火種は、燻る
マナン達が足音に身構えていると、段々と音がはっきりと形を持ち始める。
乾いた土を蹴る音。枝を払う音。息の荒さ。
――音は複数。
――何かを、急いでいる。
マナンが息を飲む。
アレルが反射的にマナンの前へ出て、犬耳をぴんと立てた。
「だ、誰か来ます! えっと、匂い……汗と血……あっ、でも敵じゃないです! たぶん!」
慌てた敬語の言葉が終わるより先に、茂みが割れた。
“ガササッ“
「――えっ……ま、マナンさん!?」
飛び込んできたのはカオルだった。
脇腹を押さえ、服の裂け目から赤が滲む。息が切れているのに、目だけが真っ直ぐマナンを探していた。
「か、カオルくん……っ!?」
次いでウォルが現れる。剣を握ったまま、視線は森の奥を警戒している。
その手には、布でぐるぐる巻きにされた“何か”があった。布の隙間から、黒い液が滲んでいる。
「二人とも……無事で――」
言いかけたマナンの声が途切れた。
カオルの傷と、ウォルの布から漂う異臭――
焦げた土と、腐りかけた皮の匂いが混じったような、胸の奥がひりつく匂い。
─────
カオルはマナンの顔を見た瞬間、安堵したように息を吐いた。
けれど――次の瞬間、その視線がマナンの足元に落ちる。
草の上に、マナンの頭上にあるはずの、猫耳カチューシャのパーツが落ちていた。
「……まさか」
カオルの喉が小さく鳴った。
――見られた? 気づかれた?
けれど、何も言わない。
何も言えない。
代わりに、マナンの隣に立つアレルを見て、アレルの腕の傷を見て、眉をぎゅっと寄せた。
「……アレル、怪我を……」
「だ、大丈夫です! えっと……僕の方は……えっと……その……」
アレルは言葉が迷子になったまま、マナンをちらりと見た。
見てはいけないものを見た目をしている。
「大丈夫……ですから」
口に出せない言葉を、喉の奥に押し込んだ。
ウォルが舌打ちをした。
「今は喋るな。まずは帰るぞ。ここは場所が悪すぎる」
「……ウォルくん、それ……持って帰るんっすか?」
マナンが布包みを見て問いかけると、ウォルは目を細めた。
「あぁ。俺たちが倒した例の魔獣だ。……ただし普通じゃねぇ」
カオルが短く頷く。
「血が、黒かったんです」
その一言が、背骨に冷たい針を刺した。
(黒い、血?)
(まさか……魔物や魔獣が、が凶暴になった原因って……)
マナンは喉の奥まで出かけた言葉を、ぎり、と噛み砕いた。
――瘴気
――魔界樹
今言えば”掟”に触れる。
だから――今は、黙る。
「……考えてても仕方ないっす、今は帰るっすよ!!」
マナンは、いつもの声を作って言った。
笑顔も、声も。
作り物の明るさが、体温を取り戻すための布みたいに必要だった。
「……はい」
カオルが答える。
その声は、さっきまでの焦りが嘘みたいに静かだった。
静かで、重い。
アストラ・ヴィータが胸元で淡く光る。
まるで「落ち着け」と言われているように。
─────
集落へ戻ると、騒ぎはさらに大きくなっていた。
怪我をした見張りの周りには人が増え、包帯が増え、噂が増えていた。
「魔獣が出た」では足りず、「魔獣が変だ」「森が変だ」「最近変だ」と、
みんなが口にしないはずの“気のせい”を口にし始めている。
そんな中、カオル達の姿に気づいたフウカは、一瞬で状況を把握した。
「カオル! どうしたんだいその脇腹!」
「魔獣に少し……でも浅いです。
……服が裂けただけで」
「そんな言い方する子は傷が深いんだよ!!」
フウカは容赦なくカオルの服をめくり、傷口を確かめた。
その手つきは優しいのに、迷いがない。
カオルが痛みに小さく息を吸うと、フウカは「ほら」と眉を吊り上げた。
「やっぱり浅くないじゃないか、全く……痩せ我慢なんてするんじゃないよ。
……ところでウォル、あんたのそれ、何だい?」
ウォルが布包みを持ち上げる。
「明らかに変な魔獣だ。とりあえず団長に見せる。触るなよ。……マジで」
「触らないよ。……でもなんだかその、匂いが――」
フウカは鼻をひくつかせ、表情を固くした。
(フウカさん……気づく)
マナンの胸が、ぎゅっと締まる。
昨日の青白い光。賢老の話。帳面。
フウカの中で“点”が繋がり始めている。
さらに――
「アレル!! アンタその腕!!」
フウカの声が跳ね上がった。
「えっ!? あ、あの、その……!」
アレルが一瞬固まる。
犬耳がぺたりと伏せ、しょげた空気だけが伝わる。
「……転んだのかい?」
フウカは一瞬で“言い逃れの道”を用意してくれた。
――問いかけに見せた、救いの縄。
アレルは、喉を鳴らして――その縄にしがみついた。
「……は、はい! えっと……転びました! 木の枝で……!」
「木の枝でここまでいくかい?」
フウカは目だけ笑っていない。
けれど、そこで追及はしなかった。
「とにかく、うちに来な。二人とも」
「でもフウカさん、僕たちはルクス団長へ報告を――」
カオルが言いかけると、フウカは手を振った。
「何言ってるんだい、報告はウォルが行けばいい。あんたは傷を塞ぐのが先だよ。
……試験前に倒れるのは、許さないよ」
