど」、香織が縁台の縁に両手をかけるようにして、少し体を前に乗り出すようにしながら言った。

「・・はい」、爽太は何て言えばいいのかわからずそう返事するしか思いつかなかった。

「変ですよね。そんなこと、そんなふうに思うなんて。海って広くて、大きくて、寄せたり、引いたりしながら、おだやかに、たまに荒れたりしながら、でもその時々でそのときの必然に逆らったりしないで、ありのままの姿を見せてくれて、朝や夕方にはあんなに素敵な景色を見せてくれたりして、それで何でも、どんなことでも受け止めて、受け入れるよって、言ってくれているように思っているのに、それでもふとしたときにその中でもみくちゃにされてしまうような不安を、・・これからどうなるんだろうとか、ううん、大丈夫、心配することないんだとか、そんなことが行ったり来たりして、こわくなるようことがあるんですよね、海を見ていて、そんなふうな気持ちになってしまうことが。・・実際はそんな大げさなもんじゃないんだけど、そんなふうに感じてしまうことがあるんです。」、

「・・・はい」、爽太は同じ言葉を繰り返した。健康で元気で、穏やかに暮らしていて、いつも楽しくて、喜びを感じていて、なんの不安も悩みもなくて、そんな毎日が続く人などいないだろう。誰しも何かしらの悩みや不安、難題を抱えていて、だから漠然としたものかもしれないけどこれから先のことに対するおそれみたいなものを感じることってあるよな。香織の場合、自分自身のことと言うより、多分想のこと、想のこれからの長い時間を考えたとき、そのおそれはきっといつも頭の片隅にあって、それは決してそこから消え去ることはないんじゃないだろうか、そしてそれはもしかしたら、救いを求める思いなのかもしれない、けれども、その救いは誰かに求めるのではなく、自分自身で導き出すことなのだと、香織はそう考えているんじゃないだろうか。爽太は香織の言葉を聞いて、それをもう一度度頭の中で繰り返しながら、そう思った。

「なんてね、ちょっと言ってみただけ」、香織がいつもの優しい声音で言って笑った。爽太は香織の横顔を見つめた。きれいだった。いつもよりきれいだった。香織は頬に少しかかっていた髪をそれをそっと指で耳にかけた。爽太は何も言わずに黙ってそんな香織を見つめ続けた。なぜだか、そのときそのそばにふっと亜希の、うつむいた亜希の顔がうかんだ。

「・・・」、

「香織さん・・・あの・・」、そこで言葉をとめた。わかったようなことを言うのがいやで、あとの言葉が見つからなかった。そのとき、水平線の辺りがほんの少しオレンジ色を帯びてきた。

「ありがとう」、香織が立ち上がって水平線を見つめながら、

「・・・こういう話って、あまり、できないから。話してよかった。ただ聞いてくれて、ありがとう・・」とそのまま朝のきらめきをちりばめ始めた海を見つめ続けた。爽太も立ち上がると同じようにそのきらめきを見つめた。


亜希は浜沿いの道を自転車で走っていた。昨夜は久しぶりに高校時代の友達数人と地元で会っていて、食べて、飲んで、カラオケに行って、そしてそのまま友達の家に行って朝まで話し続けて、少し前に解散して自宅に帰るところだった。寝ていないので少し気怠くなっている頭に朝の空気は心地良かった。気持ちいいなあ、なんかシャキッとするな、うん、そうだ少し海辺を歩いてみようか、そんな思いがふと浮かんで、亜希は砂浜に続く石段のそばで自転車を降りると階段を数段下りた。散歩したりしている人が何人かいるのが目に入った。それと、浜辺に佇んで海を見ている二人連れの人影が目に入った。別段気に留めることもなく、もう数段石段を下りて、何気なくまたその二人を見た。亜希はそこで足をとめた。もう一度、その二人を見た。えっ、と小さく声がでた。爽太くん、あれ爽太くんだ。もう一人は、隣にいるもう一人は、もしかして、そう、そうだ、香織さんだ、じゃあ、いるのかな想ちゃんも、そう思って二人が立っている辺りを見たけれど、想はいなかった。亜希は数秒二人を見つめて、それからチラッと海を見た。朝日が昇り始めた海がぼんやりと見えて、そして亜希は下りてきた石段を戻り始めた。鼓動が少し早くなっているのを感じながら、自転車に跨がると、ゆっくりとペダルを踏み込んだ。シャキッとなりかけていた頭がまた少し気怠くなっていた。それはさっきまでの気怠さとは違う、気持ちが何となく落ち着かなくなるような気怠さだった。


