遠のく、日常
森は、朝の匂いがした。
湿った土、若い葉、どこか甘い樹液。
そして――隣で、犬耳の少年が落ち着きなく鼻を動かしている。
「えっと……こっちです! たぶん、こっちが近いです!」
アレルは明るく言いながらも、足取りが少し速い。
焦っているのが分かる。
「アレルくん……なんか焦ってないっすか?」
「えっ!? い、いえ! 焦ってないです!
ただ……えっと……試験の練習って聞いたので、僕、ちゃんと役に立ちたいなって……!」
「……いい子っすね」
「い、いい子!? えへへ……ありがとうございます!
……いや、ありがとうございますって変ですね!? 僕、今変なこと言いました!?」
「大丈夫っす。可愛いっす」
「か、可愛い!? 僕、男ですけど!?」
慌てるたび犬耳がぴくぴく動く。
分かりやすくて、ちょっと面白い。
(カオルくんが“おしとやかな可愛さ”なら、
アレルくんには“わんぱくな可愛さ”があるっすね……)
アレルは咳払いしてから、真面目な顔に戻った。
「えっと……ここです。これはキイロギノミの木。
殻は固いですけど、中は甘いです。乾かすと保存もできます!」
「へぇ……殻固いのに中甘い、最高っすね」
「ほ、褒め方が大胆ですね……!」
「大胆っすか?」
「はい! えっと……でも、嬉しいです!」
アレルはまた照れて、犬耳を伏せる。
その仕草が、なんだか子犬っぽい。
マナンは頭の中で地図を描く。
“この木はここ”“この実はこの季節”“ここは危険”。
「次は……えっと、こっちです!
秋になったら甘くなる実がある場所です!」
「今は?」
「今は酸っぱいです! でも、酸っぱいのが好きな人もいます!
……あっ、マナンさん、酸っぱいの好きですか!?」
「好きっす。元気出るっす」
「ですよね! 分かります!
僕も……あ、でも僕、酸っぱいの食べると顔がすごく変になるらしくて……母さんに笑われます……」
「フウカさんに?」
「はい……! あ、でも母さん、悪い意味じゃなくて……えっと……笑うと安心するっていうか……」
アレルは言いながら、口角が少し上がる。
母親が好きなのが伝わる。
「フウカさん、優しいっすもんね」
「はい! すごく優しいです!
……でも、怒ると怖いです!」
「どんな感じっすか?」
「えっと……目が笑ってなくて……声が丁寧で……余計に怖いです……!」
「それ、めっちゃ怖いやつっす」
「はい……!」
二人で小さく笑う。
森の空気が少しだけ軽くなった気がした。
その時、アレルは急に思い出したようにマナンに質問する。
「あの……マナンさん、カオルと……仲、良いですよね?」
「ええ、仲いいっすよ」
「えっと……よかったです!
……あ、いや! 変な意味じゃなくて! その……カオル、真面目すぎて、たまに心配なので……」
「心配?」
「はい。なんでも一人で背負っちゃうので……
……僕、カオルのこと、好きです。尊敬してます」
言ってから、アレルは慌てて手を振った。
「あっ! す、好きって言い方! 誤解しないでください!
えっと……自警団の先輩としてって意味で……僕、そういう意味じゃ……!」
「分かってるっすよ! 友達的なやつっすね!!」
「はい! そうです! よかった……!」
ほっとした顔が、あまりに分かりやすくて、マナンは微笑む。
「でも、カオルくん優しいっすよ。
優しいけど……確かに危ういっす」
「ですよね……!
優しい人って、危ない時に自分を後回しにしちゃうんです……」
アレルは犬耳を伏せた。
言葉が軽いのに、経験の匂いがする。
そのまま歩き続け、アレルは真面目に解説を続けた。
「この辺、毒キノコ多いです!
白いのは基本ダメです!
でも裏が少し青いのは食べられます!」
「了解っす。裏、青……」
「ただし、青すぎるのはダメです! 微妙です!
……あっ、えっと、微妙って言うと困りますよね!
ごめんなさい、僕、説明下手で……!」
「大丈夫っす。アレルくんは鼻で分かるっすもんね」
「えへへ……はい! 匂いで分かります!
