マナンと、悪夢
――どこだろう、ここは。
懐かしい匂いがする。胸の奥が、痛むほどに。
――わかった。これは“夢”だ。
だけどこれは、思い出したくない、“悪夢”。
─────
「ミチルちゃん……どうして、裏切ったの……?」
血の匂いがする。
濡れた石畳の冷たさが、背中越しにまとわりつく。
喉の奥がひりひりして、声がうまく出ない。
「ごめんね、“お姉ちゃん”……」
その声は、泣いているみたいに優しい。
なのに、刃物みたいに胸を裂く。
(……ごめん、って)
(ごめんで、済むわけないのに)
世界がぐらり、と揺れた。
─────
揺れが収まる前に、景色が塗り替わる。
血の匂いは消え、代わりに香の煙と、人の気配が押し寄せた。
「――カリオス魔法学院の校則により、“元”巫女、マナンを当学院より『追放』する」
言葉は冷たい。
氷の板を床に落としたみたいな冷たい音が、大講堂に響いた。
カリオス魔法学院――大講堂。
高い天井、整然と並ぶ椅子、祭壇みたいな壇上。
そこに立つ教師の表情は、最初から最後まで“規則”の顔をしている。
元同級生たちの顔が、一斉に凍りついた。
「……」
誰も動けない。
誰も声が出ない。
それでも、小さな震えが集まって、波になって広がっていく。
(なんで)
(なんで、なんで、なんで)
(間違ってないのに)
最初は、か細い震えだった。
誰かが息を吸い込む音、堪えきれずに漏れる嗚咽。
それがやがて大きくなり、誰のものかわからない声になって大講堂に響いた。
「そんな……彼女は間違ってないのに……!」
「どうして、マナンさんだけ……!?」
「校則だからって……こんなの、おかしいよ……!」
一人の女学生が泣き声を上げた。
それを合図みたいに、涙が溢れ始める。
「……校則は、学院と、この街を守るためにある」
教師の言葉が、涙を拭う音をかき消す。
「彼女は、その校則を破った」
「先生! でも、それは……!」
ある生徒が立ち上がろうとする。
「静粛に」
教師の目が、その生徒を射止める。
立ち上がろうとした足が、震えながら元の場所へ戻った。
「……」
沈黙が、また大講堂を支配する。
けれど、この沈黙はさっきとは違う。
涙を堪える呼吸。
歯を食いしばる音。
悔しさを飲み込む、喉の鳴り。
それらが見えない壁となって、教師と生徒たちの間に立ちはだかっていた。
「退場させろ」
教師の短い命令。
「――は、はい」
生徒会役員が数人、私の両腕を掴む。
(皆、この前まで私の仲間だったのに)
腕を掴むその手は、冷たく、そして固かった。
怖いのは、手の冷たさじゃない。
“掟”のほうだ。
みんなが、掟に従って私を遠ざけていく――その現実。
「……」
私は何も言えなかった。
ただ、涙が止まらない。
(間違ってないのに)
(私は、ただ……)
(……ただ“助けたかった”だけなのに)
─────
あの日は、雨だった。
雨の中、私は一人、泣いていた。
私の居場所は奪われてしまった。
――それも、一番大切に思っていた“家族”によって。
雨に打たれる冷たさと、心の中の冷たさ。
どちらが辛いのか、もうわからなかった。
見上げた先には“光の世界樹”。
光を失いつつあるその輝きは、私の涙を照らすことなどなく、ただ、孤独に立っていた。
(……もう、どこにも……)
(私の、帰る場所は……ない……)
冷たい雨が肌を打つ感覚。
孤立する絶望。
それが、身体の奥から私を締め付けて――
(沈む)
悪夢の底に、沈んでいく。
─────
「――あれ……?」
意識が、ゆっくりと浮上する。
まず目に映ったのは、木の天井だった。
年輪の筋が妙にくっきり見えて、時間そのものが刻まれているみたいに不気味だ。
次に匂ったのは、乾いた草と土の匂い。
それに、ほのかに薬草の甘苦さ。
(……ここ……)
頭ががんがんと痛む。
身体は重く、夢の続きみたいに現実感が薄い。
「……ここ……どこっすか……」
自分の声が、遠くで響くみたいに聞こえた。
(……そうだ……ペンダント……)
先程までの出来事が、脳裏に一気に蘇る。
交易所。
焦る手。
胸元の“空”。
そして――見つからない、という言葉。
(私の“命”……無くしたら……)
胸が、きゅっと縮む。
(カオルくんと……過ごせなくなる……)
(大切な……)
反射みたいに、胸に手をやった。
そこには、何もないはずだった。
けれど――
「……えっ?」
指先に、冷たくて硬い感触が触れた。
そこには確かにペンダントがある。
“アストラ・ヴィータ”が、淡い青白い光を、かすかに呼吸するみたいに放っていた。
「……!? なんで……」
(……ここに……?)