「お待たせしました。チキンバスケットとメロンソーダです。」、

「俺ら、たのんでないよ。」、

「あっ、ごめんなさい。失礼しました。」、亜希が頭を下げた。

「亜希さん、またドジった。」、厨房に食器をさげにきた優志が言った。

「えっ、またって?よくやるのか?」、爽太がたずねると、

「そうなんすよね。2~3日前くらいからかな。オーダー間違えたり、ジュースこぼしたり。どうしたんすかね、亜希さんらしくないっすよね。」と首を傾げた。そばにいた恵理も

「話しててもたまに上の空って感じだったりもするんですよ。なんか、少し元気がないみたいで。」と爽太の顔を見た。

そう言えば確かに爽太が話しかけても少しノリがわるいような、ポンポンと返してくるような小気味好さがここ何日か感じられないなと亜希の背中を見ながら思った。

その日、帰り際に

「飯、食べてかないか。」と亜希に声をかけると、ほんの少し間をおいて、

「爽太くんの奢り?」と言って

「うん」と頷いた。

行きつけのファミレスでテーブルに着いて、

「まずは生なんだろ?」と爽太が言うと

「今日はやめとく。」とメニューを見ながら亜希がボソッと言って、

「その分、いっぱい食べるんだ。」といたずらっ子のような目で爽太を見た。亜希は言葉どおりアラビアータソースのパスタとタンドリーチキン、それにシーザーサラダ、そしてドリンクバーと言う十分お腹が膨れそうなオーダーをした。

「食うなぁ、たいしたもんだ。」と笑うと

「ふん、わたしはおしとやかじゃないですからね」と横を向いた。

「おっ、どうした、どうした、お嬢さん、ご機嫌ななめですか。」と茶化すと

「さあね、どうだか。」と今度は爽太を真正面から見た。ちょっとにらむような視線で。そのとき爽太は、な、なに、なんだよ、とほんのちょっとだけ思った。そんなやりとりのあとテレビドラマや互いの友達の話題なんかを話して、いつもと同じようになんの飾りもカッコ付けたりも必要のないひとときを過ごした。亜希が、「もう一杯飲もうっと」と席を立ってドリンクバーに飲み物を取りに行き、アイスティーを手に戻ってきた。ストローを2~3回コップのふちをなぞるようにゆっくりと回すと一口すすって、そして黙って窓の外を見た。店内のBGMがサザンオールスターズの夏の恋の曲を静かに流していた。亜希がその歌詞を呟くように口ずさんで、そしてふっと小さな息をもらした。

「亜希さ、少し、疲れてんのか?」、

「えっ、わたし・・?」、

「そんなことないよ。なんで?」、

「いや、ここ何日か、らしくないミスしてるからさ。」、

「あぁ、うん、ちょっと何回かドジしてるよね。でも、疲れてなんかないよ。たまにあるじゃない、何となく調子わるいときって。・・そんなとこ」、

「なら、いいんだけど。ただ、無理はするなよ。休みたいときはいつでも休めよ。そんときは亜希の変わりは俺がするから。な。」、そして、爽太は亜希にこれ、約束だからな、と付け加えた。

「うん、ありがと。」、

「優しいね、爽太くんはほんとに優しくて、いい人。」、亜希が爽太に視線を移しながら少し淋しそうにわらった。その顔を見て爽太はどうしてだかわからないけど、おい、俺、しっかりしろよ、しっかり向き合え、見つめろ、と思っている自分を感じた。それで、それをごまかすように、

