何が、正しいのか
深夜、カオルの家。
マナンは横になっていたのに、眠れずにいた。
布団の感触が、いつもより荒く感じられた。
枕の匂いに、カオルの匂いが混じっているのに、それがかえって胸を苦しくした。
目を閉じれ
見失うと、何かが壊れる気がした。壊れる、というより――消える。
マナンは布団の中で、そっとアストラ・ヴィータを握った。
ペンダントが、微かに温かい。
その温かさが、逆に怖かった。
(……見失わないっす)
(……絶対、見失わない)
(……大丈夫)
(大丈夫って言わなきゃ)
繰り返す。繰り返さないと、悪夢の槍がまた戻ってくる――そんな気がした。
その時――隣から、かすれた音が聞こえた。
カオルの息の音だった。
――だけど、普通ではない。
浅く、早く、かすれていて、まるで息をこらえたあとに無理やり吸い直しているみたいに聞こえる。
マナンは静かに体を起こした。
布団がこすれる音を立てないように、ほんの数ミリ動くことさえためらうほど慎重に。
カオルの布団へ、そっと身を寄せる。
カオルは目を閉じたままだった。けれど眉は深く寄せ、唇は噛み締められている。夢の中でも何かと戦っているようだった。
額に汗が滲み、シーツが少し湿っている。
(……夢? ……にしては随分、表情が強張ってるっす……)
「……カオルくん? 大丈夫っすか……?」
マナンは囁くように呼んだ。
返事はない。
代わりに、カオルの肩がぴくりと震えた。
(起こすべきっすかね……)
呼び起こせば、悪夢から引き戻せるかもしれない。
見守れば、夢が終わるまで耐えられるかもしれない。
――でも、夢の中で溺れていたら――。
指先がカオルの肩に触れかけて、止まる。
その瞬間――カオルの唇が、かすかに動いた。
「……父さん、母さん」
(……昔の、夢?)
(お父さんとお母さんの夢っすか?)
「……行っちゃ、ダメだよ……」
カオルは目を開けずに言った。
それは、子どもの声だった。
無垢で、痛くて、もう一度だけ懇願するような声。
マナンの胸が、きゅっと締め付けられる。
「何で……いなく……なっちゃったの?」
(……っ!?)
――その声が、マナンの胸を突き刺した。
マナンは決めた。
呼び起こす。夢から救い出す。
――でも、どうすればいい?
優しく揺さぶる?
それとも、声だけで――。
マナンは顔をそっと近づける。
その瞬間、カオルの目がぱっちり開いた。
夢から覚めた目と、まだ夢の続きを引きずる目が混ざったみたいに、焦点が合いきっていない。
「……あれ……マナンさん?」
「ひゃいっ!?」
思わず後ずさる。
自分が何をしようとしていたのか、急に恥ずかしくなって、顔が赤くなる。
「えっと……カオルくん、何だかうなされてたみたいっすけど……大丈夫っすか?」
マナンの声に、カオルの目が少しずつ落ち着いていく。
「夢を、見ていました」
「……さっき、『父さん、母さん』って言ってたっす」
そう言うと、カオルはぐっと視線を落とした。
月明かりの下で、悔しさと寂しさが滲むのが見える。
それを、隠したがっているのも分かった。
「……すみません。その……心配させちゃいましたか……?」
「いやいや! でも……聞いちゃまずい話だったっすか?」
「そういうわけでは……」
カオルは言葉を探す。
探すのに、時間がかかる。
「八年前。僕の父は巨大魔獣に立ち向かって――僕たちを守り、集落を救うために
……命を落としました」
「……」
「でも、それが全部ではありません」
カオルはそこで言葉を切った。
沈黙が、何かを隠しているみたいに重い。
「それって、どういう意味っすか?」
「……」
カオルは答えなかった。
代わりに、ゆっくり言った。
「……試験を乗り越えたら、お話します。全部」
その言葉が、まるで“約束”みたいに響いた。
「――わかったっす。なら、私も頑張るっす!」
マナンはそう言って笑った。
いつもの元気な笑顔。
でも、カオルはその笑顔を見ても、すぐには笑わない。
ただ、短く頷いた。
「……はい」
その返事は短くて、重かった。
─────
翌朝。
窓から光が差し込む。
同じ朝の光なのに、部屋の空気が妙に重かった。
マナンは早くに起き出し、カオルの様子をうかがっていた。
