この、世界は?
「この世界にも……”世界樹”って、あるんっすか?」
「……!!」
カオルの身体が、わずかに硬直した。
――なぜ、知ってるんだ?
――あの巨木の事、”世界樹”の事を……
喉が鳴る。唾を飲み込んだはずなのに、口の中が乾いていく。
口を開こうとしても、声がうまく形にならない。
舌が、自分の意思じゃなく怯えているみたいだった。
「……? どしたっすか? カオルくん」
マナンは、ただ首を傾げてこちらを見ているだけだった。
まるで、天気を尋ねたかのように。
悪意も警戒もなく、ただ「知りたい」という純粋な顔で。
(……この人は、本当に“知らない”んだ)
その無防備さが、逆に怖い。
知らないまま踏み込む”人間”が、一番危険だと知っているから。
「……世界樹……ご存知なんですか?」
カオルがようやく絞り出した声は、思ったよりも低く、乾いていた。
――踏み込まれた。
そう理解した瞬間、自分が守ってきた“境界線”が、音もなく揺らいだのを感じていた。
触れてはいけない。近づいてはいけない。――興味を示しては、いけない。
そうして“守ってきたもの”に、いま光が当たろうとしている。
「そりゃもちろんっすよ!!
世界樹は、私たちが魔法を使うための”マナ”の重要な生成装置であると同時に……
――私たちの生命活動には必要不可欠なものっすから!!」
「………………え?」
声が漏れた。
頭の中が一瞬、白くなる。
世界樹が――魔法を使うためのマナの生成装置?
――生命活動に、必要?
あり得ない。
少なくとも、カオルの知る伝承の中にはそんな繋がりはない。
世界樹は崇めるものだ。
遠くに見える巨大な“巨木”として語られることはあっても“生命線”など誰も言わなかった。
自警団の先輩たちの話が、断片のまま脳裏を走る。
“昔の人間の遺物”
“近づくな”
“嵐に遭う”
“触れるな”
どれも、怖がらせるための言葉だった。
そこに「必要不可欠」だなんて、温度の違う言い方は一つもない。
神話の柱が、いきなり別の意味を持って目の前に立ったみたいで、膝の力が抜けそうになる。
「……マナンさんの世界では……世界樹が必要不可欠……なんですか?」
自分の声が、自分のものじゃないみたいに震えていた。
確認しないと、足元が崩れる。
「その感じだと、カオルくん達は世界樹の必要性を理解してない感じっすか?」
「は、はい……」
「マジっすか……」
マナンの視線は、どことなく”信じられない”といった色をしてる。
「世界樹は、私たちにとっては生命、繁栄、信仰諸々のシンボル的存在っす。
詳しい話をすると長くなるっすけど、世界樹がない生活なんて考えられないっすね!!」
マナンはそう言って、空を見上げた。
その目の奥に、カオルには測れない“当たり前”が詰まっている。
「そう……なんですね……」
彼女の言葉は軽いのに、根っこが深い。軽くない。
まるで、呼吸みたいに“世界樹”を含んで生きてきたとでも言うように。
「そうっすね……世界樹がこの近くにあれば嬉しいんっすけど……」
その瞬間、カオルの心臓が一段跳ねた。
――言うべきか。
――言ったら、何が起きる。
もし“必要不可欠”なら。
彼女は絶対に、ただ遠くから眺めるだけでは満足しない。
喉の奥で、言葉が何度も引っかかる。
――でも、彼女が求めるなら。
それでも――言ってしまう。
「……あります」
カオルの声は、絞り出したように細かった。
言った瞬間、背中が冷える。
取り返しのつかない石を、ぽとりと落とした感覚。
「おおーー!! あるんすね!!」
マナンが跳ねる。驚きと歓喜だけで、全身が軽くなったみたいに。
その無邪気さが、カオルには眩しいのに、刃物みたいに鋭い。
「その場所って、もしかしてすぐそこっすか? それとも結構遠いっすか!?」
「えっと……近くは、ないです……でも、見るだけなら……」
