侵食する、悪夢
意識が沈みきる前に、マナンは理解した。
――これは夢だ。
思い出したくないのに、身体が覚えている。
忘れたくても忘れられない――悪夢。
─────
そこは、天井のない巨大な空間だった。
いや、正確には天井はある――はるか上空、枝と枝が絡み合い、光の膜となって空を塞いでいる。
――“光の世界樹”内部。
幹の内側に造られた通路は、木でも石でもなかった。
滑らかな壁面を、血管のような光が走り、呼吸するかのように明滅している。
一歩、踏み出す。
床が、わずかに脈打った。
足裏から伝わるのは、生命の息吹。
だが、その波動は弱々しく、今にも消えてしまいそうだった。
「……急がないと」
息を殺した。
遠くで、何かが鳴った気がした。鐘の音にも、唸り声にも似た音。
――この“樹”そのものが発する“悲鳴”。
マナンは帽子を深く被り、光の筋を避けるように影へ溶け込んだ。
通路の両脇には、神殿の柱を思わせる太い根が並び、表面には古い紋様が刻まれている。
それを目にした瞬間、胸元が強く脈打った。
――アストラ・ヴィータが、微かに震える。
(……“樹”に呼ばれてる)
(助けて、って……)
息を止め、階段へ向かった。
(今、助けるから……)
─────
螺旋状に続く階段は、幹の中心へと伸びている。
マナンは上へ、さらに上へと上がって行った。
高度が増すにつれ、空気は冷え、光は青白く、鋭さを帯びていく。
これは、ただの光じゃない。
“樹”が発する、命の輝き――そのはずだった。
そして、マナンはたどり着いた。
――光の世界樹の、頂上に。
最後の段を踏み越えた瞬間、空間がぱっと開けた。
世界樹の“命”を守るために築かれた、神殿。
木の内部だというのに、そこは完全な建造物だった。
円形の大広間。白い石のように硬い床が光を反射し、薄い揺らめきが広がる。
規則正しく並ぶ柱。
その奥、祭壇の中心に――
「……セントラル・コア……」
喉から、名が漏れた。
そこに鎮座するのは、光を纏った巨大な“核”。
水晶のようで、金属のようで、どちらでもない。
青白い光を内包し、静かに――しかし確かに、鼓動している。
世界樹の“生命”。
世界の、“心臓”。
――だが。
その核には、無数のひびが走り、今にも砕け落ちそうだった。
(もう……限界が近い……)
(このままじゃ、世界から“光”が消える)
枯れる。失われる。
その言葉が、疑いようのない“確信”として胸に落ちる。
このコアが失われれば、世界樹は――
ひいては、この世界そのものが、闇に沈む。
(だから……私は)
マナンは祭壇の縁に手をついた。
指先は、凍るように冷たい。
それでも、コアから放たれる光は、焼けるほどの熱を帯びていた。
杖を握り、魔法陣を描くように先端を滑らせる。
「……お願い……間に合って……」
声が震える。
祈りじゃない。
命令でもない。
ただ、間に合ってほしいという――必死な願い。
アストラ・ヴィータが淡く明滅し、マナンの掌へ光が集束する。
青白い光が糸となり、指の間を走った。
「我が名を捨て、我が生命を裂き、光を救わん……
……ルミナ・サクリ――」
――発動しかけた、その瞬間。
「……ふふふ。やっぱり“また”来たんだ」
背後から、鈴のように甘い声が落ちた。
全身が、凍りつく。
振り返る必要はなかった。
忘れようとしても、忘れられない声。
「……ミチルちゃん」
祭壇の反対側。
光の柱の間に、少女が立っていた。
白い衣。
マナンよりも遥かに淡く、明るい青の髪。
風のないはずの神殿で、薄布が揺れている。
澄んだ青の瞳。
その奥に広がるのは、底の抜けた闇。
そして胸元には――マナンの胸元のペンダントと同じ光。
――光の巫女の証が輝いている。
「せっかく生き返らせて貰ったのに……あははっ」
ミチルは笑った。
それは祝福ではない。
むしろ、死を肯定する笑みだった。
「また殺されたいの? ……“お姉ちゃん”」
「……っ!」
その呼び方が、刃のように胸を裂く。
「……やめて。私は――」
「“私は”じゃないよ」
ミチルが一歩、踏み出す。
それだけで、神殿の光が一段、冷えた。
「あなたって、いつもそう。正しいことをしたつもりで、全部壊す」
「違うよ……!」
マナンは叫んだ。
「核の亀裂が見えるでしょう!!