けれどカオルはいつも通り静かに起き、朝食の準備を始めた。
――まるで昨夜のことはなかったかのように。
「……カオルくん、傷は大丈夫っすか?」
「はい、大丈夫です」
カオルはそう答えながら、そっと脇腹に手を当てた。
その仕草が、マナンの胸を少しだけ締め付ける。
「今日は、試験の最終確認っすね」
「はい。ただ、慎重になるべきです。特に――」
その時だった。
“ガチャッ”
扉が勢いよく開いた。
「マナンさん! カオル!」
そこに立っていたのはウォルだった。
息を切らし、目には焦りが浮かんでいる。いつもの軽口はない。
「ウォルくん? どうしたんっすか?」
「アレルだ! アレルの様子が――」
ウォルの声が途切れる。
代わりに、顔から血の気が引いているのが分かった。
「――なんとかしてくれ!」
その声が、マナンの耳に突き刺さった。
カオルは即座に立ち上がった。
「ウォル、落ち着いて……何があったの?」
「アレルの傷が……広がってる! 黒いのが……!」
黒い。
その単語だけで、マナンの背中が冷える。
(……オルジィさんの言葉)
――昨夜の声が、記憶の底から蘇る。
『……黒いな』
─────
フウカの家に駆けつけると、そこには人だかりができていた。
「……カオルたち、来てくれたのかい」
「フウカさん! アレルは!?」
「奥にいるよ。ついておいで」
フウカの声は、いつもより低かった。
奥の部屋へ入ると、アレルがベッドの上で苦しんでいた。
犬耳がぴたっと伏せ、鼻をぴくぴくさせながら、浅い呼吸を繰り返している。
アレルの腕――昨日パープルエイブに噛まれた傷が、黒くなっていた。
墨のように粘る黒。まるで生き物の蠢きのように、じわじわ広がっている。
傷口の周りの皮膚には、黒い筋が血管みたいに這っている。
まるで――闇が肉を喰っているみたいに。
「……黒い」
マナンの声が、かすれた。
カオルの顔がこわばる。
フウカは、一言も言わずに息を殺した。
「……母さん……怖いよ」
アレルは目を開けずに呟いた。
その声は遠くて細くて、いつもの元気とはまるで違う。
「昨日、包帯を替えた時はこんなじゃなかった」
フウカの手には、黒く染まった包帯が握られていた。
「今朝、様子を見に行ったら……こうなってたんだ」
ウォルは拳を握り、唇を噛む。
「……原因は間違いなく昨日の怪我だ。
クソっ……アレルが何したって言うんだよ……」
傷口を見たカオルが、息を吐くみたいに言った。
「……傷に、変なものが入ってるみたいです。
普通の化膿じゃない。
……何か“汚れ”が回ってる感じです」
「汚れ……っすか?」
マナンが聞き返すと、カオルの肩がわずかに落ちた。
「はい。八年前にも……似たような例が、あったと聞いています。
魔獣にやられた傷が、時間が経って黒く変わって……そのまま……助からなかった」
ウォルの顔がこわばる。
「カオル、その話は……」
「……あぁ、今はそれどころじゃない」
フウカが遮った。
声は冷たい。でも、震えが混じっている。
「問題は、今、アレルをどうするかなんだ。
もし、八年前と同じなら……」
ウォルが、マナンの方へ顔を向けた。
その目に、期待と懇願が混じっている。
「マナンさん……」
マナンの胸が、どくんと鳴った。
(……なんとかしてほしいって)
(……言いたいんすよね)
ウォルが耐えきれず言う。
「……マナンさん、頼む!
アンタにはできるだろ!? 怪我を、治せるんだろ!?」
――隠してきた“魔法”のことだ。
マナンの視線が、アレルの腕に注がれる。
黒い傷。広がる闇。
「頼む。俺の時みたいに……アレルを治してやってくれないか?」
ウォルの言葉に、フウカの顔が硬直した。
「ウォル……」
「俺はマナンさんの力を見た。洞窟の時だ。巨大魔獣にやられた俺を治した! そうだろ!?
それにこの前も“古代研究機関の秘術”とかいうので腕を治してくれたじゃないかよ!」
「……」
マナンの喉が乾く。
アストラ・ヴィータが、胸元で淡く、淡く光る。
(魔法を使えば、多分助かるっす)
(代償は……私の命が削れる)
(……安いもんっす。……って、言い聞かせないと)
(目の前で苦しんでる子を見捨てるなんて、私には出来ない……!)