言葉を選ぶ。
“見るだけ”。
そこに鎖を混ぜるように、慎重に。
「是非、見たいっす!!」
即答。迷いゼロ。
カオルの胃がきゅっと縮む。
「それなら……自警団に向かう前に、寄っていきますか……?」
口が勝手に動いた。
自分で提案しておいて、すぐ後悔する。
だが、言ってしまった以上、逃げ道はない。
「是非お願いするっす!! 是非!!」
マナンは顔を近づけてくる。
その瞳は純粋で、残酷なほどに無邪気だった。
─────
カオルは、いつもの道を外れた。
言ってしまった、という感覚が、足首に絡む泥みたいに重い。
(どうして……言ったんだ)
(でも……隠しても、いずれ聞かれる。バレる)
(だったら……せめて、“見るだけ”に)
自分に言い聞かせながら、歩幅を整える。
獣耳は周囲の音を拾うのに忙しいふりをして、実際は心の揺れを隠しているだけだった。
「あの……この先にある丘から、遠くに巨大な木が見えるんです。
集落の皆は“巨木”って呼んでますけど、昔は“世界樹”って名前だったらしいんです……」
言葉は静かだった。
静かにしないと、”誰か”が聞いている気がした。
世界樹の話は、口に出すだけで“何かを呼ぶ”みたいで。
「へぇ~、そうなんっすね」
マナンは軽く返し、足取りはむしろ弾んでいた。
何も怖がっていない。怖がる理由を、知らない。
「その木は……昔は調査しようとした人がいたらしいんですけど……誰も、たどり着けなかったとかで……」
「そうだったんすか? 調査できなかったんっすか?」
――近づくな。
村の“禁忌”が、舌の裏で苦くなる。
誰も辿り着けない。誰も確かめられない。触れない。だから――触らせない。
だが、彼女は知ってしまった。
「……はい。聞いた話だと、近づこうとしたら嵐に見舞われたらしくて……」
「へぇ~、不思議なこともあるもんっすねぇ」
マナンは感心したように言って、落ち葉を踏む。
軽い足音。森の沈黙に、乾いた音だけが刻まれる。
空は高く、朝の光は澄み切っていて、道に葉影の模様を落とした。
美しい。だからこそ、胸の奥が冷える。
こんな穏やかな朝に、あの“触れてはいけないもの”を見に行くのが、ひどく間違っている気がした。
─────
やがて視界が開け、丘が現れた。
「あそこが……巨木の見える丘です……」
「おお~!!」
言った途端、マナンが走り出した。
小鹿みたいに軽やかで、帽子の縁が揺れ、髪が弧を描いて舞う。
カオルも慌てて追う。胸の鼓動が、嫌な予感を追い越していく。
丘の頂上。
追いついた時、マナンは立ち尽くしていた。
彼女の視線の先――巨大な木。
カオルは息を呑む。
上は雲に呑まれ、どこまで伸びているのか分からない。
ただ、そこに“在る”だけで、周囲の景色の尺度を狂わせるような存在だった。
遠いはずなのに、近い。
近づけないはずなのに、呼ばれているみたいに目が離せない。
何度も見てきたはずなのに、今日は違う。
喉の奥が、またひりつく。
(……彼女は、何を感じてる?)
「マナンさん……?」
鳥のさえずりが遠のいた。
風の音だけが、二人の間をすり抜ける。
マナンは、まるで、魅入られたようにその巨木を見つめ続けていた。
いつもの軽口も、無邪気な笑いもない。
ただ、真剣に、じっと。
まるで”あり得ないもの”、“あり得ない事”を確かめるように。
そして、ゆっくりと口を開く。
「カオルくん……ここは、どこっすか……?」
─────
彼女の瞳は恐怖で見開かれ、その声は小さく、かすかに震えていた。
問いかけの形をしているのに、どこか“確認”に近い響き。
カオルの背筋に、ぞくりと冷たいものが走る。
(……ただの”質問”じゃない)
その疑いが、確信に変わりかける。
巨木は遠くで揺らめき、雲の影が幹を横切った。
その瞬間だけ、木が――まるでこちらを見返したように見えた。




