”賢老”オルジィの、忠告
三人は集落を出て、闇の中を歩き続ける。
「闇」と言っても、森の闇とは違う。
人が避けて作った闇。
道はあるのに、足が向かない種類の闇だ。
家の周りに柵はない。
守りがないのではなく、守る必要がない――そういう距離感だった。
「……夜の集落って、こんなに静かだったっすかね」
マナンがぽつりと言うと、フウカは前を向いたまま返した。
「静かに“してる”んだよ。今日はね」
「してる……っすか?」
「今日みたいに、魔獣とかでピリピリしてる時はいつもこうさ。
余計な声を出さない。余計な火を焚かない。余計な外出もしない。
……そうやって、皆がひとつの姿勢になる」
姿勢。
言い換えれば――緊張。
僅かに見える家々の窓は、いつもより灯りが少ない。
戸口の隙間から漏れる光も細く、まるで“見せない”ために絞っているみたいだった。
「今日出た魔獣って……やっぱりそんなに変なんすか?」
マナンが首をかしげると、カオルが短く答えた。
「魔獣の脅威は、“この集落が続くかどうか”に直結します。
この集落は“人数”が少ない。必然的に“守り手”が少ない。
もし“守り手”である僕たち自警団員が全滅したら……この集落は終わりです」
静かな声。
でも、静かだからこそ、胸の奥に沈む。
マナンは思わず胸元を押さえた。
(……私、ちゃんと生きたいって思ってるっす)
(そのために試験を受けて、合格して……)
(でも――今日みたいなのが続いたら……)
「フウカさん」
歩きながら、カオルが小さく言った。
「師匠は、なんでこのタイミングで僕たちを呼んだんでしょうか……」
フウカは一瞬だけ足を止めて、肩越しにカオルを見る。
月明かりが彼女の目元に影を落とした。
「さぁね。話があるとだけ言ってたよ。
会ったら直接聞いてみることだね」
「……でもなんで、この時間なんっすかね? 明日でもいいんじゃないっすか?」
「この集落は、“賢老の家に入る姿”を見られるだけで、余計な噂が生まれる。
――今夜なら、誰も出歩かない。見られにくい」
マナンは頷いた。合理的だ。
合理的なのに、怖い。
“見られない”ことが、必要な場所。
それはつまり――見られたら困ることがある。
「……フウカさん」
マナンは、声を少し落とした。自分でも分かるくらい、喉が硬い。
「賢老って人は……集落の人に嫌われてるんすか?」
フウカは鼻で笑って、すぐに真面目な声に戻した。
「嫌われてるっていうより、“怖がられてる”。
それも、ただの恐怖じゃない。触れたら、自分の暮らしが揺らぐっていう怖ささ」
「揺らぐ……っすか」
「あの人はね、歴史が忘れたがってることを覚えてる。覚えてるだけでなく、言葉にできる。
――忘れ去られた歴史を言葉にできる人間は、集落にとって危ないのさ」
マナンは唇を噛む。
“言葉にできる危険”。
それは、自分にも刺さる。
――私も、言葉にできないことを隠してる。
カオルが視線を横に流してくる。心配しているのが分かる。
だからマナンは、いつもの調子を作る。肩をすくめ、笑う練習みたいに口角を上げた。
「でも、カオルくんの師匠なんすよね? 悪い人じゃないっすよね?」
カオルは迷ってから、頷いた。
「……僕は、師匠に命を救われたことがあります」
「えっ、そうなんすか?」
「……昔、崖から落ちかけた時です。あの人は……手を伸ばして、僕を引っ張り上げてくれた」
「じゃあ味方っすね!」
「……味方、というより」
カオルは言い直す。
「“見てる人”です。僕がどんなに子どもでも、手加減して嘘をつかなかった。
……怖い人ですけど、正しい事しか言いません」
フウカが鼻を鳴らした。
「正しい、ね。正しいって言葉は便利だけど、正しいだけじゃ腹は満たせない。
だから集落は、正しさを少し嫌うのさ。
まるで素直じゃないやんちゃ坊主みたいにね」
「やんちゃ坊主っすか?」
「あぁ、子供は素直なだけじゃないだろう?
