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転送少女とケモミミ少年 -Zerofantasia Gaiden-  作者: zakoyarou100
第三章 迫りくる”闇”
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想いは、一つに

森を出た途端、空気が変わる。

冷たさは同じはずなのに、胸に突き刺さっていた“重み”だけが、少しだけ薄くなる。


けれど――安心にはならない。

背中に負ぶったマナンの体温が、あまりに軽すぎるからだ。


(どうにか……どうにかして!)

(僕が助ける。マナンさんを!)


「……カオル! こっちだ!」


先頭を走っていたウォルが、集落の灯りを指さして叫ぶ。

薄闇の中、家々の窓がひとつ、ふたつと点き始めていた。誰かが気づいたのか、戸が開く。息を呑む気配が、夜気を震わせる。


「帰ってきた……!」

「森から……生きて……!」


カオルは歯を食いしばり、歩幅を増した。

背中のマナンが、かすかに揺れる。肩に回した彼女の腕が、力なく滑りそうになるたび、カオルは背負い紐代わりに自分の外套を締め直す。


「マナンさん……もう少し……」


返事はない。

呼吸はある。だが、薄すぎる。灯りの下で見たら、消えそうな蛍火みたいに見えるだろう。


広場に近づいた途端、フウカが駆け寄ってきた。


「……マナンちゃん!? どうしたの!?」


フウカがマナンの顔を見て、青ざめる。

唇の色は消えている。目は閉じたまま。


「……ルクスさんまで……!」


フウカの視線が、ウォルに支えられたルクスへ移る。

ルクスは口元に手を当てながら、その視線に答えるように短く頷いた。


「……ああ。……大したことではない」


その言い方が、かえって事の重大さを物語っていた。


「……フウカ。マナン殿はカオルの家へ運べ」

「ルクス、あなたは――」

「私は集会所だ。……手当てをすれば問題ない――ぐっ!!」


言い終えた途端、ルクスの膝がぐらりと揺れた。

ウォルが反射で駆け寄り、肩を貸す。


「親父……!」

「……離せ。まだ歩ける」

「歩けても、倒れたら終わりだろ!」


ウォルの声は怒鳴りに近い。だが、その奥で震えている。

ルクスは一瞬だけ目を閉じ――諦めたように、ウォルの肩に体重を預ける。


「……分かった。……任せる」


二人はゆっくりと集落の中心へ消えていく。

残されたカオルに、フウカが言った。


「……カオル。一緒にマナンちゃんを運ぶよ」

「……はい」


カオルは頷き、マナンの体を支え直す。


─────


カオルは静かに頷き、自宅へと向かう。

夜の森が背後に広がる。一歩、また一歩と足を進めるたび、

背中に負ぶったマナンの体重が抜けていくかのようだった。


家の前で足を止める。冷たい木の扉に、手がかすかに震える。

今朝、マナンと一緒に出たこの扉。そのときはただの入口に過ぎなかったのに、

今は世界を隔てる境界線みたいに重たく感じた。


「――カオル、寝かせてやりな」


カオルの家の戸が開くと、室内の灯りが柔らかく広がった。

普段なら落ち着く匂い――木と布と、煮込みの残り香。

今夜は、全部が遠い。


ランプの灯りが、消えかけた灯火みたいに揺れる。

フウカが先に部屋の準備を始め、カオルはマナンを自分のベッドにそっと置いた。


「……マナンさん……」


呼びかけても、返事はない。胸の上下が、ほんの僅かに見える。

それだけが、彼女がまだここにいる証。


マナンの髪が額に張りついていた。

汗で濡れて、細い糸のようになってる。

指先でそっと払おうとして、止まった。


触れたら、壊れそうだった。

でも――今触れなかったら、もう二度と触れられない気がした。


カオルは震える指先で、ゆっくりと髪を掠めた。

マナンの頬は冷たい。唇は乾いて、ひび割れそうに細い。

胸元のペンダントは――光をほとんど失い、石のように沈黙していた。


「……まだ、温かい。生きてる」


言葉が虚しい。

でも言わなかったら、この部屋の灯りすら信じられなくなりそうだった。


「カオル」


フウカの声は静かだった。


「今は、その子のそばにいな。……そばに寄り添ってるだけなのが、何よりの薬だから」


フウカは薬袋を置く。


「何かあったら、すぐに呼びに来な。……どんなに小さなことでも」

「……ありがとうございます。フウカさん」


フウカは頷くと、部屋を出ていく。

扉が閉まると、室内に二人の残した気配だけが残る。


時計の音もない。

灯りが揺れる音だけが、時間を刻んでいる。


カオルは椅子を引き、ベッドのそばに座った。

手を握る。でも、力は入れない。

彼女の手の小ささと、冷たさだけが伝わってくる。


(――マナンさん、生きて帰ってきたんですよ……)

