マナンと、チーズ作り
二人は、ミルクを求めて集落の西に広がる草原へ足を踏み入れていた。
見渡す限り、草の海。
風が波を立て、陽光を受けた穂先が白くきらめく。
遠くでは小さな雲がゆっくり流れ、空はどこまでも高い。
「わぁ……広いっすね……」
マナンの声が、思わず漏れた。嬉しそうなのに、足取りは慎重だ。
草原を横切る細い踏み跡を踏みしめながら、彼女は時折振り返ってカオルを見る。
そのたびにカオルの胸が、微かにざわつく。
(……この景色を見て、マナンさんは何を思うんだろう)
“帰れないかもしれない”世界。
“命が削れていく”世界。
それでも彼女は、目の前の未知にちゃんと目を輝かせる。
カオルはその強さが眩しくて、少し怖かった。
「カオルくん、あそこ……!」
マナンが指差した先――草の波の向こうに、白い大きな影が揺れている。
風に乗って、腹の底に響く鳴き声が届いた。
「”もぉぉーーー!!”」
「……見つけましたね」
カオルが答える間にも、影はゆっくり動き、数が見えてくる。
白い毛並みの大きな牛が、群れをなして草を食んでいた。
「うわぁ……! あれが、私が探してた乳牛さんたちっすか!」
「厳密には牛じゃなくて……魔物です」
「魔物!?」
「でも攻撃的な種類じゃないです。人の生活圏にも出てくるし、
近所の畑を荒らさない限りは放っておく――そんな扱いで、半分“放し飼い”みたいになってます」
カオルは言いながら、目を細めた。
「ただし……ひとつ注意があります」
「注意?」
「興奮すると、突進します」
マナンが「へ?」と首を傾げた、その瞬間。
草原の向こうから――
白い巨体が、ありえない速度で一直線にこちらへ向かってくるのが見えた。
「……あっ」
カオルの口から、声にならない声が漏れる。
「え、ちょ、なんか……すごい勢いでこっちに――」
マナンが言い終えるより早く、地面が揺れた。
ドドドドド……!
「カオルくん、あれ、こっち見て――」
「マナンさん、下がって!!」
カオルが腕を伸ばした、その瞬間。
ドゴッ!!
「ゥグッ……!!」
鈍い衝撃。
白い彗星――ミルモーモが、角ではなく額で、全力の“頭突き”を叩き込んだ。
カオルの身体が、ふわっと浮いた。
(あ、これ……ダメなやつだ……)
次の瞬間には、空が近い。
綺麗すぎるほど綺麗な放物線を描いて、カオルは草原の向こうへ消えていった。
「カ、カオルくーーん!!?」
─────
――草の上。
転がったカオルは、なんとか起き上がり、額を押さえた。
「……うぅ……」
「大丈夫っすか!? 今、すっごい綺麗に飛んでいったっすけど!!」
「……あいつら……人懐っこいというか……」
「いや、懐っこいってレベルじゃなかったっすよ!? 攻撃されてましたよ!?」
カオルは苦い顔で草を払う。
「……あれは……挨拶、みたいなものです」
「挨拶で人を飛ばすんっすか!?」
「興奮しすぎて……つい……って感じで……」
「つい、で人が飛ぶ世界、怖すぎるっす!!」
マナンが両手を腰に当て、ぷりぷり怒ったふりをする。
けれどその目は、ちゃんと光っている。恐怖だけじゃない。面白がっている。
「まぁ、怪我がないなら何よりっす!!」
マナンはぱん、と手を叩いた。
「……それはともかくっすよ!」
「私たち、ミルクを貰いに来たんっす!」
「……はい」
カオルは深呼吸して立ち上がる。
今度は、慎重に。
(マナンさんに……無茶はさせない)
そう決めて、群れへ向かった。
ミルモーモの群れは、草原の少し窪んだ一画に固まっていた。
