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転送少女とケモミミ少年 -Zerofantasia Gaiden-  作者: zakoyarou100
第三章 迫りくる”闇”
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闇の巫女、現る

マナンは、瘴気獣についての記憶を手繰り寄せる。

それを知ったのは、まだマナンが光の巫女になりたての頃の話だった。


――カリオス魔法学院の図書室。

星明かりの窓辺で、マナンは禁書棚の奥から一冊の本を取り出していた。

胸元のペンダントが淡く光り、目に興奮の色を宿している。


巫女になったから、ここが開ける。

そう思うだけで、背筋が熱くなった。


古びた表紙を開くと、インクのように黒い文章が並んでいた。


そこに描かれていたのは、見たこともない化け物の図像。

暗闇から生まれた影の塊のような存在だった。


瘴気獣しょうきじゅう

――マナが死に、世界が枯れる地に現れる。光なき影の集合体。

形を定めぬ闇。その存在そのものが世界の否定。


マナンは、吸い込まれるようにその文章を読み進めた。


『瘴気獣は、通常の物理攻撃や、マナが希薄な環境での魔法干渉では、

ほとんどダメージを与えられない。闇を打ち消すには、純粋な光のマナ、

あるいは“浄化”の力に近しい性質を持つ魔力が必要不可欠となる』


マナンは、小さく舌打ちした。


「めんどくさいっすね……」


だが同時に、興奮がこみ上げてくる。未知の、強力な存在。

それを知ることは、魔法を極めんとする者としての喜びに他ならなかった。


『瘴気獣は、個体ごとに核となる“瘴気核”を内包している。

核が破壊されれば、個体は消滅する。しかし核は通常、分厚い闇のオーラに守られているため、

核に近づくことすら至難の業とされる』


「核、ね……なるほどっす!」


マナンは、図像を指でなぞる。


『瘴気核は、その瘴気獣が生まれた場所の強い怨念や恐怖が凝縮された塊である。

これを破壊するには、純粋な破壊魔法か、あるいは……核に干渉する特殊な魔法が必要となる』


「特殊な……魔法っすか?」


『強力な浄化魔法は、瘴気そのものを打ち消すことができるが、核に直接干渉するには、

魔力を細く、尖らせる技術が求められる。そのためには、“ルミナ”系の高位魔法、あるいは――』


背後から、忍び寄る足音。

マナンは振り返る。


そこにいたのは、明るい青髪の少女だった。

学院の同じ制服を着ているのに、誰よりも異質な存在感。


「――マナンお姉ちゃん、早速本の虫になってる。何の本を読んでたの? 真剣な顔して」


マナンは、慌てて本を隠すように閉じる。


「み、ミチルちゃん!? いつからそこにいたの!?」


「さっきから。お姉ちゃんの背中見てた。すごく真剣で、見てて飽きなかったから」


ミチルは、マナンの隣に腰を下ろした。マナンは、少し距離を取る。


「……それ、禁書棚の本でしょ? 学院の図書室で、一番奥の部屋。一般生徒は読むの禁止されてるやつ」

「うん……でも、“巫女”になったから読めるようになったの。

私、巫女になったら、この本の内容を完全に解析して、誰よりも強くなるのが夢だったんだ」

「誰よりも、強く?」


ミチルは首をかしげる。その仕草に、無垢さと鋭さが同居している。


「お姉ちゃん、どうして強くなりたいの?」

「……え……?」

「だって、お姉ちゃんはもう、すごく強いじゃん」


ミチルは、マナンの胸元を指さす。

胸元に光り輝くペンダントが、彼女の言葉に応じて淡く光った。


「そのペンダントの光は、すごく温かい。お姉ちゃんの身体を巡るマナと、しっかり共鳴してる。

私には、見てるだけでも分かるよ」


マナンは否定する。


「……私はまだまだ全然だめ!