「いい人か。それ、だめだよ。だめ。」と無理に笑うようにして言った。

「なんで?だっていい人だよ、ほんとに」、

「でも、女性からいい人って言われたら、それは男として認められてないことって言うじゃない。俺、そんなのやだよ。認められて、モテたい。」、爽太がそう言うと、

「ばか、何考えてんのよ。爽太くんはほんとにお気楽だね。」、亜希がやれやれというふうに言いながら笑った。

「そう、そう。亜希は笑ってるのがいい。笑って、ガッツリ食べてるのがいい。」、

「もう、ほんとに、やだな。それじゃわたし、デリカシーのないただの大食いの女みたいじゃない。」、

「いいんだよ、それで。それが亜希なんだから。亜希は亜希。」、

「でも、ありがと。話してたら調子戻ってきた・・かな。明日からノーミスでいくからね。」

「おうっ」

そして二人は店を出た。店の中には変わらずにサザンの曲が流れていた。さっきよりももっと切なくて、淋しげで、優しくて、心にしみわたる曲だった。夏だなって、亜希は思った。爽太は心が疼くような、チクリとするような、そんな自分を感じていた。


4章  もうすぐ9月

お盆が明けると、暑さは変わらずだったが、人出はお盆前と比べるとだんだんと減ってきた。とは言え浜はまだそれなりの賑わいを保っていた。その頃になると想も爽太や亜希だけでなく、恵理や優志や他のバイトとも顔見知りになり、うち解けて、いつも誰かしらとヤクルトスワローズの話をしたり、ノートに描きためている絵を見せて、想なりにその解説をしていた。香織はそんなときいつも想のそばで目を細め、口もとに笑みを浮かべて静かに、黙ってそんなやりとりを見つめていた。ある日、優志がヤクルトスワローズの山田選手のポスターを「そうちゃん、はい、これ、あげる」と渡すと想は目を丸くして両手でそれを大事に受け取ると、それを持って一目散に店先にいた爽太に見せにきて、「ヤクト、やあだ選手、ホムラン」と飛び跳ねた。わあ、よかったね、山田選手、今日もホームラン打つかなと言うと、「うつ、うつ、ホムランうつ」と声を弾ませた。大切なもの、嬉しいことは誰よりも、もちろん香織を除いてだが、そして父親も除いてだろうが、爽太に伝える、それくらいに想は爽太のことが好きで信頼を寄せていた。そしてそういうとき、爽太の次には必ず亜希に、亜希に声をかけて欲しそうに亜希のそばに行って亜希を恥ずかしそうに見るのだった。この日もそんな想の様子を見て、高校生バイトの恵理が「そうちゃんには爽太さんと亜希さんは二人で一人なんですね。ヒューヒュー」と笑顔で二人を冷やかした。香織が、ほんとにそうですねと二人を交互に見てとても嬉しそうに言った。爽太が「工藤ちゃん、な、なに言ってんだよ。」と焦りながら言うと、亜希がつかさず「香織さん、高校生って無邪気でいいですよね。まだまだですねぇ。」とあきれたように姉貴風を吹かした。そして、それに続けて

「あの、ここ今月いっぱいで閉店なんですよ。海の家はどこもみんな8月いっぱいでお店を閉めるんです。それで、もし、よろしかったら、それまでに一度夕方、夕暮れ時にいらっしゃいませんか。ここから見る夕日、とてもきれいなんです。想ちゃんと一緒に、みんなで一緒に見ませんか。」と懇願するように言った。香織は亜希を、亜希の目をしっかりと見て、はい、と頷くと、ぜひ、その夕日を見させていただきます、必ず見に来ますね、亜希さん、ありがとうとていねいに、きれいなお辞儀をした。


それから、何日か経って、8月も後1週間となった日、その日も爽太は早朝の浜に行った。香織はいつものように水平線を見つめていた。爽太が、おはようございますと横に並ぶと、

「おはようございます。」と何かを思いきったように静かだけどキッパリとした口調で言った。

「まだ夏、ですよね。それなのに、でも、どこか夏じゃないように感じてしまいます。」、

「そうですね。」、

「あの、明日」、

「・・明日、想と見に行きます。夕日を見に行きます。」、そしてそのまま口をつぐむと波の音に耳を澄ませるように目を閉じた。少しして、ほんの数秒、いや数十秒して香織が続けた。

