瘴気獣、現る(前編)
少し前――
集落の少し外れた位置にある高台には、ルクスを始め、
ウォルを除いた残りの審査員たちが待機していた。
高台から森の縁を見下ろせば、そこにあるはずの“音”が、抜け落ちている。
鳥の声がない。虫の羽音がない。
風が枝を撫でる気配さえ、薄い。
「……虫も鳥も。まるで時間が止まったみたいだ。
森が息を潜めている。……やばいんじゃないか?」
フウカが唇を噛み、声を落とす。
アレルは犬耳をぴくりぴくりと動かし、恐怖に乾いた喉で言った。
「……怖い音がします。地面の底から。今まで聞いたことない……」
オルジィは杖を握りしめたまま、空気に沈む“違和感”を掬うように呟く。
「……闇。世界の痛み。それを呼ぶ者がいる。あるいは――呼び出されている存在がいる」
「呼び出され……てる……?」
フウカの顔が、目に見えて青ざめた。
「じいさん……一体、森で何が起ころうとしてるんだい……?」
オルジィは答えなかった。
代わりに、丘の巨木――世界樹へ視線をやる。
「――光が、騒いでる」
丘の先にある”巨木”が、昼間だと言うのにかつてないほど強く光っていた。
それは“明るい”というより、“不安定に脈打つ”輝き。
まるで世界そのものが、喉の奥で悲鳴を噛み殺しているみたいだ。
「なんだ、あれは……」
(まさか……)
『――世界樹の光が呼ぶものは、希望か、それとも破滅か。』
記録簿の一節が、嫌なほど鮮明によみがえる。
ルクスの目の奥で、八年前の光と闇が重なる。
(希望か……破滅か……)
その時だった。
広場の縁から、一人の団員がよろめくように駆け込んできた。
息は乱れ、顔色は蒼白だ。喉を潰すように叫ぶ。
「――団長!! 大変です!!」
ルクスが、静かに振り返る。
表情に揺らぎはない。だが瞳の奥だけが、すでに“判断”へ沈んでいる。
「落ち着け。何事だ」
「異常です! 森全体が震えるような音と振動が……! 中から……!」
団員の言葉は途中から息切れし、震えを帯びた。
「マナンちゃん……!」
フウカが声を落とした瞬間、アレルの犬耳が恐怖でぴくりと立ち、すぐに伏せられる。
「マナンさん達が……まだ森の中に……!!」
「――助けに行け、ルクス」
オルジィの声が、静かに響いた。
「お前がそこに立つのは、集落の為だけではない」
「……」
「救え。”光”を」
「見捨てるな。――可能性を」
ルクスは一度だけ深く息を吸い、短く頷く。
「……わかった」
オルジィの視線が、森へ――そして巨木へ戻る。
「行け。そして、最後の判断を下せ」
ルクスは外套をはだけ、剣を手にした。
─────
森の中を、二つの人影が走っていた。
「カオル! 急げ!」
ウォルの背中から汗が飛ぶ。焦りが、足音に混じる。
「う、うん!!」
カオルは息を切らしながら、必死に地面を見て走った。
全力疾走なんてできない。
それでも――“音を減らす癖”だけは、体が勝手に選んだ。
急げば急ぐほど、森は敵にも味方にもなる。
(マナンさん……!)
(お願いだ、間に合って……!)
走りたい。叫びたい。
でも、枯れ葉一枚の音が“何か”を呼ぶ気がして、足が勝手に慎重になる。
焦りと技が、胸の中でぶつかり合っていた。
心臓が祈りみたいに鳴り続ける。
「おい、あそこだ!」
森が不自然に開けた場所へ、二人の視線が吸い込まれた。
次の瞬間、現実の輪郭が、ひび割れる。
「……っ、なんだよ……あれ……」
ウォルの声が、乾いた空気に落ちた。
開けた場所の中心に、マナンが立っていた。
「はぁ……っ、はあっ……」
息をするたび肩が跳ね、
手が震え、膝から下が血で濡れている。
ひと目見ただけでわかった。
――追い詰められている。
そして――
彼女の前には、闇が形を取った巨体がいた。
漆黒の塊。
獣でも植物でもない。湿った岩のように滑らかなのに、輪郭は裂け目だらけで、どこか“傷”みたいに見える。
――瘴気獣【ヘル・グランデ】
「ゴゴゴゴゴ……」
地面が軋む。木が裂ける。土が崩れる。
巨体が一歩動くだけで、森が壊れていく。
「っ!! マナンさん!!」
カオルの声が、喉の奥から震えて絞り出される。
「……っ!? カオルくん!? それに……ウォルくん!?」
マナンの声に、驚きと安堵が混ざる。
だが――その瞬間。
瘴気獣の闇が、ぬらりと“こちら”へ向いた。
目がないのに、見られたと分かった。背中の皮膚が一斉に粟立つ。
「カオル! 話は後だ!!
