マナンと、宴会
西日が差し込む中、二人は古びた木造の家の前まで戻ってきた。
斜めの光が屋根の苔を金色に縁取り、長年雨風に晒された木材の黒ずみを、
まるで古傷みたいに浮かび上がらせている。
ここが――自分の家で、そして今日からは、彼女の住まいでもある。
そう思った瞬間、胸の奥に甘いものと苦いものが同時に渦を巻いた。
“嬉しい”と“怖い”が、同じ速さで心臓を叩く。
(……本当に、ここに帰ってきたんだ)
集会所で認められた。言葉にしたら簡単なのに、現実味がない。
なのに家の前に立った途端、現実が急に肌に刺さる。
――共同生活。
――同じ屋根。
――同じ時間。
玄関の前で足が止まる。
把手に伸ばしかけたカオルの指が、ほんの少し震えていた。
「あ……あのっ……」
「なんっすか? カオルくん」
マナンはきらきらした目でこちらを見ていた。
共同生活を面白がっているような、好奇心の混ざった表情。
その明るさが、逆に怖い。
(期限があるのに……)
口に出せない言葉が喉の奥で引っかかり、飲み込むたびに苦い。
「その……今日から、マナンさんと暮らすことになるわけですけど……」
「そうっすね」
軽く頷く声。
返事があまりにも自然で、胸がきゅっとなる。
(当たり前みたいに言うんだ……)
その“当たり前”が嬉しくて、そして怖い。
「その……僕の家、隙間風もすごいし、雨漏りもするし……
あんまり居心地がいい場所じゃないかもしれないです。……それでも、大丈夫ですか……?」
言いながら、言葉が小さくなっていく。
自分でも、何を確認したいのかよくわからなかった。
きっと、嫌だと言われるのが怖いのだ。
“歓迎会の熱”が醒めたあと、現実の寒さに気づいて、彼女が顔を曇らせるのが怖い。
壁板の隙間は目で見てわかる。雨が降れば決まって水が落ちる場所もある。
そんな家を、外の世界の“綺麗な人”に見せるのが恥ずかしい。
自分の暮らしが丸裸になるみたいで、居心地が悪い。
「心配ないっす!!」
マナンは即答して、胸を張った。
「一人だと大変なことも、二人ならなんとでもなるっすよ!!」
その言葉が、カオルの胸の奥の冷えをほんの少し溶かした。
“二人”。
その単語だけで、家の輪郭が少し変わった気がする。
「それに魔法を使えば……あっ」
マナンが途中で止まる。
笑顔の端が、ほんの少しだけ崩れた。
「……もうあんまり使えないんでしたっすね。えへへ……」
カオルは言葉を失った。
慰めたら、傷をなぞることになりそうで。
黙ったら、見捨てたように思われそうで。
(……今の、聞かなかったことにしていいのか……?)
(でも、聞いたふりをしたら……彼女はもっと無理をする)
沈黙が怖い。
沈黙が優しい時もあるのに、今は針みたいに刺さる。
「とりあえず!!」
マナンが、空気を払いのけるように声を上げた。
まるで自分で自分を鼓舞するみたいに、明るさを作る。
「大丈夫っす!! なんとかなる時はなんとかなる、
なんとかならない時はなんとかならないっす!!」
「……は、はい」
カオルは小さく頷き、古い扉の把手を握った。
力を込め、ゆっくり押し開ける。
中から、湿った木材と埃と、時折忍び込む雨水の匂いが流れ出た。
─────
室内は薄暗かった。夕陽が斜めに差し込み、舞う埃が金色の筋になって見える。
家具の輪郭だけがぼんやり浮かび、それ以外は影に溶けていた。
カオルにとってはいつもの暗さだ。
けれどマナンは、まるで洞窟に入ったみたいに目を瞬かせる。
「お邪魔しますっす……あっ、違うっすね!!」
「え……?」
戸口で止まり、慌てて言い直す。