手のかかる子ほど、愛着が湧くもんだよ」
その言い方に、マナンは少し笑ってしまった。
笑ったのに、すぐに喉が冷えた。
――遠くで、森が鳴った気がする。
「……今、聞こえたっすか?」
マナンが足を止める。カオルも耳を立てる。
フウカだけが止まらない。
「気にしすぎると、余計に聞こえるよ」
「でも……唸り声みたいな……」
フウカが小さく息を吐いた。
「最近、増えた。“気のせい”がね」
「気のせいじゃないと思うんすけど……」
言った瞬間、マナンは自分の舌を噛みそうになった。
集落の空気は“気のせい”で済ませたがっている。
踏み込めば、そこに“掟”が落ちてくる。
けれどフウカは怒らなかった。
怒る代わりに、言葉を落とした。
「……だから今夜、行くんだよ。賢老なら、その“気のせい”に名前を付けられるかもしれない」
名前。
それは救いでもあり、呪いでもある。
――名前が付いた瞬間、“逃げ道”が消えることもある。
─────
草原の入口。
前に、カオルとマナンがミルモーモのミルクを絞りに来た場所だ。
脇の小路を進んでいくと、そこに見張りがいた。
「待て」
自警団員の低い声。槍の柄が地面を軽く叩く音。
暗がりの中、二人の団員が立っている。顔は見えにくいが、視線の鋭さは分かる。
“通すか通さないか”じゃない。
“通したくない”が先に立っている目だ。
カオルが一歩前へ出て、礼をした。
「夜回りですか。お疲れさまです」
「なんだ、カオルくんか……」
団員のひとりが息を吐き、槍先を少し下げる。
「夜の散歩ならとっとと帰ったほうがいいぞ。最近の魔獣の動きはあまりにも不自然――
……あれ? フウカさんまで一緒なのは珍しいな」
フウカが前へ出る。
「用があるだけさ。すぐ戻る」
「用って言ったって……この先は、“賢老”の家しかないぞ」
声が固くなる。空気が一段締まる。
カオルが口を挟もうとする前に、フウカが淡々と言った。
「さっき呼ばれたんだよ。じいさんに。
……最近の“森”は少しきな臭い。試験の前に話しておきたいことでもあるんじゃないか?」
団員はしばらく迷うように黙る。
迷ってから、道を譲った。
「こんな夜更けにか。あの人らしいな……まぁ、事情は分かった」
「ただし、終わったらすぐ家に戻るんだ。
――フウカさんの言う通り、最近の森は少し変だからな」
カオルが頷く。
「はい。すぐ戻ります」
─────
少し歩いて見張りの気配が薄れたところで、マナンが息を吐いた。
吐いた息が、白くなって消える。
その消え方が、妙に早い。
「……なんか、雰囲気怖かったっすね」
カオルが小さく言う。
「今夜は、見張りも張り詰めています。今日の魔獣の件が相当堪えてるのかもしれません」
「私、さっき変に思われてないっすよね?」
「大丈夫です」
カオルはそう言って、少しだけ笑った。
安心させるための笑い。
でもその笑いも、今夜は薄い。
――薄い笑いは、余計に胸に残る。
─────
やがて、ぽつんと一軒の家が見えた。
家、というより――小屋。
灯りはない。窓も小さい。煙も出ていない。
なのに、そこだけ空気が違う。冷たいのに、重い。
重いくせに、息がしやすい。
「……あれが、賢老さんの家っすか」
マナンが囁くと、カオルが頷く。
「はい。師匠はここに一人で暮らしています」
近づくにつれて、匂いが変わる。
乾いた土。薬草。
焦げた木。古い布。
それから、湿った石みたいな匂い。
肌じゃなく、骨に触ってくる匂い。
「……着いたよ」
フウカが立ち止まり、戸の前に立つ。
小さな家。だけど、壁の木目が妙に古い。
集落の他の家とは違う年輪が刻まれている。
フウカが扉を叩こうとして――一瞬だけ、手を止めた。
「……」
その沈黙が、妙に長かった。
カオルが小さく声をかける。
「フウカさん?」
フウカは「何でもないよ」と言うように首を振り、扉を叩いた。
"トン、トン"
扉から乾いた音が跳ね返る。
だが、返事はない。
(……留守なんすかね?)
