想いは、一つに
森を出た途端、空気が変わる。
冷たさは同じはずなのに、胸に突き刺さっていた“重み”だけが、少しだけ薄くなる。
けれど――安心にはならない。
背中に負ぶったマナンの体温が、あまりに軽すぎるからだ。
(どうにか……どうにかして!)
(僕が助ける。マナンさんを!)
「……カオル! こっちだ!」
先頭を走っていたウォルが、集落の灯りを指さして叫ぶ。
薄闇の中、家々の窓がひとつ、ふたつと点き始めていた。誰かが気づいたのか、戸が開く。息を呑む気配が、夜気を震わせる。
「帰ってきた……!」
「森から……生きて……!」
カオルは歯を食いしばり、歩幅を増した。
背中のマナンが、かすかに揺れる。肩に回した彼女の腕が、力なく滑りそうになるたび、カオルは背負い紐代わりに自分の外套を締め直す。
「マナンさん……もう少し……」
返事はない。
呼吸はある。だが、薄すぎる。灯りの下で見たら、消えそうな蛍火みたいに見えるだろう。
広場に近づいた途端、フウカが駆け寄ってきた。
「……マナンちゃん!? どうしたの!?」
フウカがマナンの顔を見て、青ざめる。
唇の色は消えている。目は閉じたまま。
「……ルクスさんまで……!」
フウカの視線が、ウォルに支えられたルクスへ移る。
ルクスは口元に手を当てながら、その視線に答えるように短く頷いた。
「……ああ。……大したことではない」
その言い方が、かえって事の重大さを物語っていた。
「……フウカ。マナン殿はカオルの家へ運べ」
「ルクス、あなたは――」
「私は集会所だ。……手当てをすれば問題ない――ぐっ!!」
言い終えた途端、ルクスの膝がぐらりと揺れた。
ウォルが反射で駆け寄り、肩を貸す。
「親父……!」
「……離せ。まだ歩ける」
「歩けても、倒れたら終わりだろ!」
ウォルの声は怒鳴りに近い。だが、その奥で震えている。
ルクスは一瞬だけ目を閉じ――諦めたように、ウォルの肩に体重を預ける。
「……分かった。……任せる」
二人はゆっくりと集落の中心へ消えていく。
残されたカオルに、フウカが言った。
「……カオル。一緒にマナンちゃんを運ぶよ」
「……はい」
カオルは頷き、マナンの体を支え直す。
─────
カオルは静かに頷き、自宅へと向かう。
夜の森が背後に広がる。一歩、また一歩と足を進めるたび、
背中に負ぶったマナンの体重が抜けていくかのようだった。
家の前で足を止める。冷たい木の扉に、手がかすかに震える。
今朝、マナンと一緒に出たこの扉。そのときはただの入口に過ぎなかったのに、
今は世界を隔てる境界線みたいに重たく感じた。
「――カオル、寝かせてやりな」
カオルの家の戸が開くと、室内の灯りが柔らかく広がった。
普段なら落ち着く匂い――木と布と、煮込みの残り香。
今夜は、全部が遠い。
ランプの灯りが、消えかけた灯火みたいに揺れる。
フウカが先に部屋の準備を始め、カオルはマナンを自分のベッドにそっと置いた。
「……マナンさん……」
呼びかけても、返事はない。胸の上下が、ほんの僅かに見える。
それだけが、彼女がまだここにいる証。
マナンの髪が額に張りついていた。
汗で濡れて、細い糸のようになってる。
指先でそっと払おうとして、止まった。
触れたら、壊れそうだった。
でも――今触れなかったら、もう二度と触れられない気がした。
カオルは震える指先で、ゆっくりと髪を掠めた。
マナンの頬は冷たい。唇は乾いて、ひび割れそうに細い。
胸元のペンダントは――光をほとんど失い、石のように沈黙していた。
「……まだ、温かい。生きてる」
言葉が虚しい。
でも言わなかったら、この部屋の灯りすら信じられなくなりそうだった。
「カオル」
フウカの声は静かだった。
「今は、その子のそばにいな。……そばに寄り添ってるだけなのが、何よりの薬だから」
フウカは薬袋を置く。
「何かあったら、すぐに呼びに来な。……どんなに小さなことでも」
「……ありがとうございます。フウカさん」
フウカは頷くと、部屋を出ていく。
扉が閉まると、室内に二人の残した気配だけが残る。
時計の音もない。
灯りが揺れる音だけが、時間を刻んでいる。
カオルは椅子を引き、ベッドのそばに座った。
