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転送少女とケモミミ少年 -Zerofantasia Gaiden-  作者: zakoyarou100
第三章 迫りくる”闇”
48/60

”賢老”オルジィの、忠告

三人は集落を出て、闇の中を歩き続ける。


「闇」と言っても、森の闇とは違う。

人が避けて作った闇。

道はあるのに、足が向かない種類の闇だ。


家の周りに柵はない。

守りがないのではなく、守る必要がない――そういう距離感だった。


「……夜の集落って、こんなに静かだったっすかね」


マナンがぽつりと言うと、フウカは前を向いたまま返した。


「静かに“してる”んだよ。今日はね」

「してる……っすか?」

「今日みたいに、魔獣とかでピリピリしてる時はいつもこうさ。

余計な声を出さない。余計な火を焚かない。余計な外出もしない。

……そうやって、皆がひとつの姿勢になる」


姿勢。

言い換えれば――緊張。


僅かに見える家々の窓は、いつもより灯りが少ない。

戸口の隙間から漏れる光も細く、まるで“見せない”ために絞っているみたいだった。


「今日出た魔獣って……やっぱりそんなに変なんすか?」


マナンが首をかしげると、カオルが短く答えた。


「魔獣の脅威は、“この集落が続くかどうか”に直結します。

この集落は“人数”が少ない。必然的に“守り手”が少ない。

もし“守り手”である僕たち自警団員が全滅したら……この集落は終わりです」


静かな声。

でも、静かだからこそ、胸の奥に沈む。


マナンは思わず胸元を押さえた。


(……私、ちゃんと生きたいって思ってるっす)

(そのために試験を受けて、合格して……)

(でも――今日みたいなのが続いたら……)


「フウカさん」


歩きながら、カオルが小さく言った。


「師匠は、なんでこのタイミングで僕たちを呼んだんでしょうか……」


フウカは一瞬だけ足を止めて、肩越しにカオルを見る。

月明かりが彼女の目元に影を落とした。


「さぁね。話があるとだけ言ってたよ。

会ったら直接聞いてみることだね」

「……でもなんで、この時間なんっすかね? 明日でもいいんじゃないっすか?」

「この集落は、“賢老の家に入る姿”を見られるだけで、余計な噂が生まれる。

――今夜なら、誰も出歩かない。見られにくい」


マナンは頷いた。合理的だ。

合理的なのに、怖い。

“見られない”ことが、必要な場所。

それはつまり――見られたら困ることがある。


「……フウカさん」


マナンは、声を少し落とした。自分でも分かるくらい、喉が硬い。


「賢老って人は……集落の人に嫌われてるんすか?」


フウカは鼻で笑って、すぐに真面目な声に戻した。


「嫌われてるっていうより、“怖がられてる”。

それも、ただの恐怖じゃない。触れたら、自分の暮らしが揺らぐっていう怖ささ」

「揺らぐ……っすか」

「あの人はね、歴史が忘れたがってることを覚えてる。覚えてるだけでなく、言葉にできる。

――忘れ去られた歴史を言葉にできる人間は、集落にとって危ないのさ」


マナンは唇を噛む。

“言葉にできる危険”。

それは、自分にも刺さる。

――私も、言葉にできないことを隠してる。


カオルが視線を横に流してくる。心配しているのが分かる。

だからマナンは、いつもの調子を作る。肩をすくめ、笑う練習みたいに口角を上げた。


「でも、カオルくんの師匠なんすよね? 悪い人じゃないっすよね?」


カオルは迷ってから、頷いた。


「……僕は、師匠に命を救われたことがあります」

「えっ、そうなんすか?」

「……昔、崖から落ちかけた時です。あの人は……手を伸ばして、僕を引っ張り上げてくれた」

「じゃあ味方っすね!」

「……味方、というより」


カオルは言い直す。


「“見てる人”です。僕がどんなに子どもでも、手加減して嘘をつかなかった。

……怖い人ですけど、正しい事しか言いません」


フウカが鼻を鳴らした。


「正しい、ね。正しいって言葉は便利だけど、正しいだけじゃ腹は満たせない。

だから集落は、正しさを少し嫌うのさ。

まるで素直じゃないやんちゃ坊主みたいにね」

「やんちゃ坊主っすか?」

「あぁ、子供は素直なだけじゃないだろう?