「今週の土曜に、土曜日に東京に帰ります。」、

「はい・・」、

香織はまた少しの間黙ったあと

「来月、9月にアメリカに行くんです。」と言った。爽太は旅行に行くのかと思い、そうなんですか、西海岸ですかと香織の横顔を見た。香織はゆっくり首を振ると

「ニューヨークのほうです。」とそうぽつりと言った。ニューヨークか、ブロードウェイとか行ってみたいな、そんなことを思ったそのとき、

「主人がアメリカの大学病院に行くんです。そこで仕事することにしました。それで、私たちも一緒に。」、

「えっ、あの、それ、ってアメリカで暮らすってことですか?」、爽太は思ってもいなかったことに驚きながら尋ねた。

「もう2年くらい前からそんな話があって。でも、想のこととか考えると、どうしようかって、ずっと主人と考えていたんです。」、

「主人は外科医で、今いる大学病院でも、そこにずっといてもいいんですけど。でも、日本の医者の世界、特に大学病院っていろいろとしがらみとか、派閥とか、次の教授には誰がなるんだろうとか、そういうのが多くて。主人はそういうのに係わるのが前からずっと嫌だったんです。もっと純粋に医療に取り組みたいって。」、

「主人はすごくまじめな人なんです。わたしが言うのも変なんですけど。かけひきとか、根回しとか、徒党を組むみたいなこととかが苦手、苦手って言うより嫌いなんです。それで、悩むと言うか、いろいろと思うところがあったようです。それでそんな主人のことをよく知っている、大学時代の先輩のお医者さん、今度主人が行くことに決めた病院に長いこと勤めているその方がアメリカの病院に来ないかって声をかけてくれたんです。それが2年くらい前。」、

爽太が

「想ちゃんは、そのこと想ちゃんは知ってるんですか?」と尋ねると

「想はよくは理解していないと言うか知りません。でも、アメリカのことについては時々話したりしていて。それでアメリカに興味をもつようになって。」と香織がそこでちょっと笑って、

「それでアメリカの大統領を全部。なんです。」、

「そうだったんですね。」と爽太も頬を緩めた。

「想はあっちでうまくやっていけるだろうか。環境が変わって、今までのように暮らせていけるのか、それがわたし達にとって一番の不安でした。いえ、今でも不安はあります。それでいろいろ調べたり、その先輩の方にアメリカのバリアフリー、設備面はもちろんなんですけど、特に意識面、普通の人達のハンディキャップを背負った人達に対する意識におけるバリアフリーの状況や教育施設における対応や現状をお聞きしたり、調べていただいて。それで主人が昨年一度あちらに行っていろいろ見てきました。」、香織はそこで一息ついて、また続けた。

「やはり、アメリカってそういうことへの取り組みが進んでいます。日本よりいろいろな面で制度が整っています。そして、想のような人や、身体面で不自由のある人たちへのまわりの方の接し方もバリアーがない、少ない、そう実感できたと。それでわたしもわたしなりにいろいろと調べたり、勉強しました。主人から聞いていたとおりアメリカの環境は日本よりもいいことが理解できました。もちろん実際に生活を始めれば思っていたことと違うこともたくさんあるんだとは思いますけど。でも、躊躇ってばかりではいけないと思いました。想が慣れることができるだろうかとか、言葉は覚えられるだろうかとか、そんな不安もたくさん、数え始めたらきりが無いくらいありました。でも想の将来、未来を考えたとき、いろいろなことを経験しておくこと、いろいろな環境に慣れること、そうしたことはとても大切なことだと思いました、気付きました。想はいつかはわたし達のいない時間を過ごすことになります。そのために強く逞しくなって欲しいと。それが想にとっても必要なことなんだと。想をいつまでもわたし達の、わたし達だけの庇護のもとにおいておこうなんて、それこそわたし達が想に対してバリアーを張っていることじゃないかって、そう気付きました。そして1年前、去年の夏にアメリカに行こうと決めました。いろいろな準備、心、気持ちの面も含めてしっかりと準備して、それから行こうと決めました。そして、来月、新しい日常、想の、わたし達の新しい日常を始めることにしました。」、

「いや、びっくりです。びっくりしたと言うか、いや、ほんとに、えって感じです。そうか、そうなんですね。」、

「・・あ、でも想ちゃんなら、想ちゃんならきっと、いや、絶対に大丈夫ですよ。そんな簡単に言っちゃいけないと思うんだけど、でも想ちゃんなら大丈夫だとそう思います。」、