手を握る。でも、力は入れない。
彼女の手の小ささと、冷たさだけが伝わってくる。
(――マナンさん、生きて帰ってきたんですよ……)
(僕の耳……触っていいんですよ……)
カオルはマナンの枕元から動けなかった。
水を含ませた布で唇を湿らせる。汗を拭く。呼吸の数を数える。
どれも“している”というより、“していないと崩れる”からやっているだけだ。
外の闇が、窓の隙間からじっと中を覗いている。
見てる。待ってる。カオルの“覚悟”が決まるのを待っている。
(僕は……弱い)
(弱い。怖い。助けを求めたい。助けたいのに、できない)
(それでも――)
(彼女と、最後まで……最後の最後まで……)
カオルは、マナンの手を握りしめた。
その冷たさの中に、微かな脈動だけが“生”を伝えていた。
─────
その時だった。
“トン、トン”
家の扉が、控えめに叩かれた。
――訪ねてくる人なんて、いないはずだ。
カオルは静かに立ち上がり、扉へ向かった。
外にいる気配を感じる。知っている気配。
カオルは戸を少しだけ開いた。
そこに立っていたのは――杖をついた、小さな老人の姿だった。
「……師匠」
カオルの声は、夜気に溶けていくみたいに掠れた。
「どうして……こんな時間に……」
「様子を見に来た」
オルジィの言葉は短い。
けれどその目は、カオルの心と、マナンの息遣いを、
まるですべて見透かしているみたいに澄んでいた。
杖の先が、わずかに床を叩く。
その音に、カオルの背筋が伸びる。
「……中を見せろ」
カオルは一瞬、ためらった。
でも、否定する言葉が見つからなかった。
オルジィの目を背けられなかった。
戸を開け、オルジィを部屋へ通す。
ランプの光が、オルジィの皺を深く刻む。
杖をつく音が、部屋の静けさを刻んでいく。
オルジィはマナンの枕元へ静かに歩み寄り、杖をついたまま立ち尽くした。
視線が、マナンの胸元へ落ちる。
触れない。触れずに、見るだけで刺すように見る。
その沈黙が、カオルの胸に重くのしかかった。
「……命が、枯れかけているな」
オルジィの声は、いつもより低く、冷たい響きを持っていた。
「今日の無理が、最後の一滴を絞り出した……違うか?」
「……師匠……何か、方法はないんですか……!? マナンさんを助ける方法は……」
カオルが絞り出す。
祈りの形をした問いだった。
オルジィは答えない。
「助けられるなら、僕は何でもします! 命を捧げます! 僕の身体でも、何でも……!」
その声は、もはや自分のものじゃない。
魂が剥がれたような音。
オルジィはゆっくりとカオルを見る。
「……お前の身体は、お前のものだ。誰かに捧げるものじゃない」
「ですが……!」
「――打つ手はない」
言葉が、カオルの胸に刺さる。
まるで、釘を打ち込まれるみたいに。
息が止まった。肺の空気が、重い鉛に変わった。
「……待ってください! そんなの……!」
声が震える。声が割れる。
そんなの、許されない。
オルジィの視線は、動かない。
冷たい。澄んでいる。その澄み方が、逆に残酷だ。
「あると言えば、期待する。期待すれば、焦る。焦れば、光は濁る。……お前はそれを見ただろう」
(見た……)
カオルの脳裏に、瘴気獣と戦ったマナンの姿が蘇る。
光が震えていた。でも、決して濁らなかった。
「でも……でも、師匠なら……!」
カオルは訴えるようにオルジィを見上げる。
知っているはずだ。何かを知っているはずだ。
「光が潰えるということは、命が尽きるということと同じだ。
――彼女は、この集落の理では理解できない存在だ……我々の常識では、助けられん」
「……嘘……です」
声が出ない。声が出そうで、出ない。
吐く息が冷たい。
「この世の理を、嘘と言うのは愚かな所作だ」
「……理、だなんて……僕は、そんなの……!」
「お前が理を知らなくても、理は動く。太陽は昇り、月は満ち、そして、命は尽きる」
カオルの膝が笑った。
立っているのに、崩れ落ちそうな気がする。
「師匠……」
オルジィは杖の先で床を叩いた。
“トン”
その音が、カオルの心臓を貫く。
「諦めろ。そして、最後の瞬間を見届けろ」
オルジィは冷たく言い切った。