手のかかる子ほど、愛着が湧くもんだよ」


その言い方に、マナンは少し笑ってしまった。

笑ったのに、すぐに喉が冷えた。

――遠くで、森が鳴った気がする。


「……今、聞こえたっすか?」


マナンが足を止める。カオルも耳を立てる。

フウカだけが止まらない。


「気にしすぎると、余計に聞こえるよ」

「でも……唸り声みたいな……」


フウカが小さく息を吐いた。


「最近、増えた。“気のせい”がね」

「気のせいじゃないと思うんすけど……」


言った瞬間、マナンは自分の舌を噛みそうになった。

集落の空気は“気のせい”で済ませたがっている。

踏み込めば、そこに“掟”が落ちてくる。


けれどフウカは怒らなかった。

怒る代わりに、言葉を落とした。


「……だから今夜、行くんだよ。賢老なら、その“気のせい”に名前を付けられるかもしれない」


名前。

それは救いでもあり、呪いでもある。

――名前が付いた瞬間、“逃げ道”が消えることもある。


─────


草原の入口。

前に、カオルとマナンがミルモーモのミルクを絞りに来た場所だ。


脇の小路を進んでいくと、そこに見張りがいた。


「待て」


自警団員の低い声。槍の柄が地面を軽く叩く音。

暗がりの中、二人の団員が立っている。顔は見えにくいが、視線の鋭さは分かる。

“通すか通さないか”じゃない。

“通したくない”が先に立っている目だ。


カオルが一歩前へ出て、礼をした。


「夜回りですか。お疲れさまです」

「なんだ、カオルくんか……」


団員のひとりが息を吐き、槍先を少し下げる。


「夜の散歩ならとっとと帰ったほうがいいぞ。最近の魔獣の動きはあまりにも不自然――

……あれ? フウカさんまで一緒なのは珍しいな」


フウカが前へ出る。


「用があるだけさ。すぐ戻る」

「用って言ったって……この先は、“賢老”の家しかないぞ」


声が固くなる。空気が一段締まる。

カオルが口を挟もうとする前に、フウカが淡々と言った。


「さっき呼ばれたんだよ。じいさんに。

……最近の“森”は少しきな臭い。試験の前に話しておきたいことでもあるんじゃないか?」


団員はしばらく迷うように黙る。

迷ってから、道を譲った。


「こんな夜更けにか。あの人らしいな……まぁ、事情は分かった」

「ただし、終わったらすぐ家に戻るんだ。

――フウカさんの言う通り、最近の森は少し変だからな」


カオルが頷く。


「はい。すぐ戻ります」


─────


少し歩いて見張りの気配が薄れたところで、マナンが息を吐いた。

吐いた息が、白くなって消える。

その消え方が、妙に早い。


「……なんか、雰囲気怖かったっすね」


カオルが小さく言う。


「今夜は、見張りも張り詰めています。今日の魔獣の件が相当堪えてるのかもしれません」

「私、さっき変に思われてないっすよね?」

「大丈夫です」


カオルはそう言って、少しだけ笑った。

安心させるための笑い。

でもその笑いも、今夜は薄い。

――薄い笑いは、余計に胸に残る。


─────


やがて、ぽつんと一軒の家が見えた。


家、というより――小屋。

灯りはない。窓も小さい。煙も出ていない。

なのに、そこだけ空気が違う。冷たいのに、重い。

重いくせに、息がしやすい。


「……あれが、賢老さんの家っすか」


マナンが囁くと、カオルが頷く。


「はい。師匠はここに一人で暮らしています」


近づくにつれて、匂いが変わる。

乾いた土。薬草。

焦げた木。古い布。

それから、湿った石みたいな匂い。

肌じゃなく、骨に触ってくる匂い。


「……着いたよ」


フウカが立ち止まり、戸の前に立つ。

小さな家。だけど、壁の木目が妙に古い。

集落の他の家とは違う年輪が刻まれている。


フウカが扉を叩こうとして――一瞬だけ、手を止めた。


「……」


その沈黙が、妙に長かった。

カオルが小さく声をかける。


「フウカさん?」


フウカは「何でもないよ」と言うように首を振り、扉を叩いた。


"トン、トン"


扉から乾いた音が跳ね返る。

だが、返事はない。


(……留守なんすかね?)