マナンがそう思った瞬間。
「……誰だ」
家の奥から、しわがれた声が返ってきた。
低い。だが、輪郭ははっきりしている。
年齢の重さを、そのまま声にしたみたいな響き。
フウカが、やや大きめに言う。
「じいさん、私だ。
言われた通り、連れてきたよ」
短い沈黙。
戸の向こうで、何かを引きずる音がした。
それから、木戸の留め具が外れる。
"ぎぃ……"
扉が開いた先に立っていたのは、小柄な老人だった。
兎のように長い獣耳の一本は、先端が欠けている。
背は曲がっているのに、目だけが妙に鋭い。
老人――オルジィは、フウカとカオルを見る。
最後に、マナンを見る。
その視線が、ほんの一瞬、マナンの胸元で止まった。
(……ペンダント、見られてる?)
アストラ・ヴィータの光。そこだけ見抜かれた気がした。
マナンの指が、無意識に襟を掴む。
――掴んだ指先が、冷たい。
オルジィが、低く言う。
「……入れ。夜の風は、余計な話を運ぶ」
フウカが軽く会釈し、家に入る。
カオルとマナンも続いた。
─────
家の中は、思ったより整っていた。
散らかっていない。
ただ、物が少ないわけでもない。
壁際には古い道具、乾いた薬草、布で包まれた何か。
それらが、すべて“必要な位置”に置かれている感じがした。
片づけた跡じゃない。
最初からそこにあるべき場所に、置かれている。
小さな炉があり、火は弱い。
火が強すぎると影が踊る。
影が踊ると心が揺れる。
――そんな理由で火を抑えているような静けさ。
フウカが腰を下ろす前に言った。
「じいさん。今日は――」
「まず座れ」
オルジィはぶっきらぼうに遮る。
それからカオルを見て、鼻を鳴らした。
「……カオル、怪我をしているな。血の匂いがする」
カオルは驚いたように目を見開き、それから苦笑する。
「……はい。浅い傷です」
「浅い、だと? 若いのは、浅いと言いながら深くする」
フウカが小さく笑った。
「じいさん、相変わらず口が悪いね」
オルジィはカオルの方へ顎をしゃくる。
「見せろ」
カオルが包帯を少しずらす。
オルジィは近づいて、炉の火に当てるように見る。
指で触れはしない。
代わりに、目で“刺す”ように見る。
「……黒いな。“あの時”と同じだ」
「あの時?」
「……”八年前”だ」
その言葉で、カオルの呼吸が一瞬止まったのが分かった。
口元が固まり、目だけが揺れる。
(八年前……巨大魔獣の時と……同じ?)
(父さんが死んで……他の人も大勢怪我した、あの時と……)
「カオルくん、思い詰めた顔してるっすけど……大丈夫っすか?」
「……大丈夫です」
声はいつも通りなのに、背中が少しだけ硬い。
オルジィはカオルの服を整えさせると、炉の前に座り、話し続けた。
「八年前の時も、魔獣にやられた傷は黒ずんでいた。
まるで“闇”が侵食するかのように、な……」
「……」
「フウカ。今日、何があった?」
フウカがすぐに言う。
言葉が早い。焦りを隠す速さだ。
「今朝、森の縁で魔獣が出た。普段なら逃げるのに、見張りを狙って襲った。
ウォルとカオルが退治したけど、血が黒かったらしい。やられた奴らの傷口も黒ずんでる。
あたしの息子も一撃食らっちまった」
「……アレルか」
オルジィは、炉の火を見たまま言う。
「カオル……最近、森が静かだと思わんか」
カオルが頷く。
「えぇ……普段なら賑やかな鳥や虫の声が、いつもより少ない気がします」
「……静かというのは、怯えているということだ。森は、怯える時ほど音を消す」
マナンの背筋が冷える。
――森が怯える?
怯える森は、何に怯えている?
その“何か”は、どこにいる?