混乱で、言葉が出ない。
「あっ、マナンちゃん。目を覚ましたんだね」
奥から、フウカの声がした。
─────
ここは交易所の奥――物置兼休憩室らしい。
干した薬草が束になって吊られ、毛布が一枚、雑に畳まれている。
「どうだい? 具合は」
マナンが顔を向けると、木箱の陰からフウカが現れた。
「……まだちょっと、頭が痛いっす……けど……大丈夫っす」
“平気”という言葉は、喉に引っかかって掠れた。
本当は、平気じゃない。
胸の奥にまだ、あの“空っぽ”の冷えが残っている。
フウカはマナンの横に座り、優しく微笑んだ。
「そのペンダント、カオルが一生懸命探して見つけたんだよ」
「……!」
心臓が跳ねた。
「アキネがね、悪気なく持って行っちゃったみたいでさ。
あの子、マナンちゃんのこと大好きだろ? 真似したかったんだろうね」
フウカは、少しだけ呆れたように笑った。
「でもカオルはそれを知らずに、まるで森で獲物を探すみたいに、
交易所を隅から隅まで探し回ったんだよ」
「……」
目の奥が熱くなって、瞬きが追いつかない。
「カオル、泣きながら探してたよ。『無くしたらマナンさんが死んでしまう』って」
「……え……?」
声が、震えた。
「最初は大袈裟かと思ったさ。
でもね……あの必死さを見てたら、これは本当に、あなたにとって“世界が終わる”くらい
大事なものなんだなって、私でも分かったよ」
フウカの言葉が、胸の奥にじんわり染みていく。
(カオルくんが……必死に探してくれた……)
(私のために……)
悪夢の中の冷たい記憶が、少し遠のいた。
かわりに、温かい誰かの手が、こちらに伸びてくる。
「……すみませんでした」
マナンは俯き、小さな声で謝った。
「私……心配かけちゃって……」
どんな気持ちで探してくれたのか。
想像するだけで胸が苦しくなる。
――苦しいのに、嬉しい。
「謝るなら、カオルに謝ってあげな」
フウカは少しだけ真面目な顔になった。
「それに大丈夫さ。この集落は、何かあったらみんなが心配する。嫌でも噂が回るくらいにね」
「……」
「マナンちゃんも、心配してくれる“彼”のこと、大事にしないとね」
その言葉が、胸に小さな棘みたいに刺さった。
でも、その棘は痛いだけじゃない。
“本当に大事なもの”を教えてくる痛みだ。
マナンは、黙ってペンダントを握った。
─────
「マナンさん!!」
交易所の扉が勢いよく開くと、息を切らしてカオルが中に飛び込んできた。
目元が赤い。頬には涙の跡が残っている。
「――起きたんですね!?」
駆け寄ってきたカオルは、マナンの顔を確かめるように覗き込む。
その目が揺れていて、今にも崩れそうだ。
言葉を探すより先に、彼の肩が震えた。
「カオルくん……その、心配を――」
マナンが言いかけた瞬間、カオルは躊躇なくマナンに抱きついた。
「……っ」
胸に、体温がぶつかる。
びっくりするほど真っ直ぐな抱擁だった。
「……目を覚さないんじゃないかと……本当に……心配、しました……」
声が震えていた。
言葉の合間に、鼻をすする音が混じる。
(ああ……)
(心の底から、心配してくれたんだ……)
その温もりは、さっきまでの冷たい悪夢を溶かすくらい強かった。
「……良かった、です……」
カオルの息が、まだ乱れている。
抱きしめる腕の力が、少しだけ強くなる。
「心配、かけちゃったっすね……」
マナンは、そっとカオルの背中に手を回した。
怖がらないように。
大丈夫だって、伝えるために。
「……ありがとう、カオルくん」
短い言葉しか出なかった。
それでも、カオルの肩が少しだけ揺れた。
─────
フウカはそんな二人の姿を少し離れた場所で見守っていた。
「――ああ、そうだ」
フウカが軽く咳払いをして、空気を柔らかく切り替える。
「お詫びと言っちゃ何だけど、マナンちゃんに渡したいものがあるんだ」
奥の部屋へ消え、まもなく戻ってきたフウカの手には、