マナンがそう思った瞬間。


「……誰だ」


家の奥から、しわがれた声が返ってきた。

低い。だが、輪郭ははっきりしている。

年齢の重さを、そのまま声にしたみたいな響き。


フウカが、やや大きめに言う。


「じいさん、私だ。

言われた通り、連れてきたよ」


短い沈黙。

戸の向こうで、何かを引きずる音がした。

それから、木戸の留め具が外れる。


"ぎぃ……"


扉が開いた先に立っていたのは、小柄な老人だった。

兎のように長い獣耳の一本は、先端が欠けている。

背は曲がっているのに、目だけが妙に鋭い。


老人――オルジィは、フウカとカオルを見る。

最後に、マナンを見る。


その視線が、ほんの一瞬、マナンの胸元で止まった。


(……ペンダント、見られてる?)


アストラ・ヴィータの光。そこだけ見抜かれた気がした。

マナンの指が、無意識に襟を掴む。

――掴んだ指先が、冷たい。


オルジィが、低く言う。


「……入れ。夜の風は、余計な話を運ぶ」


フウカが軽く会釈し、家に入る。

カオルとマナンも続いた。


─────


家の中は、思ったより整っていた。


散らかっていない。

ただ、物が少ないわけでもない。

壁際には古い道具、乾いた薬草、布で包まれた何か。

それらが、すべて“必要な位置”に置かれている感じがした。

片づけた跡じゃない。

最初からそこにあるべき場所に、置かれている。


小さな炉があり、火は弱い。

火が強すぎると影が踊る。

影が踊ると心が揺れる。

――そんな理由で火を抑えているような静けさ。


フウカが腰を下ろす前に言った。


「じいさん。今日は――」

「まず座れ」


オルジィはぶっきらぼうに遮る。

それからカオルを見て、鼻を鳴らした。


「……カオル、怪我をしているな。血の匂いがする」


カオルは驚いたように目を見開き、それから苦笑する。


「……はい。浅い傷です」

「浅い、だと? 若いのは、浅いと言いながら深くする」


フウカが小さく笑った。


「じいさん、相変わらず口が悪いね」


オルジィはカオルの方へ顎をしゃくる。


「見せろ」


カオルが包帯を少しずらす。

オルジィは近づいて、炉の火に当てるように見る。

指で触れはしない。

代わりに、目で“刺す”ように見る。


「……黒いな。“あの時”と同じだ」

「あの時?」

「……”八年前”だ」


その言葉で、カオルの呼吸が一瞬止まったのが分かった。

口元が固まり、目だけが揺れる。


(八年前……巨大魔獣の時と……同じ?)

(父さんが死んで……他の人も大勢怪我した、あの時と……)


「カオルくん、思い詰めた顔してるっすけど……大丈夫っすか?」

「……大丈夫です」


声はいつも通りなのに、背中が少しだけ硬い。


オルジィはカオルの服を整えさせると、炉の前に座り、話し続けた。


「八年前の時も、魔獣にやられた傷は黒ずんでいた。

まるで“闇”が侵食するかのように、な……」


「……」


「フウカ。今日、何があった?」


フウカがすぐに言う。

言葉が早い。焦りを隠す速さだ。


「今朝、森の縁で魔獣が出た。普段なら逃げるのに、見張りを狙って襲った。

ウォルとカオルが退治したけど、血が黒かったらしい。やられた奴らの傷口も黒ずんでる。

あたしの息子も一撃食らっちまった」

「……アレルか」


オルジィは、炉の火を見たまま言う。


「カオル……最近、森が静かだと思わんか」


カオルが頷く。


「えぇ……普段なら賑やかな鳥や虫の声が、いつもより少ない気がします」

「……静かというのは、怯えているということだ。森は、怯える時ほど音を消す」


マナンの背筋が冷える。

――森が怯える?

怯える森は、何に怯えている?

その“何か”は、どこにいる?