カオルの喉が鳴る。息が詰まる。
目の前が滲む。
「このままなら、朝までに灯が尽きる可能性が高い」
可能性――という言葉を使いながら、断言に近い声音だった。
カオルは膝が抜けそうになるのを堪え、拳を握る。
握った拳が震える。
「……嫌だ」
「……」
「嫌です。僕は……もう……」
言葉が続かない。
“もう”の先に、八年前がいるからだ。
父が、いなくなった朝。
母が、泣きながら布団を畳んだ夜。
誰も責められないまま、責めたい気持ちだけが残った日々。
それが、また来る。
――いや。
それを、自分が手伝うみたいに。
「僕が……諦めないです」
カオルは静かに言った。
「諦める権利なんて、僕にはありません」
その声は、祈りだった。
オルジィは、それでも動かない。
「――では、お前が救え」
オルジィの目が、初めて少しだけ柔らぐ。
優しさじゃない。事実を知っている者の、諦めの柔らかさだ。
「この子は、命の使い方を選んだ。
お前にできるのは、その選択を否定せず、見送らず、寄り添うことだけだ」
「寄り添って……どうなるんですか」
「少なくとも、独りで死なせずに済む」
「……っ」
カオルは言葉を失った。
独りで死なせずに済む――それがどれほど過酷な言葉なのか。
カオルはマナンの枕元へ戻った。
オルジィは部屋を出ていこうとした。
その時だった。
「……カオル……くん……」
布団の中で、マナンの指が――かすかに動いた。
そのかすかな声に、カオルは振り返る。
オルジィも、足を止めた。
部屋の空気が張り詰める。
「……マナンさん……?」
カオルはベッドのそばに膝をついた。音を立てないように、息を殺して。
マナンの睫毛が震える。微かな震えが、部屋の灯りを細く切り裂く。
ゆっくりと、目が開く。
焦点が合わない。視界が泳いでいる。
それでも、カオルの方へ向かおうとしているのが分かる。
ただ目を開いただけの、儚い動きじゃない。
「……聞こえた……っす」
声は糸を引くみたいに細い。風に吹かれたら消えそうな声。
それでも、言葉は確かにそこにあった。
「師匠が……打つ手はないって……」
その言葉で、カオルの胸が冷たくなる。
オルジィの冷たい声が、頭の奥で響き返す。
「……マナンさん……」
カオルは何かを言おうとしたが、言葉が出ない。
否定したい。でも、どう言えばいいか分からない。
「……やっぱり……そうっすよね……」
マナンの唇が、かすかに浮き上がる。
笑った。諦めたみたいに、でもどこか穏やかな笑みだった。
カオルはベッドの脇に膝をつき、顔を近づけた。
ランプの光が、二人の間に影を作る。
「無理に喋らないで……!」
声が裏返る。涙が背中を伝うみたいな感覚。
「……喋りたい……っす……」
マナンが、息を吸い込むみたいにそう言う。
その声に、カオルの心臓がひっかくように痛む。
マナンの唇が、ほんの少しだけ浮き上がる。
笑った。どこか穏やかな笑みだった。
「カオルくん……」
「……はい」
カオルは、ベッドの脇に膝をついたまま応える。
息を止めるみたいな勢いで。
「……最後の力……残ってる間に……お願いがあるっす」
「なんでも……!」
即答した。
それが怖い。なんでもと言った瞬間、望みが“終わり”に繋がる気がして。
マナンは、ゆっくりと息を吸って――言った。
「……最後の夜を……一緒に過ごしたいっす」
「……っ」
カオルの喉が詰まる。
――夜を、一緒に。
どれほど過酷な願いなのか。
死を待つ時間を、二人で刻むこと。
それでも――拒めない。
拒んだら、彼女が独りになる。
それだけは、絶対に嫌だ。
カオルは震える声で答えた。
「……はい。もちろんです」
その声が、夜気に溶けるみたいに掠れていた。
「……嬉しい……っす」
マナンの睫毛が震える。その動きだけで、灯りが揺れたみたいに見える。
彼女の右手が、ゆっくりとカオルの方へ伸びる。
袖を探るみたいな、かすかな動き。
カオルは息を止めて、その手を両手で包む。
温度が薄い。
昨日までの暖かさは、残り香みたいにかすか。
それが現実だと、指先が教えてくる。教えたくないのに。
「……カオルくん」
「はい」
「……怒ってるっすか。私が……無理したこと……」