このまま放っておけば、世界樹が枯れちゃう!!」
息を吸い、叫ぶ。
「ミチルちゃん、あなたにも分かるはず!!
同じ巫女なら――世界樹の痛みが!! 苦しみが!!」
言葉に反応するように、コアが微かに鳴動した。
光が乱れ、悲鳴のように震える。
「……枯れる?」
ミチルは小首を傾げる。
「あははっ! 枯れちゃえばいいじゃない。
枯れれば、人間はみんな“終わる”。
それでこの世界の厄介事、ぜーんぶ綺麗に解決するのに」
「そんなの……!」
マナンは拳を握り締める。
指先に熱が宿る。
マナが――呼吸を始めた。
「私が、終わらせない!!」
「……うざいなぁ」
ミチルの笑みが、すっと消えた。
――次の瞬間。
「――切り裂け。《シャイン・エッジ》」
床が発光した。
刻まれた紋様が幾何学的に走り、光の線が瞬時に“刃”へと変わる。
剣。
否、”無数”の剣。
それがまるで雨のように、マナンへ降り注ぐ。
「――っ!!」
反射的に跳ぶ。
祭壇の縁を転がり、刃を紙一重で回避した。
刃は床を抉らない。
代わりに、空気そのものを裂いた。
散った光が柱に触れた瞬間、表面が凍結するように白く染まる。
(……当たったら……)
――死ぬ。
マナンは息を吐き、掌を突き出す。
「――止まれ!!」
光が奔る。
床の線を絡め取り、刃の軌道を歪める。
刃が逸れ、柱を貫き、粉となって消滅した。
――だが。
「あはははっ!!
まだまだ全然いけるよね? お姉ちゃん」
ミチルは涼しい顔で、指を鳴らす。
「――《ルミナス・ジャベリン》」
パチン。
天井――枝の隙間から、光の槍が落下した。
一本。
二本。
十本。
落雷のような速度。
「っ……!」
マナンは祭壇を蹴り、横へ走る。
槍が床に突き立つたびに、床が青白く染まり、そこから光の蔓が噴き出した。
生き物のようにうねり、足首を掴もうと伸びる。
「――邪魔!!」
踵を返し、光の糸を放つ。
蔓が切断され、粉が舞う。
粉が肌に触れた瞬間、刺すような冷気が走り、肺が縮む。
(……まさか……これ……)
――既に、瘴気に侵されているのか。
その考えが浮かんだ瞬間、ミチルが嗤った。
「気づいた? あっははははは!!!
あなたの守りたい”世界”って、もう、取り返しのつかないぐらい汚れてるんだよ!?」
「……っ、うるさい!!!」
マナンは柱の影へ飛び込む。
追撃の槍が柱を掠め――ひび割れる。
攻撃の当たった箇所の床から、血管のような光が露出し、激しく脈打ち始めた。
”樹”が、痛がっている。
(……このままじゃ……核が……!)
視線が、祭壇へ向かう。
セントラル・コアは、乱れた鼓動を刻み、光が弱まりかけては持ち直していた。
今、やるべきは戦闘じゃない。
――コアを、修復しないと
――“私の命”を使って
「ふぅん。せっかく拾った命、そんなに捨てたいんだ?」
ミチルが、距離を詰めた。
一瞬。
瞬間移動みたいに、視界の端から現れる。
早い。
近い。
あまりにも――。
ミチルの瞳が、底なしの闇に染まる。
「お姉ちゃんが直しちゃったら、また全部やり直しになっちゃう」
「……やり直せばいい!!」
マナンは叫び、掌をコアへ向けた。
「私は、絶対に樹を枯らさせやしない!!