(僕の耳……触っていいんですよ……)


カオルはマナンの枕元から動けなかった。

水を含ませた布で唇を湿らせる。汗を拭く。呼吸の数を数える。

どれも“している”というより、“していないと崩れる”からやっているだけだ。


外の闇が、窓の隙間からじっと中を覗いている。

見てる。待ってる。カオルの“覚悟”が決まるのを待っている。


(僕は……弱い)

(弱い。怖い。助けを求めたい。助けたいのに、できない)

(それでも――)

(彼女と、最後まで……最後の最後まで……)


カオルは、マナンの手を握りしめた。

その冷たさの中に、微かな脈動だけが“生”を伝えていた。


─────


その時だった。


“トン、トン”


家の扉が、控えめに叩かれた。

――訪ねてくる人なんて、いないはずだ。


カオルは静かに立ち上がり、扉へ向かった。

外にいる気配を感じる。知っている気配。


カオルは戸を少しだけ開いた。

そこに立っていたのは――杖をついた、小さな老人の姿だった。


「……師匠」


カオルの声は、夜気に溶けていくみたいに掠れた。


「どうして……こんな時間に……」

「様子を見に来た」


オルジィの言葉は短い。

けれどその目は、カオルの心と、マナンの息遣いを、

まるですべて見透かしているみたいに澄んでいた。


杖の先が、わずかに床を叩く。

その音に、カオルの背筋が伸びる。


「……中を見せろ」


カオルは一瞬、ためらった。

でも、否定する言葉が見つからなかった。

オルジィの目を背けられなかった。


戸を開け、オルジィを部屋へ通す。

ランプの光が、オルジィの皺を深く刻む。

杖をつく音が、部屋の静けさを刻んでいく。


オルジィはマナンの枕元へ静かに歩み寄り、杖をついたまま立ち尽くした。

視線が、マナンの胸元へ落ちる。

触れない。触れずに、見るだけで刺すように見る。


その沈黙が、カオルの胸に重くのしかかった。


「……命が、枯れかけているな」


オルジィの声は、いつもより低く、冷たい響きを持っていた。


「今日の無理が、最後の一滴を絞り出した……違うか?」

「……師匠……何か、方法はないんですか……!? マナンさんを助ける方法は……」


カオルが絞り出す。

祈りの形をした問いだった。


オルジィは答えない。


「助けられるなら、僕は何でもします! 命を捧げます! 僕の身体でも、何でも……!」


その声は、もはや自分のものじゃない。

魂が剥がれたような音。


オルジィはゆっくりとカオルを見る。


「……お前の身体は、お前のものだ。誰かに捧げるものじゃない」

「ですが……!」


「――打つ手はない」


言葉が、カオルの胸に刺さる。

まるで、釘を打ち込まれるみたいに。


息が止まった。肺の空気が、重い鉛に変わった。


「……待ってください! そんなの……!」


声が震える。声が割れる。

そんなの、許されない。


オルジィの視線は、動かない。

冷たい。澄んでいる。その澄み方が、逆に残酷だ。


「あると言えば、期待する。期待すれば、焦る。焦れば、光は濁る。……お前はそれを見ただろう」


(見た……)


カオルの脳裏に、瘴気獣と戦ったマナンの姿が蘇る。

光が震えていた。でも、決して濁らなかった。


「でも……でも、師匠なら……!」


カオルは訴えるようにオルジィを見上げる。

知っているはずだ。何かを知っているはずだ。


「光が潰えるということは、命が尽きるということと同じだ。

――彼女は、この集落のことわりでは理解できない存在だ……我々の常識では、助けられん」


「……嘘……です」


声が出ない。声が出そうで、出ない。

吐く息が冷たい。


「この世の理を、嘘と言うのは愚かな所作だ」

「……理、だなんて……僕は、そんなの……!」

「お前が理を知らなくても、理は動く。太陽は昇り、月は満ち、そして、命は尽きる」


カオルの膝が笑った。

立っているのに、崩れ落ちそうな気がする。


「師匠……」


オルジィは杖の先で床を叩いた。


“トン”