言葉が途切れそう。
それでも、伝えようとしている。
後悔じゃない。ただ――心配している。
カオルは、指先でマナンの手を優しく握り返す。
「……怒ってません」
「嘘っす。怒ってる……悲しい……気持ちが、分かるっす……」
「……」
「でも……ごめん……って言いたくないっす」
マナンの目が、ランプの光を反射した。
一粒の、温かい光だった。
「……ここに来て、嬉しかったっす」
「カオルくんに会えて……ウォルくんに会えて……アレルくん、フウカさんに……」
「……初めて、たくさんの人に……囲まれて……笑えたっす」
「だから……あの人たちには、伝えてほしいっす」
「ありがとうって……ごめんねって……」
言葉が途切れる。
息が浅くなる。
「カオルくんは……一番最後……」
マナンの指先が、カオルの手の甲を、かすかに掻いた。
「……約束の話……してもいいっすか」
耳に触る約束。
獣耳を、好きなだけ触っていい。
その約束が、どうして“最後”に来るのか分からない。
でも、分かった。
分かったからこそ、胸が裂ける。
「……覚えて……たんですか」
カオルの声は、夜気に溶けていくみたいに掠れた。
「忘れるわけないっす……。あれで……めっちゃやる気出たっすもん……」
マナンは笑って、咳き込みそうになり、カオルが慌てて背中を支える。
体が軽すぎる。
「試験に、合格したわけじゃないっすけど……生きて帰って来る約束は……果たしたっすよ……
だから……前借りするっす……」
マナンはカオルの手を握り返し、指先に力を込めた。
「……触りたいっす。今……」
「今……?」
「うん……。今じゃないと……明日、ないかも……」
その言葉が胸に刺さる。
(嫌だ……)
(もう、明日がないなんて……)
カオルは目を閉じ、開いた。
ランプの灯りが揺れる。
「……分かりました」
カオルはそっと身を寄せ、マナンの指が届くように、自分の獣耳を近づける。
(怖い……でも……逃げない)
マナンの指が、震えながら――触れた。
その指先が、カオルの耳を触った。
冷たい。でも、震えだけが温かい。
「ふわふわ……」
「っ……」
「……ほんとに……ふわふわしてるっすね……」
「……ほんのりあったかくて……やさしい……」
「……」
「……やばいっす……」
涙の膜が、マナンの目に張る。
嬉しい涙なのに、悲しい。
カオルの喉が詰まる。
「生きて……もっと触りたいっす」
「……触らせます。何回でも」
「……約束……」
小さく笑って、マナンは目を閉じた。
─────
「……私は帰る」
オルジィは杖をつき、静かに振り返った。
その背中は、何も語っていないようで、すべてを語っていた。
「今宵、何が起ころうと、それは我々のとお前の記憶に刻まれる。……それだけのことだ」
言い終えると、オルジィは扉を開き、外の夜へ消えた。
残された二人は、ランプの灯りの中に残された。
夜の音が、遠くから聞こえる。
虫の声。風の音。
それだけが、時間の過ぎることを知らせていた。
カオルはマナンの手を握ったまま、彼女の顔を見ていた。
「マナンさん」
「……はいっす」
「初めて会った日、洞窟であなたが、魔法で作った光……
それは……僕が、初めて見た希望でした」
カオルは静かに告白した。
「マナンさんに出会うまで、僕はずっと――一人でした。
でも、あなたが光で照らしてくれました。……僕の世界を」
「私も……っす」
マナンの目に、光が宿った。
「カオルくんは、私が魔法を使えなくなった時に、助けてくれたっす」
「家で……草原で……料理で……思い出がいっぱいできたっす」
マナンの声は、ランプの光みたいに細く、揺れていた。
「それが、私には……とっても嬉しかったっす……」
「魔法で助けるのではなく……手を差し伸べてくれる人がいるって……」
「……それが、温かいって思ったっす……」
「……カオルくん……あの時は……ありがとう」
マナンが、少しだけ眉を寄せる。
泣きそうな顔。
カオルは喉が詰まる。言葉が胸に沈む。
「それでもっ、今夜は……言いたい」
「……」
「僕は、あなたに……マナンさんに。生きてほしい」
「……私も……カオルくんに、生きてほしいっす」