マナンの身体が、自然と動いた。
アレルのベッドへ、ゆっくり近づく。
ウォルの視線。カオルの視線。フウカの視線。
全部が、マナンに刺さる。
「……出来るか、わからないっすけど」
マナンは小さな声で言った。
「えっと……私、“すっごいアイテム”持ってるっすから……」
嘘だった。
でも、言わなきゃいけなかった。
「これっす!」
マナンは帽子の中に手を突っ込む。
“見せるため”の所作だ。
そして、塗り薬みたいなものを取り出した。
(本当はただの保湿剤っす……けど)
「これ、すごく効くっす!!」
マナンはアレルの腕に、そっとクリームを塗り始める。
指先が黒い傷に触れた瞬間、ぞくりと冷たさが走る。
「えっと、これは……“浄化”と“再生”の……その、アイテムなんっすけど……!」
必死に誤魔化しながら、
(――誰も、気づかないで)
(――バレないように)
(――でも、もしバレたら……)
マナンの指が震える。
(……怖いんじゃない)
(……申し訳ないんっす)
(嘘をついてる自分に、周りに……そして、カオルくんに)
(でも今は……助けるっす!!)
マナンは目を閉じた。
――光が、静かに流れる。
(光よ……傷を癒やし……穢れをほどけ)
(――ルミナ・クレンズ)
指先から、淡い光がアレルの腕へと染み込んでいく。
光が黒い闇を、少しずつ押し返していく。
傷の縁が、ゆっくりと本来の肉色を取り戻していく。
アレルの苦しげな呼吸が、少しだけ落ち着く。
犬耳が、ぴくりと動いた。
「……あったかい」
アレルの唇が、かすかに開いた。
マナンは息を止めたまま、光を注ぎ続ける。
胸元のアストラ・ヴィータが熱くなる。
命が削られている。
代償を、支払っている。
(……大丈夫っす)
(大丈夫って言わなきゃ)
マナンは自分に言い聞かせるように、光を強めた。
ウォルの目が見開かれる。
フウカの息が止まった。
そして、カオル。
カオルは、ただ見ていた。
(……マナンさんが今やっているのは)
(“治療”なんかじゃない、多分“魔法“……)
(でも……助けてる)
(アレルを、助けてる)
(この人は……自分の命を厭わないんだ)
(僕と……同じように)
カオルの拳が、震えていた。
「……多分、これで大丈夫っす」
マナンは額の汗を手の甲でぬぐいながら言った。
声が少しかすれている。
アレルの腕は黒い染みが消え、赤い傷跡が僅かに残っているだけだった。
フウカが息を吐いた。
それは、安堵の息。
「……マナンさん……」
ウォルは言葉を続けられず、深く頭を下げた。
「礼を言わせてくれ……ありがとう」
「いいえ! 役に立てたなら嬉しいっす!!」
マナンは笑った。
いつもの元気な笑顔――でも、今日はどこか力が入らない。
カオルが、マナンを見て言う。
「マナンさん……僕からも。ありがとう」
その言葉に、マナンの胸が温かくなる。
「……カオルくん」
「――ところで、カオルの傷はどうなんだ?」
ウォルが言った。
「えっと、それは……」
カオルは脇腹に手を当てる。
「……大丈夫だよ。浅いから」
「浅いとか言わないで、お前も診てもらえ!」
ウォルが、ぐいっとカオルの服をめくった。
だが、そこには黒い染みはなかった。
赤い傷はある。
でも、それは――普通の傷だった。
「……あれ、黒くないな」
ウォルが不思議そうに呟いた。
「……へっ!?」
マナンが、思わず声を上げる。
(なんでっすか……!? 昨日まで黒かったはずっすけど……!?)
カオルは慌てた様子で服を戻し、視線を落とした。
「……たぶん、フウカさんがくれた薬が効いたんだと思う」
カオルはそう言って、フウカの方を見る。
「そうなのかい」
フウカは短く答えたが、目は笑っていなかった。
(でも、本当にないっす……どうして?)