少し古びた――けれど丁寧に畳まれた服があった。
淡い水色の麻布。
飾りは少ないのに、縫い目がしっかりしていて、使い込まれた優しさがある。
「これは、私の若い頃のものだよ。すっかり着なくなったけど、あなたに似合うと思うのさ」
「――えっ、私に……?」
「ああ。遠慮はなしだよ。今の服は……この暮らしには少し華奢すぎるだろ?」
マナンの今の服は、元の世界で着ていた“学生服”だ。
鮮やかな紫、ふわりとしたシルク、精緻な刺繍。
綺麗だけど――この集落の土や風の中では、どこか“浮いて”しまう。
「……でも、この服は……」
「綺麗なのもいい。でもね、時には動きやすい服が、心を助けることもある」
フウカは服をそっと差し出した。
「着てみてくれるかい?」
「……はいっす」
受け取った布は、思ったより温かかった。
布の温度というより――“誰かの好意”の温度だ。
「――カオル、外で待っててくれるかい?」
「……はい」
カオルは一拍ためらってから、素直に頷き、交易所の外へ出ていった。
─────
着替えは少しだけぎこちなかった。
フウカの前で服を脱ぐのは恥ずかしい。
でもフウカは、そんな空気をさらりと流すのが上手い。
「マナンちゃん、着やせするタイプかい?」
「えっ」
思わず声が裏返った。
─────
新しい服は、肌にまとわりつくシルクと違って、さらりとしていた。
動かすたびに風が抜けていく。
その感覚が不思議と心地よくて、胸の冷えまで少しずつ薄まっていく。
「どうっすか?」
フウカが満足そうに頷く。
「とても、似合ってるよ」
「……本当っすか?」
「本当だよ」
部屋の隅に置かれた鏡を見る。
そこには、いつものマナン――だけど少し違うマナンが映っていた。
猫耳カチューシャは健在。
星空みたいな瞳も変わらない。
でも、その姿は今までよりほんの少し、この世界の空気に馴染んでいる。
「……」
「――どうしたの?」
「いえ……なんだか……」
言葉が詰まる。
「なんだか……この集落に、馴染んだなぁ……って感じがするっす」
フウカがふっと笑う。
「それは、いいことだよ」
――その時。
交易所の扉が、そっと開いた。
「――マナンさん、着替え……」
カオルが部屋に入ってきて――言葉が途切れた。
カオルの視線が、まっすぐマナンに刺さる。
見つめるというより、確かめるみたいに見ていた。
そして次の瞬間、カオルは慌てて視線を逸らした。
「……何っすか?」
「……綺麗、です」
ぽつり。
落としたみたいな声。
「……え?」
「その服、とても……」
「……」
「――似合っています」
頬が、ほんの少し赤い。
それに気づいた瞬間、マナンの口元が勝手に緩んだ。
「……ははーん。見惚れたっすね? カオルくん」
「ち、違います! ……い、いや、違わなくはないですけど! その、ただ、服が……!」
「うんうん。わかってるっす。でも、喜んでくれて嬉しいっすよ」
マナンはくるりと一回りした。
水色の麻布が、風に舞う花びらみたいにふわりと広がる。
そのとき。
交易所の隅に、小さな影が揺れているのが見えた。
「……ややっ?」
そこにいたのは、ミハルと――アキネだった。
アキネはマナンから目を逸らし、指先をじっと見ている。
手の中に、何かを握りしめたまま。
「……アキネちゃん?」
マナンが近づくと、アキネは俯いたまま、小さな声で言った。
「……ごめん、なさい……」
「どうして謝ってるの、アキネちゃん?」
「ペンダント……わたしが、隠しちゃった……から」
肩が小さく震えている。
その震えが、さっきの夢の“大講堂”の冷たさを一瞬だけ思い出させた。
――けれど、ここは違う。
「……マナンさん、アキネちゃんを責めないであげてください」
カオルが一歩前に出る。
優しく、でも庇うように。
「悪気はなかったみたいで……ペンダントが置きっぱなしになってるのに気づいて、僕の家に届けようとしたらしくて。
でも途中で怖くなって、隠してしまったみたいです」