その音が、カオルの心臓を貫く。


「諦めろ。そして、最後の瞬間を見届けろ」


オルジィは冷たく言い切った。

カオルの喉が鳴る。息が詰まる。

目の前が滲む。


「このままなら、朝までに灯が尽きる可能性が高い」


可能性――という言葉を使いながら、断言に近い声音だった。


カオルは膝が抜けそうになるのを堪え、拳を握る。

握った拳が震える。


「……嫌だ」

「……」

「嫌です。僕は……もう……」


言葉が続かない。

“もう”の先に、八年前がいるからだ。


父が、いなくなった朝。

母が、泣きながら布団を畳んだ夜。

誰も責められないまま、責めたい気持ちだけが残った日々。


それが、また来る。

――いや。

それを、自分が手伝うみたいに。


「僕が……諦めないです」


カオルは静かに言った。


「諦める権利なんて、僕にはありません」


その声は、祈りだった。


オルジィは、それでも動かない。


「――では、お前が救え」


オルジィの目が、初めて少しだけ柔らぐ。

優しさじゃない。事実を知っている者の、諦めの柔らかさだ。


「この子は、命の使い方を選んだ。

お前にできるのは、その選択を否定せず、見送らず、寄り添うことだけだ」

「寄り添って……どうなるんですか」

「少なくとも、独りで死なせずに済む」

「……っ」


カオルは言葉を失った。

独りで死なせずに済む――それがどれほど過酷な言葉なのか。


カオルはマナンの枕元へ戻った。

オルジィは部屋を出ていこうとした。

その時だった。


「……カオル……くん……」


布団の中で、マナンの指が――かすかに動いた。

そのかすかな声に、カオルは振り返る。

オルジィも、足を止めた。


部屋の空気が張り詰める。


「……マナンさん……?」


カオルはベッドのそばに膝をついた。音を立てないように、息を殺して。

マナンの睫毛が震える。微かな震えが、部屋の灯りを細く切り裂く。


ゆっくりと、目が開く。

焦点が合わない。視界が泳いでいる。

それでも、カオルの方へ向かおうとしているのが分かる。

ただ目を開いただけの、儚い動きじゃない。


「……聞こえた……っす」


声は糸を引くみたいに細い。風に吹かれたら消えそうな声。

それでも、言葉は確かにそこにあった。


「師匠が……打つ手はないって……」


その言葉で、カオルの胸が冷たくなる。

オルジィの冷たい声が、頭の奥で響き返す。


「……マナンさん……」


カオルは何かを言おうとしたが、言葉が出ない。

否定したい。でも、どう言えばいいか分からない。


「……やっぱり……そうっすよね……」


マナンの唇が、かすかに浮き上がる。

笑った。諦めたみたいに、でもどこか穏やかな笑みだった。


カオルはベッドの脇に膝をつき、顔を近づけた。

ランプの光が、二人の間に影を作る。


「無理に喋らないで……!」


声が裏返る。涙が背中を伝うみたいな感覚。


「……喋りたい……っす……」


マナンが、息を吸い込むみたいにそう言う。

その声に、カオルの心臓がひっかくように痛む。


マナンの唇が、ほんの少しだけ浮き上がる。

笑った。どこか穏やかな笑みだった。


「カオルくん……」

「……はい」


カオルは、ベッドの脇に膝をついたまま応える。

