カオルと、マナン
薄いまぶた越しに、朝日が差し込んできた。
朽ちた家の隙間から射す光が、黄金色の線となって眠りを引き裂く。
小鳥のさえずりが、耳に届く。
――穏やかだ。あまりにも。
意識が浮上するにつれ、昨夜の記憶が、ひとつずつ形を持って戻ってくる。
銀色の杖。七色の炎。
そして――抱きしめられた温もり。
はっきりしすぎるほど、現実の感触だった。
(……夢じゃない、よね……)
─────
ランプの火がふっと消え、部屋は闇に沈んだ。
朽ちた木の家は、夜そのものを抱え込んだみたいに静かで、
耳を澄ませば屋根の隙間を抜ける風の音と、遠い森の虫の声だけが聞こえる。
暗闇に慣れきれない目の奥がじんと疼く。
さっきまでの会話――魔法、暴走、明日への不安。
どれも脳裏に残って、眠りの邪魔をする。
そして何より、隣にいる“誰か”の気配が、現実味を持って胸を締めつけた。
同じベッド。
距離が近い。息づかいが聞こえるほど近い。
それだけで心臓が勝手に速くなる。
(落ち着け……落ち着け……)
理屈で押さえようとしても、身体の方が先に反応してしまう。
獣耳が熱を帯び、ぴくりと動いてしまうのが自分でも分かって、恥ずかしさがこみ上げた。
その時、暗闇の中でマナンが小さく笑った気配がした。
「……寝れないっすか?」
「っ……」
カオルは息を呑む。
気づかれてる。気づかれてないふりをしたかったのに。
「あの……」
喉が乾いて、声がひび割れる。
「何っすか?」
返事は軽い。けれど、暗闇だからこそはっきり届く。
心臓が、さらに一段跳ねた。
「本当に……一緒に寝るんですか……?」
カオルの声は、かすかに震えていた。
断りたいわけじゃない。むしろ――。
(断りたいって言ったら、嘘になる)
だが、その“嬉しさ”を認めてしまうのが怖かった。
恩人だ。命を救ってくれた人だ。
変な気持ちを抱くなんて、失礼だ。最低だ。
そう言い聞かせても、胸は言うことを聞かない。
「当たり前っすよ〜!!」
マナンは即答すると、ぐっと距離を詰める。
暗闇に慣れた視界に、彼女の輪郭がはっきりと浮かび上がる。
(近い……)
距離が、想像よりずっと近い。
呼吸の温度が肌に触れて、喉が詰まる。
「もしかして……私と寝るの、嫌っすか?」
無邪気な問いだった。けれど、その言葉は、カオルの胸の奥を鋭く突いた。
嫌だと言えば、彼女はきっと笑って引くだろう。
でも、そう言った瞬間――この温もりが消える。
それが、たまらなく怖い。
「……嫌、では……ないです」
絞り出すように答える。
視線を床に落とし、布団の端を強く握りしめる。
指先に伝わる感触だけが、かろうじて現実をつなぎ止めていた。
近づくにつれて、マナンの体温と、花と蜜を混ぜたような香りが、否応なく意識に入り込んでくる。
――呼吸が、うまくできない。
(落ち着け……落ち着け……)
そう思うほど、余計に心臓が暴れる。
獣耳がぴくぴく動いてしまって、暗闇でも見られている気がした。
「なら決まりっす!! ほら、寝るっすよ〜」
言うなり、マナンはカオルを引き寄せた。
温かい。驚くほど、あっさりと包み込まれる。
「あ……」
息が詰まる。抵抗しようにも、力の入れ方が分からなかった。
拒むべきなのに、拒みたくない。
その矛盾が、身体を固くした。
背中に壁の冷たさを感じる。獣耳がぴくりと跳ね、自分の動揺を隠せない。
「カオルくん。いいんっすよ、安心して――」
囁くような声。
マナンは、何のためらいもなく抱きしめた。
胸に顔を埋めた瞬間、心臓の音が耳鳴りのように響く。
速すぎる。落ち着かせ方が分からない。
自分の鼓動が彼女に伝わってしまうのが恥ずかしくて、顔が熱くなる。
(……あったかい)
戦いの冷たさも、血の匂いも、魔法の暴走の恐怖も――
全部、この温もりの中では少しだけ遠のく。
「おやすみなさいっす〜」
頭を撫でられる。
その指先のやさしさに、身体の奥に溜まっていた緊張が、ゆっくりと溶けていく。
まるで「大丈夫」と言われているみたいだった。
明日への不安と、今この瞬間の温もりが、同時に胸を満たす。
(……このまま、朝が来ればいいのに)
そんな子供みたいな願いが浮かんで、カオルは自分に嫌気が差しそうになる。
それでも、目を閉じた。
カオルは、その矛盾した感情を抱えたまま、静かに眠りへ落ちていった。
─────
――そして、現在
(……夢じゃない)
そう確信できるのに、胸は不安でざわつく。
眠りの中で手にしていたはずの温かさが、今はない。
ゆっくりと目を開ける。
……隣が、空いている。
「あれ……?」
一瞬、頭が真っ白になる。
冷たい空気が、急に肌に刺さった。
身を起こし、視線を巡らせる。部屋の中に、マナンの姿はない。
寝具は整っている。足音もしない。
森の朝の音だけが、変わらずそこにある。
(……いない?)
