”巨木”と、瘴気
マナンの口から語られる魔界樹と世界の仕組み。
そして、それに付随する「絶望の連鎖」という概念。
それらは、夜風に混じって漂う毒のように、
ゆっくりと、しかし確実にカオルの意識へ染み込んでいった。
「僕達は……どうしたらいいんですか?」
カオルはマナンに問いかける。
人間がこの世界から姿を消した理由。
それが、目の前に聳え立つこの”巨木”にあるのであれば
――僕達も、いずれは……?
その考えは、もはや想像ではなかった。
恐ろしいほど自然に、確信へと形を変えていく。
「ああ……カオルくん達は、”今のまま”で問題ないっすよ」
「え……?」
思わず声が漏れた。
「獣人……私たちが『ビースター』って呼んでいた君たちの種族は、
人間と違って身体にマナが流れていないらしいっす。瘴気はマナが変質したものっすから」
「瘴気がカオルくん達の体に致命的な影響を与えることは……無いはずっす」
(……僕たちは、大丈夫)
(そう言われたのに)
(どうして、胸の奥が軽くならないんだ……)
胸が、ほんの少しだけ緩む。
獣耳が、安堵と、それでも消えない恐怖の間で揺れた。
「……本当……なんですか?」
「まぁ、私も聞きかじった程度の知識しかないっすけどね」
「ただ……」
マナンの表情が曇る。
「私は……人間っすから」
その言葉で、時間が止まった。
「……マナンさんは……瘴気に侵されないんですか……?」
カオルの声が震え、夜に溶けそうになる。
「このペンダント……”アストラ・ヴィータ”が守ってくれるっす」
マナンは宝石を、指先でそっと撫でた。
「中に入っている……光の世界樹のマナが、瘴気を“押し返してる”んっす」
押し返す。
それは、止めるのではなく、耐えている言い方だった。
(……守ってるんじゃない)
(削られてるんだ……”命”と同じく)
(少しずつ……)
「……そう……なんですね……」
丘の上で囁かれた言葉が、鮮明に蘇る。
――命が長くない。
カオルは、唾を飲んだ。喉が痛い。
無意識に胸元を押さえていた。指先が、わずかに震えている。
─────
「あの……マナンさん」
「なんっすか?」
返事は柔らかい。
けれど横顔は硬い。夜に溶けかけているのに、夜に捕まっているみたいだった。
「その……世界樹大戦は……」
言葉を選びながら、視線を巨木へ向ける。
「さっきも言ってましたけど、本当に……
あそこに聳え立っている、”魔界樹”が原因なんですか……?」
マナンはすぐには頷かなかった。
ほんの一拍、月明かりを受けた瞳が揺れる。
「……“確定”とは言えないっす」
それは逃げではなく、真剣な言い方だった。
「でも……あそこまで成長してたら、あの樹一本が世界を滅ぼすには……十分っす」
淡い光を宿した瞳の奥に、深く沈んだ悲しみが落ちる。
「カオルくん、私の時代にも魔界樹は存在したっす」
「……そう、なんですか?」
「そうっす。でも、魔界樹の存在は……極秘中の極秘だったっす」
マナンは笑おうとして、やめた。笑えない種類の話だ。
「世界樹に関わる要職の人たちか……私みたいな”光の巫女”にしか、知らされてなかったっす。
一般の人たちは……存在すら知らないように、隠されていた」
「どうして……隠すんですか?」
カオルの問いに、マナンは小さく息を吐いた。
「知られたら……世界が壊れるからっす」
短い言葉が、夜より冷たかった。
「希望を絶望に変える存在があるなんて知られたら、世界中がパニックになる可能性がある。
……だから、隠されてたっす」
「でも……うっすら感づいている人達も多かったっすけどね……」
カオルは返す言葉がなく、ただ息を吐いた。白い息が夜に溶ける。
マナンは夜風に揺れる星空のような髪を、指で軽く払った。
「魔界樹は……育ちすぎてもダメ。でも、存在しないのも問題なんっす」
「世界樹が“光”だとしたら、魔界樹は“闇”」
彼女は静かに続ける。