フウカが話を繋ぐ。
「オルジィ。明後日はこの子――マナンちゃんの自警団の試験があるんだ。
森に入る。――今のうちに、危険を見極めておきたい」
オルジィはフウカを見た。
その目は鋭いのに、怒ってはいない。
むしろ、長い時間待っていた人の目に見えた。
「……見極めたい? 違うだろう、フウカよ」
声が低くなる。
「お前は“止めたい”んだ。試験を。森を。掟を。……その全部を」
フウカが一瞬だけ言葉を失う。
肩が微かに揺れた。
それでもすぐ、静かに答えた。
「ああそうさ。でも止められないことは分かってる。
だから、せめて“死なせない”方法を知りたい」
“死なせない”。
その言葉が、マナンの喉に引っかかったまま動かない。
カオルは拳を握った。
爪が掌に食い込みそうなほど。
「……僕が、守ります」
思わず漏れた声。
オルジィは、カオルをじっと見た。
「守る? お前が? ――守り方も知らぬのに?」
カオルが言い返しかけて、堪える。
声を荒げると負けだ。
それが分かっている顔。
フウカが助け舟みたいに言う。
「オルジィ。カオルは……今日、魔獣に不意を突かれた。
でも生きて戻った。ウォルの剣もあったけどね。
決して運だけじゃないよ。カオルは昔より成長してる」
オルジィは鼻を鳴らす。
「フン……生き残ったのは運だ。――だが、生き残ったこと自体は悪くない。運を繋ぐのも力だ」
カオルの肩が少しだけ落ちた。
責められているのに、認められている。
その“少し”が、逆に苦しい。
オルジィは炉に薪を一本足した。
火が少しだけ強くなり、影が壁に揺れる。
「今日呼んだ理由……いや、忠告だな。
……明後日森に入るなら覚えておけ」
カオルとマナンが背筋を伸ばす。
「はい」
オルジィは指を一本立てた。
「一つ。音が消えたら、進むな。森が黙るのは、森が“聞いている”時だ。
聞いている森で足を鳴らすな」
二本目。
「二つ。匂いが変わったら、戻れ。焦げた土の匂い、湿った鉄の匂い、腐った皮の匂い。
――それは獣の匂いではない」
三本目。
「三つ。狙われたら、追うな。追うと、連れていかれる。狙われた時は“道”を変えろ。
道を変えられぬなら、影に入れ。影は嘘をつかん」
マナンの喉が鳴る。
“焦げた土”“湿った鉄”“腐った皮”。
さっきの匂いと同じだ。
同じなのに、私は黙っている。
黙らなきゃいけない。
フウカが小さく息を吐く。
「相変わらず、言い方が怖いね」
「怖く言わねば、若いのは忘れる」
オルジィは今度はマナンを見た。
その視線がまっすぐで、逃げ場がない。
「……お嬢さん、名前は」
マナンの心臓が跳ねる。
「はい……マナン。マナン=エリクシルと申しますっす」
声が少し裏返った。
誤魔化そうとして、余計に怪しい。
「……エリクシル? まさか、な……」
オルジィは、聞き取れない声で何かを呟いた後、見開いた目を微かに細める。
「……“明るい”のは悪くない。だが、明るさで隠す癖は、いつか露呈する。
肝心なのは……“本当の自分”を曝け出しても受け止めてもらえる関係を作ることだ」
マナンは息を止めた。
(な、なんで分かるんすか……)
フウカがすぐに割って入る。
「マナンちゃんは今日も色々あった。……明後日の試験が不安なんだよ」
オルジィは「ふん」と鼻を鳴らした。
「不安なら、それでよい。不安は、生きたい証だ。――だが」
その「だが」が、重い。
「不安のまま森に入ると、森の不安と同じ色になる。森は、同じ色を喰う」
マナンの指先が冷たくなる。
まるで、悪夢の槍がもう一度胸に刺さるみたいに。
カオルが口を開く。
「……師匠。森の異常は、これから増えますか」
オルジィは少しだけ黙った。
すぐに答えない。
その沈黙が、答えに近い。
「増える」
短い。だが、切れる刃の言い方。
「なぜなら、森は“光”を見ている。光が増えると、森は荒れる」