布団に手を伸ばす。まだ、わずかに温かい気がした。残る香りを、無意識に探してしまう。
――胸の奥が、ざわつく。
(……まさか)
昨日の夜の軽口。
「”なんとかなるっす”」
そして、転送されてきた彼女。
(……いつでも、いなくなれる人だ)
その事実が、遅れて怖さになって押し寄せる。
(昨日の……全部……)
嫌な考えが、頭をよぎる。
七色の炎。魔法の杖。
あれほど鮮明だったのに、この静けさはあまりに現実的だった。
(……夢?)
喉が、ひくりと鳴る。
(それとも……僕が……)
――また、失った?
父と同じように。母と同じように。
ウォルを死なせかけたように。
“ここにいてほしい”と願った相手が、いなくなる?
言葉にならない不安が、胸を締め付ける。
カオルは立ち上がり、家の中を確かめる。
ランプは消え、道具は片付いている。まるで、最初から誰もいなかったかのようだ。
(……そんな……)
戸口に向かった、そのとき――
”ギィィ”、と木の擦れる音。
獣耳が反射的に立つ。
心臓が跳ね、息が止まる。
「おはようございまっす!! カオルくん!!」
聞き覚えのある声。
――そこにいたのは、籠を抱えたマナンだった。
朝日を浴びた青い髪がきらきらと輝き、
まるで最初からそこにいるのが当たり前みたいに、笑っている。
「ま……マナン……さん……」
胸の奥で、何かがほどけた。
熱が、込み上げる。
(……よかった)
安堵が、堰を切ったように溢れ出す。
肩の力が抜けて、膝が笑いそうになる。
呼吸が戻ってきて、やっと自分が息を止めていたと気づく。
「いや〜、朝散歩してたら珍しい果物がいっぱいあったんっすよ!!」
「ほとんど感じ取れないっすけど、ここにもきちんとマナは流れてるんっすね~
マナンちゃん感動っす!!」
陽気な声。いつも通りの調子。
その無邪気さが、逆に胸を締め付けた。
――自分だけが、勝手に怖がっていた。
勝手に、縋りつこうとしていた。
「朝ご飯に――って……あれ?」
顔を覗き込まれた瞬間、堪えていたものが、崩れた。
「……っ……」
嗚咽が漏れる。
肩が震え、視界が滲む。獣耳が、力なく垂れ下がった。
恥ずかしい。情けない。
でも止められない。涙が勝手に出る。
「えっ、えっ!? どしたんすか!?」
籠が置かれ、マナンが慌ててしゃがみ込む。
「……いなく……なったかと……」
途切れ途切れの声。情けないほど、幼い。
「……行っちゃったんじゃないかって……」
涙が、止まらなかった。
昨夜の温もりが、朝の不在で急に怖さに変わった。
その怖さを、自分で持て余してしまった。
「あぁ〜……」
マナンは、すぐに理解したように笑って、そっと頭を撫でた。
「大丈夫っすよ。私、どこにも行かないっす」
その一言が、決定打だった。
カオルは、堪えきれず抱きついた。濡れた頬が、彼女の胸に押し付けられる。
「……ごめんなさい……」
「……いいんっすよ。心配してくれたんでしょ?」
背中を撫でる手は、変わらず優しい。
押し返すでもなく、驚いて固まるでもなく、ただ受け止める。
果物の甘い香りと、彼女自身の匂いが混ざり合い、胸いっぱいに広がる。
カオルはその温もりの中で、昨日から抱えていた不安が、音もなく溶けていくのを感じていた。
そして同時に――
(……こんなふうに安心してしまうのは、危ない)
どこかで、もう一人の自分が囁く。
でも今は、その声を押し返すだけの力がなかった。
(けど、やっぱり……僕は、この人の事が……)
今はただ、確かにそこにいる温度に、しがみついていた。