白い毛並みが風に揺れ、のんびり草を食む姿は平和そのものだ。
「この子たち、ミルモーモっていう魔物の一種なんです。
でも基本は温厚で、人を見ても逃げない。……ただ」
カオルは、さっきの一撃を思い出して眉をひそめる。
「テンションが上がると、距離感が壊れます」
「なるほど……テンションが上がると、人を飛ばす」
「そういうことです」
「怖いっすね!!」
口ではそう言いながら、マナンは近くの一頭に手を伸ばした。
ふわふわの毛並みに触れようと――
しかし。
ミルモーモは、すっと一歩退いた。
まるで“線”を引くみたいに、距離だけを保つ。
「……ややっ?」
マナンがもう一歩近づく。
ミルモーモも、もう一歩退く。
「……あれれ?」
マナンは首を傾げた。
「もしかして……私、嫌われてるっすかね……?」
「嫌いというより……警戒だと思います」
「でもカオルくんは警戒されてないじゃないっすか!」
カオルは困って耳を揺らした。
「うーん……匂い、ですかね。僕はいつもこの辺に来たりしてますし」
マナンは、ぱっと顔を上げる。
「匂い……」
そして、急に結論へ跳ぶ。
「つまり、私がカオルくんの匂いを纏えばいいってことっすよね?」
「……へ?」
「カオルくん! その外套、貸してほしいっす!」
マナンはカオルの外套を指差した。
「え……? こ、これを?」
「そうっす! これ被ってれば、警戒しなくなるはずっす!」
「で、でも……それだとマナンさんが――」
“僕の匂いを全身に纏う”という事実が、カオルの思考を止める。
別の意味で危険だ。
「いいからいいから!!」
マナンはカオルの制止を振り切り、外套をひったくるように奪い取った。
そして頭からすっぽり被る。
「えへへ……カオルくんの匂いがいっぱいするっす……」
外套の中で、くんくん、と真剣に匂いを嗅ぐ。
「……っ」
(匂いっ……嗅がれてる……)
カオルの顔が、火が出そうなくらい赤くなった。
耳がぴこぴこ落ち着かない
「あ、あの……マナンさん……」
「さぁ、これでミルモーモちゃん達の警戒を――」
「ち、違うんです。そうじゃなくて……」
「どうしたんっすか?」
カオルは、震える指でマナンの背後を指した。
「……後ろから、すごい勢いで近づいて来てます」
「え?」
マナンが振り向いた、その瞬間。
目をきらきらさせた巨大なミルモーモが、鼻息荒く迫ってきていた。
「ブ、ブモォォォォーーー!!!」
「うわぁー!! やっぱりこうなるっすよねぇ!?」
「だから言ったんですよ!!」
ドゴッ!!
「うぐぅっ!!」
マナンは見事に空高く舞い上がり、
さっきのカオルより綺麗な放物線を描いて、草原の向こう側へ消えていった。
「マナンさーーん!!」
─────
しばらくして。
草原の向こうに消えた影が、地平線に“戻って”くる。
よたよたと歩く姿は、どこか世界の果てからの帰還のようだった。
「マ、マナンさん……大丈夫ですか!?」
カオルは駆け寄り、彼女の肩を支えようとする。
マナンは草の上にぺたんと座り込み、尾てい骨のあたりをさすりながら、へらっと笑った。
「ふふふ……このへん地面柔らかいのと……お尻から着地したおかげで、なんともないっす……!」
「いや、絶対痛いですよね!?」
「大丈夫っす! 私のお尻は多少のことじゃびくともしないっす!」
「そういう問題じゃ……!」
カオルが心配でくるくる回る間に、マナンは胸元のペンダントに指を添える。
その仕草が一瞬、カオルの心臓を冷やした。
(……減ってない?)