マナンさんを安全なところへ下げろ!!」
ウォルが叫び、一人で前へ躍り出る。
「――お前の相手は俺だ! 来いッ!!」
剣が鞘を擦る金属音が、一瞬だけ世界を支配した。
――次の瞬間。
瘴気獣の腕が、振り下ろされた。
腕とは程遠い。闇が“質量”を持っているようだ。
歪んだ空間そのものが、殴りつけてくる。
"ギィィィンッ!!"
ウォルは受け止めた。剣を横に構え、闇を堰き止める。
金属ではない。耳を裂くような“軋み”。
地面に足が食い込み、膝がガクッと沈む。
「ッ……! なんて力だ……!!」
衝撃だけじゃない。
冷たい“何か”が剣を伝って腕へ、胸へ突き刺さる。
瘴気獣の腕が、闇を増やしてゆっくりと沈む。
動きに合わせてグゴゴゴ……と地面が鳴り、木の根が裂け、土がめくれる。
剣で防いでいるウォルの膝が、さらに深く地面へ押し込まれていく。
「くっそ……デタラメしやがって……!!」
ウォルの歯が鳴った。
“押し負ける”。
その現実が、恐怖がとなって心を殴る。
「ウォル!!」
カオルは、反射でマナンの腕を掴んだ。
「マナンさん! こっちです! 動けますか!」
「う……っ、だいじょぶっす、たぶん……!」
大丈夫じゃない。声が震えている。
それでも彼女は立とうとする。
膝が笑って、また崩れそうになる。
カオルは歯を食いしばり、肩を貸した。
“背負う”ほどの余裕はない。
それでも、引きずるように、根の陰へ――大きな倒木の裏へ連れていく。
瘴気獣から、数歩。十歩。
視界が遮れる位置まで、彼女を退避させた。
カオルはマナンを倒木の影へ座らせ、自分の外套の端を裂いて、血で汚れた膝下に巻く。
止血というより、“これ以上濡らさないため”の必死の真似事だ。
「無理しないで、今は……ここで休んでてください」
「……カオルくん……ごめん……っす……」
「謝らないで。――今は、生きて帰ることを考えましょう」
カオルは弓を取り、弦を張った。
視線は戦場へ。ウォルが、今にも押し潰される。
「――っ、どけぇぇっ!!」
ウォルが声を絞って押し返そうとする。
しかし闇は、粘りつくように沈んでいく。
カオルは狙う。腕の付け根。関節。
“止める”だけでいい。たった一瞬、呼吸を作れれば――
"ヒュッ!!"
カオルの弓から、矢が放たれた。
弦の音が静寂を裂き、矢が一直線に闇へ突き刺さる――
……刺さった、ように見えた。
次の瞬間、矢が“ほどける”ように消えた。
闇に吸い込まれ、跡形もない。
「……っ、そんな!?」
カオルの喉が凍る。
(攻撃が、効かない……?)
刺さったはずなのに、手応えがない。
抵抗がないのは“勝てる”じゃない。
“相手が存在していない”みたいで、一番怖い。
「カオルくん……!」
マナンが、倒木の影でカオルの袖を掴んだ。
声を押し殺す。“叫び”じゃない。必死の“囁き”だ。
「あいつには、物理攻撃は効かないっす……!
斬っても、叩いても、闇が……傷をすぐに塞ぐっす……!」
「……ど、どういう事ですか?」
カオルは、喉の奥で息を呑んだ。
「……昔見た……禁書に……書いてあったっす……。
倒すためには……特殊な方法で、弱点を狙わないと……」
「特殊な方法……倒し方があるんですか!?」
マナンの指が、震えながら空をなぞる。
“言葉”が、怖いみたいに。
「”光のマナ”っす……」
「中心に……弱点があって、それを貫ければ……」
「でも、もう……私には……弱点を貫くだけの力は……残ってないっす……」
「……分かりました。僕はウォルを助けに行ってきます。
その間にマナンさんはなんとか倒す方法を考えて下さい」
「……今は、マナンさんの、知識だけが頼りです」
マナンが目を見開く。
止めたいのに、止められない顔。
「カオルくん……無茶はだめっすよ……」
「無茶でも、やらないといけません」
カオルは戦場へ視線を戻す。
ウォルの剣が軋む。押し潰される寸前だ。
(このままじゃウォルが……)
(何か、打開策はないのか……!?)
カオルは相手の動きを見た。
冷静に、一瞬も隙を逃さないように。
――そして、見つけた。
「――ウォル!!」
カオルが叫ぶ。
「腕の付け根に“沈みが遅い”ところがある!!」
闇の圧は均一じゃない。
押し潰す“重なり”が薄い場所がある。
そこなら、抜けられる――そう直感した。
ウォルが一瞬だけ視線を飛ばす。
カオルの声を拾い、理解する。
「……っ、分かった!!」
ウォルは強引に体を捻り、闇の圧力から滑り出た。
腕が痺れている。剣先が震える。
だが、潰されるよりマシだ。
瘴気獣の腕が地面へ落ち、森が揺れた。
土が跳ね、枯れ葉が舞い、木々がきしんだ。
(今だ……!)