フウカが話を繋ぐ。


「オルジィ。明後日はこの子――マナンちゃんの自警団の試験があるんだ。

森に入る。――今のうちに、危険を見極めておきたい」


オルジィはフウカを見た。

その目は鋭いのに、怒ってはいない。

むしろ、長い時間待っていた人の目に見えた。


「……見極めたい? 違うだろう、フウカよ」


声が低くなる。


「お前は“止めたい”んだ。試験を。森を。掟を。……その全部を」


フウカが一瞬だけ言葉を失う。

肩が微かに揺れた。

それでもすぐ、静かに答えた。


「ああそうさ。でも止められないことは分かってる。

だから、せめて“死なせない”方法を知りたい」


“死なせない”。

その言葉が、マナンの喉に引っかかったまま動かない。


カオルは拳を握った。

爪が掌に食い込みそうなほど。


「……僕が、守ります」


思わず漏れた声。

オルジィは、カオルをじっと見た。


「守る? お前が? ――守り方も知らぬのに?」


カオルが言い返しかけて、堪える。

声を荒げると負けだ。

それが分かっている顔。


フウカが助け舟みたいに言う。


「オルジィ。カオルは……今日、魔獣に不意を突かれた。

でも生きて戻った。ウォルの剣もあったけどね。

決して運だけじゃないよ。カオルは昔より成長してる」


オルジィは鼻を鳴らす。


「フン……生き残ったのは運だ。――だが、生き残ったこと自体は悪くない。運を繋ぐのも力だ」


カオルの肩が少しだけ落ちた。

責められているのに、認められている。

その“少し”が、逆に苦しい。


オルジィは炉に薪を一本足した。

火が少しだけ強くなり、影が壁に揺れる。


「今日呼んだ理由……いや、忠告だな。

……明後日森に入るなら覚えておけ」


カオルとマナンが背筋を伸ばす。


「はい」


オルジィは指を一本立てた。


「一つ。音が消えたら、進むな。森が黙るのは、森が“聞いている”時だ。

聞いている森で足を鳴らすな」


二本目。


「二つ。匂いが変わったら、戻れ。焦げた土の匂い、湿った鉄の匂い、腐った皮の匂い。

――それは獣の匂いではない」


三本目。


「三つ。狙われたら、追うな。追うと、連れていかれる。狙われた時は“道”を変えろ。

道を変えられぬなら、影に入れ。影は嘘をつかん」


マナンの喉が鳴る。

“焦げた土”“湿った鉄”“腐った皮”。

さっきの匂いと同じだ。

同じなのに、私は黙っている。

黙らなきゃいけない。


フウカが小さく息を吐く。


「相変わらず、言い方が怖いね」

「怖く言わねば、若いのは忘れる」


オルジィは今度はマナンを見た。

その視線がまっすぐで、逃げ場がない。


「……お嬢さん、名前は」


マナンの心臓が跳ねる。


「はい……マナン。マナン=エリクシルと申しますっす」


声が少し裏返った。

誤魔化そうとして、余計に怪しい。


「……エリクシル? まさか、な……」


オルジィは、聞き取れない声で何かを呟いた後、見開いた目を微かに細める。


「……“明るい”のは悪くない。だが、明るさで隠す癖は、いつか露呈する。

肝心なのは……“本当の自分”を曝け出しても受け止めてもらえる関係を作ることだ」


マナンは息を止めた。


(な、なんで分かるんすか……)


フウカがすぐに割って入る。


「マナンちゃんは今日も色々あった。……明後日の試験が不安なんだよ」


オルジィは「ふん」と鼻を鳴らした。


「不安なら、それでよい。不安は、生きたい証だ。――だが」


その「だが」が、重い。


「不安のまま森に入ると、森の不安と同じ色になる。森は、同じ色を喰う」


マナンの指先が冷たくなる。

まるで、悪夢の槍がもう一度胸に刺さるみたいに。


カオルが口を開く。


「……師匠。森の異常は、これから増えますか」


オルジィは少しだけ黙った。

すぐに答えない。

その沈黙が、答えに近い。


「増える」


短い。だが、切れる刃の言い方。


「なぜなら、森は“光”を見ている。光が増えると、森は荒れる」


フウカが眉を寄せる。


「光って……何のことだい?」


オルジィの目が一瞬だけ鋭くなる。


「お前たちはもう“光”を見ている。見てしまっている。

――だから言う。明後日の試験は、ただの試験ではない」


カオルが固まる。


「……それは、どういう意味ですか?」


オルジィはカオルを見据えた。


「掟は、守るためにある。だが、掟は“見極め”にも使われる。

森に入る者を、森が試す。人が試す。……どちらもだ」


オルジィは、ふっと息を吐いた。


「……カオル」


呼ばれたカオルは背筋を伸ばす。


「お前は“守る”と言ったな」

「はい」

「守るなら、守る順番を決めろ。全部守ろうとすると、全部こぼす」


カオルは唇を噛む。

答えられない。

答えられないのに、目だけが真剣だ。


オルジィは静かに言った。


「お前が守るべきは、まず“自分”だ。自分を守れ。身体を失えば、誰も守れぬ」


さらに続ける。


「次に守るのは“口”だ。口を守れ。余計なことを言うな。

言えば掟が動く。掟が動けば、人は動く。人が動けば――森が動く」


マナンの胸が苦しくなる。


(……口)

