揺らぐ平穏、忍び寄る不穏
朝の光が、窓の隙間から薄く差し込む。
淡い金色はいつもと同じはずなのに――マナンの胸の奥だけが、先に目を覚ましていた。
(……結局)
(よく、眠れなかったっすね……)
閉じた瞼の裏に残る青白い残像。
痛みはもうない。けれど、脇腹の辺りが“記憶の痛み”で熱を持つような錯覚が消えない。
夢の中で刺さったはずの“槍”が、まだ身体のどこかに引っかかっているみたいだ。
マナンは息を整えるように胸元を押さえた。
アストラ・ヴィータは、静かに淡く光っている。
(駄目っすね……気持ち、切り替えないと)
(……明後日の試験、何としても受かるっすよ!!)
――試験。
集落の食材を集め、料理を作る。
簡単に聞こえるのに、この集落では“命を繋ぐ”のと同じだ。
今日と明日は、その準備に充てるつもりだ。
だからこそ、気持ちを切り替えないと――。
「……マナンさん?」
静かな声がして、マナンは視線を上げた。
カオルが起き上がっている。
ベッドの軋みを最小限に抑え、音を立てないように動くのは、彼の慎重さであり、彼の優しさでもある。
「おはようございます。あの……大丈夫ですか?」
声は穏やかなのに、目が真剣だ。
深夜、マナンが目を覚ましたとき――震える手を、カオルは見ていた。
「おはようっす。……大丈夫っすよ!!」
いつもの調子。
元気。大丈夫。問題ない。
そう言い切れば、元に戻れる気がした。
けれどカオルは、すぐに頷かなかった。
一瞬迷うように視線を泳がせ――慎重に言葉を選ぶ。
「……悪夢でも見ましたか?」
「……」
「……うなされていたので」
言い当てられて、マナンは笑顔のまま固まった。
嘘はつけない。ついても、カオルには分かる。
「ちょっとだけっす」
「……ちょっと、ですか」
カオルの声が少しだけ低くなる。責める音ではない。
それでも、心配が消えていないのが分かる。
マナンは軽口で逃げようとしてしまう。
「心配性っすね、カオルくん」
言ってから、自分で気づく。
この言い方は、カオルの優しさを雑に扱ってしまう言い方だ。
慌てて付け足す。
「……でも、ありがとうっす。起こしてくれて」
カオルは小さく首を振った。
「起こしたのは、僕ではありません。
……マナンさんの呼吸が、苦しそうだったので……」
そこで言葉を止める。
これ以上言うと、マナンが無理に笑うのを分かっているからだ。
沈黙が落ちそうになって、マナンはわざと明るく言った。
「今日は、試験の準備をする日っすよね?」
「……はい」
カオルは微笑んだ。
穏やかな笑み。けれど少しだけ、張り付いている。
安心させようとしているのが、分かってしまう。
(……カオルくんも、無理して笑ってる)
その事実が、胸をちくりと刺した。
─────
朝食を簡単に済ませ、二人で荷物を整える。
籠、布、紐、短い刃物、火打ち石、塩……
調理器具は準備されるが、それ以外の道具で試験に持ち込みが許されるものは決まっている。
けれど“準備する習慣”自体が大事なのだと、フウカは言っていた。
「塩は……多すぎると重いっすね」
「はい。少量で十分です。
……けれど塩がないと、火を通しても保存が難しいので」
「なるほど。この集落じゃ、生きることと料理が繋がってるんすね」
「……そうかもしれません。僕は狩りの方が得意ですけど……」
カオルが籠の紐を結び直しながら、ふと目を伏せる。
「……マナンさん。明後日の試験、怖いですか」
「怖い……?」
「森に入ります。危険もあります。
……昨日みたいに、また倒れたりしたら……」
昨日。
ペンダントを失くしかけ、倒れた瞬間。
カオルの顔から血の気が引いたのを、マナンは忘れられない。
「……怖いっすよ。そりゃあ怖いっす」
マナンは正直に答えた。
そして、笑って続ける。
「でも、カオルくんが一緒に手伝ってくれてるから大丈夫っす!!
