伝えることと、隠すこと
アレル、ミハル、アキネと別れ、森の小道を下りながら、カオルとマナンは並んで歩いていた。
木々の間を抜ける風が、葉を揺らしながら二人の間を通り過ぎていく。
その風は冷たさを残しつつも、どこか澄んでいて、
昨日まで漂っていた”闇”の名残を、少しずつ洗い流しているようだった。
カオルの歩調に合わせるように、マナンが何気ない調子で口を開く。
「そういや、ずっと気になってたんっすけど」
「……はい?」
カオルは足元の落ち葉を踏みしめる音に意識を向けながら返す。
森の匂いが、昨日の記憶を遠ざけていく。
「ウォルくんはあんまり違和感ないっすけど、
カオルくんとかアレルくんまで、お互いの名前を呼び捨てにしてるっすよね」
マナンは指を頬に当て、少し首を傾げながら尋ねた。
その表情は真剣そのもので、からかいではない純粋な疑問だと分かる。
「普通、年上だったり先輩だったりすると、さん付けとかになるじゃないっすか」
「なのに、みんな自然に呼び捨てで……ちょっと不思議で」
カオルは一瞬、きょとんとしたあと、思い出したように小さく笑った。
その笑みは、森に差し込む淡い光の中へ溶けていく。
「あぁ……それですか。呼び捨ては、ウォルのこだわりです」
「こだわり……?」
「ええ」
カオルは軽く頷く。
「子どもの頃は……僕、ウォルのことを“さん”付けで呼んでました」
マナンは目を丸くする。
「へぇ~……それが、どうして呼び捨てになったんっすか?」
興味深そうに身を乗り出すマナンに合わせるように、カオルの歩みがほんの少しだけ遅くなった。
「父が亡くなって、しばらく経った頃です。
僕が自警団の手伝いをするようになった時、ウォルに突然言われたんですよ」
カオルは一度言葉を切り、ゆっくりと息を吐いた。
「“仲間なのに、壁をつくるな”って」
「壁……」
「そうです。名前に距離を作ると、無意識に心に壁ができる。
だから、遠慮しないで、言いたいことを言えるように……って」
木々の隙間から差し込む光が、カオルの顔にまだらな影を落としていた。
「当時の僕は、正直よく分かりませんでした。
でも……今なら、あの言葉の意味が分かります」
「ふふっ。ウォルくんらしいっすね」
マナンが柔らかく笑う。
「ちょっと強引で、でも不器用で……
でも、ちゃんと相手のこと考えてる感じがするっす」
「そうですね……」
カオルも微笑んだ。
「名前で呼び合うことで、心を一つにしようって……
そうやって、僕たちは生きてきました」
「……素敵な話っすね」
「不器用ですけど、ウォルなりの優しさだったんだと思います。
仲間同士で上下を作らないための、ウォルの兄貴分としてのやり方……」
遠くで鳥が鳴く声がした。
その音が、二人の沈黙を自然に繋いでくれる。
「……兄貴分っすか」
「ええ」
カオルは小さく頷く。
「両親がいなくなってから今まで、ウォルのお陰で僕は立ち止まらずにいられました。
親友で、仲間で……それ以上に、本当の兄のように接してくれました。
……時々無茶するのをどうにかしてほしいですけどね」
空の向こう――まだ知らない未来へと続く道を見るように、カオルは遠くへ視線を向けた。
(血の繋がってない兄弟っすか……)
(……私も、もっと優しくできていれば、彼女を……)
「……マナンさん?」
「あ、いや、何でもないっすよ!!」
マナンは小さく息を吐き、にっこりと笑う。
「……なんだか、カオルくんのこと……もっと好きになったっす」
「え?」
「仲間を大事にしてるところも、ちゃんと人の気持ちを覚えてるところも」
「……全部含めて、っす」
「――す、好き……!?」
カオルの頬が、見る見るうちに赤くなっていく。
それに合わせてか、恥ずかしさを紛らわすように獣耳がピコピコと激しく動いた。
「ちょ、ちょっと……からかわないでください!」
「えへへっ。からかってないっすよ?」
マナンは楽しそうに笑う。
「照れ屋さんなんっすね。そういうところも可愛いっす」