僕の鼻、こういう時だけ役に立ちます!」
「こういう時だけ?」
「はい……普段は、母さんの煮込みの匂いでお腹がすいちゃって……我慢できなくて……怒られます……」
「……可愛いっすねぇ」
「ま、また可愛いって言いました!?」
「言ったっす!!」
「うぅ……!」
アレルがうろたえる。
明るくて、あわて者で、敬語で、素直。
この子は、きっと信頼できる。
――マナンは何となくそう思った。
─────
だが、森は急に空気を変えた。
アレルが立ち止まる。
犬耳が、ぴんと立つ。
「……あれれ?」
「どうしたっすか?」
「匂いが……変です。
……鉄っぽいような…… なんか、”血”みたいな匂いがします」
背筋が冷える。
「戻るっすか?」
「えっと……はい、戻った方が……あ、でも……
魔物とかだったりしても、小さいやつかもしれません。
ただ、弱いほど厄介な時もあるので……」
「弱いほど厄介?」
「追い詰められてるやつは、無茶するんです!
……今日みたいに……」
今日。
集落の騒がしさが、森の中まで伸びてきているみたいだった。
二人が少し進んだところで、地面がざわりと動く。
「……来ました!」
落ち葉が持ち上がり。土が、もこっと膨れる。
そこから現れたのは、小型の魔物だった。
「あれは…… パープルエイブです!!」
――【パープルエイブ】。
体は小さいのに、目が異様に赤い。
口の端から泡のような唾液が垂れ、動きが落ち着かない。
「普段ならスライムみたいに、おとなしい筈ですけど……
な、なんか、今日は、雰囲気と”匂い”が違います!!」
アレルがナイフを抜く。
刃は短い。だが、手慣れている。
それでも声が少し上ずっている。
「マナンさん! 下がってください!
……あっ、すみません! 言い方きつかったですか!? でも危ないので!」
「大丈夫っす。アレルくん、頼りにしてるっす」
「は、はいっ! 頑張ります!」
パープルエイブが跳ねた。
速い。
小さい体で一気に距離を詰め、アレルの足元へ噛みつこうとする。
アレルがナイフで払う。
だが魔物はひるまない。
「うわっ……! しつこいです!!」
(……普通の、動きじゃない!!)
次の瞬間、魔物が地面を蹴って横へ――そして死角から跳ね上がった。
アレルの腕へ牙が食い込む。
「――痛ぁっっっ!!」
血が飛ぶ。
アレルが歯を食いしばり、ナイフを振るう。
だが魔物は噛みついたまま離れない。
「うぅ……! 離れてください……! このっ……!」
アレルが必死に腕を振って引き剥がす。
しかしその瞬間、草むらが揺れた。
別の影。
――敵は、一匹じゃない。
「えっ……!? も、もう一匹……!?
マナンさん、後ろ!!」
「――っ!」
別の魔物がマナンへ跳びかかる。
反射的に腕を上げて庇う。
”ガンッ”。
体当りされ、衝撃が伝わる。
――頭が軽くなる。
猫耳カチューシャが外れた。
落ちる。
草の上へ。
マナンの――“獣耳の無い頭”が、むき出しになる。
――この集落で、一番目立つ異物。
(……あ)
マナンの思考が止まる。
だが、魔物が目の前まで迫っていた。
アレルが叫ぶ。
「マナンさん!! ……うわぁ!!」
魔物が牙をむき出しにして、アレルに飛びかかる。
アレルは急いでナイフを構える。
「……いっ!!」
腕の傷が深い。
血が滴り、動きが鈍る。
――このままじゃ、間に合わない。
その光景が、マナンの目にスローモーションになって映った。
(魔法は……だめ)
(使ったら……命が削られる)
(でも――)
次の瞬間、マナンは迷いを捨てた。
アレルを守るため。
今はそれだけが、世界の中心になる。
「……ごめん、カオルくんっ!!」
唇が勝手に動く。
無意識に杖を手に持ち、魔物に向けて突き出す。
「――“ソニック・レイ”!!」
杖の先から、光が弾ける。
青白い閃光が矢となり、森の影を裂く。
空気が震え、草木が一斉に揺れる。
木の葉が舞い、光の粒が散る。
光の矢に貫かれ、パープルエイブの体が光に焼かれるように崩れた。
小さな悲鳴。
そして粉のように散って消える。
「……アレルくん! 今っす!!」
「は、はい!!」
残りの魔物が一瞬ひるみ――その隙に、アレルがナイフを投げた。
刃が魔物の目に刺さり、魔物は地面に転がって動かなくなる。
訪れる静けさ。
マナンの肩が、遅れて震えた。
魔法の反動じゃない。
“掟を越えた”震え。
アレルが息を荒くしながら、マナンを見た。
その視線が、落ちた猫耳カチューシャへ。
そして――マナンの頭へ。
「……マ、マナンさん」
声が震えている。
怒りじゃない。恐怖だ。
「えと……今の……今のって……」
マナンは言葉を探す。
いつもの「はいっす」で誤魔化せない。
カチューシャを拾って戻そうとするが、手が滑る。
焦りで指が震える。
アレルは一歩近づき、慌てて手を振った。
「あっ! 近づいたらダメですよね!? えっと……違います!