もっと強くなって、ミチルちゃんや助けを求めてる人たちを守らなくちゃ!」

「守る……」


ミチルは、小さく呟いた。


「お姉ちゃんはいつも、守るって言うね」

「それは……人々を光に導くだけじゃなくて、闇から守るのも巫女の務めだから!!」

「そう……かな?」


ミチルは、マナンの手を取った。

その手は、マナンより小さくて、温かい。


「お姉ちゃん、私ね。今度、巫女の洗礼、受けるの。先生が、世界樹から呼び出しがあったって……」

「えっ!? 本当に!? 嬉しい!! ついにミチルちゃんの本当の力が……!」


マナンは思わずミチルの両肩を掴んだ。興奮で声が裏返る。


「ありがとう、お姉ちゃん!」


ミチルは嬉しそうに微笑む。その笑顔には、いつもの遊び心はなかった。


「私も、守れたらいいな……」

「守る?」

「うん。お姉ちゃんを」

「……」

「お姉ちゃんは、いつも頑張りすぎ。強くなろうとしすぎ。

だからね、もしもの時があったら――私が、お姉ちゃんを守る。それが私の務めだって、思ってるの」


マナンの心臓が、きゅっと締め付けられる。


「……ありがとう」

「うん」


ミチルはそう言って、マナンの手を離した。


「だから、その本、見せて」

「えっ……」

「強さのこと、私も考えたい。お姉ちゃんと一緒に」


ミチルの瞳は、真っ直ぐだった。


「だ、ダメだよ! この本は巫女になってからじゃないと……」


でも、マナンは少しだけ嬉しかった。


(――ミチルちゃんが、私のことを気にかけてくれてる)

(――私の夢を、一緒に考えようとしてくれてる)


禁書棚の本をそっと抱きしめる。古いインクの匂いがする。それが、なんだか温かく感じた。


「ふふふ……冗談だよ。お姉ちゃん、一緒に強くなろう」


ミチルは笑う。その笑顔が、窓から差し込む星明かりみたいに、図書室の闇を照らした。


「うん。約束だよ」


マナンは小さく頷いた。胸元のペンダントが、ぴくりと脈打つ。


(――私たちは、きっと……)

(――光の巫女として、この世界を照らせる)


思わず、そう思った。


――その約束が、やがて二人をどんな運命に導くのか。

光を探す者と、光そのものになる者の道が、やがて交わることを。

それは、まだ誰も知らない未来の話だった。


─────


そして、現在。


"ゴゴゴゴゴゴゴゴ……"


地面が鳴る。木が裂ける。土が崩れる。


瘴気獣は、ゆっくりとマナンに近づいてきた。

その巨体が動くたびに、森の空間が歪む。光が吸い込まれ、影が濃くなる。

まるで森の生命力ごと飲み込んでいくみたいに。


「……まさに、あの禁書どおりっすね……」


マナンは立ち上がる。足は震えていたが、膝は曲がらない。


(――この魔獣、普通の魔法じゃ効かない)

(――浄化魔法か、核に直接打ち込む魔法が必要……!)


マナンは腰の魔法杖を抜く。銀色の杖の表面に、古代の文様が微かに光り始める。


『――杖はマナ増幅装置としての役割を持つ。

僅かなマナでも増幅させ、強大な力を操ることができる』

『――だが、マナが乏しいこの世界でその力を使えば、

ペンダントに蓄えられたマナを激しく消耗するだろう。命の灯火が、確実に短くなる』


その知識が、頭の中を巡る。


(――代償は大きい)

(――でも……ここで死んだら、それこそ何もかも終わりっす)


マナンは杖を高く掲げた。

杖の先端から、淡い光が滲み出し始める。空気のマナを集め、増幅し、魔法の構築を始める。


「……純なる……輝き。

……終焉の闇を……払え……」


詠唱が始まった。

"ルミナ"系の高位魔法。純粋な光で、瘴気を打ち消す。

マナンの体からマナが激しく吸い出される。

胸元のペンダントが熱を帯びる。まるで、魂を燃やしているみたいに。


「――"ルミナス・レイン"!!」


杖の先から、無数の光の矢が降り注いだ。

星の涙のような光の粒が、闇に飲まれてゆく森で、まるで神の裁きみたいに降りかかった。

瘴気獣の巨体に、その光が炸裂する。

ズシン、ズシン、と重い音を立てて。


――だが、瘴気獣の体は、少しも欠けない。

光の矢は黒い肉に吸い込まれていく。


効果がない。

いや、正確には――削れている気配がない。吸い込まれて、消えるだけだ。


「――なっ……!?」


マナンの声が途切れる。

杖先から流れ出す光が、どんどん細くなっていく。マナンの顔から血の気が引いていく。


(効いてないっ!?)

(なぜ!? ルミナ系の魔法は、瘴気に効くはずじゃなかったんっすか!)


アストラ・ヴィータ――胸元のペンダントが、まるで悲鳴を上げるみたいに脈打つ。

内部のマナが、急激に減少している。


(この世界のマナが、薄すぎる……?)