「か、可愛……っ!」
楽しそうなマナンの声が、森の木々の間で軽く跳ね返る。
(”世界の変化”にもっと早く気付いていれば……)
(でも……考えても、もう遅いっすね)
マナンの目の奥に少しだけ暗い影が落ちたことに、カオルは気づかなかった。
─────
そう話しているうちに、二人は集落へと戻ってきていた。
「お~い、カオルたち! ちょうど良かった!!」
集会所の窓から顔を覗かせていたウォルが、手を振る。
「親父がさっき話し忘れたことがあるらしいんだ! 少し寄っていってくれるか?」
「うん。分かった」
カオルは頷き、マナンと共に集会所へ向かった。
集会所の奥には、ベッドに横になったままのルクスが、二人を待っていた。
「マナン殿。昨日の試験の件について、伝え忘れていたことがある」
「……はいっす」
その言葉に、マナンの表情がわずかに引き締まる。
「本来、集落の掟に則れば……いかなる理由があろうとも、
本人が試験を続行不能と判断された時点で、その試験は失格となる」
「まぁ……そうっすよね」
マナンは小さく頷いた。
「今回で言えば……昨日、貴殿があの状態になった時点で、失格になっている」
「……失格」
声が、わずかに震える。
「だが――」
ルクスは一拍置いた。
「今回は”特例”とする」
「……えっ?」
マナンが思わず聞き返す。
「……特例?」
「そうだ」
ルクスは、隣に立つウォルを一瞥する。
そこに苛立ちはなく、確かな信頼だけがあった。
「私もウォルも、自らの意思で掟を破り、貴殿を助けるため介入した」
ウォルが低く呟く。
「……あの時、介入していなければ、マナンさんは……あそこで死んでたかもしれない」
「あぁ、やむを得ない事態だった」
ルクスは、静かに頷いた。
「我々は掟の番人であると同時に、人を守る自警団だ」
「掟を守るために人を見殺しにするのなら――
その時点で、我々は自警団である資格を失う」
沈黙が落ちる。
「だから、マナン殿の試験は“合否保留”とする。
……もし、再び試験を続けたいと思うなら」
ルクスの声は、穏やかだった。
「我々は、いつでも待つ」
マナンの目が、わずかに見開かれる。
「……本当に、失格じゃなくていいんっすか……?」
「当然だ。掟を破った責任は我々が負う。異論が出れば、私が前に立つ。
……問題があるか?」
「……いえ……ないっす」
マナンはしばらく沈黙し、そして隣に立つカオルを見る。
「カオルくん……どうするっすか……?」
「僕は……マナンさんの決断を尊重します」
迷いのない声だった。
「……分かったっす。もう少しだけ、考えてみるっす」
「それでいい」
ルクスは短く頷く。
「もし、再び試験を受けたいと思った時は――」
「分かってる」
ウォルが言葉を引き継ぎ、マナンの肩を軽く叩いた。
「試験ってのは、誰にでも与えられるチャンスだ」
「……そのチャンスを、俺たちが奪う権利はない」
「ウォルくん……」
マナンの声に、確かな感謝が滲んでいた。
「だが、覚えておけ」
ルクスの声が、わずかに低くなる。
「次に同じ事態が起きれば、今度こそ試験は失格だ」
「掟は……掟だからな」
「……はいっす」
マナンは、真剣な表情で頷いた。
「……我々は、いつでも待っている」
その言葉は、試験官としてではなく、
守る者としての宣言だった。
─────
集会所を出ると、空はすっかり落ち着いた色をしていた。
朝とも昼ともつかない、柔らかな光が集落を包み込んでいる。
「……ちょっと、散歩に行きましょうか」
カオルがそう言うと、マナンは元気に頷いた。
「お散歩! いいっすね!!」
そう言って、ブンブンと腕を振ってみせる。
その仕草に、カオルは思わず苦笑した。
「……元気が有り余ってますね」
「元気だけが取り柄っすから!!」
「……ふふっ。じゃあ、行きましょうか」
二人は並んで歩き出す。
集落の道は、昨日までの張りつめた空気が嘘のように穏やかだった。
