動き始める、”不穏”
「――フウカさん、色々とありがとうございました」
「ほんと助かったっす!!」
がらり、と鳴った扉が、やけに大きく響いた。
扉の向こうへ消えていった足音と笑い声が、薄い板一枚を隔てて遠のいていく。
残ったのは、棚に吊るした薬草の乾いた匂いと、床板に染みた土の匂いだけだった。
「……はぁ」
フウカは長く息を吐いた。
忙しさが引いたあとにだけ来る、静けさの重さ。
――さっきまで、確かにここに“光”があった。
青白い、ほんの短い揺らめき。
目を凝らさなければ見逃す程度の、けれど見逃してはいけない種類の光。
(……遺物、ね)
フウカは口の中でその言葉を転がした。
“昔の遺物”。そう呼べば、村の誰もが勝手に納得する。
知らないふりは、ここでは身を守る術だった。
触れてはいけないものに、触れないための言葉。
けれど――
「……あの輝きは、ただの飾りじゃない」
ぽつり、と独り言が漏れた。
声に出した瞬間、交易所の空気が一段冷えた気がした。
棚の奥で干した草束が、かさりと揺れる。
風か。
それとも――自分の心が動いたせいか。
フウカは、唇を引き結んだ。
(あれは……)
(……あれは、“じぃさん”の話に出てきた……)
思い出したくないはずの記憶が、ほどけていく。
古びた交易所の温もりが、次第に冷えていく。
─────
焚き火が、ぱちり、と音を立てる。
跳ねた火花が、闇の中へ消えていく。
集落の隅で、静かに暮らしていた老人がいた。
あの夜――皆が“賢老”と呼んで距離を置いていた、あの人が。
誰に話すともなく、火を見つめながら語った。
フウカはまだ若く、夜更かしの子どもの一人みたいに、その話に耳を傾けていた。
怖いのに、目が離せない。
禁じられている昔話ほど、甘い。
『――はるか昔から、世界には、巨大な木が聳え立っていた』
『それは、ただ立っているだけじゃない。息をしていた』
賢老の声は、火のはぜる音に混ざって、低く落ちてくる。
『根は大地の奥へ。枝は空の果てへ。
その木がいることで、この世界は“形”を保っていた』
フウカは、焚き火の向こうの闇を見つめた。
闇の奥に、南の丘の方角がある。
夜明け前になると、遠くに巨木の輪郭が浮かぶ場所だ。
『木は、生命を育む“不思議な力”を生み出している――そう信じられていた』
『木が生み出す“力”が、土を肥やし、風を運び、水を巡らせる。
皆はそれを、恵みとして受け取って暮らしていた』
それは、おとぎ話みたいに美しかった。
でも、賢老の目は笑っていなかった。
『――ある時、一部の者が気づいた』
『その力は、ただ受け取るものじゃない。
“操れる”ものだってな』
『操る……?』
フウカが思わず問い返すと、賢老は頷いた。
『そうだ。己の意識で、風を呼び、火を灯し、傷を塞ぐ。
雨を避け、道を照らす。
それを――いつしか“魔法”と呼ぶようになった』
焚き火が、ぱちり。
音がした瞬間、フウカはなぜか背筋が寒くなった。
『最初は、暮らしを助ける技だった』
『だがな、人の心は便利に慣れる。慣れると、足りなくなる』
賢老は火を見つめたまま、続けた。
『もっと欲しい。もっと強く。もっと永く。
不思議な力は、恵みから――“道具”に変わった』
『ある時、争いが起きた』
『欲にまみれた人々が木の力を奪い合うようになった』
『力は奪われれば弱り、弱れば恐れが生まれる。恐れはさらに奪う』
――世界は、壊れ始めた。
『そして……木は、眠った』
賢老はそこで一度、言葉を切った。
焚き火の火花が静かに沈む。
暗闇の向こうで、犬の遠吠えが一つだけ響いた。