「今日からは『ただいま』って言わないとだめっすね!!」
マナンが振り返った。
夕暮れの光が彼女の輪郭に淡い金色を落とし、瞳がきらりと光る。
「ただいまっす!! カオルくん!!」
反響した声が、家の空気を一気に塗り替えた気がした。
長年、この家にはなかった種類の響き。
“帰ってくる声”。
胸の穴が、言葉ひとつで少し埋まっていく。
それが嬉しくて、同時に怖い。
――埋まったぶんだけ、失うのが怖くなる。
「……おかえりなさい。マナンさん」
かろうじて言葉を絞り出す。声が震えた。
獣耳が、恥ずかしさと喜びの間でピクリと小さく動く。
マナンは満足そうに笑った。
カオルも、つられて笑ってしまう。
しばらく顔を見合わせ、互いに照れたように目を逸らした。
その“気まずい沈黙”が、なぜか悪くない。
一人の沈黙より、ずっと温かい。
マナンはゆっくり足を踏み入れると、きょろきょろと室内を見回す。
「……ふむふむ……」
朽ちかけた棚には古びた食器と本。虫食いの穴、うっすら積もった埃。
その中で唯一、かろうじて“良いもの”に見えるのは、小さな銀色のスプーン――母の形見だ。
ただ、それも光は鈍い。
マナンの視線が、カオルが一人で過ごしてきた時間をなぞるように動く。
覗き見されているのに、不思議と嫌ではなかった。
むしろ――見てほしいと思ってしまう自分が、怖い。
「カオルくん」
呼ばれて、胸が跳ねた。
「……はい?」
「ご飯にするっすか? お風呂にするっすか? それとも、私がいいっすか?」
ふざけた声。
片手を腰に当て、もう片手で顎に指を添える。
獣耳がびくっと跳ね、熱が頬まで駆け上がった。
「……えっ? どういう意味ですか?」
真顔で返してしまってから、遅れて気づく。
冗談なのだろう。たぶん。
たぶん、そうであってほしい。
「なんでもないっす! ちょっと言ってみたかっただけっす!!」
マナンは声を立てて笑い、猫みたいに背を丸めて笑い転げた。
その笑い声が家の中に弾み、また胸の穴が少し埋まっていく。
「……ふふっ。なんですか、それ……」
カオルもつられて笑っていた。
自分でも驚くほど、自然に。
(……笑えるんだ、僕)
それだけで、救われる。
「とりあえず改めて、”私達の”家の中を案内してほしいっす!!」
期待に満ちた目で見られ、カオルの胸が熱くなる。
頼られることが、こんなに嬉しいなんて知らなかった。
「はい」
カオルは頷き、部屋の奥を手で示した。指先が少し震える。
これから自分の生活圏を他人に晒す。
――それも、大切に思い始めている人に。
薄暗い部屋に家具の影が伸び、長年の孤独と、
これから生まれるかもしれない時間が、奇妙に混ざり合っていた。
─────
ひと通り見終えたマナンは、床板に腰を下ろしたまま天井を見上げていた。
夕陽が傾くにつれて室内はさらに暗くなり、天井板の亀裂や雨染みが影絵のように浮かぶ。
カオルは少し離れた場所で膝を抱え、床板を見つめていた。
まるで自分が、この部屋の隅に「置かれている」みたいな姿勢だ。
沈黙が重い。
一人でいた頃の沈黙とは、違う種類の重さだった。
“誰かがいる”からこそ生まれる沈黙。
言葉を探してしまう沈黙。
「……暇っす……カオルくん……暇っすよ……」
さっきまでの弾む明るさが、嘘みたいに消えている。
ため息を漏らし、そのまま背中を床に預けて、マナンは両腕を大の字に広げた。
カオルは胸がきゅっとなる。
彼女が“暇”と言っただけなのに、そこに別の意味を読みたくなってしまう。
(……暇、って……)
(待つのが苦手なだけ? それとも……)
(考えないようにしてる?)