「世界を平穏に保つには……バランスが必要なんっす」
視線が、再び巨木へ向かう。
月明かりの中でそれは、まるで世界に刻まれた深い傷口のように見えた。
「魔界樹が無ければ、世界は“堕落”して停滞する」
「でも……成長しすぎたら」
言葉が一瞬、詰まる。
「……世界は混沌に包まれて、”滅び”を迎える
そう、世界樹大戦で消えた……かつての”人間”みたいに……」
マナンは、まるで自分に言い聞かせるように続けた。
「そういう……危ういバランスの上で……世界は成り立ってたんっすよ」
カオルは、喉の奥がひりついた。
「光の世界樹に仕える光の巫女の役割は……世界樹のマナを調整するだけじゃなかったっす
もう一つ、とても重要な役目があった」
「それが……魔界樹の“剪定”っす」
「魔界樹の……剪定?」
思わず言葉を繰り返す。
庭木を整えるような、穏やかな響き。
だが、その対象は世界を滅ぼす存在だ。
頭の中で、どうしても結びつかない。
「そうっす」
「……剪定って、具体的には……何をするんですか」
問いは震えていた。
“聞けば聞くほど怖くなる”と分かっているのに、止められない。
マナンは一度だけカオルを見た。
その目は「ここから先は、楽しい話じゃない」と言っていた。
「“増えすぎた枝”を落とす。根に届かないように。育ちすぎないように」
「世界のバランスを保つために……光の巫女が定期的に”浄化”をする必要があった」
「……今は、それしか言えないっす」
マナンは、再び魔界樹に視線を移す。
「カオルくん……あの巨木を、よく見てほしいっす」
その声に導かれ、再び視線を上げる。
「あ……」
月明かりの丘の上で、魔界樹がゆっくりと脈動するように淡く光り始めていた。
「根元から……青白い粒子が立ち昇ってるの、見えるっすか?」
マナンは、震える指先で基部を指した。
夜の闇に溶け込むように、幽霊のような光がもやもやと立ち上っている。
不規則に揺れながら、ゆっくりと空へ昇っていく。
「あれが……”瘴気”っす」
カオルは息を止める。
初めて見たときは、美しいと思ってしまった。神秘的で、心を奪われる光だった。
だが今は違う。
それは、恐怖と絶望の象徴でしかない。
「人間が消滅した後なのに、あの魔界樹は未だに目に見えるような
莫大な量の瘴気を作り出し続けている……」
マナンは目を伏せる。
「魔界樹は、人間が滅んだ後なのに、未だに人間を滅ぼそうとしているんっかね……」
「……愚かっすよ。本当に……」
カオルは拳を握りしめる。爪が掌に食い込む。
「どうにか……できないんですか……?」
声は祈りだった。
「それは、あの魔界樹をっすか?それとも、あの瘴気を?」
「どちらも、です……」
「……現状の”私一人の力”じゃ、まず不可能っす」
その言葉が、胸に落ちた。
分かっていたのに、聞いてしまうと耐えられない。
その沈黙を、マナンがふっと割る。
「……でも、どうにかする”方法”はあるかもっすよ?」
振り返った目が、少しだけ柔らかくなる。
「どうにか、できるんですか……?」
「私の時代には、瘴気をどうにかしようと研究していた人はいっぱいいるっす。
もしその人達が、希望を今に……”未来”に繋いでいたとしたら……
――可能性はゼロじゃないっす」
─────
「……カオルくん」
マナンが、静かに呼ぶ。
「私も……一つだけ、聞いていいっすか……?」
「……え?」
「これは……君にしか聞けない質問っす」
一瞬、視線が魔界樹へ向けられ、再びカオルへ戻る。
「……なんですか?」
マナンは、小さく息を吸った。
「もし……私が、この集落を出て……」
言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。
「世界を旅するって、言い出したら……」
彼女の指先が、無意識にペンダントを握り直す。
まるで、答えを聞くのが怖いみたいに。
「君は……どうしますか?」