(それとも、この瘴気獣が、禁書に書かれていたものより強力なんっすか!?)


マナンの膝が、ガクガクと震える。


"ゴゴゴゴゴゴゴ……"


瘴気獣は、さらに近づいてきた。

その巨体から、濃い悪意のオーラが放出される。

マナンは、それに押し潰されそうになる。


(――どうする……どうするっ!)

(――もっと強力な魔法……!)


だが、マナンの体内に残されたマナは、もうほとんどない。


(――このままじゃ……)

(――死ぬっ……)


その時だった。

マナンの耳に、ある言葉が蘇る。


『――核に近づくことすら至難の業とされる』

『――核に直接干渉するには、魔力を細く、尖らせる技術が求められる。

そのためには、“ルミナ”系の高位魔法、あるいは――』

『――あるいは……核に干渉する特殊な魔法が必要となる』


マナンの視線が、瘴気獣の体を巡る。

その巨体の中心に、他の部分よりも濃い闇の塊がある。


そこだ。あれが核だ。瘴気核。


(――近づかないといけない)

(――近づいて、そこに、全てのマナを込めて……一撃を……)


マナンは、覚悟を決めた。


(私の命、これで尽きるかもしれない)

(でも――)


マナンの脳裏に、カオルの顔が浮かぶ。


(――カオルくんとの約束、守るっす)

(――獣耳、触るっす!)

(――絶対に!!)


マナンの目が、決意に燃える。


「――よしっ!」


マナンは杖を握りしめた。

瘴気獣の巨体に向かって、突進する。


「カオルくんっ!」


叫び声が、森に響き渡る。


「待ってるっすよーっ!!」


─────


同刻。

その声を、森の奥にいたカオルは聞いた。


「……マナンさん!?」


カオルは本能的に、マナンの声がした方向へ一歩踏み出そうとした――

その時だった。


森の影が、ほんの少しだけ濃くなる。

木々の間の暗がりが「ずれた」――そう感じた次の瞬間、二つの人影が静かに現れた。


足音がない。

枯れ葉を踏む音も、枝を払う音も、服が擦れる音すらしない。

まるで闇そのものが、人の形を借りて立っているみたいに。


カオルは反射で一歩引いた。

体は動いたのに、心臓が遅れて鳴る。跳ね方がいつもと違う。喉の奥が乾く。


一人は、長い兎のような耳を持ち、腰まで伸びたオレンジ色の髪が特徴的な、落ち着いた雰囲気の女性。

――「大人」だ。立っているだけで空気が整ってしまうような、変に静かな圧がある。

その胸元には、漆黒の宝石を埋め込んだペンダントが下げられている。


もう一人は、同様に長いが途中で折れた耳を持ち、ピンク色の髪を後ろで束ねた少女。

幼く見える――だけ。

笑い方が、獲物を見つけた獣のそれだった。歯を見せていないのに、牙の感触が目に残る。


服装も見たことがない。

光を吸い込むような黒地に、銀糸で編まれた複雑な紋様。

星座を縫いつけたような飾りが、わずかに揺れていた。


「あ、あなたたちは、誰ですか!」


オレンジ髪の女性が、落ち着いた声で答えた。


「……わたしの名は、シトラ」


水のように澄んだ声。

なのに底が見えない。深すぎて、視線を合わせるだけで足を取られる。


カオルの背筋に別の冷たさが走った。敵意じゃない。

――「同じ生き物じゃない」と体が判断している感覚。


その横で、ピンク髪の少女が跳ねるように言う。


「アタシはロゼル! アタシたち、“闇の巫女”やってまーす」

「闇の……巫女……?」


「巫女」という言葉自体は知っている。

マナンから聞いた。光の巫女――「光」に仕える役割。


なのに、「闇の」が付いた瞬間、喉の奥がひゅっと縮んだ。

口の中が冷える。舌の裏に苦い味が広がる。


(……同じ言葉なのに、違う)


「……!」


短剣に手が伸びる。

抜こうとするが、指に力が入らない。


「っ!? なぜ――」


カオルが言葉を探すより先に、シトラの視線がカオルに据えられた。

見定める刃。逃げ道のない角度。


「ねぇねぇ、おねーちゃん。彼から、とっても美味しそうな“恐怖”を感じるよ……?」

「ロゼル。今は遊びの時間ではないわ。……彼を確かめたら、すぐに退く」

「えー。せっかく美味しそうなのに。ね、ちょっとくらいさぁ」


ロゼルが頬を膨らませ、すぐににやりと笑う。

軽い口調。軽いのに、目が笑っていない。


「……でもま、いっか。おねーちゃんの“調べ物”のほうが先だし?」


カオルの胃がきゅっと縮む。


(この人たちの視線は――“味方”を見る目じゃない)


再度、短剣を抜こうとする。

――だが、その動きは、途中で止まった。


(……!?)