それに私も……期待には答えたいっすから」
カオルは驚いたように瞬きをして、少し照れたように頷く。
「……ありがとうございます」
その一言だけで胸が軽くなる。
この人は言葉が少ない分、言葉が重い。
――もし彼を失ったら。
――もし自分のせいで“万が一”が起きたら。
(……考えたら、余計に怖いっすね……)
胸の奥で、夢の槍がまた光った気がした。
─────
「――果物は、火を入れるだけでも甘く……」
「随分シンプルっすね……ややっ?」
二人で宿の家を出て、しばらく歩く。
集落に近づくにつれ、音がいつもより騒がしいように聞こえる。
風に乗って届く声の数が多い。
普段なら畑や薪割りの音が支配する朝なのに、今日は人の声が先に立っている。
「……なんか集落の方、騒がしくないっすか?」
「ええ……嫌な感じです」
カオルが眉を寄せ、獣耳がぴくりと小さく動いた。
――危険を感じ取る動きだ。
─────
集落の入り口へ近づくと、自警団員の周りに人だかりができていた。
腕や足に包帯を巻かれた団員が座り込み、周囲の大人たちが顔を青くしている。
「酷い怪我っす……」
「はい。一体何が――」
そう言いかけた時、ウォルが人垣を割って出てきた。
いつもの軽口はなく、その顔には焦りが滲んでいた。
「カオル! いいところに来た」
ウォルはカオルの肩を掴むようにして、低く言った。
「夜番の見張りがやられた。森の縁だ。中型の魔獣に襲われたらしい」
「……魔獣に、やられた?」
その単語が落ちた瞬間、空気が一段重くなる。
村人たちが一斉に視線を逸らす。
話題にするだけで不運を呼ぶと信じているみたいに。
カオルはしゃがみ込み、団員の傷を見る。
腕に鋭い裂傷。
血は止まっているのに、傷口の縁が妙に黒ずんでいた。
「……この傷、爪?」
「ああ。普段なら匂いを嗅いだだけで逃げるのに……今日は突っ込んできた」
ウォルは唇を噛む。
「……凶暴化してる。
いや、凶暴化って言葉じゃ足りねぇ。
“狙ってきた”みたいだった」
「狙って……っすか?」
「あぁ。魔獣は自分が危険だと感じない限り、俺達を襲わねぇ。
……だが今回のは違う。見境なしだ。
目が合った瞬間、襲われたらしい」
その言い方が、妙に怖い。
マナンは喉の奥で言葉を飲み込んだ。
黒ずみ――どうしても“瘴気”を連想する。
けれど、この集落で不用意に口にできない。
(まさかとは思うっすけど……)
(……いや、考えすぎは良くないっすね)
確信がない。
確信がないまま言えば、言葉が独り歩きして“掟”が動く。
カオルは立ち上がり、ウォルを見る。
「……ウォル、魔獣の“処理”は?」
「俺が行く。カオルには補助を頼めるか? 親父には話してある」
「わかった。でもマナンさんは……」
「マナンさんは明後日試験だろ? 怪我されたら大変だ。
今日は家で大人しくしてもらってたほうがいいんじゃないか?」
ウォルが言いながら、ちらりとマナンを見る。
「……そうだね。
マナンさん、すみませんが今日は――」
カオルが口を開きかけた、その時。
「カオル!!」
人垣の奥から現れたのはフウカだった。
いつもの穏やかさの奥に、焦りが透けている。
「マナンちゃんは明後日の試験の準備があるだろう?
……こんな日に厄介事が起こるなんてね」
フウカの隣に、幼さの残る顔立ちの少年がいた。
白いメッシュが入ったコバルトグリーンの髪。
茶色の垂れ気味の犬耳。
犬種の獣人らしく、鼻先が小刻みに動いている。
「マナンちゃんは初めて会うかね?
こいつはアレルだよ、うちの息子さ。まだ十歳だが鼻が効く。
カオルの代わりに、今日の食料探しを手伝わせられないかと思って連れてきた」
少年――アレルは、マナンを見るなり慌てて背筋を伸ばした。
「は、はじめまして! 僕、アレルって言います!