家々の戸は少しずつ開き、
水を汲む音、鍋をかき混ぜる音、子どもたちの小さな笑い声が、
慎重に、けれど確かに戻ってきている。
「……きっと、完全に元に戻ったわけじゃありません」
カオルは周囲を見渡しながら言った。
「皆、様子をうかがってるんだと思います。
“本当に終わったのか”って」
「……まぁ、その気持ちは……わからなくもないっす」
マナンは、胸元のペンダントを指でなぞる。
「私も……昨日のこと、まだ夢みたいっすから」
散歩道の途中、森に近い柵の前で、カオルは足を止めた。
土の色、折れた枝、焼け焦げた跡――
どれも、昨日の名残だ。
「……ここ、昨日のあとが残ってますね」
「そうっすね……」
マナンは森の方を見つめ、少しだけ目を細める。
「でも、今は……嫌な感じはしないっす」
カオルは頷いた。
「完全に消えたとは言えませんが……森は、息を整え始めてます」
「……ゆっくりでもいいから、元に戻れば良いな」
その言葉に、マナンは小さく笑った。
「カオルくんって、時々すごく優しい言い方するっすよね」
「そ、そうですか……?」
カオルは答えず、少し照れたように視線を逸らした。
─────
散歩の途中、集落の外れにある一軒の家が見えてくる。
「……少しだけ、寄り道してもいいですか」
カオルが足を止めた。
──コツ、コツ。
「……誰だ」
低く、しわがれた声。
「カオルです」
「……入れ」
扉を開けると、
薄暗い室内に、薬草と古木の匂いが混じって漂っていた。
オルジィは、机の前に腰掛けていた。
その視線が、まずカオルに、そしてマナンへと移る。
「……”光”が満ちたな」
「はい」
「お陰様でっす!」
マナンが、ぺこりと頭を下げる。
「……座れ」
二人が腰を下ろすと、オルジィはしばらく黙ったまま、
じっとカオルを見つめた。
「……聞きたいことがあって来たんだろう」
「はい」
カオルは、拳を軽く握る。
「僕の中にある“闇”のこと」
「それから……これから、何をすべきなのか」
オルジィは、目を細めた。
「多くは語らん」
「だが、一つだけ、はっきり言っておく」
その視線が、今度はマナンの胸元――ペンダントへ向けられる。
「お前の中の“闇”と、この娘の“光”」
「それは、隠し続けられるものではない」
カオルの胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「……ルクス達に、マナン嬢の持つ”奇跡”
――”魔法”の存在を伝えろ」
「……!」
マナンが息を呑む。
「今の言い方……まるで、最初から知っていたみたいですね……」
「……何をだ」
カオルの質問に対し、オルジィは視線を上げない。
それが、余計にカオルの焦りを煽った。
「マナンさんが……“魔法を使える”ことを」
「そして、それがこの集落では――普通じゃないことを」
一瞬、部屋の空気が固まる。
マナンの指が、無意識に胸元のペンダントを握った。
「……どうして師匠が、それを知ってるんですか」
「僕は……あなたに、話していないはずです」
オルジィは答えない。
杖の先が、床を一度だけ叩く。
“トン”
「……お前は、自分の口を守ると言ったな」
「……はい」
「なら、まず理解しろ。――口だけでは守れん」
「見られる。匂う。揺れる。……人の在り方は、隠しても滲む」
カオルは唇を噛む。
それでも引けなかった。
「でも……“魔法”だと断言できるほど、師匠は見ていなかったはずです」
「昨日、あなたが来たのは……夜の途中でした。あの時点で、マナンさんの光は――」
「……光の質が違う」
オルジィが、低く遮る。
「この娘の光は、“術”だ。偶然の発光ではない」
「そして、術を持つ者の癖は……石に残る」
オルジィの視線が、マナンのペンダントへ落ちる。
触れずに、刺すように見る。
「……この遺物は、ただの飾りではない。使われてきた器だ」
「器は、使い手の指紋を覚える」
マナンが小さく息を呑んだ。
(見抜かれてる……?)
