魔界樹と、瘴気
――宴会の熱気が冷めきった深夜。
カオルは、宴会の後片付けの音で目を覚ました。
床板がきしむ音。木の器が触れ合う、軽く乾いた響き。
濡れ布で卓を拭く、擦れる音。
どこかで誰かが寝返りを打ち、すぐに消える、うめき声のような息遣い。
それらが鈍く鼓膜を叩き、意識を浅瀬から引き上げていく。
(あれ……)
体を起こすと、誰かが掛けてくれた毛布が肩からずり落ちた。
暖かさが逃げるのと同時に、冷たい空気が皮膚へ刺さる。
(僕……寝てたのか)
「おっ、カオル、目を覚ましたか」
声を掛けてきた団員の声には、深い眠りの余韻と、片付け疲れが混じっていた。
目をこすりながら笑っている。けれど目尻には眠気が溜まっている。
「すみません……いつの間にか寝てしまって……」
「いいって。気にすんな。ほら、周りもこんなもんだ」
促されるまま、カオルは集会所を見渡す。
そこら中に、酔いつぶれた人々が転がっていた。
机に突っ伏す者。壁にもたれて眠りこける者。床に大の字の者。
酒と肉の匂いが混ざった濃い空気が、夜気の冷えと一緒になって、妙に鼻に残る。
まるで一度、大きな戦があった後のような光景だ。
でも戦場と違うのは――そこに、安堵と満足が漂っていることだった。
中央の大きなテーブルには、ウォルとルクスも突っ伏している。
ウォルは片頬を机に押しつけ、時折うなずくようないびきを漏らしていた。
夢の中で冒険でもしているのか、無防備な笑みが浮かんでいる。
ルクスは、重い体を支えきれないのか、腕をだらりと垂らし、
指先が床に触れるか触れないかの位置で微かに揺れていた。
昼間の厳格さは消え、張り詰めた表情も、夜更けの静寂に溶けている。
(……団長ですら、こうして眠るんだ)
それが妙に人間臭くて、胸が少しだけ緩んだ。
――そのとき。
「……あれ?」
カオルは、無意識に周囲を見回した。
宴の最中、ずっと視界にいたはずの存在が
――どこにも見当たらない。
「マナンさんは……?」
「ああ、あの子かい?」
団員が首をかしげる。
「そういや、いつの間にかいなくなってたな」
――いつの間にか。
その言葉が、胸に引っかかる。
“いつの間にか”消えるものがあることを、カオルは知っている。
(……また、置いていかれる?)
いや、そんなはずはない。
分かっている。分かっているのに。
心臓が、不安のリズムを刻み始める。
「――おや、カオル。起きたのかい?」
台所の奥から、割烹着姿のフウカが姿を現した。
手には湯気の立つ鍋。洗い終えた木の器が、かちり、かちりと鳴る。
宴会の後片付けを続けているのだろう。
フウカの声には疲労が滲んでいるが、それ以上に温もりがあった。
目尻には笑い皺が残り、宴の余韻がまだ消えていない。
「あの……フウカさん。マナンさんがどこに行ったか、知りませんか?」
フウカは器を棚に戻しながら、気軽な調子で答える。
「もしカオルが起きたら、先に家に戻っていろって伝えてくれって言ってたよ。
少し寄り道してから帰る、なんて言ってたねぇ」
「寄り道……」
胸の奥に、ちくりとした感覚が走る。
心配と、嫌な予感が、同時に顔を出した。
寄り道――どこへ?
夜更けに?
あんなに酔いが回っているのに?
それとも、酔っていないのに――なにか考え込んで?
フウカは、まるでその不安を見抜いたかのように続ける。
「大丈夫さ。あの子は、すごくしっかりしてる」
そう言いながらも、フウカの視線が一瞬だけ揺れた気がした。
“しっかりしている”という言葉が、慰めにも祈りにも聞こえる。
「集落にいる間は、カオルと暮らすんだって?」
「……はい」
フウカは笑った。けれど、笑いの奥に、少しだけ真剣な色が混じる。
「良かったじゃないか」
一拍置いて、フウカは声を落とした。
「カオル。短い間でも、長い間でもだけどね……
女の人と一緒に暮らすってのは、簡単なことじゃない」
カオルの耳が熱くなる。
“短い間でも”――その言い方が、胸に刺さった。
まるで、期限を知っているみたいに。
フウカは、カオルの肩にそっと手を置く。
「それでも……彼女のこと、大事にするんだよ」
指先は温かい。
その温もりが、逆に胸の奥を締めつけた。
「……わかりました……」
頬に熱が集まり、獣耳がぴくりと反応する。
フウカは満足そうに頷き、再び片付けへ戻っていった。
(……大事にする)
(……でも、どうやって?)