あのっ……よろしくお願いします!」
「アレルくんっすね!! ……よろしくっす!!」
マナンが元気よく言うと、アレルは犬耳をぴくっと動かして、さらに慌てた。
「あっ、はい! えっと……その……喋り方、すごく元気ですね!
僕、びっくりしちゃいました!」
「へへへ……よく言われるっす」
「そ、そうなんですね! あ、えっと……変って意味じゃなくて、あの、良い意味で、はい!」
あわて者だ。
でも、明るい。
カオルと違って、言葉が先に飛び出すタイプだと一発で分かる。
「マナンちゃん、明後日の試験まで時間がないだろ?
今日一日何もしないでいるよりも、こいつと森の中を歩くだけで、
明後日の試験のイメージが固まるはずさ」
フウカが会話を区切るように言う。
「カオルとウォルも、魔獣の討伐、気をつけるんだよ!!」
カオルが一瞬迷った。
目線がマナンへ行く。
(置いていきたくない、けど……)
マナンは小さく頷いた。
“大丈夫”の頷き。
「……わかりました」
カオルは頷き、マナンへ視線を向ける。
「マナンさん。森の中でも絶対に一人にならないでください。
アレルはまだ幼いですが、彼の言うことを聞いていれば大丈夫です。
……何があっても、無事に戻ってきてくださいね」
「了解っす。カオルくんも、無理しないで下さいっす!!」
ウォルが剣の柄を叩く。
「行くぞ。カオル」
カオルが頷いた直前、マナンは小さく彼の袖を引いた。
「カオルくん」
「……絶対、無事に戻ってきてくださいっす」
カオルは驚いて、それから強く頷く。
「はい。必ず」
アレルが慌てて口を挟んだ。
「あっ、あの! カオルもウォルも、怪我しないよう気をつけてください!
えっと……僕、きちんとマナンさんを守りますので!!」
ウォルが一瞬だけ口角を上げた。
ほんの少し、いつもの彼に戻る。
「頼むぞ、犬鼻」
「い、犬鼻って……! えっと、はい! 頑張ります!」
アレルは真っ赤になった。
犬耳がぴんと立ったまま、アレルは落ち着かない様子だ。
─────
森の縁は、普段より静かだった。
鳥の声が少ない。
草が風もないのにざわついている。
「……気持ち悪いな」
ウォルが呟く。
彼の獅子耳が、森の異変を敏感に感じ取るようにひくひくと動く。
「……魔獣が近いから、動物が逃げているのかもしれないね」
カオルは腰の短剣に手を添えた。
――形見の短剣。
「全く……大事な試験前なのに運が悪いな」
ウォルが言う。
「仕方ないよ、こればっかりは……」
「……けッ、真面目ちゃんかよ」
「……?」
短いやり取り。
言葉が少ない分、怖さが入り込む隙間を塞いでくれる。
しばらく進むと、土の色が変わる。
抉れた土に、深い爪の跡。
カオルは目を細めた。
ただ踏み込んだ跡ではない。
力の入り方が異常だ。
ウォルがしゃがみ込み、指で土を軽く掬う。
「……匂いが変だ。普通の獣臭じゃねぇ」
「焦げた土……みたいな?」
「それだ。
……いや、焦げた土っていうより、腐った皮膚みたいな匂いだな」
(……この跡は……明らかに“異常”だ)
カオルが口を開きかけた、その時――
「……カオル」
ウォルが立ち上がった。
剣の柄を強く握る。
「――お出ましだ」
そして次の瞬間――森が鳴った。
“ドン”
大地が一度、踏み鳴らされた音。
次に来るのは、空気を裂く音。
“キィィィィィィィィィィ!!!”
「――っ!」
――横の茂みが爆ぜる。
中型魔獣――狼に似た体躯。
だが毛並みの色が不自然に灰色に濁り、目の奥が赤黒い。
口から泡のような唾液を垂らし、理性の欠片もない。
――【ヴァルジャック】。
普段は温厚で、人を襲うことはめったにないその魔獣が、
カオルたちの姿を捉えた途端、一目散に近づいてくる。
(は、速い――!)