「あの日、想がお店でアイスキャンデーを勝手に食べてしまったあの日から、想はあの日から変わったと、いいえ、わたし達の知らなかった想を見せてくれるようになりました。爽太さんや亜希さん達に、あんなに自分の気持ちを素直に正直に出して接している想を見て、想は大丈夫って、そう思うようになりました。わたし達が勝手に決めつけていた護ってあげなければならない想ではなく、自由に自分の思うとおりに生きていく力を持った子なんだと。」、そう話し終えると香織は爽やかな顔で爽太を見た。爽太は黙って、微笑んで頷いた。

香織が

「以前、海を見ていると不安になることがあるんです、ってそう話したこと、覚えているかしら?」、爽太はもう一度ゆっくりと頷いた。

「あのとき、お話して、それですごくすっきりしたんです。」、

「気持ちが軽くなった、きちんと自分の感じていることを話すことで、心の靄みたいなものが晴れるんだなって、そう気付いて、それですごくホッとしたんです。」、

「気持ち、とか心で感じていることを言葉にして誰かに伝えるのって、難しいし、・・勇気、勇気がいりますよね。」、爽太が言うと、

「そう、ちょっと恥ずかしさもありますものね。でも、言葉にして、それを紡いでいくと、少しずつ気持ちがほぐれていくんだなって。あのときそう思いました。」、そして香織は晴れやかな笑顔を浮かべて、

「朝の散歩、今日が最後です。爽太さん、爽太さんと亜希さん、二人に最後にお会いするのは想と一緒のとき、二人に出会えた機会をつくってくれた想と一緒のときがいいかなって、だから、朝の散歩は今日が最後。・・最後の日もきれいな朝日が見れてよかった。爽太さんと一緒に見れて、よかったです。・・ほんとによかった。」ときっぱりと、とても清々しい声で言った。

爽太は少し力が抜けるような感覚になりながら、俺も同じです、よかったです、とだけ呟くように言って海を見つめ続けた。少し大きな波が砂浜の深くまで流れてきて、香織の足先をちょっと濡らした。香織はその足もとに視線を移しながら

「・・明日、夕日を見に行くこと、明日がお二人、爽太さんと亜希さんにお会いする最後の日になることは想には内緒なんです。知ったら、想、落ち込んでしまうから、だから、言わないんです。」、そして、

「わたしが10才、もう少しかな、10才とちょっとかな、若かったら・・」、爽太は、な、なに、とどきっとして一瞬息を止めてしまった。

「そうしたら、爽太さんは今の想と同じくらいね。可愛いだろうな。」といたずらっ子のように笑って、

「爽太さんに出会えたこと、想もわたしもほんとうに神様に感謝しています。爽太さんは、ほんとに優しくて、ほんとにいい人。」と爽太を澄んだ目で見つめた。

爽太はホッと息を吐くと、やっぱ俺はいい人かぁと思いながら、ありがとうございますと笑った。ね、やっぱりそうでしょと言っている亜希がいるように感じて、苦笑い混じりに笑った。そして、ちきしょう、なんか、やけに切ないなとこぶしを握った。


その日、バイトを終えて帰ると、爽太はその日は休みだった亜希にメールで、明日の夕方、想が店に来ることを伝えた。そして、想たちは今週の土曜日には東京に帰ること、来月、9月にアメリカに渡って、あっちで暮らすことになると聞いたことを伝えた。そうなんだ。帰っちゃうんだ、そうだよね、もう夏休みも終わるもんね。アメリカって、遠いよね、アメリカに行っちゃうのかと返信が来た。そして、明日はわたし早く入るからともう一通着信があった。

翌日、開店に合わせて店に行くと亜希も

ちょうど来たところだった。二人で厨房で仕込みをしている店長に夕方から席をひとつ押さえておきたいと、想たちが夕日を見に来ること、そして、今日が店にくる最後になることなんかを話した。

「一番いい席に予約のプレート出しとけ。メニューは俺に任せろ。その、なんだそうくん、そうちゃんの好きなものはなんだ?俺が特別メニューを作ってやる。」といつもように白い歯を見せた。