アキネは唇を噛んで、必死に涙を堪えている。
マナンはしゃがみ込んで、アキネと同じ目線になった。
「……うん。分かってるっすよ」
それから、そっとアキネの頭を撫でた。
「アキネちゃんが悪いんじゃないっす。
それに、私は怒ってないっすから……心配しなくていいっすよ」
「……ほんと、に?」
「うん。本当っす」
アキネの肩から、少しだけ力が抜ける。
そして、アキネは握りしめていたものを差し出した。
「……その、おねーちゃん……わたしの、これ……」
「……これ?」
きれいな桃色のリボンだった。
少し毛羽立っていて、何度も結び直した跡がある。
“お気に入り”なのが、見ただけで分かる。
「これ、おねーちゃんに、あげる……」
「えっ、私に……?」
「わたしの、おきにいり……おねーちゃん、似合う、と思う……」
期待と不安で、アキネの頬が赤い。
マナンは、胸の奥が温かくなるのを感じた。
(……私のいた場所では、こんなふうに“赦す”余裕、なかった)
(……でも、今は)
「……ありがとう、アキネちゃん」
リボンをそっと受け取る。
小さな布なのに、手のひらが熱くなる。
「……結んでみていいっすか?」
「うん!」
マナンは髪をまとめ、リボンをきゅっと結った。
「……どうっすか?」
「きれい……!」
アキネの瞳がきらりと輝いた。
「すごく、似合ってる……おねーちゃん、お姫様みたい」
「お姫様っすか?」
照れくさくて、笑って誤魔化しそうになった。
でも――不思議と、嬉しかった。
(お姫様みたいって言われて、初めて嬉しいって思えたっす……)
鏡に映った自分は、もう少し前までの自分と違う。
今までの自分は、この世界の住人じゃないみたいに浮いていた。
けれど今の自分は、この世界の空気を吸っている。
ちゃんと、地に足がついている。
「……ねえ、カオルくん」
マナンが振り向いた。
「……この服、どうっすか?」
「――とても、似合っています」
カオルの瞳に、今のマナンが映り込んでいた。
「カオルくんの言うことだから、嘘じゃないって分かってるっすけど」
マナンはにやりと笑う。
「――でも、もっと正直に聞きたいっす」
「……正直、に?」
「はいっす。カオルくんの本心で、この服はどうっすか?」
カオルはしばらく言葉を探すように口を開けて、閉じた。
それから、まっすぐマナンを見つめて、ゆっくり言った。
「――その服は、マナンさんらしい、です」
「……? 私らしいっすか?」
「はいマナンさんは、明るくて、元気で……周りを明るくする光みたいな人だと思うので……
だから、その服みたいに、きれいで、優しい色が似合うと思います」
「……」
胸が、ひょいと跳ね上がる。
「……それに」
カオルは一瞬詰まって、耳まで赤くなる。
「――なんて言うか……」
「なんて言うか、なんですか?」
「……なんて言うか……ずっと、見ていられる服です」
「……!」
マナンの顔が熱くなるより早く、カオルの方が慌て始めた。
「――ちちち、違います!! 服の話です!!」
「ややっ!? 今のは言い訳っすか!?」
「言い訳じゃなくて……! その……!」
マナンはカオルの狼狽する様子を目で追って――
「――あははっ」
つい、笑ってしまった。
「……な、なんで笑うんですか!?」
「だって、カオルくんの顔がおもしろいっすから」
「お、おもしろい……!?」
「……でも、嬉しいっす」
小さく呟く。
「――ありがとう、カオルくん」
「……」
カオルは何も言わず、ただ俯いた。
その仕草が、逆にマナンの胸を高鳴らせた。
胸元で、“アストラ・ヴィータ”が淡く光る。
さっきまでの悪夢の冷たさを、少しずつ遠ざけるみたいに。
(……帰る場所は、ないって思ってた)
(でも――)
今は、ここに手を伸ばしてくれる人がいる。
マナンは、そっとリボンの結び目を指で確かめた。
ほどけないように。
この温かさが、消えないように。