僕、疑ってるとかじゃなくて!
……でも……その……」
「アレルくん」
「は、はいぃ!!」
「……さっき使ったのは、かつて“魔法”って呼ばれた力っす」
アレルは顔を真っ青にして、犬耳を伏せた。
「……魔法……」
「……ごめんっす」
「い、いえ! 謝らないでください!
……いや、謝るのは大事なんですけど……僕、どう言えば……!」
あわて者の敬語が乱れる。
アレルは必死に言葉を整え直した。
「僕……見なかったことにしたいです。
本当にです。
――でも……それは、無理です」
「……」
「この集落には、“掟”が……あるからです。
魔法は禁忌で……それを使っていたことがバレたら……」
マナンはカチューシャをつけ直した。
隠す。隠しても遅いのに、反射で隠してしまう。
アレルはその動きを見て、さらに顔を曇らせた。
「……その耳も……」
「……見ちゃったっすよね」
「はい……」
アレルは唇を噛む。
「僕、告げ口したいわけじゃないんです。
……本当に。
ただ……もし“誰かが”見てたら……」
「……見張りがいるってことっすか……?」
「はい……います。
表に出さないだけで……最近、見回りが増えたって。母さんが……」
フウカが。
その名前が出た瞬間、マナンの胸が締めつけられる。
アレルはマナンの胸元の光――アストラ・ヴィータへ視線を落とし、目を細めた。
「……それも、ただのペンダントじゃないですよね」
「……」
マナンは答えられない。
答えたら全部崩れる。
アレルは一度目を閉じ、吐くように言った。
「……もしかしたら、マナンさんが追放されるかもしれないです」
森の空気より冷たい言葉。
――追放。
雨の匂い。
悪夢の記憶が現実へ押し寄せる。
「……なんで、っすか……」
声がかすれる。
アレルは腕の傷を押さえ、必死に続けた。
「この集落は、掟で守られてます。
魔法は禁忌です。
……もし“禁忌を持ち込む者”って判断されたら……」
最後まで言わなかった。
言わなくても分かってしまう。
“外のもの”。
その言葉が喉に引っかかる。
(……カオルくんとの、日常を)
(私が、壊しちゃう?)
森の奥で、風が鳴った。
どこかで低い唸り声のような音がした気がした。
アレルが慌てて言う。
「と、とにかく戻りましょう!
……あっ、マナンさん、ここからは絶対に僕の後ろを歩いてください!
僕、匂いで危ないの、先に分かりますから!」
「……うん。ありがとうっす」
─────
森の出口が見えた、その時。
遠くから、駆ける足音が聞こえた。
複数。急いでいる。
マナンの喉が鳴る。
(……何か、来る)
何が来るのかは分からない。
でも今日の騒ぎは、まだ終わっていない。
足音が近づく。
森と集落の境目で、二つの世界がぶつかり合うように空気がざわつく。
マナンはカチューシャの耳を押さえた。
外れないように。
――外れてしまったら、今度こそ戻れない気がした。