香織は今日の夜のご飯はおそとに食べに行こうねと、朝ごはんを食べている想に話した。義父母が、想ちゃん、いいねぇ、おそとでご飯だって。美味しいもの食べておいでと愛おしそうに想をみつめた。「ごはん、おそと、ばちゃん、じちゃん、おそと、おいしい」と想が目をクリクリさせた。義母が「淋しくなるわね。」と義父に小さな声で言うと、義父も「そうだな。でも、今年の夏はずっと想といられて、楽しかった。いい夏だったよな、母さん。」とひとりごとのように、しみじみと言った。想が、じちゃん、ばちゃんもパン、食べる、朝ごはん、と二人に声をかけた。二人は柔らかに微笑んで、トーストを頬張ると、美味しいな、想ちゃんと食べるごはんはとても美味しいよと目を細めた。想には今日が爽太たちに会える最後の日になることは話していない。想はとても感受性が豊かなので、それを知ったら淋しがって、塞ぎ込んで、へたをすれは寝込んでしまうかもしれないので、黙っていた。何も知らない想は牛乳を飲んで、口のまわりを白くしながら、「じちゃん、ばちゃん、おとさん、あした」と翌日迎えにくる父親のことを楽しそうに話していた。


夕方、5時半にもうすぐという頃、香織と想は『夕日の窓』にやってきた。想はつないでいた香織の手をはなすと、走って店先にきて、大きな声で、「こばんは、こばんは。そうちゃん、きた。」と店の中に向けて想なりのあいさつをした。すぐに亜希がかけよって

「想ちゃん、いらっしゃい。こんばんは。大きな声でごあいさつ、えらいね。」と想の頭をふんわりと撫でた。爽太も厨房から出て二人を出迎えた。想は爽太を見ると、嬉しそう手足を動かして、「そおにちゃん、こばんは」とぺこりとお辞儀した。亜希が二人をこの店で一番よく夕日が見える砂浜の近くのテラス席に案内して、

「想ちゃん、ここからはすごーくすごーくきれいなおやすみなさいするお日様が見えるんだよ。」と言うと

「そうちゃん、見る。きれい、見る」と目を大きく見開くようにした。ジュースを運んできた高校生バイトの恵理が、オッス、そうちゃんとわらいかけると、想は両手を顔の前に上げて拍手した。香織がメニューを手に取ろうとすると、亜希が今日のメニューはお店にお任せ下さいと香織にウィンクした。そして店長渾身の特別メニューのプレートが想と香織の前に並べられた。想の大好きなハンバーグやクリームコロッケ、ツナサラダ、オムライス、そしてそれらとはちょっと系統の違う肉じゃがなんかが彩りよく盛られたプレートを目の前にして想が嬉しそうにフォークを手に取った。

どうぞ召し上がって下さいと運んできた高校生バイトの優志がうやうやしく言うと、香織が会釈をして、「想ちゃん、すごいごちそうだね、好きなものばっかりだね。それじゃ、いただきますしましょうね。」と両手を口もとで合わせた。

「いたきます。」、想は大きく口を開けるとハンバーグにフォークをつきたててかぶりつくと、「すき、ハバーグ、おいしい」と優志に向かって言った。優志が、うん、よかった、おいしくて、よかった、お兄ちゃん、うれしいよと少し鼻声で言いながら想に笑顔を向けた。

二人が食事を終えた頃、浜は薄暮に染まり始めた。遠く海の向こうの空と海との境目にだんだんと太陽が近づいていくと、その光を海が静かに受け止めて、朱色とオレンジ色が合わさったような光の帯をゆらゆらとその表面にくゆらせた。香織はその美しい景色を息を潜めて見つめた。想はそんな香織の顔をじっと見て、そして、「おかさん、きれい、おかさん、海もきれい、おかさんもきれい」と言うと、たどたどしく、「うーはひろい、なおおきな、」、「つーがのぼっし、ひーがしーむ」と大きな声で歌い始めた。香織も爽太たちもびっくりして

「想ちゃん、そんなに大きな声でお歌歌ったらだめよ。迷惑でしょ」と香織が声をかけても想は止めないで、「つーがのぼっし、ひーがしーむ」と同じフレーズを繰り返した。香織がもう一度「想ちゃん」と言いかけたとき、となりのテーブルにいた中年の夫婦と思われる二人連れの男性がチラッと想に目を向けると、ニコッと笑いかけ、そして「海は広いな、大きいな、月が昇るし、日が沈む~」と一緒に歌い始めた。すると、その連れ合いの女性も一緒に声を合わせた。想が嬉しそうに拍手しながら、より大きな声で歌うと、店のあちこちから歌声があがり、やがて店にいるみんなが、客も店員もみんなが声を合わせて歌い始めた。