「……はい」
カオルの返事が、少しだけ弱い。
彼の頭の中には、別の心配がある。
(……マナンさん)
カオルがちらりとマナンを見る。
マナンは何も言えない。
代わりに、いつもの元気な頷きを返した。
「大丈夫っす!」
そう言ってしまえば、しばらくは本当に大丈夫な気がした。
─────
フウカの家は、薬草と土と煮込みの匂いがする。
安心の匂い。
なのに今日は、その匂いの奥に薄い緊張が混じっていた。
フウカはまずカオルを座らせ、傷を洗い、薬草を擦り、丁寧に巻く。
手際が良すぎて、カオルが口を挟む隙がない。
「痛いかい」
「……少し」
「まったく……“少し”のときは、痛いんだよ。馬鹿だね」
「……はい」
カオルは素直に叱られる。
叱られるのに、目はずっと落ち着かない。
マナンの方へ意識が引っ張られている。
一方で、アレルは椅子の端でそわそわしていた。
腕の傷を隠そうとして、隠せず、結局は両手でぎゅっと押さえたまま。
「――アレル、こっちへ来な」
「は、はいっ!」
フウカが呼ぶと、アレルは跳ねるように立ち上がり、つまずきかけて、慌てて姿勢を正した。
フウカは黙って腕の包帯を解く。
傷は深いが、致命傷ではない。
ただ――噛み跡の縁が、少しだけ黒ずんでいる。
フウカの手が止まった。
「……これは」
アレルが息を止める。
マナンも息を止める。
フウカは視線を上げ、アレルの目を真っ直ぐ見た。
「……正直に言いな。何があった」
アレルの口が震えた。
目が揺れた。
それから――マナンを見た。
(言わないで)
マナンの心が叫ぶ。
叫んでも声にならない。
アレルは、泣きそうな顔で唇を噛み、言葉を選ぶ。
「……ま、魔物が……出ました」
「……」
「ぼ、僕がナイフで……その……応戦したんですけど……えっと……一匹じゃなくて……」
言える範囲だけを、必死に繋いでいく。
そして、最後の一線――“魔法”と“耳”のことだけは、飲み込んだ。
フウカは沈黙した。
沈黙が長い。
その間、鍋の煮える音だけが家の中を満たす。
やがてフウカは、ため息を吐いた。
「……よく生きて帰ったね」
その言葉だけで、アレルの肩ががくんと落ちた。
叱られなかった。
それが、かえって怖い。
フウカは包帯を巻き直しながら、低い声で言う。
「……今日のことは、誰にも言うんじゃないよ」
アレルが顔を上げた。
「……はいっ!」
その返事が早すぎて、逆に痛い。
フウカはアレルの返事の“速さ”を見て、何かを悟ったように目を細めた。
だが、追及はしない。
代わりに、フウカはマナンへ視線を移す。
「マナンちゃん」
「は、はいっす」
「……明日の準備、ちゃんとするよ。
明後日の試験は――ただの料理じゃない」
マナンは頷く。
喉の奥に、苦いものが溜まっていく。
フウカは続けた。
「今、集落は揺れてる。
魔獣が出た。怪我人が出た。良くない噂が広がった。
こういう時、掟は強くなる。強くなりすぎる」
(……追放)
その言葉が、マナンの胸の奥で冷たく転がった。
カオルが小さく口を開く。
「……フウカさん。団長は、試験を中止には……?」
フウカは首を横に振った。
「中止にはしない。
こういう時ほど“いつも通り”をやる。掟ってのはそういうものさ」
カオルの眉が、さらに寄る。
「でも、森が危険なら――」
「危険でも、森に入る。
森に入れない者は、この集落では生きられない。
……だから試験は、むしろ厳しくなるかもしれない」
その言葉が、マナンの背中を冷たく撫でた。
(……厳しくなる)
厳しくなるのは、試験だけじゃない。
“見張り”の目。
“掟”の刃。
そして――「外のもの」を弾く空気。
カオルが拳を握る。
「……マナンさん」
「……はいっす」
「明日、もう一度、森の入口だけでも一緒に確認しましょう。
危険な場所、避ける場所……」
「うん。ありがとうっす」
言いながら、マナンの手はわずかに震えた。
さっきの魔法の反動ではない。
震えの理由は、もっと根の深いところにある。
(また悪夢、見たらどうしよう)
(試験当日に、手が震えたらどうしよう)
アストラ・ヴィータが、淡く淡く光っている。
慰めの光なのか、警告の光なのか、もう分からない。
─────
その夜。
フウカの家を出て、カオルの家へ戻る道すがら、空気は妙に澄んでいた。
星が近い。
風の匂いが冷たい。
“いつもより静かすぎる”夜。
「……マナンさん」
カオルが前を向いたまま言った。
「今日、何かありましたか」
マナンは一瞬、足を止めそうになる。
問い方が、優しすぎる。
問い詰めない。
でも、逃がさない。
「……魔物が出たっす」
「……アレルが怪我をした理由ですね」
「……そうっす」
「それ……以外は?」
「……」
マナンは笑おうとした。
笑顔を作ろうとした。
だが、唇が動かない。
カオルは、それ以上聞かなかった。
代わりに、歩幅を少しだけ落とした。
マナンの隣へ並ぶ。
距離を詰めすぎない。
でも、離れない。
「明後日、試験が終わったら」
カオルが言う。
「……前言っていた”全部”を、僕に話してくれませんか?