“人間”を……みんなを見捨てたりなんかしない!!」
光が集束する。
アストラ・ヴィータが――ドクン、と鳴る
コアと、マナンの光が共鳴し始める。
――その刹那。
ミチルが両手を広げた。
神殿全体が、青白く燃え上がる。
「つまんないの、凡骨はとっとと死んでよ」
「――禁術、《ディバイン・ヴァーディクト》」
光の波が、地面から壁のように立ち上がり、押し寄せる。
熱でも、冷気でもない。
世界そのものが、圧力となって叩き潰してくる。
「くぅぅぅっ!!」
両腕で顔を庇い、踏ん張る。
「――《サークレット・シールド》!!」
呪文を唱えると、マナンを守るように障壁が展開する。
だが――
ミシミシミシミシッ!!
あっけなく割れる障壁。
波打つ床、降り注ぐ土煙。
押し潰される背中。
肺が悲鳴を上げ、呼吸ができない。
(……だめ……押し切られる……!)
「あはははは!!
全然反撃できてないじゃん!!」
ミチルの声が響く。
「こんな弱っちぃ巫女様に守られてた人間達って、ほんと可哀想~!!」
「……ぐっ!!」
――だが、その瞬間、圧力が一瞬だけ止んだ。
「今だ……!!」
マナンは、その刹那を逃さない。
コアへ駆け寄り、手を伸ばす。
「今度こそ……ルミナ・サクリ――」
「――やらせないって、言ってるでしょ」
鈍い衝撃。
ミチルの膝蹴りが、みぞおちに突き刺さった。
「ぐあっ……!!」
息が弾け、視界が揺れる。
口から血が溢れ、鉄錆の味が広がる。
それでも――手は離さない。
離したら、間に合わない。
「……ミチル……ちゃん……」
声が、掠れる。
ミチルは静かに告げた。
「ねえ、お姉ちゃん。
この世界はね――」
光の中から、一本の槍が生まれる。
「誰かを救うたび、誰かが死ぬんだよ」
槍が、一直線に伸びた。
マナンの胸元へ。
「――っ!!」
身を捻る。
だが、間に合わない。
槍が、脇腹を掠めた。
内側から、命を引き剥がされる感覚。
「――ああああああっっっ!!」
息が止まり、視界が白く弾ける。
(……もう……だめ……)
落ちる。
世界が、傾く。
(……殺され――)
─────
──その瞬間。
「マナンさん!!」
現実の温度を持った声が、割り込んだ。
「……っ!!!!」
荒い息。
喉の痛み。
全身を覆う冷たい汗。
そして――
「大丈夫ですか……?」
カオルが、すぐそばにいた。
心配そうに眉を寄せ、マナンを覗き込んでいる。
「……だいじょうぶ、っす」
マナンは笑おうとした。
いつもの笑顔を、無理やり作る。
「ただ……ちょっとだけ、怖い夢を見ちゃっただけっす」
視線を落とす。
――手が、震えている。
指先の震えが、止まらない。
それを見たカオルが、息を飲む音がした。
「……マナンさん」
その声が、静かに揺れた。
マナンは咄嗟に手を握り締め、布団の下へ隠す。
「ほんとに、大丈夫っすから」
言い切らなければ、夢が現実に変わってしまいそうだった。
胸元のアストラ・ヴィータが、淡く、淡く光る。
その光は、もう安心の印には見えない。
「さっ、寝ましょ寝ましょ!」
「……はい」
マナンは目を閉じる。
閉じてもなお――
青白い光の槍が、瞼の裏に深く突き刺さっていた。