‘海は広いな、大きいな、月が昇るし、日が沈む~~海にお舟を浮かばせて、行ってみたいな、よその国’

その歌声に合わせるように、その日の夕日がゆっくりと海の彼方に姿を隠した。店のあちこちから拍手が湧き上がり、香織が目を赤くして、声を詰まらせながら、「ありがとうございます、ありがとうございます」とそのみんなに頭を下げた。想もそのとなりで手をたたきながら頭を下げていた。思いもかけない成り行きに驚いていた店長が

「この店、やってて良かったよな」と爽太のとなりに来て、ニコッとした。

やがて、店を閉じる時間も近づいてきて、香織が、もうすぐ寝るお時間だから、帰りましょうねと想に声をかけると、想は少しぼんやりとした目で香織を見つめて、それから爽太と亜希を見た。そして、何か言おうとしたのか、口を動かしかけたが、何も言わずにうつむいた。香織が厨房にいる店長に、ほんとうにありがとうございますと礼を言い、それから財布を開きながら、お支払いをと言いそうになるのをさえぎって

「今夜はこの店からのご招待ですから。」と爽太が告げると、

「そんな、こんなによくしていただいて、美味しいお料理をごちそうになって、素敵なお時間をいただいて、申し訳ないです。」と香織がなおも言って、店長が、「何度も何度もご来店してくれたんでそのお礼ですから、気になさらないで下さい。」と店の奥から声をかけた。香織が申し訳なさそうに、でも、それでは、せめて、わたしの分だけでも、とそう言いかけると、亜希が

「それじゃ、150円、150円、いただきます。」と香織に手を差し出した。香織はえっという顔を一瞬したが、すぐに何かを思い出したのか、にっこりと微笑み、

「はい、それじゃ150円」と亜希に手渡した。亜希はそれをしっかり受け取ると、香織を見つめて、「いつも、ご利用ありがとうございます」と明るい笑顔を向けた。

店先に出て、爽太が

「想ちゃん、今日もありがとう。今日も会えてお兄ちゃん、とても嬉しかったよ。」と想の手をとって言うと、想はうん、うん、と頷いて、それから片方の手で爽太のとなりにいる亜希の手をつかんだ。そして、それを想と繋いでいる爽太の手に重ねた。「いっしょ、いっしょ、ずっと」と言いながら二人の顔を交互に何度も見て、満面の笑みを浮かべた。亜希はもう限界だった。堪えていたものが一気にあふれ出して、頬を伝った。爽太も耐えられそうになかったが、奥歯をグッと噛みしめ、うん、一緒だね、想ちゃんもずっとずっと一緒だよと振り絞って声を出した。爽太と亜希の後ろで恵理と優志が鼻をすすり上げていた。

香織が想の手を取ると、店のみんなに深く深くお辞儀をした。そして、

「爽太さん、亜希さん、お二人のこと決して忘れません。この夏のこと、決して忘れません。ほんとうに、ほんとうにありがとうございました。」、そう言うと名残を断ち切るように想の手を引いて店をあとにした。街の明かりやまだ店を開いているほかの海の家の明かりでうっすらと明るさの残る砂浜を歩いていく二人の姿がだんだんと小さくなっていく、その途中で想が何度も振り向くのが見えた。少しいっては振り向き、また少しいっては振り向き、まるで今日が最後なのを知っているかのように、何度も何度も、そして、もう見えなくなってしまうかなと思ったそのとき、想が立ち止まって振り返るのが見えた。小さく手を上げているのが、ぺこりとお辞儀をするのが見えた。爽太は思いきり両手を頭の上に伸ばすと大きく、大きく手を振った。亜希も同じように大きく、大きく手を振った。爽太の視線の先で香織と想、いや、想と香織の姿がゆがんだ。爽太の目から堰を切ったように涙が幾筋も幾筋も流れ落ちた。


『夕日の窓』がその年の営業を終えたその翌日、爽太は早朝の浜に来ていた。たった1日しか違わないのに、8月の朝の海と、9月のそれは少し違うように感じた。もうすぐ9月最初の朝日かとぼんやり海を眺めていると、サクッ、サクッと柔らかく砂を踏みしめる音が背後から聞こえた。ゆっくり振り返ると、