カオルは、なおも食い下がる。
「……師匠。あなたは――どこまで知っているんですか」
「マナンさんのことも……僕の中の“闇”のことも」
オルジィは、ほんの少しだけ目を細めた。
しかし、言葉は冷たいままだ。
「知っていることと、語ることは別だ」
「今、お前が知れば、焦る。焦れば、光は濁る。……それを昨日、見ただろう」
カオルは息を止めた。
確かに、焦った瞬間に“闇”が疼いた。
あの冷たい渦が、胸の奥で――まだ残っている。
「……でも、僕は――」
「問うな」
オルジィが、短く言い切った。
「答えは、今は刃になる」
「必要なのは、順番だ。――まずは“伝えること”だ」
「”全員に”とは言わん、信頼できる面々だけでいい」
「”奇跡”の存在しない集落で、”奇跡”を語ることは、危険だ」
「だが、連日の騒ぎで……もはや、無視も出来ん」
オルジィはそこで一拍置き、カオルをまっすぐ見た。
「――お前が迷えば、噂が先に走る」
「噂が走れば、真実より恐怖が育つ」
「恐怖は、闇を呼ぶ」
カオルの拳が、わずかに震えた。
(師匠は……僕を守ろうとしてる? それとも――)
マナンは、そっと手を挙げた。
「……カオルくん」
「私は……話した方がいいと思うっす」
「マナンさん……?」
「このままずっと隠し通すのは無理だと思うっす……
私も……皆にもう嘘はつきたくないっす」
「それに皆も、もう……“知らないふり”は出来ないと思うっす。
”瘴気”の存在……カオルくんから聞いた”姉妹”の話……」
「なら、”闇”が本格的にカオルくんを襲いに来る前に、私がこの集落の”光”になるっす」
マナンが、そっと前に出る。
声は小さいが、芯がある。
「……カオルくん。オルジィ師匠の言う通り、今は……順番、っす」
「私、逃げないっす。だから……一緒にやるっす」
カオルは、返事の代わりに、マナンの手を握り返した。
強く――でも、壊さないように。
オルジィは、静かに言った。
「知らぬ者は、恐れる」
「だが、何も知らぬまま恐れる方が、もっと危険だ」
「……」
カオルは、唇を噛んだ。
「僕は……皆やマナンさんを、傷つけたくない……」
「けれど……隠し続ければ、もっと傷つけるかもしれない、不安にさせるかもしれない……」
オルジィは、二人を見比べ、短く頷いた。
「決めるのは、お前たちだ」
「準備は必要だ。言葉も、順番も、覚悟もな」
カオルは、深く息を吸い、そして吐いた。
「……分かりました
ルクス団長が治ったら、相談してみます」
「それでいい」
オルジィは、目を閉じた。
「夜は、まだ終わっていない」
「だが……夜明けを迎える準備は、始められる」
─────
家を出ると、空気が少しだけ軽く感じられた。
「……空気が、重かったっすね」
「はい……でも」
カオルは、マナンを見て、微かに笑った。
「一人じゃないと思えただけで、随分違います」
「えへへ……それなら、良かったっす」
二人は、並んで集落へと戻っていく。
その背中を、
森と、集落と、そしてまだ名もない“運命”が、静かに見送っていた。