見た目には分からない。
でも、昨日の話が頭から離れない。
「それより、カオルくん!」
マナンは急に立ち上がり、カオルの手を掴んだ。
草原の香りと、ほんの少しの擦り傷の手触りが伝わってくる。
「私たち、見事なチームワークじゃないすか!」
「チームワーク……?」
「そうっすよ!」
マナンは嬉しそうに頷き、勝手に作戦を語り出す。
「私が外套を着てミルモーモを誘い出し、カオルくんがその間にミルクを採取する……!
作戦は大成功じゃないっすか!」
「いや、それは……」
カオルは言い返しかけて、桶の中身に目を落とす。
そこには白く濁った液体が、たっぷり揺蕩っていた。
「……確かに、採れました」
「でしょ!? 大漁っす!!」
マナンは桶を覗き込み、目を輝かせる。
「こんなに採れたら、シチュー何杯も作れるっす!」
カオルはため息をついた。
彼の経験では、こんなに手際よく採れたことはない。
マナンの無茶が、結果的に“群れの興奮を一箇所に集める”という奇跡を起こしてしまった。
「でも……こんなにあっても、多すぎますよ……?」
現実的な言葉に、マナンは得意げに胸を張った。
「そこで私の出番じゃないすか!」
そう言って、帽子の中から小さな鍋を取り出す。
「それ……この前の……」
――出会った夜、風呂桶に水を満たすのに使ったあの鍋。
「そうっす! すっごいアイテムの一つ、“アルカナ・コッペル”っす!」
「……それ、魔法を使うんですか?」
「ん~……微妙に違うっす。便利道具寄りっすね。まぁ細かいことはいいっす!!」
マナンは鍋を抱え、ぱっと走り出す。
「とにかく急ぐっすよ! ミルクは鮮度が命っす!!」
マナンはミルクの入った鍋を持ち、カオルは桶を抱えて追った。
胸が高鳴る。
“常識”と“非常識”の境界が、マナンといると少しずつ溶けていく。
─────
帰り道。
夕暮れが二人の影を長く伸ばしていく。草原の青が、静かに橙色と紫へ移ろっていく。
風は行きより湿り気を帯び、ミルクの甘い香りを運んできた。
カオルは、その香りを嗅ぎながらマナンの背中を追う。
(マナンさんのいる黄昏……いつもと違う風景だ)
黄昏の風は冷たさを増し、頬を撫でる。
「うぅ~……冷えてきたっすね……」
マナンの声が小さく震えた。
(やっぱり寒いんだな……)
カオルは小走りに並び、そっと外套を差し出す。
「これ……着ますか?」
「いいんっすか?」
「寒そうなので……」
「じゃあ、お言葉に甘えるっす!」
マナンは嬉しそうに微笑み、外套を受け取って纏った。
ふわりと広がるそれは、鎧のようでいて、羽毛布団のようにも見える。
「ありがとうございますっす! カオルくんの外套、すっごくあったかいっす!」
目を閉じて温もりを噛みしめる姿に、カオルは目を逸らした。
胸の奥が、熱い。
さっき彼女が匂いを嗅いでいた光景が、勝手に蘇る。
(……やめろ、思い出すな)
自分の耳が勝手に動くのが分かって、さらに困った。
─────
自宅に戻ると、カオルは台所に桶を置くよう指示された。
マナンは「用意するものがあるっす!」と言って一度外へ出たが、十分ほどで戻ってきた。
手には布袋や葉、そして――どこから持ってきたかわからない、清潔な布。
「さぁ! これからミルクを保存が効くように“チーズ”にしていくっすよ!!」
「チーズ……ですか?」
「そうっす! このまま放置したら腐るっすからね!」
マナンはにやりと笑った。
「ふふふ……ここからはマナン先生のお料理教室のお時間っす!!」
「チーズにも色々あるっすけど……今日は“すぐ食べられる”タイプ、つまりフレッシュチーズを作るっす」