マナンは目を開け、カオルを見た。
その目は、もう“最後”を知っている目だった。
知っているのに、諦めていない目だった。
「……ねぇ、カオルくん」
「はい」
「最後に……ちゃんと、顔見せてほしいっす」
「……見てます」
「そうじゃなくて……近くで……」
マナンが弱々しく笑う。
カオルはさらに身を寄せた。
マナンの頬に手を当てる。冷たい。けれど、確かに生きている。
マナンの手が、カオルの頬に触れた。
「……あったかい」
「マナンさんが……冷たいんです」
「……ふふ。じゃあ……あっためて……」
冗談めかして言いながら、マナンの目が真剣になる。
「カオルくん……」
「――キス……していいっすか」
マナンの声は糸みたいに細いのに、カオルの胸の芯を叩いた。
「……っ」
カオルの心臓が跳ねる。
返事が、すぐに出ない。
出した瞬間、何かが決まってしまう気がした。
決めたくない。決めたくないのに――決めないと守れない。
この夜の温度も、息の擦れる音も、彼女のまつ毛の震えも。
消えてしまう前に、確かめたい。
ただ“好きだ”と言うより先に、触れて、触れ返して、そこにいると知りたかった。
カオルはゆっくりと身を寄せた。
近づくだけで、怖さが増す。
近づくほど、「終わり」が輪郭を持つ。
マナンの瞳は揺れていた。
強がりの笑みがまだ残っているのに、その奥にある恐怖が隠せていない。
それでも、逃げない目だった。
マナンは焦らない。待つ。
カオルは息を吸って、吐いた。
震えが止まらない。
けれど、震えたままでも言わなければならない。
「……はい」
「……やった……」
マナンが、ほんの少しだけ笑う。
その笑顔が、カオルの胸を焼いた。
─────
カオルはゆっくりと顔を寄せる。
唇が触れる、その直前――。
マナンのペンダントから、パァ……と、微かな光が走った。
「……?」
マナンの視線が、驚きに大きくなる。
カオルも目を開ける。
”アストラ・ヴィータ”。
沈黙していたはずの石が、灯の芯だけを取り戻したみたいに脈打った。
それは“光った”というより――“息を吸った”みたいだった。
次の瞬間、カオルは理解するより先に“感じた”。
自分の胸の奥が、きゅう、と絞られる。
冷たい渦が、奥で回っている。
いつもなら嫌悪感に変わるはずのそれが、今夜は違った。
吸い込まれていくのは、マナンの方ではない。
“自分”の方が、引かれている。
(……何だ、これ)
カオルの胸の内側から、黒いものが“ほどける”。
塊じゃない。痛みでもない。
ただ、長い間押し込めていた欠落が、細い糸みたいに引き出されていく。
怖い。
でも、止めたいのに止められない。
マナンの手が、カオルの手を握り返した。
さっきまで力のなかった指が、確かに“掴んだ”。
「……カオルくん……これ……」
マナンの声が、さっきより少しだけ太い。
喉に水が通ったみたいに、響きが戻っている。
カオルの指先が、彼女の手のひらの中で温かくなった。
自分の体温じゃない。
“もう一つ”の温もりが混ざってくる感覚。
そして、光が増えた。
淡い光が、ただ強くなるんじゃない。
澄んでいく。
濁りがほどけ、透明になって、器に満ちていく。
泉の底から差し込む光みたいに、静かで、確かで、逃げない光。
ペンダントの中で、何かが“変換”されている。
黒が、灰色になり、灰が白にほどけ、最後に――柔らかな光へ変わる。
─────
「……“奇跡”か……」
戸の向こうで、杖の音が止まった。
家の外で光を感じ取ったオルジィが、杖を握りしめる。
「二人の想いが一つになった……。その結びつきが、光を創り出した……」
「瘴気とマナ。光と闇。反発するはずの力が、混じり合っている。
……あの子の持つ浄化の力が、カオルの中の闇をマナに変換した……」
それは、世界の理からすればあり得ないこと。
光と闇は相殺し、無に帰す。
光と闇は反発し、世界を壊す。
だが今、それは――一つになっていた。
─────
カオルの胸で渦巻く闇が、マナンのペンダントへ流れ込む。
流れ込んだ闇が、浄化の力によって光へと変わる。
そして、その光がマナンの命を温めていく。
「カオルくん……これ……」