『木は死んだわけじゃない。だが、以前のようには息をしなくなった』
『だから今、南の丘に見える巨木は――“世界を支えた木の名残”だと、人は言う』
フウカは、その言葉を飲み込んだ。
あの巨木を見上げるたび、胸の奥がざわつく理由を、初めて知った気がした。
『魔法は、戻ればまた争いを呼ぶ』
『だから、祖先は“忘れる”ことを選んだ』
『禁忌にした。語るな、触れるな、思い出すな、とな』
賢老の声が、火に照らされた皺の奥から滲んでくる。
そして最後に、ぽつりと言った。
『……ただな』
『木が眠ったあとも、光が消えたわけじゃない』
『光は、形を変えて存在している』
『時には小さな器に宿ることがある』
『胸に下げる“石”だ。縁に模様がある。冷たい光をする』
フウカは息を呑んだ。
『その石は――持ち主の命と繋がる、と言われている』
『……命?』
賢老は、静かに頷いた。
『石が欠ければ、人も欠ける。
石が奪われれば、命がほどける』
その夜の焚き火の前で、フウカは怖くなって笑った。
「またまた、そんな物騒な話を」と。
信じきれないおとぎ話だと思いたかった。
けれど賢老は、笑わなかった。
『見てはならん。触れてはならん。語ってはならん』
『――“掟”が動くからだ』
─────
(……まさかねぇ)
フウカは回想から引き戻され、息を止めていたことに気づく。
乾いた薬草の匂いが、現実を押し戻してくる。
(でも……)
“胸に下げる石”
“縁に模様”
“命と繋がる”
一致が多すぎる。
フウカは、目を閉じる。
目を閉じても、青白い揺れが瞼の裏に残っている。
あの子――マナンは、明るい。
明るすぎる。
まるで、自分の中の怖さを隠すために笑っているみたいに。
そしてカオルは、純粋で真っ直ぐだ。
真っ直ぐすぎて、危うい。
(……言うべきかい)
団長に、か。
だが――団長は掟に忠実だ。
もし“彼女”の存在が“掟の外”だと判断されたら――
(……カオルが巻き込まれる)
フウカはカウンターの下、隠すように作られた引き出しに手を伸ばした。
古い帳面。
表紙に文字はない。文字がないのが、正しい。
ぱらり、とめくる。
そこには賢老が残した走り書きのような図と、誰かが拾ってきた“欠片”の写しがあった。
どれも、価値があるのか無いのかも分からない。
ただ――似た模様が、いくつもある。
(……本当に、似てる)
フウカは帳面を閉じ、鍵をかける。
鍵の音が、やけに大きく響いた。
――そのとき。
外で、子どもの笑い声が遠ざかっていくのが聞こえた。
そして、その笑い声の隙間に――何か、低い音が混じった気がした。
(……今のは)
唸り声、みたいな。
フウカは顔を上げ、軒先の薬草の揺れを見る。
風が強いだけだ。
そう思おうとして、思えない。
最近、この集落は“気のせい”が多すぎる。
フウカはエプロンを外し、肩に引っ掛けた。
(……賢老のところへ行くかい)
あの老人なら、何か知っている。
知っているからこそ、誰も近づかない。
でも――今夜は、近づかないといけない気がする。
フウカは、戸口に手をかけた。
――がらり
夜気が肌を撫で、店の匂いをさらっていく。
集会所のほうを見ると、灯りがまだ落ちていない。
団長も起きている。眠れていない。
フウカは一歩外に出て、扉をそっと閉めた。
音を立てないように。
誰にも気づかれないように。
胸の奥に、青白い光の残像を抱いたまま。
そして、南の丘の方角をほんの一瞬だけ見た。
夜の闇に沈むはずの巨木が――気のせいか、輪郭だけわずかに浮いて見えた。
(……気のせいじゃ、ないのかねぇ)
フウカは唇を引き結び、足を速めた。