でも、“話せる範囲”でいいです。
……無理にとは言いません」
マナンの胸が、ぎゅっと痛んだ。
(話したい)
(でも、話せない)
(話したら――カオルくんは……
私のことを”嫌い”になる)
言葉が喉に詰まる。
だから、マナンはいつもの言葉で逃げた。
「……はいっす。約束っす」
カオルは小さく頷いた。
「約束です」
その声が、夜の冷気の中で温かかった。
――――――――――――――――――――
家に戻ると、二人は黙々と試験の準備を始めた。
籠の点検。
布の補修。
紐の結び目。
火打ち石の位置。
塩の量。
水筒の確認。
「……塩は、ほんとに少しでいいんっすね」
マナンが言うと、カオルは頷く。
「重いですし、湿気るので。
それに……塩は“交換”でも手に入ります。
試験は、森の中だけじゃ終わりませんから」
「試験中に物々交換出来るっすか?」
「はい。“食材を集める”の中には、人と交渉するのも含まれます」
マナンは目を丸くした。
「それは……難しいそうっすけど、
使いこなせれば可能性が広がるっすね……!」
「でも、マナンさんは……人と話すのが得意です」
カオルがさらりと言う。
マナンは一瞬、言葉を失った。
(……得意)
自分が得意なのは、きっと“笑うこと”だ。
笑って、誤魔化して、怖さを隠して、生き延びること。
でも、カオルはそれを“強さ”として見てくれている。
胸の奥が温かくなって、同時に怖くなる。
(私は……彼に、”嘘”をついている)
アストラ・ヴィータが淡く光る。
まるで「時間がない」と告げるように。
その時――外で、遠い唸り声がした。
獣の声ではない。
もっと深い。
地面の下から響くような、鈍い音。
カオルも顔を上げる。
獣耳がぴくりと動く。
「――今の」
「……聞こえたっすか」
二人の視線が交わる。
言葉にしたくない“同じ不安”が、そこにある。
カオルは小さく息を吐いた。
「……寝ましょう。明日は、準備を詰めます」
「……はいっす」
マナンは頷く。
頷きながら、胸の奥で悪夢の槍がまた光る気がした。
(また、夢を見る)
(見たくない)
(でも、たぶん――)
ベッドに入っても、眠りは簡単に来なかった。
静かすぎる夜が、逆に耳を痛くする。
─────
そして、ようやくまどろみに落ちかけた頃。
――コン、コン。
戸を叩く音。
こんな夜更けに。
カオルが即座に起き上がり、短剣に手を伸ばす。
マナンも身を起こした。心臓が早い。
――コン、コン。
もう一度。
「……誰ですか」
カオルが低い声で問う。
外から返ってきた声は、意外なほど落ち着いていた。
「カオル。起きているかい」
フウカの声だった。
カオルが戸を開けると、フウカが立っている。
ランプを片手に、夜気の中で息が白い。
「……フウカさん? 何か――」
フウカは一拍置いて、言った。
「賢老が、呼んでる」
その言葉が、マナンの背筋を凍らせた。
「……師匠が? 帰ってきたんですか?」
カオルが聞き返す。
フウカは頷く。
「今夜のうちに、だよ。
……それから、これは“団長には言うな”って」
カオルの顔が固まる。
マナンの胸が、どくんと鳴った。
(賢老)
(フウカさんが、団長に言わない)
(夜中に、呼び出し)
――全部が、繋がる。
フウカは続けた。
「二人で来な。
……明後日の試験の前に、“聞いておくべき話”がある」
マナンは、胸元のアストラ・ヴィータを押さえた。
淡い光が、まるで呼びかけに応えるみたいに揺れる。
カオルがマナンを見る。
その目に、覚悟が宿っていた。
「……行きましょう、マナンさん」
マナンは、喉の奥の震えを飲み込んで頷いた。
「……はいっす」
夜の外へ出ると、空気が冷たい。
星は綺麗すぎて、怖い。
フウカのランプの光が、道を照らす。
その光が揺れるたび、影が伸びて縮む。
――まるで、何かがついてくるみたいに。
マナンは無意識にカチューシャの耳を押さえた。
外れないように。
外れたら、戻れない気がしたから。
そして三人は、集落の隅――“賢老の家”がある闇へ向かって歩き出した。
明後日の試験の前夜。
集落の空気が変わる。
“掟”が締まる。
森が唸る。
その中心に、自分たちが引き寄せられていくのを感じながら。