(身体が、動かない……)


シトラがカオルに一歩近づいた瞬間、空気が変わった。

森の温度が一段下がる。

胸が締まる。息が浅くなる。心臓の鼓動が、音じゃなく「圧」になる。


「……っ、来ないで――」


言い終える前に、シトラの指が肩に触れた。


触れただけだ。

それだけなのに――力が抜けた。

まるで血の流れだけが、そこで止められたみたいに。

膝が笑い、足が地面に縫い付けられる。


「少しの間、動けなくしたわ。危害は加えない」

「……っ!?」


声を出そうとして、喉が鳴るだけだった。

歯の裏が痛い。奥歯を噛んでいないのに。


ロゼルが顔を覗き込んできた。近い。

甘い匂いが鼻を刺す。花の甘さじゃない。腐りかけた果実みたいな、喉の奥に残る甘さ。


「ねえねえ、シトラおねーちゃん。動けないならさ、その間に……ちょっとだけ“味見”していい?」

「……ロゼル」

「えへへ。冗談だよ、じょーだん!!」


ロゼルの指が、カオルの頬に触れた。指先が冷たい。

その冷たさが、ぞくりと背骨を撫でる。


「お・た・の・し・み、はね。――最後まで取っておくタイプだから!!」


言葉が妙に重く響いた。

軽い声なのに、落とされた石みたいに胸に沈む。


シトラが淡々と告げる。


「わたしたちは“闇の巫女”。闇に仕え、闇を扱う者。

……そして“魔界樹”の声を聞く者」


――魔界樹。


その名を聞いた瞬間、カオルの耳の付け根が痛くなる。

知っている。聞いたことがある。だからこそ、口にされるのが嫌だった。

あの名は、村では口に出しにくい。そういう種類の言葉だ。


「……その名前を、なぜ知ってるんですか……?」


自分の声が、思ったより低く出た。

怖さが混ざっている。怒りじゃない。拒絶だ。


ロゼルが目を丸くし、すぐ楽しそうに笑う。


「へぇ? 知ってんだ。えらーい」


シトラは否定しない。ただ、淡く頷いた。


「……意外ね。この地の者たちはまだあれを“世界樹”と勘違いしてると思っていたのだけれど」

「魔界樹は、闇の流れを受ける。……そして、わたしたちはそれを“動かせる”」

「動かす……?」


言葉が口から落ちる。

理解しようとして、脳が拒む。


ロゼルが指をくるくる回す。まるで糸を巻くみたいに。


「そそ。パァァァって光らせたりとかね? でもあれ、光ってるのって“元気”の光じゃないし~。

白く見えるのは、目に優しいウソの光。そういうことも知ってるわけ? あはは」


軽口みたいに言う。

でも、カオルの喉はさらに乾いた。


シトラが言葉を重ねる。必要最低限だけ、刃のように。


「――単刀直入に言うわ」


「八年前、ここを襲った“厄災”」

「つい最近、この地に現れた“巨大魔獣”」

「そして今、森で起きている魔物や魔獣の凶暴化」


名前を並べただけで、時間が逆流する。

八年前。父が死んだ日。火の匂い。叫び。逃げる背中。


シトラの瞳は揺れない。


「発生原因は同じ。……わたしたちが魔界樹を操り、“瘴気”をこの地に流したからよ」


言い切る声が、淡々としている。

淡々としているからこそ――現実感が削られる。頭がふわつく。


でも言葉の中身は、刃だった。


「……そんな……」


喉が震える。怒りが湧くはずなのに、先に来るのは理解できない恐怖。

恐怖が怒りの出口を塞いで、胸の奥で膨らむ。


ロゼルが肩をすくめた。


「そんな顔しないでよ。あたしたちだって好きでやってんじゃないし?」

「必要だったの。だってさぁ――」


にやり、と笑う。

「楽しい話」みたいに。


「この集落に、“カオス”の持ち主がいるんだもん」

「……カオス……?」


その単語を聞いた瞬間、胸の奥が「痛んだ」。


痛みじゃない。内側が、きゅっと掴まれる感じ。

まるで、触れられたくない場所に指を差し込まれたみたいな。


(……何だ、今の)