マナンの胸の奥に、嫌な“引っかかり”が残る。
─────
「じゃあな。こんな状況だが、明日はいよいよ試験だ。頑張れよ」
ウォルはそう言うと、フウカの家を出ていった。
「……マナンさん、僕たちも一度家に戻りましょう」
「……はいっす」
フウカは何か言いかけて、それを飲み込む。
「……気をつけるんだよ。二人とも」
「はい」
「それから、マナンちゃん」
「何っすか?」
「……ありがとうね」
フウカの声は少し震えていた。
「いえいえ!」
マナンは元気に答えて、カオルと一緒に家を出た。
─────
カオルの家に戻って、二人は沈黙した。
部屋の空気が重い。
「……」
「……」
マナンは何か言おうとしたが、言葉が出なかった。
代わりに、カオルが言った。
「……マナンさん。正直に答えてください」
「な、な、何っすか!」
「寿命は、あとどれくらいですか?」
マナンの呼吸が止まった。
「っ……!? な、なんで……そういう……!」
「さっきのあれ。あれは、間違いなく魔法ですよね。僕は、分かっていました」
カオルの言葉に、マナンの膝ががくっと震えた。
「ち、違うっすよ!?」
誤魔化そうとする。
でも、カオルの視線がそれを許さない。
「……違うっす」
同じ言葉を繰り返す。
それはもう、相手にじゃなく、自分に言い聞かせる言葉になっていた。
「……無理に話したくないなら、いいです」
カオルはそう言って、部屋を出ていった。
「……カオルくん?」
マナンは、後ろ姿を見送るしかなかった。
(……使わないようにしなきゃって思ってたのに)
(魔法、使っちゃってるっすね……)
(どうしよう……)
(全部話すべきだったっすかね?)
(でも、怖い……怖いっす……)
マナンはベッドの上に崩れ落ちた。
(私の寿命は……)
(もう長くない)
(残りは……カオルくんのために……)
アストラ・ヴィータが、微かに光っている。
それは、まるで彼女の涙を拭うみたいだった。
─────
フウカの家から戻ったウォルが、集会所の扉を開ける。
中にはルクスの姿があった。
「戻ったぞ、親父」
「ウォル。帰ってきたか」
ルクスはゆっくり振り返る。
目の下に黒いくまが落ちていて、疲れがにじんでいた。
「……頼む。マナンさんの明日の試験は、中止してくれ」
ルクスは黙ってウォルを見つめた。
その目は重く、暗く、底が見えなかった。
「……それは、無理だ」
その答えに、ウォルは息をのんだ。
「親父、これを見ろ!」
ウォルは隅に置きっぱなしの布包みを指さした。
「昨日の魔獣の血は黒かった。やられた奴らの傷も黒ずんでる。八年前を忘れたのかよ! 何もかもおかしいだろ!」
ルクスは一度深く息を吸った。
それからゆっくり吐いて、言った。
「だからこそ、やるんだ」
「――はあ!?」
「ウォル。今は“息子”としてじゃなく、団員としてこの話を聞け」
ルクスの声が低く、重く響く。
「……集落というのは、一つでも異常が起これば崩れ始める」
「異常……?」
「ああ。明日の試験を中止すれば、集落に“不安”が走る。
不安は恐怖を生む。
恐怖は疑いを生む。
疑いは裏切りを生む」
ルクスは淡々と言葉を重ねる。
「そして、誰かが裏切れば、それは掟を破ることになる。
そうなったら俺は……お前が……仲間を“処分”しなくてはならなくなる」
ルクスの言葉が、ウォルの胸に突き刺さった。
「だから、明日は予定通りだ。何があっても。
――誰かが死んだとしても、それを乗り越えて集落の“日常”を取り戻さないといけない」
「そんなの――」
「それが、自警団長の……俺の仕事だ」
ルクスは言い切った。
その目には、もう迷いはなかった。
「――親父!」
ウォルは拳を握り締めて言った。
「俺は、明日何があろうともマナンさんを守る!
彼女は俺とカオル、そしてアレルの命の恩人だ!!」
その言葉に、ルクスの眉がぴくりと動いた。
「なぜだ?」
「え……」
「……なぜ、お前がマナン殿を守ろうとする?」
ルクスの問いに、ウォルは答えられなかった。
「ウォル、よく聞け。例えどんなに恩があったとしても、犠牲が出てからでは遅い」
「……っ、マナンさんはそんなんじゃ」
「ウォル。お前はまだ……分かっていない」
ルクスは小さくため息を吐いた。
「――お前は、あの子が何者か、分かっていない。
あの子が持つ“光”……それは、我々の世界にとって希望であると同時に、脅威でもある」
「脅威……?」
「あの光は、今、我々の知らない“何か”を呼び覚まそうとしてる。
森を、丘の巨木を、そして……この集落の“歴史”を……」
ルクスは静かに言葉を落とした。
「だからこそ、明日の試験はマナン殿がどんな"光"を持つかを確かめるためでもある
――彼女が、この集落に"希望"をもたらす存在なのか、それとも"滅び"をもたらす存在なのか」
ルクスの言葉に、ウォルは言葉を失った。
(彼女を、確かめる?)
(どういうことだ?)
(親父は、一体何を考えている?)
ウォルは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。