息を止めるみたいな勢いで。


「……最後の力……残ってる間に……お願いがあるっす」

「なんでも……!」


即答した。

それが怖い。なんでもと言った瞬間、望みが“終わり”に繋がる気がして。


マナンは、ゆっくりと息を吸って――言った。


「……最後の夜を……一緒に過ごしたいっす」

「……っ」


カオルの喉が詰まる。

――夜を、一緒に。


どれほど過酷な願いなのか。

死を待つ時間を、二人で刻むこと。


それでも――拒めない。

拒んだら、彼女が独りになる。

それだけは、絶対に嫌だ。


カオルは震える声で答えた。


「……はい。もちろんです」


その声が、夜気に溶けるみたいに掠れていた。


「……嬉しい……っす」


マナンの睫毛が震える。その動きだけで、灯りが揺れたみたいに見える。


彼女の右手が、ゆっくりとカオルの方へ伸びる。

袖を探るみたいな、かすかな動き。


カオルは息を止めて、その手を両手で包む。


温度が薄い。

昨日までの暖かさは、残り香みたいにかすか。

それが現実だと、指先が教えてくる。教えたくないのに。


「……カオルくん」

「はい」

「……怒ってるっすか。私が……無理したこと……」


言葉が途切れそう。

それでも、伝えようとしている。

後悔じゃない。ただ――心配している。


カオルは、指先でマナンの手を優しく握り返す。


「……怒ってません」

「嘘っす。怒ってる……悲しい……気持ちが、分かるっす……」

「……」

「でも……ごめん……って言いたくないっす」


マナンの目が、ランプの光を反射した。

一粒の、温かい光だった。


「……ここに来て、嬉しかったっす」

「カオルくんに会えて……ウォルくんに会えて……アレルくん、フウカさんに……」

「……初めて、たくさんの人に……囲まれて……笑えたっす」

「だから……あの人たちには、伝えてほしいっす」

「ありがとうって……ごめんねって……」


言葉が途切れる。

息が浅くなる。


「カオルくんは……一番最後……」


マナンの指先が、カオルの手の甲を、かすかに掻いた。


「……約束の話……してもいいっすか」


耳に触る約束。

獣耳を、好きなだけ触っていい。


その約束が、どうして“最後”に来るのか分からない。

でも、分かった。

分かったからこそ、胸が裂ける。


「……覚えて……たんですか」


カオルの声は、夜気に溶けていくみたいに掠れた。


「忘れるわけないっす……。あれで……めっちゃやる気出たっすもん……」


マナンは笑って、咳き込みそうになり、カオルが慌てて背中を支える。

体が軽すぎる。


「試験に、合格したわけじゃないっすけど……生きて帰って来る約束は……果たしたっすよ……

だから……前借りするっす……」


マナンはカオルの手を握り返し、指先に力を込めた。


「……触りたいっす。今……」

「今……?」

「うん……。今じゃないと……明日、ないかも……」


その言葉が胸に刺さる。


(嫌だ……)

(もう、明日がないなんて……)


カオルは目を閉じ、開いた。

ランプの灯りが揺れる。


「……分かりました」


カオルはそっと身を寄せ、マナンの指が届くように、自分の獣耳を近づける。


(怖い……でも……逃げない)