呼吸が乱れる。

動けないのに、心臓だけが暴れる。


シトラが、カオルを見下ろす。


「探していたの。……隠れている“闇”を」

「森を揺らせば、闇は反応する。瘴気を流せば、闇は……形を取ることがある」


語尾は断定しない。

それが逆に嫌だった。「確実にある」という確信だけが伝わってくる。


ロゼルが楽しげに手を叩いた。


「ね? 炙り出し作戦! 天才っしょ!」

「……!」


笑い声が耳に刺さる。


カオルの頭の中に、八年前の景色が「作られたもの」として塗り替えられそうになる。

拒絶する。拒絶するのに――言葉が邪魔をする。


「――あなたたち……!」


声が出る。でも震えて形にならない。


シトラが一歩、さらに近づいた。

そして、カオルの額の中央に指先を当てる。


「……そして、あなたの内側から感じる“闇”……確かめさせてもらうわ」

「……っ、やめ……!」


抵抗できない。

指先から冷たい「何か」が流れ込む。


血が凍る。思考が薄くなる。

目の焦点が合わない。森の輪郭が遠のく。


――その時。


シトラの表情が、ほんのわずかに変わった。

初めて揺れが入る。眉が動き、瞳がわずかに開く。


「……嘘……」


息を呑む音が、確かにした。

ロゼルの軽い顔が、一瞬だけ真面目になる。


「え? なになに。どしたの、おねーちゃん」


シトラの指が離れない。

離せないみたいに、そこに留まっている。


「……中に、ある」

「……こんなに近くに……」


ロゼルが身を乗り出す。


「え、マジ? 見つけた!?」


シトラの瞳が、驚愕と――確信で固まる。


「……ええ。間違いない」

「カオスの反応は……彼の内側にある」


カオルは、かすれた声で絞り出した。


「……僕の……中に……?」


返ってきたのは、ロゼルの嬉しそうな笑みだった。


「うん。すっごい闇! すっごい“混ざり方”!」

「ねえねえ、おねーちゃん。これ、当たりじゃん。……大当たり!」


シトラはゆっくり息を吐く。

落ち着こうとしているのが分かる。それでも、揺れが残っている。


「……わたしたちの目的に、近づいた」

「ようやく……ここまで辿り着いた」


目的。

その単語だけで、カオルの胃が沈む。


胸の奥で、何かが「目を開けかけている」。

熱でも痛みでもない。――気配だけが、背骨を撫でる。


「ってことはさ――この子が、予言されてた“例の皇子様”って事でしょ!?」

「……皇子……? さっきから、何なんですか……」


ロゼルが甘く、残酷に囁く。


「んー? 今は知らなくていいよ。知らないままのほうが面白そうだし?

でもね、皇子様。あなたは“ただの少年”じゃない」


その言い方が、妙に優しい。

優しいからこそ、背筋が冷える。


シトラが言う。重く、静かに。


「あなたは……深い絶望に沈む運命にある。

“闇”を従わせ、世界を正しい道に導くために」


”正しい”

その言葉が、いちばん恐ろしかった。誰の正しさだ。


「それに、あなたはまだ未熟――」


カオルは叫びたいのに、体が動かない。

悔しい。情けない。怖い。


─────


その時――


遠くから、鋭い声が森を裂いた。


「――カオルっ!!」


ウォルの叫び声。


「お前、そこにいるのか!? 返事しろ!!」


シトラの瞳がわずかに動く。

ロゼルが舌打ちした。


「ちっ……早い。邪魔が入ったね」

「……撤退するわ。ロゼル、頼むわよ」


シトラが静かに告げる。

その声は、さっきまでと同じなのに――ほんの少しだけ、惜しむ響きがあった。


ロゼルが、にやりと笑って腕を広げた。


「じゃ、時間稼ぎ担当いきまーす」


次の瞬間。


ロゼルの足元の影が膨らんだ。

闇が泡立ち、糸みたいに絡み、形を作る。


"ズルリ"と這い出してきたのは、魔獣だった。数体。

狼に似た輪郭。けれど、目が赤いわけでもない。黒い。暗がりを固めたような黒。


鼻を刺す匂いがない。

獣の匂いがしない。血の匂いも、土の匂いも――「生き物の匂い」が空っぽだ。


(……これ、森の魔獣じゃない……?)