問いだけが残った。
─────
カオルは、集会所の外へ出た。
宴の熱が、まだ肌に残っている。
そこへ夜の冷たい空気が流れ込み、頭が一気に冴えていく。
月明かりが、集落を静かに照らしていた。
屋根や木々の影が、地面に長く、不気味に伸びている。
人の声は遠い。風が木々を揺らす音だけが、妙に大きい。
(マナンさんは……どこへ行ったんだろう……)
フウカの言葉を信じたい。
それでも、胸の奥に貼りついた不安が剥がれない。
――いつか、いなくなる。
その予感が、どうしても消えなかった。
夜の静けさは、別れの予告みたいで嫌だった。
─────
カオルは、言伝どおり家の方向へ歩き出す。
夜の静寂に、足音が溶けていく。聞こえるのは、自分の呼吸だけ。
――そして、小道の途中で、ふと足が止まった。
「……?」
獣耳が、僅かな異変を捉える。
草葉が擦れる音に混じって、布が風に揺れるような気配。
自然の音に紛れながらも、確かに“誰かがいる”とわかる響き。
背筋に、ぞくりとしたものが走った。
月明かりに照らされた丘の頂に、ひとつの影が浮かんでいる。
静かに佇む、一人の少女。
星空のような髪は夜闇に溶け込み、輪郭だけが月光に縁取られていた。
――マナンだ。
胸の奥が、ほっとしたのと同時に、痛んだ。
“寄り道”とはこれか。
彼女は、ひとりで――あそこへ来た。
カオルは息を殺し、草を踏まぬよう足を運ぶ。
露に濡れた草が、足元を冷たくする。
─────
丘を登るにつれ、彼女の背中がはっきり見えてきた。
肩が小さく上下している。呼吸が深い。
泣いているようには見えない。
でも、背中が――妙に細く、孤独に見えた。
マナンは、ただじっと――
巨木……魔界樹を見上げていた。
あの木は、夜でも“そこに在る”と分かる。
ただ暗いのではない。
夜の中で、黒さが際立つ。
空の一部を塗りつぶしたみたいな異様さ。
「……マナンさん」
声を掛けた、その瞬間。
「きゃぁぁぁぁぁあああああ!!!!!」
甲高い悲鳴が、夜を裂いた。
マナンは跳ねるように振り向き、カオルの姿を見て硬直する。
その顔は――驚きだけじゃない。
恐怖が混じっていた。
「……カ、カオルくん!?
な、なんでここにいるんすか!?」
声がかすれている。
さっきまで宴で聞いた明るさとは、まるで別人の声だった。
カオルは反射的に両手を上げ、一歩引いた。
“怖がらせた”という罪悪感が、胃を締める。
「家に帰る途中で……丘の上に人影が見えたので……」
「そ、そう……だったんっすね……」
マナンは胸元を押さえ、大きく息を吸い込む。
彼女の首にかかっているペンダント
――”アストラ・ヴィータ”が、呼吸に合わせて揺れ、月光を受けて淡く光った。
「はぁ……びっくりした~……お化けか出たかと思ったっすよ」
無理に笑う。
けれど、その笑いはすぐに消えた。
視線が、また巨木へ戻ってしまう。
「すみません……驚かすつもりはなかったんです」
「いや、悪気がないならいいっすよ!!