フウカが眉を寄せる。
「光って……何のことだい?」
オルジィの目が一瞬だけ鋭くなる。
「お前たちはもう“光”を見ている。見てしまっている。
――だから言う。明後日の試験は、ただの試験ではない」
カオルが固まる。
「……それは、どういう意味ですか?」
オルジィはカオルを見据えた。
「掟は、守るためにある。だが、掟は“見極め”にも使われる。
森に入る者を、森が試す。人が試す。……どちらもだ」
オルジィは、ふっと息を吐いた。
「……カオル」
呼ばれたカオルは背筋を伸ばす。
「お前は“守る”と言ったな」
「はい」
「守るなら、守る順番を決めろ。全部守ろうとすると、全部こぼす」
カオルは唇を噛む。
答えられない。
答えられないのに、目だけが真剣だ。
オルジィは静かに言った。
「お前が守るべきは、まず“自分”だ。自分を守れ。身体を失えば、誰も守れぬ」
さらに続ける。
「次に守るのは“口”だ。口を守れ。余計なことを言うな。
言えば掟が動く。掟が動けば、人は動く。人が動けば――森が動く」
マナンの胸が苦しくなる。
(……口)
(私が余計なことを言ったら)
(カオルくんが巻き込まれるっす)
今日の森でのこと。
魔法を使ったこと。
猫耳カチューシャが外れたこと。
アレルの怯えた顔。
全部が、胸の中で重なっていく。
――オルジィはマナンへ視線を移した。
「マナン嬢、お前もだ。口を守れ」
マナンは小さく頷く。
「……はいっす」
オルジィは炉の火を見ながら、少しだけ声を落とした。
「……だが、口を守るのと同じくらい、心を守れ。心を削ると、その“光”は濁る」
その言葉に、マナンの胸元が僅かに熱くなる。
アストラ・ヴィータが、服の下で淡く脈打った気がした。
(気づかれたら……)
(いや、もう気づかれてるのかも……っす)
オルジィは何も言わない。
言わないが、見ている。
見ているのに、告げない。
その距離が、逆に怖い。
フウカが、そこで口を開いた。
「じいさん。あんたは――私たちに何を求めてるんだい?」
オルジィは、しばらくフウカを見た。
それから、ようやく言う。
「明後日を越えろ。明後日を越えねば、次の道は語れん」
「次の道……」
「今は言わん。言えば、お前たちは焦る。焦れば、“希望”は潰える」
カオルが、意を決したように言った。
「……師匠。僕とマナンさんは、明後日を越えます。必ず。だから――」
言葉が続かない。
“だから何?”を口にすると、それが新しい願いになってしまうから。
オルジィは、そんなカオルを見て、少しだけ――本当に少しだけ口元を緩めた。
「……変わらぬな、昔から。カオル、お前は事あるごとに“必ず”と言う」
カオルが目を見開く。
「昔……?」
「昔だ。お前がまだ小さくて、弓の弦を引けず、泣いていた頃だ」
フウカが笑う。
「懐かしいねぇ」
カオルの頬がほんの少し赤くなる。
「……そんなこと、ありましたか」
「あった。お前はすぐ忘れる。自分の弱さを。
――忘れるのは悪くない。だが、忘れると同じ穴に落ちる」
その言葉は、カオルだけでなく、マナンにも刺さった。
悪夢。追放。雨の匂い。
忘れたいのに、忘れられない弱さ。
オルジィは立ち上がり、棚の奥から小さな布包みを取り出した。
それを机に置く。
しかし、開かない。
「これは、まだ渡さん」
フウカが頷く。
「分かってるよ。試験の後だ」
「そうだ。試験の後だ。――今渡せば、お前たちはこれに頼る」
マナンは布包みを見て、何となく察した。
“頼るな”と言われるほど、心が寄りかかりそうになる何か。
だからこそ、今はまだ。
オルジィは、今度はマナンへ向けて言葉を落とした。
「……お前は、明後日――」
マナンの心臓が跳ねる。
「決して“光”を見せるな。
――必要な時以外は。……それだけだ」
それだけ。
なのに喉が詰まる。
(……“光”って、まさか魔法のことっすか?)