気づいた瞬間、背中が冷たくなる。

「作られたもの」。そういう違和感。


「さぁみんな、“遊び”の時間だよ!!」


ロゼルが指を弾いた。

影の獣たちが、音もなく跳ねた。


「――そこまでだ、カオルから離れろ!」


ウォルが木々の間から飛び出した。

剣を抜き放つ動きが速い。迷いがない。地面を蹴る音だけが鋭い。


最初の影獣が唸り、噛みつこうとする。


ウォルは避けない。

一歩、踏み込む。


「――邪魔だ!!」


"シュッ"


剣閃が走った。


次の瞬間、影獣の首が「ずれる」。


(……!? なんだ、この手応えの無さは……)


肉を斬った感触じゃない。濡れた布を裂いたみたいに、抵抗がない。

遅れて、黒い体が崩れ落ちた。血は出ない。代わりに、煙みたいな黒い靄が立ち上る。


二体目が横から噛みつく。

ウォルは体を捻って受け流し、柄で顎を叩き上げた。


「――っらあ!!」


"ブンッ"


影獣が揺れた瞬間、剣が腹を裂いた。

裂けたのに、内臓がない。黒い糸がほどけて、霧へ戻る。


(血すら、出ねぇのかよ……!!)


三体目、四体目。

数で押し切ろうとする影の獣。


ウォルは、呼吸ひとつ乱さない。

視線がブレない。足が止まらない。剣の軌道が滑らかすぎて、逆に怖い。


「……ったく、俺に数で勝てると思うな!!」


踏み込み。斬る。返す刃。切り落とす。

剣が踊るたび、影獣が「形を失って」いく。


最後の一体が逃げようとした瞬間、ウォルは地を蹴った。


「逃がすか!!」


背から斬り伏せる。

闇が裂け、霧が散り――森の空気だけが戻った。


ウォルが剣を振って、残る靄を払う。


「……カオル!! 無事か!!」


カオルの体に、ようやく血が戻る。

足が震える。指が動く。息が吸える。


でも、胸の奥は重いままだった。

さっきの言葉が、体内でまだ生きている。


姉妹は距離を取っていた。

シトラが静かに言う。


「ロゼル。もういいわ。“転移”までの時間は稼げた」

「えー、もっと遊びたかったのにー」


ロゼルが不満そうに唇を尖らせる。

その表情のまま、目だけがカオルを舐めるように見た。


シトラはカオルを見据えた。

視線が、まっすぐ刺さる。


「今日は様子見だけ。貴方はいずれ“絶望”の闇に囚われる」

「その時迎えに来るわ。……正しい道に導くために」


ロゼルが甘く笑う。


「待ってるよ、皇子様。その“恐怖”に歪んだ顔、超好きだしぃ?」

「あ、それと、大切な人のところに急いだほうがいいんじゃない? じゃあねー! あははは!!」


その瞬間。


二人の影が「ほどける」ように薄くなった。

闇に溶ける。森の影と同化する。


まるで、最初から存在していなかったように。


─────


姉妹が消えた。

消えたのに、空気だけが重い。さっきまでの冷えが、皮膚の内側に残っている。


ウォルが駆け寄り、カオルの肩を掴んだ。


「おいカオル、しっかりしろ!!」

「今の奴らは誰だ!? 何をされた!!」


カオルは息を吸おうとして、うまく吸えなかった。

言葉にしようとすると喉が締まる。


――八年前の厄災。

――最近の巨大魔獣。

――森の異変。


――闇、混沌、恐怖、絶望。


口に出すだけで、現実になって襲ってきそうだ。


「……わからない……」


声が落ちる。

ウォルが目を細めた。状況を切り分ける目。


「……っ、話は後だ、カオル、動けるか?」

「う……うん」


ウォルの視線が森の奥へ向く。


「マナンさんのいる方から、ヤバい感じがする。

掟なんか気にしてる場合じゃねぇ。助けないと……」


「――命が、ヤバい」


カオルの胸が冷える。


「……マナンさん……!」


ウォルが頷く。


「行くぞ!!」


二人は、森の奥へ走り出した。

足元の土は乾いているのに、どこか湿った鉄の匂いが混じっている。


それが「瘴気」の匂いなのか、恐怖の匂いなのか――もう分からない。

ただ一つだけ確かなのは、


(……間に合って……)


胸の奥で、祈りだけが燃えていた。

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