マナンの指が、震えながら――触れた。

その指先が、カオルの耳を触った。

冷たい。でも、震えだけが温かい。


「ふわふわ……」

「っ……」

「……ほんとに……ふわふわしてるっすね……」

「……ほんのりあったかくて……やさしい……」

「……」

「……やばいっす……」


涙の膜が、マナンの目に張る。

嬉しい涙なのに、悲しい。


カオルの喉が詰まる。


「生きて……もっと触りたいっす」

「……触らせます。何回でも」

「……約束……」


小さく笑って、マナンは目を閉じた。


─────


「……私は帰る」


オルジィは杖をつき、静かに振り返った。

その背中は、何も語っていないようで、すべてを語っていた。


「今宵、何が起ころうと、それは我々のとお前の記憶に刻まれる。……それだけのことだ」


言い終えると、オルジィは扉を開き、外の夜へ消えた。


残された二人は、ランプの灯りの中に残された。

夜の音が、遠くから聞こえる。

虫の声。風の音。

それだけが、時間の過ぎることを知らせていた。


カオルはマナンの手を握ったまま、彼女の顔を見ていた。


「マナンさん」

「……はいっす」

「初めて会った日、洞窟であなたが、魔法で作った光……

それは……僕が、初めて見た希望でした」


カオルは静かに告白した。


「マナンさんに出会うまで、僕はずっと――一人でした。

でも、あなたが光で照らしてくれました。……僕の世界を」

「私も……っす」


マナンの目に、光が宿った。


「カオルくんは、私が魔法を使えなくなった時に、助けてくれたっす」

「家で……草原で……料理で……思い出がいっぱいできたっす」


マナンの声は、ランプの光みたいに細く、揺れていた。


「それが、私には……とっても嬉しかったっす……」

「魔法で助けるのではなく……手を差し伸べてくれる人がいるって……」

「……それが、温かいって思ったっす……」

「……カオルくん……あの時は……ありがとう」


マナンが、少しだけ眉を寄せる。

泣きそうな顔。


カオルは喉が詰まる。言葉が胸に沈む。


「それでもっ、今夜は……言いたい」

「……」

「僕は、あなたに……マナンさんに。生きてほしい」

「……私も……カオルくんに、生きてほしいっす」


マナンは目を開け、カオルを見た。

その目は、もう“最後”を知っている目だった。

知っているのに、諦めていない目だった。


「……ねぇ、カオルくん」

「はい」

「最後に……ちゃんと、顔見せてほしいっす」

「……見てます」

「そうじゃなくて……近くで……」


マナンが弱々しく笑う。


カオルはさらに身を寄せた。

マナンの頬に手を当てる。冷たい。けれど、確かに生きている。


マナンの手が、カオルの頬に触れた。


「……あったかい」

「マナンさんが……冷たいんです」

「……ふふ。じゃあ……あっためて……」


冗談めかして言いながら、マナンの目が真剣になる。


「カオルくん……」

「――キス……していいっすか」


マナンの声は糸みたいに細いのに、カオルの胸の芯を叩いた。


「……っ」


カオルの心臓が跳ねる。

返事が、すぐに出ない。

出した瞬間、何かが決まってしまう気がした。

決めたくない。決めたくないのに――決めないと守れない。


この夜の温度も、息の擦れる音も、彼女のまつ毛の震えも。

消えてしまう前に、確かめたい。

ただ“好きだ”と言うより先に、触れて、触れ返して、そこにいると知りたかった。


カオルはゆっくりと身を寄せた。

近づくだけで、怖さが増す。

近づくほど、「終わり」が輪郭を持つ。


マナンの瞳は揺れていた。

強がりの笑みがまだ残っているのに、その奥にある恐怖が隠せていない。

それでも、逃げない目だった。


マナンは焦らない。待つ。


カオルは息を吸って、吐いた。

震えが止まらない。

けれど、震えたままでも言わなければならない。


「……はい」

「……やった……」


マナンが、ほんの少しだけ笑う。

その笑顔が、カオルの胸を焼いた。


─────


カオルはゆっくりと顔を寄せる。

唇が触れる、その直前――。


マナンのペンダントから、パァ……と、微かな光が走った。


「……?」


マナンの視線が、驚きに大きくなる。

カオルも目を開ける。


”アストラ・ヴィータ”。

沈黙していたはずの石が、灯の芯だけを取り戻したみたいに脈打った。


それは“光った”というより――“息を吸った”みたいだった。


次の瞬間、カオルは理解するより先に“感じた”。

自分の胸の奥が、きゅう、と絞られる。

冷たい渦が、奥で回っている。

いつもなら嫌悪感に変わるはずのそれが、今夜は違った。


吸い込まれていくのは、マナンの方ではない。

“自分”の方が、引かれている。


(……何だ、これ)