(私が余計なことを言ったら)

(カオルくんが巻き込まれるっす)


今日の森でのこと。

魔法を使ったこと。

猫耳カチューシャが外れたこと。

アレルの怯えた顔。

全部が、胸の中で重なっていく。


――オルジィはマナンへ視線を移した。


「マナン嬢、お前もだ。口を守れ」


マナンは小さく頷く。


「……はいっす」


オルジィは炉の火を見ながら、少しだけ声を落とした。


「……だが、口を守るのと同じくらい、心を守れ。心を削ると、その“光”は濁る」


その言葉に、マナンの胸元が僅かに熱くなる。

アストラ・ヴィータが、服の下で淡く脈打った気がした。


(気づかれたら……)

(いや、もう気づかれてるのかも……っす)


オルジィは何も言わない。

言わないが、見ている。

見ているのに、告げない。

その距離が、逆に怖い。


フウカが、そこで口を開いた。


「じいさん。あんたは――私たちに何を求めてるんだい?」


オルジィは、しばらくフウカを見た。

それから、ようやく言う。


「明後日を越えろ。明後日を越えねば、次の道は語れん」

「次の道……」

「今は言わん。言えば、お前たちは焦る。焦れば、“希望”は潰える」


カオルが、意を決したように言った。


「……師匠。僕とマナンさんは、明後日を越えます。必ず。だから――」


言葉が続かない。

“だから何?”を口にすると、それが新しい願いになってしまうから。


オルジィは、そんなカオルを見て、少しだけ――本当に少しだけ口元を緩めた。


「……変わらぬな、昔から。カオル、お前は事あるごとに“必ず”と言う」


カオルが目を見開く。


「昔……?」

「昔だ。お前がまだ小さくて、弓の弦を引けず、泣いていた頃だ」


フウカが笑う。


「懐かしいねぇ」


カオルの頬がほんの少し赤くなる。


「……そんなこと、ありましたか」

「あった。お前はすぐ忘れる。自分の弱さを。

――忘れるのは悪くない。だが、忘れると同じ穴に落ちる」


その言葉は、カオルだけでなく、マナンにも刺さった。

悪夢。追放。雨の匂い。

忘れたいのに、忘れられない弱さ。


オルジィは立ち上がり、棚の奥から小さな布包みを取り出した。

それを机に置く。

しかし、開かない。


「これは、まだ渡さん」


フウカが頷く。


「分かってるよ。試験の後だ」

「そうだ。試験の後だ。――今渡せば、お前たちはこれに頼る」


マナンは布包みを見て、何となく察した。

“頼るな”と言われるほど、心が寄りかかりそうになる何か。

だからこそ、今はまだ。


オルジィは、今度はマナンへ向けて言葉を落とした。


「……お前は、明後日――」


マナンの心臓が跳ねる。


「決して“光”を見せるな。

――必要な時以外は。……それだけだ」


それだけ。

なのに喉が詰まる。


(……“光”って、まさか魔法のことっすか?)

(必要な時って……今日のアレルくんとか、この前のウォルくんみたいな時っすか)

(でも……それを見られたら……)


マナンの唇が震えた。


「……分かったっす」


声が小さかった。

その小ささが、自分でも情けない。


オルジィは、そんなマナンを見て、少しだけ声を柔らげた。


「……怯えてよい。だが、怯えたまま動くな。

――怯える時は、誰かの背を見ろ」


マナンは思わずカオルを見る。

カオルは、マナンを見ていない。

見ていないのに、そこにいる。

そこにいることが、背中の支えになる。


フウカが立ち上がった。


「オルジィ。全部は言わないのに、必要なことだけ言う。相変わらず厄介だね」

「厄介でなければ、生き残れぬからな」


オルジィは扉の方へ顎をしゃくった。


「帰れ。夜は、若いのを削る」


外に出る直前、オルジィがふと、カオルにだけ聞こえるような声で言った。


「……カオル。お前は、守るものを間違えるな。

――進むべき道もな」


カオルは息を止め、頷いた。


「はい」


その返事が、あまりにも真っ直ぐで。

マナンは胸の奥が痛くなる。


(……守るもの)

(私、カオルくんの“守るもの”を壊す側にはなりたくないっす)


