カオル、再び洞窟へ
自警団が洞窟の監視を始めてから、二日ほど経った昼前。
カオルのもとへ、団員の一人がやってきた。
「よぉ、カオル」
庭で短剣の手入れをしていたカオルは足音に顔を上げ、布で指先を拭う手を止める。
「あっ、カザトさん、お疲れ様です……」
「武器の手入れか?」
「はい、念の為にと思って……」
声を掛けられ、カオルは道具を置いてゆっくり立ち上がった。
「例の見張り、次はお前の番だぜ」
目の前の団員の顔には、はっきりと疲労が浮かんでいる。肩が落ち、呼吸も浅い。朝の見回りから戻ったばかりなのだろう。
「早速、洞窟にいる奴と交代してやってくれ、と言いたいところなんだが……」
「あれ?……僕一人……ですか?」
カオルが問い返す。監視は二人一組――そう決められていたはずだ。だが、もう一人の姿がない。
「それなんだがなぁ、お前と組む予定だった奴が足をケガしちまってな。
夕方まででいいから、お前一人で頼むって団長の話だ」
団員は、最後に念を押すように続けた。
「夕方からの見張り要員には、早めに交代してやれって言っておく。気をつけて行けよ」
軽く肩を叩かれ、カオルは頷く。
「わかりました……」
家へ戻り、手早く準備を整える。居間にすぐ持ち出せるよう置かれていた弓と矢筒を手に取ると、カオルは外へ出た。
「……父さん、母さん……」
洞窟へ向かう道すがら、八年前の悲劇が頭の中で形を取ってよみがえってくる。
─────
八年前――それは、カオルが五歳の時だった。
突如現れた一匹の巨大な魔獣が、集落を恐怖の底へ叩き落とした。
静寂を裂く雷鳴のように。暗雲を引きずる嵐のように。村の日常を、唐突に覆い尽くした。
地を揺るがす足音は地震のように家々を震わせ、空を引き裂く咆哮は子どもの泣き声すらかき消した。
黒い影が落ちた瞬間の絶望は、いまも生存者の記憶に深く刻まれている。
三日ほどの死闘の末、魔獣は駆除された。
だが、その代償は大きすぎた。
当時の自警団の約半数が命を落とし、その中には集落最強の戦士と謳われたカオルの父もいた。
村の広場には戦死者を悼む小さな慰霊碑が、今も静かに佇んでいる。
雨に濡れ、風に削られても、刻まれた名前は消えない。
そしてその直後に、カオルの母も、後を追うように行方不明になったという。
夫の死を知った夜、母はカオルを寝かしつけ、静かに家を抜け出したらしい。
南の森へ向かう姿が目撃されたのが最後で、それ以来、誰も彼女を見ていない。
短い期間で二度の悲劇。
それが、幼いカオルを一気に孤独へ突き落とし、心に消えない傷を残した。
残された家には、母からの置き手紙と、父が使っていた形見の短剣などが残されていた。
今、その短剣は腰のベルトに括り付けられ、いつでも手に取れる場所にある。
わずかな支えではあるが、それでも、任務に臨むカオルにとっては確かな支柱だった。
─────
森へ入ると、歩く度、足元の枯れ葉がカサカサと鳴る。
乾いた響きが静寂に吸い込まれず、むしろ不気味に広がっていく。
木々は高くそびえ、太陽の光を遮る。森の中は、いつもより薄暗い。
空気は湿り、土と腐葉土の匂いが混ざり合い、鼻孔を刺す。
鳥の声すら聞こえない静けさが森を覆い、何かが息を潜めているかのような重さが胸にのしかかった。
ピクピクと獣耳が微かに動き、風や遠くの虫の気配を拾う
――だが、いちばん強く響くのは自分の足音と鼓動だけだった。
─────
洞窟の入り口に着くと、一人の団員が立っていた。
カオルが近づくと、その団員はゆっくり振り返る。
「おう、カオル。来てくれたか」
かすれた声で挨拶を交わし、片手を上げる。
顔には長時間の警戒による疲れと、言葉にしきれない不安が混じっていた。
それが、カオルの心に新たな懸念を植えつける。
「すまないが、夕方まで頼む。特に変わったことはなかったが、
……何とも言えない気配がする。気をつけろよ」
「……はい」
団員が去っていく背を見送りながら、カオルは一人、洞窟へ足を踏み入れた。
─────
昨日ウォルと来た時とは違う。
一人きりの洞窟には、水滴が落ちる音と自分の足音しかない。
水滴は奥で反響し、まるで心臓の鼓動のように一定のリズムを刻む。
ひんやりした空気が肌に染みる。
緊張で首筋を伝う汗が、不快な感覚を残す。
壁に触れれば、苔の冷たさが指先まで伝わってきた。
「ふぅ……。何もない……よね?」
声が響かぬよう、かろうじて聞こえる程度に呟く。
不安そうに耳がぴくりぴくりと動き、わずかな音にも神経が尖る。
――最初に唸り声を聞いた時――嫌な予感はした。
だが、「新種の魔物かもしれない」程度の、単純な考えで済ませていた。
今は違う。
あの唸りは、八年前の悲劇を呼び起こし――
“また”巨大な魔獣が現れるのかもしれないという根深い不安へと直結している。
胸の奥で、幼い頃の記憶が混ざり合い、鋭い痛みになって突き刺さった。
汗とは別の冷たいものが、背中を這い回る。
洞窟の奥から吹き出す冷気のように、背筋が震える。
(もし……もし再び魔獣が現れたら……あの時と、八年前と同じように、犠牲者が……?)