「えっと……もう少しの辛抱です」
カオルは床板の荒い木目を、指先でなぞった。
節や傷。自分が長い月日でつけた、小さなへこみ。
それらは孤独の証で、今は、なぜか恥ずかしい。
「はぁぁ~……退屈っすねぇ~……」
今度はさらに大きなため息。
その響きが部屋の隅に反射して、耳に残る。
「……そうですね」
カオルもつられて息を吸い、ゆっくり吐き出した。
胸の重みが少し軽くなる錯覚――すぐに消えた。
二人のため息が重なった、その瞬間――
「カオル~、マナンさ~ん、いるかぁ~?」
玄関から少年の声が響いた。ウォルだ。
薄暗い部屋の中で、二人は同時に身を起こし、顔を見合わせる。
“助かった”という気持ちと、なぜか少し“惜しい”気持ちが同時に湧く。
「ウォルくん!!」
マナンは弾んだ声で返事をし、足元の杖を慌てて拾って玄関へ向かった。
いつもの“外向きの明るさ”に戻るのが、早い。
その速さが、カオルには少しだけ痛い。
カオルもゆっくり立ち上がる。足が少し痺れていて、動きがぎこちない。
「待たせたな。宴会の用意ができたから、集会所に来いだってよ。
見たことないようなご馳走がたくさんあるぜ!!」
扉から身を乗り出したウォルは、興奮で目を輝かせている。
昨日までの“疑い”は薄い。今はただ、面白いことが起きる予感に乗っている。
「ほんとっすかぁ!? いやぁ、申し訳ないっすねぇ!!」
マナンが満面の笑みを浮かべ――突然、カオルの手を掴んだ。
「さぁ、ご厚意を頂きに行くっすよ!!」
勢いのまま、走り出そうとする。
「ちょ、ちょっと待ってください!!」
引っ張られたカオルの声は、悲鳴に近かった。
獣耳がばたばたと揺れる。
ウォルが「相変わらずだな」と笑ったのが、妙に悔しい。
足音は不規則になり、夕暮れの道に三つの影が伸びた。
その影はひとつに重なりながら、集会所へ向かって駆けていった。
─────
集会所の扉に手をかけた瞬間、中から漏れる笑い声と物音、
木炭の匂いと焼き肉の香りが鼻をくすぐった。
喉の奥が、空腹でなくても反応してしまう。
“生きている匂い”だ。
扉を押し開けると、熱気が顔に当たる。
一瞬、目が眩むほどの明るさ。
ランプの火がいくつも揺れ、鍋の湯気が白い雲みたいに漂っていた。
「おお、来たか! ちょうどいい頃合いだ!」
ルクスの堂々とした声が響いた。
中にいた十数人の村人は会話を止め、興味津々の目で三人を見た。
視線の温度が一斉に上がる。
好奇心と警戒と期待――それが混ざった視線。
部屋の隅では大きな鍋が湯気を上げ、中央の長いテーブルには木の器や角杯がずらりと並んでいる。
肉の脂が焼ける香りが、鼻先で弾ける。
「さぁさぁ、入って入って!! 今日は無礼講だよ!!」
割烹着姿の女性・フウカが、エプロンを叩きながら招いた。
その声は強い。集落の“母”みたいな強さ。
「フ、フウカさん、そんな急に……」
カオルが気まずそうに言う間に、マナンはすでに目を輝かせて中を覗き込んでいる。
「ささ、三人ともコップを持って……あ、マナンさんはイケる口かい?」
「飲めないの?ならカオルくんとマナンさんは葡萄ジュースね、ウォルはこっちだろ?」
木の器を手渡され、ウォルは嬉しそうに受け取った。
「あらぁ~、あなたがマナンさん? 美人だことぉ~」
年配の女性がマナンの周りをぐるりと回る。
「髪の毛、星みたいに輝いてるわぁ~!」
「おい、あんたらそこどいて! 今日はマナンさんの歓迎会なんだから!!
中央に居座ってんじゃないよ!」
押し合いへし合いが始まり、笑い声が弾ける。
もう酒が回り始めているのが分かる。
杯の匂いが甘い。
集会所は、熱と声で膨らんでいた。
杯を打ち鳴らす音、子どもたちの足音。うるさいのに、嫌ではない――はずなのに。
パンッ、パンッ。
ルクスが手を叩くと、驚くほど静かになった。
この静まり方だけで、彼が長であることを思い知らされる。
「皆、集まってもらったのは他でもない!!」
ルクスが大きな声で続ける。
「この度、短い間ではあるが、我々の集落に新たな同胞を迎え入れることになった!!」
一斉に視線がマナンへ集まる。
星空のような髪が灯りの下でさらに輝き、マナンは少しだけ肩をすくめた。
(……頼む。帽子と耳、ずれないでくれ……)
カオルの心臓が早鐘を打つ。
自分だけが知っている“嘘の綱渡り”。
この場でバレたら、すべてがひっくり返る。
「光の守護地カリオスから来た……マナン=エリクシル殿である!!」
木造の天井に声が反響する。
マナンは深く頭を下げ、銀色の杖が床を叩いて小さく鳴った。
その音が、妙に“誓い”みたいに聞こえて、カオルは胸が詰まる。
「あの子が……本当に外から来たの?」
「古代の遺跡を調べてるだなんて……信じられないわ」
「あんな小さな子が……」
「でも……綺麗な子ねぇ……」
ざわめきが波のように広がる。
“歓迎”の波。
けれど、波は時に飲み込む。カオルはそれを知っている。
「みんな!! 彼女は今日まで様々な経験をしてきたのだ!!