「やっぱ、いた。おはよう」と亜希が

数歩離れたところで照れたような顔をして爽太を見た。

「お、おう、おはよう。」と爽太もちょっと照れたように笑った。

亜希がゆっくりと爽太のとなりにきて、

「朝の海、気持ちいいよね」とささやくような小さな声で言った。

「ああ、気持ちいいよな。」、

「どうしたんだよ、こんな早くに」、

「うん、いるかなと、来てるかなと思って」、

「そっか。・・・知ってたのか?」、

「うん、前に見ちゃった。1回・・」、

「そうなんだ。なんで声かけなかったんだよ」、

「それは、そんなことできるわけないじゃない。」、

「ふーん、そっか」、そこで、少し会話が途切れた。

「って、亜希こそなんでそんな朝早くに浜にいたんだよ。」、

「わたしは朝帰りの途中、通りかかったの」、

「なに、なんだ、朝帰りって、ど、どこに行ってたんだよ」、

「友だち、女の子ばっか4人で飲んで、カラオケいって、友だちのうちに行って、それで朝までみんなで話して、それで帰る途中」、

「そうか。別にいいんだけどさ」、

「そんなのあたりまえじゃない。何、言ってんだか」、そこでまた少し会話が途切れた。

「アメリカに行っても、メールなんかでいつでも話せるよ。」、亜希がそう言うと、

「知らないよ、そんなの」、

「えっ、知らないって」、

「香織さんのアドレスとか連絡先、きいてないの?」、

「そんなのきいてどうすんだよ。」、

「どうするって・・・」、

「だって、好きなんでしょ、香織さんのこと」、

「うん、好きだよ。」、

「だったら」、

「想ちゃんと出会って、香織さんと出会って、俺、なんかすごく嬉しかった。話してて、すごく楽しかった。香織さん、きれいだし、ドキッてすることもあったし、でも、それで、それだけですごくよかったんだよ。」、

「想ちゃんと出会って、俺さ、いろんなこと考えて、いろんなことに気付いたんだ、そう思うんだ。」、

「香織さんもそう。いろんな話をして、いろんなことを感じて、なんか、俺、少し成長させて貰えたなって。それに、やっぱきれいだし、大人の女性で素敵な人だなってのもあったし。」、

「うん、そうなんだ。」、

「で、だから、それだけでよかったんだ。うまく言えないんだけどさ、それだけで、すげぇ大切な時間を過ごせたなって。そう思うんだよな。」、

「そっか、そうなんだね、そっか、爽太くんはやっぱり爽太くんだね。」、

「なんだよ、そりゃそうだろ。俺は俺だよ。トム・クルーズかと思ったのかよ。」、

「ばーか、思うわけないでしょ。」、

亜希は爽太を見て静かに言って、そしてにっこりした。

とそのとき朝日が水平線から顔をのぞかせ始めた。

「お、今日もきれいだ。9月最初の朝日もきれいだなあ。亜希、早起きもいいだろ」と爽太が朝日を指さした。

「うん、きれい。こんなにきれいなんだ。もっと前から見に来てればよかったな。」、

「俺もそう思ったよ。もっと前から見てればよかったって。」、それから二人は黙って海を眺めた。朝日がすっかり顔を現すと、爽太が

「亜希の顔を見たら、腹減ってきたな。コンビニ行って、なんか食べようぜ。」と砂浜を浜沿いの道路に向かって早足で歩き始めた。亜希が、何よ、それ、わたしを腹ぺこ女としか見てないの、とふくれっ面をして睨もうとすると、

「亜希、早く来いよ。俺とのモーニングコーヒーもいいもんだせ。」と手招きした。

爽太くん、やっぱり爽太くんはいい人、すごく、すごーくいい人。でね、いい人なんだけどモテるんだよ、すごく、すごく、すごーくモテるんだよ、それ、間違いないんだよ。

亜希は心の中でそう爽太に語りかけた。

「待ってよ、そんなに早く行かないで。待っててば」、亜希も早足で爽太のあとを追いかけた。波音に混ざるように二人の笑い声が浜にやさしく流れた。

砂浜の二人のあしあとを朝日がオレンジ色に染めてきた。














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