マナンの、感謝
湯気が落ち着き、鍋の底が見える頃には、二人の頬も少しだけ赤みを引いていた。
「……ごちそうさまでした」
カオルが器を胸の前で持ち、いつもより丁寧に頭を下げる。
「ごちそうさまっす! いやぁ~……美味しかったっすねぇ……」
マナンは満足そうに背伸びをして、腹のあたりをぽんぽんと叩いた。
未だに着けている猫耳カチューシャの耳が、機嫌良さげにぴょこりと揺れる。
(……こういうの、ずるい)
カオルは視線を逸らしながら、空になった器を受け取った。
一緒に食べただけで、部屋の空気が変わってしまう。
孤独が当たり前だった空間が、少しだけ“家庭”になる。
嬉しい。でも、その分怖い。
慣れてしまえば、染み付いてしまえば、当たり前になってしまえば……
――失ったときの反動が、怖い。
「片付け、僕がやります」
「え~? 私もやるっすよ! 共同生活っすから!」
「……じゃあ、机を拭くのをお願いしてもいいですか」
「任せるっす!!」
カオルが桶に水を汲む間、マナンは布を取り出して机を拭く。
乾いた木の天板が、布の往復に合わせて小さく鳴った。
そこに、さっきまで湯気の甘さが残っている。
鍋を洗うと、ミルクの匂いが湯にほどけていく感覚がして、
指先に残る温度が、なぜだか名残惜しく感じた。
「……ねえ、カオルくん」
「はい?」
「今日……とっても楽しかったっすね」
マナンが、器を拭きながら言った。いつもの調子なのに、声だけが少し柔らかい。
「……はい」
カオルは短く返した。長く返したら、何かが溢れそうだったから。
─────
片付けが終わると、部屋の中は急に静かになる。
灯りが揺れ、外では風が草を撫でている音がした。
昼の賑やかさは遠く、今は家の小ささが、逆に安心をくれる。
「……そういえば、お風呂はどうするっすか?」
マナンが腕を伸ばしながら言う。
その言葉にカオルの耳がぴくりと反応した。
(そうだ……お風呂……)
一昨日はきちんと風呂釜を炊いたが、昨日は宴会のドタバタで入りそこねた。
今日は、ちゃんと生活として向き合わなければならない。
「流石に夜ももう遅いですし、前みたいにお風呂を沸かしてる時間はないので、
その……、桶にお湯を張って、体を拭く程度で良ければ……」
「桶!? それ、お風呂って言うんっすか!?」
「……すみません」
「いやいやいや、謝ることはないっすよ!!」
マナンは真剣な顔をして、うんうん頷いたあと、ぱっと笑う。
「身体を洗えるなら問題ないっす!」
カオルは頷き、お湯を用意し始めた。
鍋で湯を沸かし桶に移してから、水で温度を調整して桶を浴室へ持っていく。
その手つきは慣れているはずなのに、今日はどこか落ち着かなかった。
「じゃあ、私、先に入っていいっすか?」
マナンが言う。
カオルは、少しだけ迷ってから頷いた。
「……はい。僕は、その間に寝る準備をしてます……」
「了解っす!」
マナンは軽い足音で浴室へ向かった。
戸が閉まる直前、振り返って笑う。
「あっ、覗いたらデコピン百回っすからね!!」
「の、のぞきませんよ!!」
冗談だと分かっているのに、心臓が跳ねる。
カオルは慌てて部屋へ戻り、寝具を整え始めた。
……が。
しばらくして、戸の向こうから聞こえたのは、湯を浴びる音ではなく――
「”うわちちちち……”」
マナンの困惑した声だった。
(……?)
カオルは一旦手を止め、マナンの方へ呼びかける。
「……マナンさん? どうしましたか」
「カオルく~ん! 助けてほしいっす! お湯が熱すぎるっす!
お水を持ってきて貰ってもいいっすか~」
呼びかけると、浴室から返事が聞こえる。
声のトーンが、切羽詰まっているのを感じる。
「……わ、分かりました。……」
急いで井戸から水を汲み上げて、鍋に移し替える。
鍋を持って浴室の戸口に立った瞬間、湯気がふわりと流れてきた。
白い蒸気が月明かりをぼかし、空気が一瞬だけ別世界みたいになる。
「……あの、持ってきましたけど……」
カオルは視線を上げないまま言った。
「あっ、どうもっす。じゃあ悪いっすけど、こっちに渡してくれるっすか?」
マナンの声は明るい。けれど、湯気の向こうで動く気配が、やけに近い。
(……落ち着け)
(見ない。見ない。見ない)
カオルは目を伏せ、鍋の持ち手をマナンの方に向け差し出す。
「……」
カオルが鍋を渡そうとした、その時。
「あっ」
手が滑って、水音と同時に、ひやっとした水の感触がカオルの両足を濡らす。
「ひゃっ……!」
反射的に顔を上げそうになって、慌てて目を閉じる。
「ご、ごめんっす! 結構な量こぼしちゃったっす!」
マナンが慌てる音がして、木で出来た椅子が”がたん”、と鳴る。
「大丈夫です……! 大丈夫ですから……!」
カオルは目を閉じたまま後ずさる。
足元の冷たさが、逆に意識を現実へ引き戻す。
(……危ない)
(危ない危ない危ない……!)