(必要な時って……今日のアレルくんとか、この前のウォルくんみたいな時っすか)
(でも……それを見られたら……)
マナンの唇が震えた。
「……分かったっす」
声が小さかった。
その小ささが、自分でも情けない。
オルジィは、そんなマナンを見て、少しだけ声を柔らげた。
「……怯えてよい。だが、怯えたまま動くな。
――怯える時は、誰かの背を見ろ」
マナンは思わずカオルを見る。
カオルは、マナンを見ていない。
見ていないのに、そこにいる。
そこにいることが、背中の支えになる。
フウカが立ち上がった。
「オルジィ。全部は言わないのに、必要なことだけ言う。相変わらず厄介だね」
「厄介でなければ、生き残れぬからな」
オルジィは扉の方へ顎をしゃくった。
「帰れ。夜は、若いのを削る」
外に出る直前、オルジィがふと、カオルにだけ聞こえるような声で言った。
「……カオル。お前は、守るものを間違えるな。
――進むべき道もな」
カオルは息を止め、頷いた。
「はい」
その返事が、あまりにも真っ直ぐで。
マナンは胸の奥が痛くなる。
(……守るもの)
(私、カオルくんの“守るもの”を壊す側にはなりたくないっす)
─────
家を出ると、夜気が肌に刺さった。
星が澄んでいる。
澄んでいるのに、どこか空が重い。
森の匂いが遠くから流れてきて、鼻の奥をくすぐる。
その匂いの奥に、さっきオルジィが言った“焦げた土”みたいな気配が混ざっている気がして、マナンは無意識に息を浅くした。
三人はしばらく無言で歩いた。
言葉にすると、今夜聞いたことが現実になってしまいそうで。
フウカが、ぽつりと言う。
「……さぁ。明後日まで、やることが増えたね」
「増えた、というより……」
カオルが言いかけて、言葉を飲む。
「……守り方が、少し見えた気がします」
フウカは頷く。
「そうだね。――“見えた気がする”でいい。全部見えると思った時が一番危ない」
マナンは歩きながら自分の手を見る。
いつの間にか、拳を握りしめていた。
握りしめすぎて、指が痛い。
(……試験を越えるっす)
(越えれば、次に進めるっす……希望を見いだせるっす)
(越えなきゃ……)
(カオルくんとの“未来”を迎えるために……っす)
胸元のアストラ・ヴィータが淡く光った。
それは今夜、安心ではなく“約束”に見えた。
――私が勝手に交わしてしまった、約束だ。
そして、集落の端に差しかかった時。
風に混じって、低い音が聞こえた気がした。
唸り声のような。
地面の底から響くような。
三人とも足を止めた。
フウカが、夜の闇を睨むように言う。
「……今の、聞こえたかい」
カオルがゆっくり頷く。
「はい」
マナンは唾を飲み込む。
喉がからからで、飲み込むものがないのに、飲み込んだ気がした。
「……森、っすか」
返事はない。
けれど、沈黙の中で、森が“こちらを見ている”気配だけが濃くなる。
明後日の試験の前夜。
集落の空気が、さらに一段、締まった。
その中心に、やはり自分たちがいるのだと――
三人は、同時に理解してしまっていた。
─────
(……大丈夫っす)
(大丈夫って言わなきゃ……っす)
マナンは心の中で繰り返す。
繰り返さないと、悪夢の槍がまた戻ってきそうだった。
カオルの背中が、夜の中で真っ直ぐに見える。
その背中を見失わないように、マナンは歩幅を合わせた。
─────
集落の灯りが近づくにつれて、さっきの低い音は遠ざかった――はずなのに、胸の奥のざわつきは消えない。
マナンは無意識に胸元を押さえる。アストラ・ヴィータの温かさが、今夜はやけに生々しい。
(……光を見せるな)
(必要な時以外は……っすか)
必要な時って、どんな時だ。
「誰かが死ぬ時」なのか。
「誰かを守りたい時」なのか。
それとも――「自分が壊れそうな時」なのか。
ふと、カオルが小さく息を吐く音がした。
同じ夜気を吸っているはずなのに、彼の呼吸だけ少し浅い気がした。
(カオルくん……さっきから、静かすぎるっす)
何か言おうとして、やめた。
今言えば、余計なことを言ってしまう気がした。
オルジィの“口を守れ”が、まだ耳の奥に刺さっている。
集落の入口が見えた時、遠くで見張りの交代の声がした。
槍が地面を打つ乾いた音。
そして、どこかで誰かが短く咳をする。
それだけの音が、今夜はやけに大きい。
(……明日)
(明日が来たら、もう逃げられないっす)
マナンは笑顔を作る。
作ってしまえば、きっと少しは“普通”に戻れる。
「……帰ったら、寝るっす。明日はちゃんと、準備するっす」
フウカが短く頷いた。
「そうしな。寝不足は、森に食われるよ」
カオルも小さく言う。
「……はい。明日、確認しましょう。入口だけでも」
その声が優しくて、マナンの胸がきゅっと痛んだ。
優しいほど、嘘が刺さる。
(……試験が終わったら)
(私も、話すっす)
(話さなきゃ……っす)
そう思った瞬間――胸元で、アストラ・ヴィータが淡く脈打った。
まるで「時間がない」と告げるみたいに。
マナンは、その光を指で隠すように握りしめた。
(……大丈夫っす)
(まだ、間に合うっす)
けれど、夜の奥からまた、ほんの僅かに低い音がした気がした。
森の方から。
地面の底から。
――明日、何かが起きる。
そんな確信だけが、静かに背中に貼りついたままだった。