カオルは短剣を抜く。
間に合う。間に合うはずだ。
だがヴァルジャックは、カオルの“構え”より先に動いた。
――不意打ち。
地面を蹴り、真正面ではなく斜め下から跳ね上がる。
獲物の腹を裂くための角度。
狩りをしてきたカオルだからこそ、それが分かる。
「くっ……!」
避ける。
だが足が遅れる。
爪が脇腹の服を裂いた。
熱い痛み。
血の匂いが自分から立ち上る。
「カオル!!」
ウォルの叫び。
カオルは踏ん張ろうとするが、足元の土が崩れた。
爪痕で抉られた地面。
踏み込みが滑る。
(まずい――)
次の一撃が来る。
見える。
見えるのに動けない。
ヴァルジャックの牙が、喉元へ向けて開かれる。
その瞬間。
――ギィン!
金属音が森を割った。
ウォルの剣が、ヴァルジャックの牙の軌道を叩き落とした。
「カオル、下がれ!!」
ウォルの声は、いつもの軽さが消えていた。
ただの親友じゃない。
自警団員としての声。
ヴァルジャックが唸り、ウォルへ向き直る。
ウォルは一歩も退かない。
「……この動き……普段の魔獣じゃねぇ」
ウォルは剣を低く構え、足運びだけで距離を詰める。
剣捌きは速いというより“正確”だ。
魔獣が跳ぶ。
ウォルが斬る。
斬る。斬る。
“ギィン! シュッ ギィン!”
空気が切り裂かれ、木の葉が散る。
ヴァルジャックの体がわずかに揺らぐ――だが倒れない。
「っ、硬ぇ……!」
ウォルの刃が通りにくい。
毛皮の下の筋肉が異様に硬化している。
カオルは歯を食いしばり、立ち上がった。
痛みで視界が一瞬白くなる。
(……僕も、戦わないと)
短剣を握り直し、ウォルの死角へ回る。
二人で挟む。狩りの基本。
ウォルが一瞬だけ目で合図する。
“今だ”。
「……やぁっっっ!!」
カオルは踏み込み、ヴァルジャックの脚を狙って斬った。
筋を切る。動きを止める。
刃が入った瞬間、ヴァルジャックが悲鳴を上げ――それでも、カオルへ振り向こうとする。
その首筋へ、ウォルの剣が走った。
“ザシュッ!!”
一閃。
ヴァルジャックの体が、ようやく力を失う。
─────
森の静けさが戻るまでに、数秒かかった。
耳鳴りのように、自分の鼓動だけが響く。
「……手強かったな」
ウォルが吐き捨てるように言った。
「……でも倒せた。
ウォルのおかげでね」
カオルは脇腹を押さえる。
傷は浅い。だが、さっきの一瞬が頭から離れない。
(……もし、ウォルがいなかったら)
“九死に一生”という言葉が、生々しく胸に落ちた。
ウォルが魔獣の死体を見下ろし、眉をひそめる。
「……なぁ、カオル、見てみろよ。
こいつぁ……本当に変だぜ」
カオルは目をしかめる。
魔獣の血が“赤くなかった”。
真っ黒な、まるで墨のように漆黒だ。
――明らかに、普通ではない。
「……ウォル、これは……」
「とりあえず持ち帰る。これは親父に見せねぇと話にならねぇ。
ただ、触るな。素手は絶対にダメだ」
ウォルは布を出し、死体を包む。
手つきが早い。こういう時、彼は迷わない。
その横で、カオルの胸に別の不安が刺さっていた。
(……マナンさん)
今日は別行動。
森の中でマナンは――。
カオルは短剣を握り締めた。
「ウォル。急いで戻ろう。
……マナンさんが、心配だ」
ウォルは一瞬だけ黙って、そして頷いた。
「……ああ。嫌な予感がする」
カオルたちは、集落へ向け駆け出した。
(マナンさん……)
だが、これは“気のせい”では済まない夜の始まりだった――