─────
カオルは、気づけば封印の扉の前に立っていた。
扉は、存在そのものが周囲と異質だった。
洞窟の岩肌とは明らかに違う、滑らかで黒曜石のような質感。
触れようとすれば、不思議な抵抗を返してくる。
まるで、物理的な壁とは別に、見えない障壁があるかのような感覚。
しかも扉の周囲には埃や苔がまったく付着していない。
時が止まったかのように、完璧な状態を保っている。
(昔の人は、古代文明の遺産とか言ってたらしいけど……僕には、ただ不気味な扉にしか見えない……)
そう心の中で呟き、視線を下へ落とした。
――その時
『”ぐぉぉぉぉぉぉぉぉん……”』
洞窟を満たす、重く低い音。
大地が不機嫌に唸るような、内臓を揺さぶる振動を伴う
――あの唸り声。
「……っ! このタイミングで……!?」
カオルの心臓が跳ね、血の気が引く。
短剣の柄を握りしめた掌に冷たい汗が滲み、足が僅かに震えた。
『”ぐるるるるるるるるるぅ……”』
唸りは強まり、耳をつんざく轟音へ変わっていく。
空気が震え、洞窟の壁を伝って揺れが体に届く。
足元の地面がわずかに揺れ、天井から小石が落ちる音が混じった。
――そして次の瞬間。轟音とともに、背後の壁が崩れる。
「”グォォォォォォォォォォオオオオオ!!!!!”」
カオルの目の前に、
黒く巨大な『それ』が、ついに姿を現した。
─────
岩粉が舞い上がり、土煙が立つ。
視界を塞ぐほどの濁りの中から、想像を超えた巨影が、ゆっくりと輪郭を形づくっていく。
「わぁぁぁぁぁぁぁぁあああああ!!!!!!」
カオルの絶叫が洞窟に反響し、轟音と絡み合う。
足が恐怖で動かない。目の前の光景を、呆然と見つめることしかできなかった。
幼い頃に聞かされた父の死
――それが現実となって目前に立ち、逃げ場のない絶望が喉元まで込み上げる。
土煙が晴れ、巨影が四本足の漆黒の獣だと分かった瞬間。
胸の奥で、本能が「死」を告げる。
「グルォォォォォォオオオオオッッッ!!!!!!!!」
獣が咆哮し、その漆黒の体躯を洞窟内で揺らす。
大地そのものを震わせる衝撃が、ビリビリとした振動になって体幹を貫いた。
(ににに……逃げ……なきゃ!!)
だが、入口への通路は魔獣に塞がれている。
背後は封印の扉――行き止まりだ。逃げ道はない。
(進むことも戻ることもできない……!! どうすれば……!?)
(交代の人が来るのを待つしかないのか?
でも、それまで僕一人で、この巨大な魔獣を相手にできるわけが……!)
(くそっ!! どうしたらいいんだよ!!!)
「グルゥゥゥゥゥアアアアア!!!!」
咆哮がさらに強まった、その瞬間――洞窟全体が大きく揺れる。
「うわぁぁぁぁぁああああ!」
天井から大小さまざまな岩が降り注ぐ。
――ゴッ。
落ちてきた岩の一つがカオルの後頭部に当たる、
頭が割れそうな激痛――。
「あ゛あ゛あ゛っっっ!……」
身体に力が入らない。
膝が崩れ、地面へ落ちた。
手足の感覚が遠のき、意識が薄れていく。
(もうだめだ……意識が……)
(父さん……母さん……)
視界が白に塗りつぶされていく。
「グルゥゥゥゥゥオオオオオ!!!!」
魔獣の咆哮を聞きながら、カオルは意識を手放した……。