「フレッシュ……」
「固めて、水分を切れば形になるっす。長期保存は別工程っすけど、まずは第一歩!」
マナンは真剣な顔で続ける。
「チーズを作るには、“乳成分”を固めるための凝固剤が必要っす。
でもこの時代だと、そんな薬品はないっすからね……」
「代用……するんですか?」
「そうっす、それが、これっす!!」
マナンが取り出したのは、数枚の葉と、小さな茎。
「カオルくん、昨日の朝に食べた果物、覚えてるっすか?」
カオルは記憶を探り、答えた。
――何処からか持ってきた、赤や黄色のグラデーションを纏った、小ぶりな果実
「……いちじく、ですか?」
「正解っす!!」
マナンは指を立てる。
「いちじくの樹液には、ミルクの成分を固まりやすくする性質があるっす。
正確には――まぁ難しい話は抜きでいいっす!」
「……なるほど?」
「ものは試しっす。やってみるっす!」
マナンは鍋にミルクを注ぎ、慎重に火にかける。
白い液体がゆっくり揺れ、甘い香りが台所に満ちていく。
「まず、ミルクは半分くらい使うっす。失敗したら怖いっすからね」
「……慎重なんですね」
「そりゃ慎重っすよ! だって今日のこれは“食料”っす!」
湯気が立ち、ふつふつと小さな泡が縁に現れ始める。
「沸騰しそうになったら火からおろすっす。ぐらぐら煮立てると味が落ちるっす」
マナンは鍋を下ろし、茎の部分を指で折り、樹液を数滴――落とす。
「……少しだけ、でいいっす。入れすぎると苦くなるかもっす」
そして、軽くかき混ぜる。
「このまま、放置っす」
カオルは息を飲んで、鍋の表面を見守った。
何も変わらないように見えるのに、マナンは確信した目をしている。
その横顔は、魔法陣を組む時の集中と似ていて――胸が妙に高鳴った。
そして、一時間ほどすると
ミルクは見事に、半透明の液体と、白い固形成分に分離していた。
「……わぁ……」
カオルは目を見張った。
起きていることは“料理”のはずなのに、感覚は“奇跡”に近い。
「いい感じっす!!」
マナンは満足げに頷き、へらで固形分を崩して、布袋へ移す。
「ここで水分を切るっす。……ほら、絞るとそれっぽくなるっすよ!」
ぎゅ、と絞ると白い塊が形を持つ。
指先に、温度と柔らかさが残る。
「これで……完成っす!!」
「……本当に、できた……」
(これが……ミルクをから作った”チーズ”……)
マナンは出来立てを少し口に含み、頬を緩めた。
「ん~~!! 美味しいっす!!」
「ほ、本当に食べられるんですか……?」
カオルは恐る恐る口に運ぶ。
舌の上に乗った瞬間、濃厚なミルクの旨みが広がり、思わず目を見開いた。
「こ、これは……!」
「どうっすか?」
「美味しいです! 濃厚で、ミルクの味が口いっぱいに
……こんなの、食べたことないです!!」
マナンは得意げに胸を張る。
「でしょでしょ!? これを応用すれば、もっと保存できるタイプも作れるっすからね!」
カオルの目に、尊敬が滲む。
「……魔法使いみたいです、マナンさん……!」
「実際、魔法使いっすよ!!」
「あはは……そうでしたね」
二人の間に、笑いが落ちた。
その笑いが、家の空気を少しだけ明るくする。
マナンは手をぱん、と叩く。
「よし! これで準備は整ったっす!」
「準備?」
「もちろん――」
マナンの瞳がきらりと光る。
「これで、シチューを作るっすよ!!」
カオルは思わず、桶のミルクと、出来立てのチーズを見比べる。
(……今日一日で、ここまで世界が変わるなんて)
そして、胸の奥で小さく思う。
(……この“楽しい”が、長く続けばいいのに)
その願いは口に出せず、湯気の中に溶けて消えた。