その中には我々と異なる文化や常識もあるだろう!」
ルクスがさらに声を張る。
「だが!! 彼女は我々と共に歩んでいく覚悟を持っている!!」
部屋が再び静まった。
フウカが目を潤ませ、ウォルは誇らしげに胸を張る。
若い団員の何人かも、羨望の目をしている。
(……みんな、マナンさんを見てる)
(僕だけじゃない)
それが嬉しいはずなのに、胸の奥がちくりと痛む。
独占したいわけじゃない。
でも――“離れていく未来”が勝手に見えてしまう。
「そして今日この時をもって!! 彼女の存在は我々の同胞として認められた!!
だから!! 皆で歓迎してあげようではないか!!」
「おめでとう!!! 乾杯!!!」
─────
「かんぱ~い!!!」
「乾杯!!!」
一斉に上がった杯が打ち鳴らされ、甲高い音と歓声が弾けた。
「さぁさぁ、どんどん食べて飲んでいってね!!」
鍋の湯気、肉と野菜の香ばしい匂いが一気に広がる。
喉が鳴る。
腹が、今さら自分の空腹を思い出した。
「おぉ~っ!! 美味しそうだ!!」
「これは……なんの肉だい?」
「見たこともない野菜もあるじゃないか!!」
「おいしー!!!」
「ぬぉぉお! 酒がうまい、うまいぞぉ!!」
床を叩く足音、子どもたちの駆け回る声、酔い潰れた者のいびき。
それらが混ざって、奇妙な“祝祭”になる。
「マナンさんも、どうぞ!!」
フウカが差し出した蜜をまとった木の実は、宝石みたいにきらきらしていた。
「あっ、ありがとうございます! 美味しそうですね!!」
マナンが返事をすると、年配の女性たちが一斉に囲み込む。
「マナンちゃんこっち! こっちにおいで!」
「髪、本当にお星さまみたいだねぇ~」
「わぁ、お肌もツルツルじゃないか! どうしてるのかしらねぇ~」
「うちの孫にでもお嫁に行ってほしいくらいじゃ!!」
賞賛が、雨みたいに降り注ぐ。
マナンは困った顔をしながらも笑い、受け取り、返す。
外向きの笑顔。完璧な愛想。
“生きるための笑顔”。
(……無理してないか?)
カオルの目は、彼女の胸元に吸い寄せられる。
ペンダントが、灯りを反射して淡く光っていた。
まるで命の残量を知らせる合図みたいで、視線を逸らしたくなる。
そこへ団員たちが押し寄せる。
「カオル君、まだ食べないの!? 遠慮しないで食べないと勿体ないよ!!」
「カオルくんは飲めないでしょ? でも食べるのはいいから!!」
山のような肉料理とパンが、半ば強引に目の前に積まれる。
「は、はい……ありがとうございます……」
カオルはぼんやりと木の実を口に運ぶ。甘い酸味が舌に広がる――はずなのに、味が遠い。
視線の先では、マナンが子どもたちにすっかり囲まれていた。
「マナンさん、その服、綺麗ですね!!」
「見たことないぞ、こんなきれいなペンダント!!」
「この服、触ってもいい!?」
「ねぇねぇ、外の世界のこと教えてよ!」
無垢な質問の雨。
マナンは一つ一つに微笑みながら答え、星空の髪が灯りの下でさらに輝く。
――そして、その耳が、ほんの少しだけ動く。
喜んで揺れた……のか。
それとも、“ずれないように”無意識に力が入ったのか。
「……」
カオルは無言のまま、果実の汁を飲み込んだ。
宴の騒ぎは、まるで自分とは別の世界で起きている。
皆が笑い、叫び、食べている。
自分だけが、輪の外に立っている。
――違う。立っているんじゃない。
自分から、踏み込めないんだ。
胸の奥が、ちくちく痛む。
羨ましいのか。怖いのか。
その両方かもしれない。
(……誰も、この中の誰も……)
(マナンさんの正体も、秘密も……知らない)
それを知っているのは、自分だけだ。
“余命”も、“魔界樹”も、“魔法が命を削る”ことも。
そして――彼女の笑顔が、時々ほんの少しだけ“ひび割れる”ことも。
祝祭の中で、その秘密は一層、際立った。
カオルは、酒の匂いと笑い声の渦の中で思う。
(……僕が守らなきゃいけないものが、増えていく)
(嬉しいのに……怖い)
宴は夜更けまで続いた。月が窓から差し込む頃になっても、熱気は冷めなかった。
笑い声が大きくなるほど、カオルの胸の奥は静かに重くなる。
(……この光景が、ずっと続けばいいのに)
(でも、続かない)
(“続かせる方法”を、僕は見つけなきゃいけない)
カオルの思いをよそに宴は続き、夜は更けていった。
そして、祝祭の灯りの中で――カオルだけが、静かに決意を固めていた。