─────


家を出ると、夜気が肌に刺さった。


星が澄んでいる。

澄んでいるのに、どこか空が重い。

森の匂いが遠くから流れてきて、鼻の奥をくすぐる。

その匂いの奥に、さっきオルジィが言った“焦げた土”みたいな気配が混ざっている気がして、マナンは無意識に息を浅くした。


三人はしばらく無言で歩いた。

言葉にすると、今夜聞いたことが現実になってしまいそうで。


フウカが、ぽつりと言う。


「……さぁ。明後日まで、やることが増えたね」

「増えた、というより……」


カオルが言いかけて、言葉を飲む。


「……守り方が、少し見えた気がします」


フウカは頷く。


「そうだね。――“見えた気がする”でいい。全部見えると思った時が一番危ない」


マナンは歩きながら自分の手を見る。

いつの間にか、拳を握りしめていた。

握りしめすぎて、指が痛い。


(……試験を越えるっす)

(越えれば、次に進めるっす……希望を見いだせるっす)

(越えなきゃ……)

(カオルくんとの“未来”を迎えるために……っす)


胸元のアストラ・ヴィータが淡く光った。

それは今夜、安心ではなく“約束”に見えた。

――私が勝手に交わしてしまった、約束だ。


そして、集落の端に差しかかった時。

風に混じって、低い音が聞こえた気がした。


唸り声のような。

地面の底から響くような。


三人とも足を止めた。


フウカが、夜の闇を睨むように言う。


「……今の、聞こえたかい」


カオルがゆっくり頷く。


「はい」


マナンは唾を飲み込む。

喉がからからで、飲み込むものがないのに、飲み込んだ気がした。


「……森、っすか」


返事はない。

けれど、沈黙の中で、森が“こちらを見ている”気配だけが濃くなる。


明後日の試験の前夜。

集落の空気が、さらに一段、締まった。


その中心に、やはり自分たちがいるのだと――

三人は、同時に理解してしまっていた。


─────


(……大丈夫っす)

(大丈夫って言わなきゃ……っす)


マナンは心の中で繰り返す。

繰り返さないと、悪夢の槍がまた戻ってきそうだった。


カオルの背中が、夜の中で真っ直ぐに見える。

その背中を見失わないように、マナンは歩幅を合わせた。

 

─────


集落の灯りが近づくにつれて、さっきの低い音は遠ざかった――はずなのに、胸の奥のざわつきは消えない。

マナンは無意識に胸元を押さえる。アストラ・ヴィータの温かさが、今夜はやけに生々しい。


(……光を見せるな)

(必要な時以外は……っすか)


必要な時って、どんな時だ。

「誰かが死ぬ時」なのか。

「誰かを守りたい時」なのか。

それとも――「自分が壊れそうな時」なのか。


ふと、カオルが小さく息を吐く音がした。

同じ夜気を吸っているはずなのに、彼の呼吸だけ少し浅い気がした。


(カオルくん……さっきから、静かすぎるっす)


何か言おうとして、やめた。

今言えば、余計なことを言ってしまう気がした。

オルジィの“口を守れ”が、まだ耳の奥に刺さっている。


集落の入口が見えた時、遠くで見張りの交代の声がした。

槍が地面を打つ乾いた音。

そして、どこかで誰かが短く咳をする。


それだけの音が、今夜はやけに大きい。


(……明日)

(明日が来たら、もう逃げられないっす)


マナンは笑顔を作る。

作ってしまえば、きっと少しは“普通”に戻れる。


「……帰ったら、寝るっす。明日はちゃんと、準備するっす」


フウカが短く頷いた。


「そうしな。寝不足は、森に食われるよ」


カオルも小さく言う。


「……はい。明日、確認しましょう。入口だけでも」


その声が優しくて、マナンの胸がきゅっと痛んだ。

優しいほど、嘘が刺さる。


(……試験が終わったら)

(私も、話すっす)

(話さなきゃ……っす)


そう思った瞬間――胸元で、アストラ・ヴィータが淡く脈打った。

まるで「時間がない」と告げるみたいに。


マナンは、その光を指で隠すように握りしめた。


(……大丈夫っす)

(まだ、間に合うっす)


けれど、夜の奥からまた、ほんの僅かに低い音がした気がした。

森の方から。

地面の底から。


――明日、何かが起きる。

そんな確信だけが、静かに背中に貼りついたままだった。

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