カオルは矢をつがえる。
狙いは“中心”。闇が一段濃い場所。
だが――矢はまた消える。
分かっている。それでも撃つ。
撃たなければ、何も起きない。
"ヒュンッ"
矢が闇に触れ、また吸われる。
それでも一瞬、闇の表面が“波打った”。
(反応した……?)
(今の、ほんの少しだけ……)
その時――戦場の空気が、変わった。
「――間に合ったようだな」
背後から、鋼鉄を削るような低い声。
それだけで、戦場に“重さ”が増す。
声に反応して、ウォルの背筋が反射で伸びた。
(この圧……)
「親父……!」
ルクスの影が伸び、ウォルの隣に立つ。
歩く音は大きくない。だが、立った瞬間に“場”が締まる。
マナンの横でその姿を見たカオルは、息を呑んだ。
(――なんで……?)
(団長が森の奥に……?)
「団長……!? なんでここに……!?」
カオルの声が上ずる。
ルクスは振り返らない。視線は瘴気獣に固定されたままだ。
「……判断をしに来た」
静かな声。
その一言が、カオルの心臓を鷲掴みにした。
(判断……って……)
ルクスが剣を上げる。
剣を構えただけで、散っていた恐怖が一列に並んだ。
戦場が“指揮下”に入る。
「ウォル、まず距離を取れ。
そして動きを観察しろ」
「――決して、無理はするな」
「……分かった」
親子の間に、言葉以上の命令が交わされた。
その時、瘴気獣が動く。
先程より速い。
まるで“増えた存在”を拒絶するみたいに――ルクスへ狙いを定めた。
"ゴゴゴゴゴ……"
闇の腕が振り下ろされる。空間が歪む。
腕に巻き込まれた木の年輪から、色が抜けていく。
緑が薄くなり、茶が灰に変わり、最後に“黒”だけが残る。
世界が、塗り潰されていく。
ルクスは前へ出た。
巨剣を、城壁みたいに構える。
「――行くぞ」
"ギィィィンッ!!"
衝突の音が、森を引き裂く。
ルクスの足が地面に沈む。
それでも、止まらない。押し返す。
ウォルが息をのむ。
(……押し返してる……? あの“闇”を……!)
「ウォル! 今の内に脇を狙え!」
「ああ!!」
ウォルは反対側へ回り込み、脇腹へ斬り込む。
刃が闇へ食い込む――はずだった。
「――っ!?」
粘度の高い液体に腕を突っ込んだ感覚。
刀身が、闇に吸い込まれていく。
「ちぃっ……!」
ルクスも、巨剣を叩き込む。
胴体へ。中心へ寄せるように。
"グオッ!!ザシュッ!!"
だが結果は同じだった。
刃は闇へ沈み、抵抗が、消える。
“斬れている”のに、“削れない”。
ルクスの眉間が、わずかに動いた。
焦りではない。――計算の修正だ。
(通らんか……この剣すら……)
瘴気獣が、圧を増す。
闇が濃くなると同時に、周囲の空気が寒くなる。
ルクスとウォルが、じりじり押され始めた。
カオルは歯を食いしばる。
後ろでマナンの息が細くなるのが分かる。
助けたい。走り出したい。
でも、今動けば――マナンを置き去りにする。
(僕は――)
(僕は、守るって言ったんだ……!)
カオルは矢をつがえ直す。
狙いは中心の“濃い闇”。
吸われると分かっていても、撃つ。
「――止まれ……!」
矢が飛び、闇に飲まれる。
それでも一瞬、闇の表面が揺れ、瘴気獣の動きが“鈍った”。
ほんの一拍。
ルクスの足が踏み直され、ウォルが体勢を立て直す。
(今の揺れ……)
(……中心が、反応した?)
カオルは、胸の奥で確信の種を掴みかける。
だが同時に――瘴気獣が“怒り”のような圧が増していく。
"ゴゴゴゴゴゴ……!!"
押し返される。
ルクスとウォルが、さらに一歩押される。
「くそっ……!」
ウォルが唇を切るほど噛み、叫ぶ。
「親父! このままじゃ――!」
ルクスは短く言った。
「……押し切られる前に、可能性を見いだす。
ウォル、動きを読め!」
そして、カオルの方へ――一瞬だけ視線を投げた。
“状況を見ている”目。
“判断する”目。
そして――”可能性を見る目”
(団長は……何を見てる……?)
(僕たちを……? マナンさんを……?)
瘴気獣が、もう一段、闇を濃くした。
次の一撃が来る。
森全体が、次の一撃を予感していた。