カオルの胸の内側から、黒いものが“ほどける”。

塊じゃない。痛みでもない。


ただ、長い間押し込めていた欠落が、細い糸みたいに引き出されていく。


怖い。

でも、止めたいのに止められない。


マナンの手が、カオルの手を握り返した。

さっきまで力のなかった指が、確かに“掴んだ”。


「……カオルくん……これ……」


マナンの声が、さっきより少しだけ太い。

喉に水が通ったみたいに、響きが戻っている。


カオルの指先が、彼女の手のひらの中で温かくなった。

自分の体温じゃない。


“もう一つ”の温もりが混ざってくる感覚。


そして、光が増えた。

淡い光が、ただ強くなるんじゃない。


澄んでいく。

濁りがほどけ、透明になって、器に満ちていく。


泉の底から差し込む光みたいに、静かで、確かで、逃げない光。


ペンダントの中で、何かが“変換”されている。

黒が、灰色になり、灰が白にほどけ、最後に――柔らかな光へ変わる。


─────


「……“奇跡”か……」


戸の向こうで、杖の音が止まった。

家の外で光を感じ取ったオルジィが、杖を握りしめる。


「二人の想いが一つになった……。その結びつきが、光を創り出した……」

「瘴気とマナ。光と闇。反発するはずの力が、混じり合っている。

……あの子の持つ浄化の力が、カオルの中の闇をマナに変換した……」


それは、世界の理からすればあり得ないこと。

光と闇は相殺し、無に帰す。

光と闇は反発し、世界を壊す。


だが今、それは――一つになっていた。


─────


カオルの胸で渦巻く闇が、マナンのペンダントへ流れ込む。

流れ込んだ闇が、浄化の力によって光へと変わる。

そして、その光がマナンの命を温めていく。


「カオルくん……これ……」


マナンの声が、少し戻ってきた。

喉が潤んだみたいに、響きが増している。


「……こんな……の……奇跡っすよ」


マナンの声が震える。

驚きと、希望と、恐怖が混ざった震えだ。


アストラ・ヴィータが、一気に明るくなる。

ただ明るいんじゃない。澄んでいく。


濁りがほどけ、透明な光が満ちていく。泉の底から差し込む光みたいに。

その光が、マナンの胸元へ、静かに、静かに注がれていく。


カオルは息をのむ。

自分の手の上で、マナンの指が――かすかに動いた。


先ほどまでの冷たさが薄れている。

ほんの少しだけ、温もりが戻ってきている。


「マナンさん……ペンダントが……!」


言葉が詰まる。


「見て……見て……!!」


マナンは自分の胸元を見つめて、目を見開いている。


「……マナが……満ちてる……っす!」

「信じられないっす……でも、何で……?」


マナンの視線が、カオルへ向けられる。

その目に、理解と戸惑いが入り混じる。


「……マナンさん、実は――」


その直後。

オルジィが、玄関の前に立っていた。


「カオル」

「――今は、彼女を休ませろ」


オルジィの視線が、マナンのペンダントに落ちる。


「二人の想いが、一つになった。

……その瞬間に、お前の中に渦巻く闇は“拒絶”ではなく“燃料”になった」

「燃料……?」

「闇は本来、破壊だけではない。圧だ。痛みだ。欠落だ。

……それを受け止め、祈りで包めば、光へ変わる」


マナンが涙を溜めた目で笑った。


「……カオルくん……私、まだ……」

「……生きてください。今度こそ」


カオルの声が、初めて“未来”の声になる。


オルジィが、低く告げた。


「この状態なら、今すぐ灯が尽きることはない」

「……本当ですか……?」

「ただし、“永遠”ではない」


その言葉で、部屋の空気が引き締まる。

希望が生まれた瞬間に、代償が顔を出す。


オルジィは続けた。


「二人の心が離れれば、流れは止まる。想いが揺らげば、光も揺らぐ。

……今のは“つながった”から満ちた。つながり続ければ、しばらくは尽きない」


「しばらく……」

「一時的だ。だが、十分だ。……明日を迎えられる」


アストラ・ヴィータの光は、しばらく脈打ち続け――やがて安定した。

灯火じゃない。満ちた器の光だ。


マナンの頬に、血色がほんの少し戻る。

呼吸が深くなる。


「……息が楽っす……」

「……っ」


カオルの目に、熱いものが溜まる。

泣いたら崩れる。崩れたら守れない。

でも、今夜だけは――泣いていい気がした。


「オルジィ師匠……なぜ……僕の中に……?」


問いかけは震えていた。

カオルが、自分の胸に手を当てる。


いつもそこにある、冷たい欠落感。

それが、今夜“生きてる人間”の温かさに変わった。


「なぜ……僕が……カオスを……?」

「……お前は知っているはずだ。思い出せないということは、それだけの痛みだった」


カオルの脳裏に、焼け付くように浮かぶ光景。

闇の巫女、シトラの目。


――『皇子様。あなた、ただの少年じゃないよ』


オルジィは、答えを言わなかった。


「今は重要なことじゃない。むしろ、始まった。光が満ちたと知れれば、闇は必ず寄ってくる」


「……」


カオルは唇を噛む。

でも今は、怯えない。怯えてもいい。だが、動く。


「……それでも、僕は守ります」

「守る順番を、決めろ」

「……はい」


カオルはマナンの手を握り直す。


「まず、自分を守る」

「……うん」

「次に、口を守る」

「……はいっす」

「そして……あなたを守る」


「……えへへ……」


マナンが泣き笑いみたいに笑った。

その笑いが、今夜の灯りになる。


「……やれやれ」


オルジィは、少し息を吐いた。

その息が、どこか温かく聞こえた。


「……始まったな、厄介な夜明けが」


そう言って、オルジィは振り返り、杖をついて静かに去っていった。


─────


残された二人に、ランプの灯りだけが揺れていた。

カオルは、そっと額を寄せる。


「……キスの続き、してもいいですか……」

「……もちろん」


今度は、光は暴れない。

ただ、温かい。


短い口づけ。

確かめ合うような、震えを許すような口づけ。


離れた瞬間、二人とも息を吸い、笑った。

生きている笑いだった。

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