「……カオルくん」
マナンが、少しだけ声の調子を変えた。
「……はい?」
「目、ぎゅって閉じてる顔、面白いっすね」
「べべべ、別に面白くないです……!」
マナンが小さく笑う。
その笑い声は、湯気みたいに柔らかくて、胸の奥をほどいてしまう。
「……カオルくん」
「はい……?」
「私、ここに来てから、知らないことばっかりっす」
声が、少しだけ静かになる。
「でも、こうやって……誰かに生活の仕方を教えてもらえるの、なんか……安心するっすね」
カオルは、言葉に詰まった。
(……安心)
それは今のマナンから一番遠い言葉だと思っていた。
命に期限があって、魔法も使えなくて――
それでも、彼女は“安心”と言った。
「……でも、僕はマナンさんみたいに、魔法を使えたりとか……何も、特別なことはできません」
「別に、特別じゃなくていいっすよ」
マナンは、即答する。
「特別じゃないことが、大事なことだってあるっすから……」
その言葉が、胸に刺さる。
痛いのに、温かい。
カオルは深呼吸して、ようやく言う。
「……水、足りなかったら言って下さい」
「はいっす! ……熱かったら、叫ぶっす!」
「叫ばないでください……!」
笑いが漏れる。
湯気の向こうの気配が、少しだけ遠のいた。
「……じゃあ、僕は戻ります」
カオルが背を向けた、そのとき。
「カオルくん」
呼ばれて、足が止まる。
「……ありがとうっす」
小さな声だった。
ふざけた調子ではなく、飾り気のない声。
カオルの喉が鳴る。
返事をするのに、少し時間がかかった。
「……どういたしまして」
それだけ言って、カオルは逃げるみたいに部屋へ戻った。
背中が熱い。
頬も、耳も、熱い。
(……だめだ)
(このままだと、近づくほど……)
近づくほど、失うのが怖くなる。
――けれど。
あの「ありがとう」は、確かに救いだった。
─────
しばらくすると、戸が静かに開き、マナンが戻ってきた。
まだ湿った髪の毛先が、首筋を伝う水滴が光っている。
「次、カオルくんの番っす!」
「……はい」
カオルは布をお湯につけ、体を洗う。
冷えた体が温まっていくはずなのに、感覚がふわふわする。
胸の奥の鼓動が、普段より早いような気がする。
(……さっきまで、ここでマナンさんが身体を……)
(って何を考えてるんだ、僕は……)
(慣れないと……いや、慣れちゃ駄目なのかな……?)
心の中で問答する。
「……クシュン!!」
─────
「……ねえ、カオルくん」
二人が横並びで布団に入ったあと、マナンが囁くように言った。
「どうしました?」
「明日、自警団を案内してくれるって言ってたっすよね」
「……はい」
「楽しみっす」
それは、子どもみたいな声だった。
カオルは、天井の染みを見つめながら答える。
「……はい」
本当は、もっと言いたかった。
“明日が来るのが怖い”とも。
“来てほしい”とも。
でも言えない。
言ったら、いずれ来る”終わり”が輪郭を持ってしまう気がした。
「……おやすみっす」
「……おやすみなさい」
やがて、呼吸が揃っていく。
その夜の静けさは、孤独の静けさとは違った。
“誰かがいる”という静けさだった。
─────
翌朝。
カオルは、目を開けた瞬間に分かった。
(……身体が、だるい)
体が重い。節々が軋む。
喉が熱く、息を吸うたびに痛い。
頭の内側に、薄い膜が張ったみたいにぼんやりする。
起き上がろうとして――ふらついた。
「……っ ゲホッゲホッ!!」
咳き込んで、思わず壁に手をつく。
その音で、隣の布団が動いた。
「ん……? カオルくん……?」
寝ぼけた声。
マナンが目をこすりながら起き上がる。
「……早起きっすね……」
言いながら、カオルの顔を見て――固まった。
「え……カオルくん……顔、真っ青っすよ」
「……大丈夫……です」
声が、自分でも分かるくらい掠れていた。
マナンの瞳が、すっと真剣になる。
冗談の欠片もなく、布団を跳ねるみたいに出てきた。
「おでこ、触るっすよ」
「え……」
返事をする前に、手のひらが額に当てられる。
――ひやりとした指先。
それだけで、安心してしまいそうになるのが怖い。
「……熱いっす」
マナンが低く言う。
「咳と熱、それにその顔色
――カオルくん……風邪っすね!!」
断言。
次の瞬間、慌てて付け足す。
「……大丈夫っす! 風邪は安静にして栄養のあるものを食べたら治るっす。多分!」
「たぶんって……ゴホッゴホッ!!」
カオルは苦笑しようとして、咳き込んだ。
「……ほら、無理しちゃ駄目っす!」
マナンが背中をさすりながら言う。
その手が、昨日の湯気より温かい。
「今日は案内どころじゃないっすね」
「でも……」
「でもじゃないっす! 今日は私がカオルくんの看病をするっす!」
「……」
「私、集落に行って、薬草とかなんか効くやつ探してくるっす」
マナンが立ち上がり、カチューシャと帽子を手に取る。
カオルは反射的に手を伸ばした。
「……待って、下さい……」
「大丈夫っす」
マナンは笑う。けれど、その笑顔は昨日の軽さと違う。
「もしカオルくんに何かあったら、私……困るっすからね」
その一言が、胸に落ちる。
“困る”。
それはつまり、必要とされているということだ。
嬉しいのに、怖い。
「……なるべく、すぐ戻るっすから!!」
マナンは戸口で振り返り、猫耳を揺らして見せる。
「だから、寝てるっすよ。いいっすね?」
「……はい」
戸が閉まり、部屋の中に静けさが戻る。
けれど今日の静けさは、いつもとは違く感じる。
(……マナンさんが、外に出た)
(僕の目の届かないところへ)
胸の奥が、嫌な形にざわつく。
それでも、体は動かない。
瞼が重く、意識が沈む。
(マナンさんは……きちんと帰ってきてくれるかな?)
その不安を抱いたまま、カオルは熱に浮かされるように、再び眠りに落ちていった。