もしイタズラだったら、デコピンっすね!!」
人差し指を立てるが、その動きには力がない。
すぐに指を下ろし、視線は再び巨木へ向かう。
カオルも、釣られるように巨木を見上げた。
月明かりの中、魔界樹は沈黙していた。
巨大で、圧倒的で、まるで世界そのものを見下ろしているようだった。
カオルは、マナンの隣へ一歩だけ近づく。
近すぎない距離を選びながら。
触れたいのに、触れたら壊れそうで――指先が空を彷徨う。
「……マナンさん。一つ、聞いてもいいですか」
「ん? なんっすか」
返事は軽い。
でも横顔は硬い。
夜に溶けるようで、夜に捕まっているみたいだった。
「あの巨木……
僕たちが“世界樹”って呼んでいたのは、本当は“魔界樹”なんですよね……?」
「……そうっす」
短い肯定。
その短さが、余計に重い。
「そして……魔界樹は、世界を終焉に導くって……」
「……」
夜風が、二人の間を抜けていく。
草がさわさわ鳴って、まるで“聞き耳”みたいに感じた。
「僕は……知りたいんです」
声が震える。
怖いのは木じゃない。
“知ってしまうこと”が怖い。
でも、知らないふりをしたままでは、彼女の隣に立てない気がした。
「見ないふりは、できません……」
マナンは一度、目を伏せた。
それは、痛みに目を閉じる仕草に似ていた。
そして、ゆっくりと息を吐き――わずかに体をカオルの方へ向ける。
「……少し長くなるっすけど、大丈夫っすか?」
その問いは、説明の許可ではなく、覚悟の確認に聞こえた。
カオルは、迷いなく頷いた。
─────
マナンは、夜の中で静かに語り始める。
「……魔界樹は、世界樹と対になる存在っす」
「世界樹がマナを生み、育み、循環させるのに対して、
魔界樹は、マナを腐敗させ、”ある物”に変えてしまうんっす」
「”ある物”……ですか?」
「――私たちは、そのエネルギーのことを
”瘴気”と呼んでいたっす」
カオルは喉を鳴らした。
理解が追いつく前に、恐怖が先に身体へ染み込む。
「生命の育みは“希望”から生まれるっす。
魔界樹は、その反対……“絶望”をコントロールしているんっす」
「絶望……」
「それは、魔物や魔獣の姿を取ることもあれば……
目に見えないような疫病や天災、人々の争いとして現れることもあるっす」
「……そんな……」
獣耳が、夜風に震える。
村で聞いた小さな諍い、食料の取り合い、疑いの目。
あれも“絶望”の種なら――どこまでも繋がってしまう。
「魔界樹は、いきなり全てを壊すわけじゃないっす」
マナンの声が低くなる。
「形を持たず。ひっそり少しずつ、希望を削る。
疑いを生み、憎しみを育て、争わせる」
「争いが起きれば、その感情が負のエネルギーになって……
さらに魔界樹を大きくする」
「そして、人々は……互いを疑い、裏切り、奪い合う……」
マナンは、巨木を見据えたまま言った。
「……その連鎖が、世界を終焉へ導くとされているんっす」
言葉が、カオルの胸の奥に沈んでいく。
夜の寒さより冷たいものが、背中を這う。
マナンが、静かにカオルを見る。
「カオルくん。さっき団長さんが話してた“世界樹大戦”、覚えてるっすか?」
「……はい」
「マナが枯渇し、人間が滅びる原因になったって話っすけど」
「――それは、多分」
一拍置いて、マナンは言い切った。
「あの魔界樹が、原因っす」
その断言が、夜の空気を変えた。
丘の上の静けさが、急に“嵐の前”みたいに感じる。
「……あの”巨木”が、人間を滅ぼした……?」
「そうっす。あの木は今もマナを吸い取り、瘴気に変え続けている……」
「まだ、世界に絶望を撒き散らし続けているっす」
(……だったら)
(僕たちは、どこに立っているんだ)
(今も、戦いの途中なのか……?)
そして、カオルは気づく。
マナンがこの丘に来たのは、ただ見たかったからじゃない。
――確かめに来たのだ。
未来の地で人間が滅んだ原因を考察し、
抱いた”疑念”を“確信”に変えるために。
「……マナンさん」
カオルは震える声で言った。
「僕たちは……このままで、いいんですか……?」
マナンは答えず、もう一度だけ魔界樹を見上げた。
その横顔は、夜よりも暗く、そして――どこか決意に近かった