マナンの声が、少し戻ってきた。
喉が潤んだみたいに、響きが増している。
「……こんな……の……奇跡っすよ」
マナンの声が震える。
驚きと、希望と、恐怖が混ざった震えだ。
アストラ・ヴィータが、一気に明るくなる。
ただ明るいんじゃない。澄んでいく。
濁りがほどけ、透明な光が満ちていく。泉の底から差し込む光みたいに。
その光が、マナンの胸元へ、静かに、静かに注がれていく。
カオルは息をのむ。
自分の手の上で、マナンの指が――かすかに動いた。
先ほどまでの冷たさが薄れている。
ほんの少しだけ、温もりが戻ってきている。
「マナンさん……ペンダントが……!」
言葉が詰まる。
「見て……見て……!!」
マナンは自分の胸元を見つめて、目を見開いている。
「……マナが……満ちてる……っす!」
「信じられないっす……でも、何で……?」
マナンの視線が、カオルへ向けられる。
その目に、理解と戸惑いが入り混じる。
「……マナンさん、実は――」
その直後。
オルジィが、玄関の前に立っていた。
「カオル」
「――今は、彼女を休ませろ」
オルジィの視線が、マナンのペンダントに落ちる。
「二人の想いが、一つになった。
……その瞬間に、お前の中に渦巻く闇は“拒絶”ではなく“燃料”になった」
「燃料……?」
「闇は本来、破壊だけではない。圧だ。痛みだ。欠落だ。
……それを受け止め、祈りで包めば、光へ変わる」
マナンが涙を溜めた目で笑った。
「……カオルくん……私、まだ……」
「……生きてください。今度こそ」
カオルの声が、初めて“未来”の声になる。
オルジィが、低く告げた。
「この状態なら、今すぐ灯が尽きることはない」
「……本当ですか……?」
「ただし、“永遠”ではない」
その言葉で、部屋の空気が引き締まる。
希望が生まれた瞬間に、代償が顔を出す。
オルジィは続けた。
「二人の心が離れれば、流れは止まる。想いが揺らげば、光も揺らぐ。
……今のは“つながった”から満ちた。つながり続ければ、しばらくは尽きない」
「しばらく……」
「一時的だ。だが、十分だ。……明日を迎えられる」
アストラ・ヴィータの光は、しばらく脈打ち続け――やがて安定した。
灯火じゃない。満ちた器の光だ。
マナンの頬に、血色がほんの少し戻る。
呼吸が深くなる。
「……息が楽っす……」
「……っ」
カオルの目に、熱いものが溜まる。
泣いたら崩れる。崩れたら守れない。
でも、今夜だけは――泣いていい気がした。
「オルジィ師匠……なぜ……僕の中に……?」
問いかけは震えていた。
カオルが、自分の胸に手を当てる。
いつもそこにある、冷たい欠落感。
それが、今夜“生きてる人間”の温かさに変わった。
「なぜ……僕が……カオスを……?」
「……お前は知っているはずだ。思い出せないということは、それだけの痛みだった」
カオルの脳裏に、焼け付くように浮かぶ光景。
闇の巫女、シトラの目。
――『皇子様。あなた、ただの少年じゃないよ』
オルジィは、答えを言わなかった。
「今は重要なことじゃない。むしろ、始まった。光が満ちたと知れれば、闇は必ず寄ってくる」
「……」
カオルは唇を噛む。
でも今は、怯えない。怯えてもいい。だが、動く。
「……それでも、僕は守ります」
「守る順番を、決めろ」
「……はい」
カオルはマナンの手を握り直す。
「まず、自分を守る」
「……うん」
「次に、口を守る」
「……はいっす」
「そして……あなたを守る」
「……えへへ……」
マナンが泣き笑いみたいに笑った。
その笑いが、今夜の灯りになる。
「……やれやれ」
オルジィは、少し息を吐いた。
その息が、どこか温かく聞こえた。
「……始まったな、厄介な夜明けが」
そう言って、オルジィは振り返り、杖をついて静かに去っていった。
─────
残された二人に、ランプの灯りだけが揺れていた。
カオルは、そっと額を寄せる。
「……キスの続き、してもいいですか……」
「……もちろん」
今度は、光は暴れない。
ただ、温かい。
短い口づけ。
確かめ合うような、震えを許すような口づけ。
離れた瞬間、二人とも息を吸い、笑った。
生きている笑いだった。




